中ロ秘密裏の朝鮮戦争
 03/10/30 南方週末 任東来

「毛沢東・スターリン 朝鮮戦争」沈志華著広州人民出版社2003年10月、25元

 朝鮮戦争が終了して早半世紀。アメリカやロシア、および韓国ではその真理に迫る文献が出尽くした感がある今日、戦争の一端を受け持った中国では遺憾なことにまだ研究に値する出版がなかった。
 この著者の沈さんがその不足を補おうとしている。中国国内で朝鮮戦争の研究が何故進まないのか。
 西洋学者には偏見で歴史を見ようとする傾向が多く、しかし中国には歴史の研究がほとんど行われていない。
 中国ではこの沈さんの右に出る人は居ないだろう。著者はこの10年ワシントン、モスクワ、ソウルと精力的に資料を集めて回り、恐らく世界の研究に寄与するところ大となるだろう。

 スターリンは何故金日成に「ゴー」信号を与えたか。

 この本はしかし直接的には朝鮮戦争の仕掛け人は誰かの結論を書いてはいない。だが1950年6/25日、朝鮮人民軍が大挙して38度線を越えた軍事行動のその前提条件について、特にスターリンがこの重大な決定をした国際的背景について書いている。

 当時毛沢東とスターリンは世界の注目の人であった。世界大戦が終わった後、49年10月に中国が成立。
 スターリンは一度38度線を越えたソ連赤軍を米国と協定して引き上げることにした。
 著者はスターリンが発した電文を調査し、スターリンが日本の北海道を占領しようとしたこと、それはスターリンが日本の38度線以北(新潟当たり)を所有し、米国が朝鮮半島の38度線以南を所有するという交換条件を持っていた、と言う。これは当時のスターリンの性格や外交政策と一致している。
 実際は米国の強硬な反対があり、何も捕れないよりは日本を放棄し、朝鮮半島全体を所有する方向に転換し、金日成とこの方向で朝鮮半島武力統一の了解を得ている。
 ロシアの秘密文書の中に、その1949年、朝鮮半島は正に戦争勃発直前となっていた。だが突然スターリンは金日成に武力統一に反対の電文を発した。だが50年になって、スターリンと毛沢東が懇談し、中ソ協定が成立。そこで又突然のようにスターリンは金日成に武力統一の許可を発した。
 このことを証明する文献は、50年5/14日スターリンが毛沢東に宛てた電報にある。「国際情勢の変化に基づいて」として許可を出したものだ。この「国際情勢の変化」とはいかなるものを指すのか、これは研究者の中で意見が分かれている。
 当時の状況こそがその秘密を解く鍵となっている。
 著者は、金日成が訪ソしてスターリンと確認している武力統一反対の約束から1ヶ月の間に(49年末から50年初め)何故スターリンが方針を変えたのかに問題があるとしている。この時は新中国が成立、中ソ同盟、と進み、スターリンはこのことで逆に東南アジアに不安要素が増加したと考えたと指摘している。場合によっては、世界大戦後極東で得た既得権益が完全に失われる可能性を考えたのではないかと言う。
 モスクワにとって新中国の成立は善悪両面があった。良い面はアジアでの安定地域の拡大である。悪い面は巨大な中国の存在はソ連の安全の脅威であり、権益にも脅威となった。こうして中ソ条約は諸刃の剣であった。それはソ連がアジアでの政治的発言力を高めた。他方それまで蒋介石との間で協定を結び、獲得して来た権益の放棄に繋がった。こうしてソ連は極東の政治経済的権益を守るために朝鮮半島の武力統一に同意したのである。

