焦点 銃声の後
03/3/19 青年報   記者 蔡平

 2002年末、本紙はメールを受け取り、正月早々、事件の河北省承徳市囲場県に行き、事件目撃者と公安局及び検察院の関係者を採訪した。
 事件が発生したのは3年前になる。銃で撃たれたのは農民、裴国棟で、公安局では裴が公務執行妨害をした事になっているが、現在まで当局から何の連絡も受けていない。
 区の検察院は、事件の中で警察が発砲したことを、法的に間違いが無いと結論を出しており、全てのことは事件に相当しないとした。そして市の検察院もそれを追認した。

 現場で銃に中った子供に対して公安局の保証は済んだと言うことになっている。

記者が農村を回って採訪したところ、農民は以下のような事が本当に法的に正しいことなのか真実を知りたいと願っていることを知った。
” 警察が制服を着ずに、しかも身分証も見せずまた令状も無しに捜査をすると言うとき、一般庶民はそれを拒否する権利はないのであろうか。
逆に拒否すると直ちに公務執行妨害と言うことになるのだろうか”これである。

 囲場県宝元桟郷35号村、農民裴国良が言うには、99年7/10日午前、彼と義弟の劉申が、村の仲間で金を貸していた李国成の所へ行った。裴国良が貸した金を返せと要求した、すると相手は「今、無いよ」と答えた。そこで裴国良は李の農業用三輪車(原動機付き)を取り上げて郷の法律事務所に届けた。店の中にいた人は「今は皆食事に出かけているよ」と答えて、午後出直すように要求した。そこでその三輪車を裴国良は一旦自宅へ持ち帰ることにした。

 3日後、7/13日午前、裴の家に車に乗った4人連れが来て、その中には誰も顔見知りも無く、また警察の服を着ているわけでもなかったので、裴国良は彼らの「三輪車のことで一緒に派出所へ行こう」という要求を断った。
 裴の兄、裴国棟も、甥の杜宏と弟の嫁劉素雲に呼び出され現場へ来た。兄の裴は4人連れに対し「君たちはどういう理由で弟を連れ出したいのか、人間を拘束する書類とか逮捕状とかを持っているのか」と聞くと、その中の1人が「私は派出所警察署長だ」と答えた。
 そこで兄が「警察の証明書を見せてください」と要求すると、署長と名乗る男が「君の氏名は何だ」と聞き返した。
 「私は裴国棟と言います」と答えると、署長は「そこで待っておれ、貴様の処置は後で示してやる」と答えた。
 裴は頭に来て、持っていた棒で彼らの車の側面を叩いた。

 以下は区の公安局の取り調べ書の中をそのまま写したものだ。
 ”99年7/13日7時頃、派出所警察員が裴家へ三輪車強奪容疑の調査に出向いた。容疑人裴は調査を拒否。彼の妻劉素雲と兄の裴国棟が鍬と棍棒を振り回して調査を妨害。 また大声で付近の仲間を呼び集め、警察車の側面を棍棒で叩いて傷を付けた。警察官達はそこから追い出され、一旦局へ帰って報告した。公安ではこの件を検討した結果、容疑者裴と公務執行妨害者の兄裴国棟を刑事拘留することにした。”

 また後に調べたところ、上記は市公安局の調査書と検察局の調査書とも内容がほぼ同じである。
しかし10数人の農民達が証言し、指印を押した証言内容とは違っていて、農民達のは上記裴兄が説明した通り、車を叩いた、とだけであるが、警察の書類では傷を付けたという所が異なっている。

 農民の王道菊は警察の書類に次のように書いている。
「当日派出所から来た人達は裴国良を束縛したので、兄の裴国棟が警察の証拠を見せろと要求したが、そんなものはないと言う返事だけで、彼らは帰るとき兄に氏名を名乗れと要求し、兄が答えると、今に見ておれと、言って車で帰っていった。兄が棍棒で車を叩いたことは無い」。
 農民の張樹は次のように書いている。
「当日の朝、派出所から来たという人達が裴
国良を束縛した。兄が怒って彼らと言い合った。しかし棍棒で車を叩いたというのは無いと思う」

