棒棒大将人生を語る

04/04/22 南方週末 張立

 劉焼繍 39歳男性、四川省富順県人、重慶で8年の棒棒生活の後、棒棒軍服務公司を設立。現在資産100万元、99年全国優秀「臨時工青年」として表彰さる。

訳注:「棒棒」(パンパン)とは農村から重慶に出稼ぎに来て、1メートルほどの棒を肩に担ぎ荷物運びを手伝う農民達。重慶は坂道が多く荷物運びが喜ばれ、引越しや毎日の弁当運びなども彼等が手伝い日銭を稼ぐ。

 92年春、私は故郷での臨時工を止め、重慶に来た。ここで初めは野菜を売っていた。そして「棒棒」に変職。街の人達は明らかに農民達を蔑視。それは呼び方ですぐ判る。誰も農民を(パンパン)と呼ぶ。棒棒が貧しさの呼称なら、私はその中でも貧しい身分の棒棒だった。というのは身長が1メートル60もなく、少し斜視で充分に暖かい服が無く、食べ物も少ししか手に入らなかった。
 普段は街の隅で睡眠を取り、常に街の人に騙されていたし、、、でもこれらのことは棒棒をやった人なら誰も同じ経験をしているだろう。
 農村にいた頃私は文学が好きで将来はその道に入りたかった。棒棒をやっていて毎日どこかで人生を変えねばと考えていた。
 93年末、私はある貿易会社の運搬を手伝った。工場の主任が私に「貴方は棒棒に似合わない」と言って、私の事情を聞いてくれた。そして工場に来るように言ってくれた。工場では書類の写しなどを手伝った。
 94年、「重慶晩報」に私の最初の文章「私の名前はパンパン」が発表された。これまでの人生を書き綴り、故郷の人達を思い浮かべ涙することを書いたものだった。

 それ以降私は重慶ではちょっと名の知れた人になった。やがて中央テレビが私を採訪した。そして故郷へ同行した。故郷は実に貧しく、草ぼうぼうの家、寝床さえ充分にない。母はそのとき田の草を抜いていた。記者は私に、「この様な貧しい環境で貴方はこれからどうしたいのですか」と尋ねた。そして私はその問いに、只考えれば考えるほど大きな声が出て泣くだけだった。
 私は決心した。もう文学は止めだ、金を稼ごうと。
 私はある靴屋を経営している友に3000元を借りた。豚を飼っている友に2000元を借りた。故郷の金貸しに2万元、その他の友に1万元、そして「棒棒軍服務公司」を始めた。引超し、清掃、家庭の雑事などを仕事にした。
 現在では年間数十万元の取引がある。その内10万元以上の利益がある。20人の棒棒を雇っている。彼等には毎月600元払っている。年末には800元のボーナスを出し、02年度には2部屋の家を借り、1部屋に自分が住み、1部屋を事務所にした。
 そして今私は重慶の市民権を取った。

訳注:市民権取得には公安に数万元の金を払う。金額は街の大きさによって違う。北京から遠くへ行くと安くなる。結婚や住居、子供の教育権などが付く。北京、天津、上海、重慶の順か。人口と住居の固定は計画経済の名残。現在では、農民に移動の自由を与えると都市が爆発するなどと言われている。

 妻は以前の工場で知り合った人の妹である。
私は重慶に根を下ろすことが出来たのだ。
 その理由は、私は高等学校を出ていた、と言うことにあるだろうと思う。少し他の棒棒に比べて知識があり、これが将来を考え、また周囲の人達も私を良く思ってくれた面があるのではないか、そして良い友達が居たこと、これらがこれまでの人生を支えてくれた。
だが私のような人は全くの少数で、ほとんどの棒棒はこの様な道を掴むことは出来ない。大多数は農村と街との間を漂うだけだ。

 彼等棒棒の身分向上を考えるとき、出来ることはしたいが、如何せん望みは少ない。
 出来ることなら政府が棒棒に援助をして欲しいが、少なくとも彼等を人間として尊重して欲しいし、あからさまな農民蔑視は止めて欲しい。社会の底辺にいる農民達は発言権がない。まず最初に必要なのは政府の労働部門と公安部門の改善である。政府が棒棒達に行政的に援助を行い、彼等集団に規律および管理面での援助を示して欲しい。出来れば彼等を集めて教育を行い、職業訓練や、法律の学習なども必要と思う。
 だが現在までの所、政府には臨時工に対するそのような有り難い対策は皆無のようだ。
公安はしばしば深夜に偵察をして棒棒を見つけると不法滞在費として5元を取り上げる。この5元は農民にとって大変な金額だ。この徴収にはいったい合理的な法律があるのだろうか。

 棒棒達が街で卑しい目で見られていることを、何時も私は何とかしたい気持ちで居る。今のところ集団で金を集め経済的な向上を上手くするしかないように思う。
 彼等に私が援助して義勇金などを設立し、棒棒維持の協同資金を設け、等々と、いろいろ考えてはいるが、、、、
この話を聞いた仲間は一笑に付すだけである。