 著者はこの先更に進んで推論している。
スターリンは朝鮮戦争の勝敗結末が如何になろうとも、ソ連にとって有益と考えられるものを見いだしたと言う。
そのアジアでの戦略目標は太平洋への出口、不凍港の獲得である。戦争で勝利した場合、仁川・釜山の獲得である。これはそれまでの中国内の旅順・大連に相当する。
 敗戦の場合アジアでの緊張が高まり、中国がソ連軍隊に旅順・大連に常駐することを認めるだろう。更にソ連から大連までの鉄路、長春鉄路(日本が造った満州鉄道)をソ連に握らせるだろう。
 これらの説明はスターリンの人格と品位を考えるとき充分説明が付く。これらの説明するところ、ソ連の外交政策が状況によっていくらでも方針を変えていく、その随意性と個人自身の判断に頼っていることにあることが納得できる。これで一応、全体の論理に筋が通っている。
 だが本当にスターリンはそこまでの見通しを持っていたのだろうか?
 実際はスターリンは米国をどのように評価していたか、これが問題の鍵ではないだろうか。著者もこの鍵がスターリンが金日成に「ゴー」サインを与えた重要因素だとしている。 スターリンと言えども米国との衝突を簡単に望んだとは思われない。世界大戦はソ連に巨大な損害を、軍事的にも、与えていた。米国にとっても世界大戦は英国とソ連に莫大な戦略物資を与えていた。戦争終了後も欧州復興に提供したマーシャル計画(48年から51年まで)での資金は数百億米ドルに達していた。
 戦後ソ連がベルリンを封鎖したとき、米国は地上最大規模と言われる数万機の飛行機輸送により、1年に亘り数百万人の生活物資を送り、それを打ち破っていた。
 この米国の実力と消耗を見たスターリンが米国の現状を慎重に判断し、軽挙妄動に走る
こと無く、朝鮮戦争の動きの中で、ついにスターリンは、米国が南朝鮮と台湾を含んだ広範囲の防御戦を守る力は無いと判断し、金日成に「ゴー」サインを与え、戦争は短期に終わると考えたのではないか、と言うのが著者の推量である。
 
ソ連は空軍の擁護を如何にしたか

 本書は、1950年7/2日に早くも在中華のソ連大使ローゼンが本国への電報で空軍の援護について書き送っていることを指摘している。周恩来が朝鮮戦争が始まったとき、米国が仁川辺りに上陸する危険性について心配していることを述べ、中国の陸軍12万が審陽に集結し準備している事も述べ、もし米国が38度線を越えてきたときはこの中国陸軍が対決することを知らせている。周恩来はその時に、ソ連軍の飛行隊がこの中国軍の移動を空から擁護できるかどうかについて質問している。
 だがその頃中国は正式には審陽からの出兵を決めてはいなかった。というのはその頃の朝鮮人民軍の進軍は破竹の勢いで、猛烈な勢いで前進中だったのである。
 多分周恩来はスターリンの気持ちを試す程度に電報を打っていたのではないか。だがスターリンはこの電報に対しすぐ対応した。
「その計画の3倍の兵を志願兵としての形で送って欲しい。その時当然我がソ連空軍は上空を援護するだろう」と返電している。
7月になってソ連最高指揮部は中国に対し中国兵の擁護に空軍を送る約束を打電している。只し、ソ連の指摘した地帯は中国東北であって、朝鮮半島ではない。だが中国側はこの電報を、朝鮮半島内への進軍に対する援護だと受け取った。もし米軍が38度線を越えたとき、最初周恩来は中国軍隊を朝鮮人として偽装して進軍する考えだったが、実際は志願兵として派兵をすることに変えた。当時金日成はスターリンに急電を打ち、ソ連軍の参戦を要求した。だがスターリンがすぐに動かないのを知った金日成は、中国やその他の民主国家の義援軍を構成し、即時朝鮮に送って欲しいと打電した。スターリンはこの知らせを毛沢東に送った。
ここで中国指導部にとって最も厳しい選択の時が来た。新政権の危険を守るために、そしてソ連との軍事同盟の信用を得るため、毛沢東と周恩来、更に彭徳懐の確認の下、10月5日、参戦を決定した。
 8日に義勇軍の募集が開始され、彭徳懐が司令官となった。だがソ連空軍の援護がまだ確認できなかった。
 著者はここで次のように推測している。
周恩来がソ連に行きスターリンと会談し、「中国軍は朝鮮に入らない、金日成は北朝鮮を撤退する」、事を確認した。この推測の理由は会談時ソ連は空軍の援護隊を送らないと言ったからである。
 何故中国のトップが援軍を送ることを決めながら、スターリンとの会談でそれを中止する事になったのか、周恩来の考えが何故変わったのか、恐らく以下のことが推測される。
主恩来がソ連へ出発するとき、送りに出向いた毛沢東との話で、ソ連が援護できないと言えば一時的にもソ連に対しは、中国も派兵しないと提案しようと言うことにしたのではないか。
そして仕方なくスターリンはこのことを金日成に打電している。「中国東北に流亡政府を樹立すること」と。驚くことに全く同じこの時間、毛沢東はソ連の援護無くても派兵することを決定した。
 10月13日「我々はソ連軍無くとも必ず参戦する。戦況は我々に有利に動くだろう」という、有名な電報をソ連に打った。
 中国のこの勇敢な決定も天の神の心を得ることは出来なかった。
 中国同志の国際主義の精神による派兵準備に対しソ連から朝鮮と中国国境方面に空軍を派遣することの連絡が入った。その派遣には2ヶ月または2ヶ月半以上掛かるだろうとの文があった。こうして中国軍の朝鮮への派兵にソ連の援護が期待できないことがハッキリした。
 著者はここで指摘している。毛沢東は朝鮮戦争への参戦はソ連に押し出されて決定されたものではなく、中国自身が自ら決定したものである、と。
 これを概括して著者は台湾問題も米国に対する革命的熱情から、社会主義を守る責任感から国家の安全感から、作り出されていると述べている。
ソ連軍が朝鮮戦争に参戦した時期についてもいろいろな調査が行われているが、10月25日に発表しその7日後120機のミグ15戦闘機が投入された。