 農民魏術侠、と裴国興の証言もほぼ同じである。その他9名の農民が同じような証言をし、印を押している。
以上11名の証言の中には「鍬や棍棒で暴れた」「警察員達が無理矢理追い出された」と言う描写はない。

 公安部(警察員風紀管理法)の中には、「警察員は職務に就くときは警察服を着服しなければならない」と記されている。
また(人民警察法)の中の9条には、「警察員は犯人逮捕や追跡または偵察及び巡邏に於いては、公共の秩序を守り、対人調査に当たっては警察員の身分書及び事件調査許可書を提示した後、嫌疑者を連行することが出来る」と書かれている。

 従ってこの事件では、警察は身分書も如何なる許可書も携帯せず、また事実、法的手続きは何も行っていない。これに対して農民達が身分書提示を要求したこと、逮捕を拒否したことは、執行妨害に相当するだろうか。
もし警察の行動が違法なら、何故警察は裴の2人を拘留できるのか。
 草刈りから帰ってきた農民が手に鎌を持っていたから、暴力を行使し警察の安全を犯した、となるのだろうか。
  
 裴の兄が「所長が言い残した言葉はとても恐ろしい言葉だった。それを気にしながら、午後学校から帰ってきた子供を連れて山へ草刈りに出かけた。」と言う。

 さてその後のこと。警察の報告書に次のように書かれている。
「そしてその日の夜7時、警察署長、韓紅江と指導員趙文富など6人は逮捕状を取って、2台の車に分乗し、当村の主任と党書記の協力を得て裴兄弟を拘束しに出かけた」

  裴兄弟の家は道路を挟んで直ぐ側にあった。現場は山に近いが、勾配は激しくはなかった。近くには店があり、警察が来た頃、道路上では将棋をする人、或いは買い物に来ている人も見られた。

 最初警察は裴の弟の家に来て手錠を掛け外へ連れ出した。その時弟は警察官達が「裴兄を見たらすぐ銃を撃て」と叫んでいるのを聞いた。
 その時ちょうど兄は山から下りてきた所で、弟が警察車に連れ込まれるのを見た。
 彼が自宅に入ろうとしたとき、「パン」と言う銃声を聞いた。ヒヤッとしたとき、李という見知りの警察員の顔が見え、その彼が自分に向かって銃を向けているのが見えた。続いて「パン、パン」と2発の銃声を聞いた。次の瞬間 、左足が痛いのを感じてさすってみると、ズボンの下から血が流れていた。恐ろしいことに、実はその時、彼の後ろには一緒に山へ行った甥っ子が血だらけになって倒れていたのだ。続いて警察員達が飛び込んできて、手の鎌を取り上げ、彼に手錠を掛けた。直後警察は彼をめった打ちにした。誰かが棍棒で殴りつけ、他の人が靴で蹴りつけた。その靴の踵だけは今でも兄の家に残されている。
 裴の弟は車の中から兄が撃たれるのを見て、掛けられた手錠を使って窓ガラスを割り、兄の所へ走り出した。
 兄は左足を打たれ、棒で殴られていたが、しかし右足で立ちつくしていた。

 現場にいた人が、子供が倒れているのを見つけ、引き起こそうとして、子供の身体から血が流れているのを知った。そこでその人は大声を出した。警察は子供が撃たれたのを聞くと兄から手を放し、1台の車で現場から逃げるように走り去った。もう1台は周囲を村人達が取り囲んで動けなくしていた。そしてその車に、被弾した2人を乗せて病院へ走らせた。

 このことを警察の報告書では以下の通りとなっている。
「当日夜7時頃、警察は再び裴の家に向かった。そこでまた裴兄弟などの暴力的な抵抗に出会った。裴兄は鎌を手にし、我々に立ち向かってきた。警察員李は警告を発したが言うことを聞かないので銃を発射。左足に命中した。こうして初めて兄は観念した。(当時兄の後ろにいた12才の子供にも命中し傷を与えたが、既に了解を得て処理済み)」
 検察院などの報告書では、兄が鎌を持って刃向かったという部分が書かれていないのも有る。そこでは、次のようになっている。
 「裴兄は鎌を持って山の方から近づいて来た。弟が逮捕され車に乗せられているのを見て、放せと大声で叫んだ。警察の3名が彼に立ち向かい、大人しくし、鎌を捨てるように説得したが放さないので、李が空中に4発発射した。先頭の警察員と兄との距離は20メートル、さらに23メートルの位置にいた警察員が後ろから発射した弾が兄の大腿骨を貫通し、その後ろ7メートルにいた彼の甥っ子にもその弾が当たった。」

 この報告書を見て疑問が湧く部分がある。警察が警告を発し、続いて耳をつんざく銃声を聞いたとき、兄が何をしていたかである。兄はまだ鎌を持って刃向かってきたのであろうか。23メートルも離れている兄に銃を向けるものだろうか、これは誰にとっても理解しがたい所である。

 (中華人民共和国警察員の武器使用条件)の第3章には「暴力を持って警察に刃向かうものに対して、または警察の生命を奪おうとするものに対して、銃を使用することが出来る」と書かれている。
 本事件の場合、先ず警察が口頭の警告を発し、その後銃による威嚇があり、その後に初めて狙撃があるべきだが、今回はその様な状態とは思えない。

 もう一つ疑問なのは、兄の大腿骨を貫通した弾がさらに後ろにいた12才の少年の脇腹を突き抜けたのか。

 これに対し、裴弟は「医者の話によると、兄の脚を貫通した弾の高さと子供の脇腹の高さは同じでなく、同一の弾とは考えられない、と聞いています」と教えてくれた。

 また裴兄に「貴方は鎌を振り回したのか」と尋ねた所、「あんなに距離が離れていて、私が鎌を振り回すはずがないでしょう」と答えている。
 記者は公安当局記録書幹部の趙麗絹さんを訪れた。彼女は自ら現場を見て記録したという。

記者:発砲者の前に3名の警察官が居たのに後ろから発砲したことになっているが、それは仲間に中る危険があったのでは?
趙:彼等は同一線上にいたのではありません。

そこで私は現場の地図を紙に書いて彼女に見せた。この道幅は約4メートルしかなく、彼らは一直線に列んでいた。報告書では先頭の警察官と裴兄の距離はただの3メートルとなっている。その距離に警官達が列んでいるのに、一番後ろの警官が発砲すれば仲間に中ると考えるのが普通ではないか。
趙:彼らは立ち止まっていたのではなくお互いに動いていました。
記者:では余計に、後ろから撃つのは危険ではないか。
趙:その可能性は少ないでしょう。警察官は前後にいたかも知れないが。
記者:警察は裴に向かいながら撃ったのか。
趙:警察は初めに口頭で警告し、その後空砲で警告し、最後に発射します。
記者:現場で農民が3発の薬莢と1発の弾を発見しています。もし警察の言うように撃ったのなら7個の薬莢が残っているはずなのに、何故3個なのか。
趙:周囲が草むらなので、農民達には見つからなかったのでしょう。
記者:では本当のところ、警官と裴兄との距離はどれ位有ったのか。村民は30メートル位と言っています。
趙:もうそれについてとやかく言う必要はありません。公安局が現場調査をし、私の方はそれに基づいて記録しているのです。

 証言記録の中には村民のものもある。
「当日の夕、裴兄が手に鎌を持ち草刈りから家に戻ろうとした時、ちょうど弟が逮捕されて車に乗せられる所だった。警官達は皆車の前にいた。警官と裴兄との間に何の話も無く、直ぐに警官が撃ちだした。計3発だった。銃が鳴って直ぐ6人ほどが裴兄を取り囲んで猛烈に殴り、中には棍棒を持って兄の脚を殴る警官もいた。」

 「私はその時店にいました。2台の警察車が来て弟の家に行き、暫くして奥さんのきゃっと言う声が聞こえ、やがて弟が手錠を掛けられて出てきました。その時1人の警官が、裴兄を見たら直ぐ撃つんだ、と言う声も聞こえました。弟が車に乗せられたとき、そこへ兄が帰ってきました。彼は手に鎌を持っていました。車との距離は40メートルほど。直ぐに銃声が聞こえ、甥っ子が倒れるのが見え、しかし私はこの子が銃声に驚いて倒れたのだと思いました。兄もやがて倒れ、そこへ警官達が群がって殴り出しました。」