以下数行中略

 こうして朝鮮戦争後も中ソの間に気持ちの不釣り合いが次第に高まり、やがて両国の分裂の要素となった。

 著者のお陰で読者は半世紀前の朝鮮戦争の理解を大きく深く進展することが出来た。
朝鮮戦争は東南アジアの歴史を塗り替えた。日本はこの戦争で大きな経済繁栄をつかんだ。朝鮮は莫大な損害を受け現在も分離されている。米軍は一度離れた朝鮮に再び帰ってきた。

訳者注:
 きっとこの論文が今後の日本で翻訳され、朝鮮戦争の研究に生かされるのでしょう。
私が興味を持ったのは、日本がスターリンによって南北に分けられそうになったこと、周恩来は戦争の途中から米軍が38度線に上陸してくる可能性を既に掴んでいたこと、ソ連も中国もそれぞれ国内に問題を抱えていた中での戦争勃発であったこと、中国ではスターリンの権力志向を”随意性”と言う言葉で言い表していること、社会主義を守るとか国際主義を守るという美文が現在の中国の実態を知れば全く驚く変身であり相応しくないこと、(変身ではなくて必然の帰結ですが)スターリンに誇大妄想心、自己中心主義がありこれが朝鮮戦争の発端に大きく関係していること、等です。
 台湾問題は中国にとっては革命的情熱の問題、社会主義を守る問題かも知れませんが、当の台湾人にとっては単なる自治の問題です。先ず自治ありでしょう。
 日本が朝鮮戦争で儲けた話は中国にいるとき何度も中国人に言われました。

 この文を読んだら当の朝鮮人達は如何に思うでしょうか。
 この戦争に義勇兵の司令官として参加した彭徳懐は(当時は国防相)59年に「大躍進政策」で死者ごろごろという中国の農民の姿を見て毛沢東に「慎重な政策」を提言し、その考えが右翼的反動的として逮捕され、民衆に街頭引き回しされます。(当時彼は70歳)
 中国が正しい政策を持ったのは歴史的には全くほんの数秒です。これでは周辺国が堪りません。