 これ以外に6名の村民が記録している。彼らの証言の中で、銃砲の音がしたとき、警官と裴兄の距離は30.5メートル。これは、誰に対しても責任を持って正しいことを証明できる、と記されている。 

 大腿骨の骨折は如何にして出来たのか、内蔵の破壊は何故出来たのか、胸壁の損壊は何故出来たのか。

 当日の夜、裴弟の妻が、夫に子供が銃で撃たれたことを知らせようとしたが、やがて裴
弟は手錠のまま家に戻ってきた。やがて村人達が集まり、血の流れている所に石で印を付け、3個の空薬莢が残っている所と血痕との距離を計ると30.5メートル有った。
 
親戚の人が調べた所、裴兄と子供は病院には送られず、近くの小さな衛生院に居た。そこで裴弟が急いでそこへ駆けつけると、子供は痛みに耐えられず、床を転げ回っていた。その子自身も、何をしているかほとんど自覚がなかったと言う。

 裴弟は衛生院の門前で寝ている警官を起こし「人が死のうとしているのに、お前はなにもしてくれないのか」と叫んで、「誰か人を呼んでくれ」と頼んだ。やがて公安局刑事課が来て、裴弟を見ると先ず彼を派出所に連れて行った。そして看守所に入れられた。翌日弟に拘留書に署名させた。
弟はそこで40日余拘留された。勾留の理由は初めは「強奪」で後ほど「公務妨害」に書き換えられた。
 裴は拘留中何度も子供の様子を尋ねたが、警察からの回答は得られなかった。

兄の方は衛生院で目が覚めたのが翌日午前だった。気がつくと呼吸が苦しく、胸や肋骨が激しく痛んだ。彼は恐ろしくなって病院へ運んでくれるよう頼んだ。
 病院へ運んだのは弟の嫁だった。彼女は2人を車を頼んで連れ出した。それは事件2日後の朝だった。この時病院へ運んでも治療の金がないことを案じたが、怪我をさせたのは公安であると考え、先ず怪我人を公安の門前に運んだ。それは2日目の朝5時だった。職員が出社するのを待つ内、局長が出てきて、子供は直ぐに病院へ遣るが、兄は公務妨害者であり、警察はその治療に関知しないと言う。とにかく病院へ運ばれたのが9時だった。

 兄はその病院にやはり40余日入院した。脚の骨は砕けているので、鉄板を当て手当てすることになった。
 肋骨は右第7、第10を骨折。胸壁周囲の破壊、気胸出血、胸腔内部破壊、右肺2カ所挫傷。
 子供の方はさらに大きな病院へ回された。そしてCTスキャンで診断して、肺内部が裂傷しており、胸の骨も折れていた。ついにその障害は終生直らないことになった。
 今年16才になったその子は、記者に服を脱いで脇腹を貫通している銃痕を見せてくれた。左足は萎縮して細くなり歩行困難となっていた。常に風邪気味で、学校の成績も良くなく下の方に下がったという。
 警察との交渉の結果、医療費と数万元の補償費が出た。
 裴兄は退院後杖に頼り歩くようになり、今懸命に上級裁判をするべく各地を歩いている。
 公安局の診断書では「裴兄の大腿骨は銃弾で粉砕され、、また右の胸も2本骨折している。傷害の原因は不明」となっている。
 
市の検察院では「公安局及び人民検察院の共同の鑑定の結果、子供は重傷、裴は軽傷」となっている。

 村民の証言記録の中に「突然銃声を聞き家の外に飛び出した。すると裴兄が地面に倒れていた。顔は東を向き、周りには手錠を持った3名が彼を殴りつけていた。1人は棍棒で、2人は電気棒のようなものだった。また1人は脚で蹴りつけていた。裴は、脚がやられた、俺は死にそうだ、と叫んでいた。やがて子供が倒れて居るぞ、と村民が叫んだとき、始めて警察官達は手を止めた」と記されている。

 別の農民は「私が現場に行ったとき、数人で裴を殴っていた。近くで倒れている子供を見つけ、近寄って動かそうとしたが動けないと言う。その子の衣服を見ると血だらけだった。そこで私は大声で、貴様らまだ殴っているのか、子供が死にそうだ、と言うと、やっと彼らは殴る手を止めた」と書いた。

記者は再び検察院の趙麗絹に「裴の肝臓がはれ、肋骨を折っていることを調査したのか」と聞くと、趙は「当時公安局の報告では、裴は肋骨を4本折っているとしている。そこで私達も調査し、それを確かめた。公安の方に銃を発射後、故意に彼を叩いたかと尋ねたが公安ではそれを否定している」と答えた。
市の検察院の報告書では「裴が弾に当たった後4人が彼を押さえつけ鎌を取り上げ地面に押して手錠を掛けた」と記されている。
 
記者:彼は既に銃に撃たれている。その上まだ手錠がいるのか。まして4人に向かって抵抗するだろうか。
趙:検察院は公安に何度か裴と協議するよう説得し、公安は弁償のことも考えた。しかし裴の方が同意しない。銃の使用は職権乱用ではない。そこで私達は仲介の手を引いた。

裴も記者に対して「市の法律記録所の趙麗絹が調査に来て、私に2,3万元の弁償に持っていけると言ってくれた。しかし私は同意していない」と言う。

 02年10月19日、公安局は裴に対し脚の鉄板を外し、膿を取り出すよう話に来た。その手術費用は公安が出すという。手術が行われた最後の日公安局長が来て、病気再発したらまた連絡してくれと言って帰った。03年1/13日、裴は公安に連絡し、医院に行き薬を受け取った。
法規には「警察が違法に武器を使用し人民に損害を与えたとき、それを弁償する」となっている。しかし裴の場合、銃の使用は合法だとして居るのに、何故医療費を出すと言い出したのだろうか。
 村民達の証言は如何なる取り扱いになるのだろうか。

 上級に何度も訴えに出かけた裴だが、何の効果も現れない。裴は悲憤慷慨して言う。
「もし私が違法行為をして、その結果銃を使ったのなら、では私の犯した罪は何という罪なのか。そのことを正式の書類で示して欲しい。銃を使って私を倒した後に、さらに大勢で寄ってたかって殴ってきたのはどういう理由があったのか。具体的に書類で示して頂きたい。」
 記者は公安局の法規大隊隊長に「もし裴が暴力で公務執行妨害したのなら、何故これまでに彼に対してそのような手続きをしないのか」と尋ねた。
 局長は「彼は公務執行妨害である。その罪は我が公安局が決定する。しかし村の一農民が銃で撃たれたことは我が公安局にとってはおろそかに出来ないことではある。だが彼は現在の処置を不服として上級に訴えようとしている。再調査が始まるとしたら、事態は複雑になる。実際こちらは市の検察院に調査を依頼したこともある。しかし市ではこれ以上の調査はいたずらに村民感情をあおるだけだという結論を出している。そこで子供の治療に金銭を出し事態は解決された。市の検察院も警察が銃を使ったことは違法ではないと言っている。」

 後に前期法律記録局の趙麗絹は「当時10数人の村民を集め質問し、調査書を作った。しかしそれは緊急に作ったものであった。もう少し時間を掛けて再調査をしてみても良い」と、態度を変えてきた。
さらに「本当は村には一度行っただけであり、こちらが結論を出す前に、この件を立件しないと言う公安の結論が出てそれに従った」と認めた。

 市の検察院の意義申し立て所の所長に「貴方は事件当日村にいたのか」聞くと「いや、村には居なかった。村民達もその時多くは現場にいなかった。彼らは義憤から証言に応じているだけだ。村民達は多くは血縁関係で、仲間意識があり、それで証言をしている。しかし本当に科学的に正しいかどうか。私達の調査だけが科学的だ」と言う。勿論記者はこれに同意できない。

この事件の調査を終えて、今記者は非常に気持ちの整理に困っている。裴兄は歩くのに腰を屈め、身体を揺すり一歩一歩びっこを引いている。子供の脚は片方が細くなって不釣り合いだ。それらの様子が何時までも頭から消えない。
裴は記者に対し、上級に訴えに行くにも金が無く、汽車に乗れないこと、何度も列車に乗ったが乗務員に引きずり降ろされたことを語った。
 彼は言った。「突然降って湧いたこの難儀にどう対処したものか。もし自分に2人の子供が居なかったなら、もうすでに自殺しているでしょう」と語った。
 上級の法院に訴えに行けないのか、と彼に聞くと、「この身体で行けるでしょうか」と彼は反問するのだった。それに対して私は何も答えることは出来なかった。

 しかしこの事件は他の人達に無関係と言えるだろうか。

訳者注:
 記事の始めに、メールが来て事件を知ったと有ります。これは地元の新聞は報道しないので、広くこの事件が口づてで伝わった後、誰かメールを打てる人が「青年報」に記事を送ったのでしょう。
 この「青年報」は、時々この様な権力側の不正を書きますが、しかし普段は党の礼賛記事で埋まっています。だからここへメールを送った人は随分と勇気があったのではないでしょうか。
 また、メールという手段が無ければ、この事件は農民の泣き寝入りで終わっています。
 銃撃の現場には、村主任(選挙で選出、日本で言うと村長に相当。ただし実行権限はない)と党書記が立ち会っています。この2人が黙認すれば法的に事態を動かすことは大変困難でしょう。
 つまり建国後の50年間はこの様な事件は伏せられてきたのでしょう。

 公安の銃撃で脚を撃たれ、棍棒で殴られて死にそうになりながら、しかし病院に行く金がないと心配する農民達、本当に泣かせますね。
 
 話が変わりますが、中国の新聞のホームページについて。
 日本では何処の新聞も過去の記事を読むには、別途契約が必要でお金がかかります。
 しかし中国の新聞、「南方週末」は1年間アクセスできます。
http://www.nanfangdaily.com.cn/zm/20030327/
 この最後の部分の日付け番号を変えれば良いのです。(週に一度発行)
私のように暇なときだけアクセスする人間にとって本当に助かります。
ただし306 はまだ見ることが出来ません。江沢民が妨害しているからです。それ以外は1年分見ることが出来ます。

 最近我が家に来た中国の学生の話によると、確かに 江沢民は賄賂を受け取る人として有名だったけれど、でも朱 金容 基は官僚の利益を守ることで有名だと言います。
 江沢民は表舞台から下がったが、権力の順位は一番とのことです。だからホームページを彼が管理統制している。
(中国では権力の椅子の順位はとても重要です。前の登小平も肩書き無しで死ぬまで順列は一番でした)
 何故国家がホームページを管理できるかというと、プロバイダーのコンピューターを党が所有しているからです。その設備をプロバイダーに貸し出しています。
 
 もう一つ、その学生の話。
 前回の翻訳記事で、学生の就職のことを「分配」と表現していました。この言葉について今も使われているのか尋ねました。
 これは94年まで行われた就職方法で、国家が学生の就職先を、本人の希望と関係なく党が国家の必要を考えて決めます。決定された学生は卒業に当たって「国家のために頑張ります」と学生大会で決意表明します。
 ところが今の学生はこの「分配」と言う言葉さえ知らないそうです。(大連にはその名前の建物がありました。ただし国家の命令ではなく、本人の希望による就職の斡旋をしています。)
 この「分配」は計画経済での人員配置の基本です。分配と言う言葉の意味が、計画経済が如何に本人の意志を無視して行われて居たかを表しています。
 それが、今はもうその言葉を知らない世代が大人に成りつつあるのです。
 ではその学生は日本に来て就職をどう思ったか、聞いてみました。
「日本の学生課に行って驚きました。企業からの求職一覧表が貼ってありますね。こんなにオープンなことは中国では考えられません。今は中国も本人の意志で就職できますが、しかし求職表は学校が隠していて見せてくれません。
 その代わり日本では自分から求めないと誰もやってくれませんね。」とのことでした。
 ちなみに、中国では教師はほとんどが党員だそうです。(公務員の8割)
 と言うことは、中国の党は今でも自分たちが全能で、学生達を”指導する”つもりなのでしょうか。
 この記事に登場する庶民を虐待する公安達は公務員で全員党員です。