1986年の食券

 南方週末 03/07/24 陳也(福建省)

 1984年、17才の私は廈門(アモイ)の専門学校に入った。場所は市街のはずれにあった。学校でもらう食券は現在の人民元と同じように他のものと交換することが出来た。揚げパンとか時には本屋でも通じた。郵便局にも通じた。当時私は詩を作ることに熱中していて、いつもお腹はぐーぐー言わせながらも、食券で詩集を買ったり、投稿のための切手代に変えたりしていた。
 大学2年生になると私の詩集も増えてきて、学校内では少し有名になった。校内新聞の序言の欄に私の投稿が掲載された。そこに私は、お腹を減らし詩を書いていることを紹介した。そして末尾に「私は貧しいが卑しくはない。心の中に詩があり、それは光となって私を照らしている」と書いた。
 新聞発刊後数日して、私たちの宿舎に一人の女の子が訪ねてきた。彼女は私の名前を探しているという。しかし私の知らない女性であった。その娘さんが宿舎の門前に立っていると、男達が集まり、誰もその娘さんの美しさに見とれていた。
 その娘は私の名前を確認すると、つかつかと進みより「貴男の詩を読みました。素敵です。私は貴男の詩をもっと読みたいのです。是非他のものを貸してください」と言う。
 私が黙って立っていると、その子は「私を信用できないのでしょうね。ここに食券があります。お返しするまで預けておきましょう」と言う。
当時の学生にとって食券は「愛」の次に大切なものだった。その大切なものを持って一人のかわいい娘が目の前に立っているのだ。 まるで気を合わせたように宿舎の野郎どもが一斉に「どうぞお持ちください」と叫んだのである。
 私は部屋からこれまで書いてきた詩集をかき集めて彼女に渡した。娘は「有り難うございます」と言う声を残して走り去った。
少女が走り去ると、学友達はそこに置かれた食券を数えだした。全部で30元有った。当時の私の2ヶ月分の食券に相当した。
 それからの日々私は又あの娘が現れるのを心待ちにした。私は娘の名前も住所も聞くのを忘れていた。1日1日と時は過ぎ去り、再び私の前には現れなかった。ただ私の気持ちにあの詩集の運命のようなものを感じていた。学友達はその噂で持ちきりだった。やがて彼等は「きっとあの娘は自分の詩だと偽って発表し、儲けたに違いない」と噂をするようになった。
 約一月後、私宛に小包が届いた。その中に私の詩集が入っていた。それに手紙が添えられていて、「お返しするのが遅くなり本当に申し訳ありません。詩集の中で何度も書き直した様な跡が見える詩が特に気に入りました」と書かれていたが、やはり名前も住所もなかった。それからも私は娘が現れるのを心のどこかで待っていたが、その期待が報われることはなかった。そしてあの「食券」。半年ほどは私の机の抽斗に仕舞われていたが、いつか少しづつ私の食料に変わっていった。
 やがて卒業し、仕事に就いた。9年も経ったろうか、有る冬の日。北京へ出張に出かけたとき、汽車の中で読んだ新聞の記事の中に作者名”依萍”と言う人の小文があった。
 「1986年、18才の私は仕事で廈門に出かけ、たまたま学校新聞で男子学生の詩を読みました。私はその詩が読みたくなって30元を抵当に学生に会い、所持している詩集を借りました。当時お腹をすかして居るだろうその学生が少しでも空腹をいやすことが出来たであろうことを期待しています、、、、」と書かれていた。
 私は気持ちに甘酸っぱいものが湧いてきて、汽車を降りるとすぐその新聞社に電話した。その作者の住所を教えて欲しいと尋ねた。電話の相手はしばらく黙っていたがやがて「作者は住所を書いていません」と答えた。 それから数年して私は母校を訪ねた。学校の食堂は磁気カードを使って利用者を裁いている。若い学生達がカードを入れては料理を受け取っているのを見ると、昔のことがとても懐かしくなった。ああ、あの食券はもう既に歴史上のもので、今では誰からも忘れられてしまったのだろうか。
 しかし、しかし、あの1986年の、30元の食券は私の心に何時までも、有る暖かみを持って残るだろう。


訳者注:少しロマンティックな物語ですね。
この作者は1970年で3才。現在36才です。勿論文革時代は記憶にないでしょう。(文革は1966年から76年)
 前回の記事に建国後30年間は人間として生きている意味がなかった、と言う記事がありました。それは「反階級敵」という人を密告する制度があって、それらの事件はほとんど免罪だったからで、それに対する弁明が許されず処刑されたからです。弁明の法的制度
は現在でも有りません。
 でも改革以降(78年)は基本的に密告制度は廃止されました。昨年末、農家の人が自宅でビデオを見ていたら、許可証もなく警察が乗り込み逮捕し、拘留所で精神異常にさせられた事件が有りましたが、警察側はまだ当時の考え方で大衆を扱っていることが解ります。おそらく太平洋側の都会ではもう大丈夫と思いますが、実態は中国人自身でさえ分からないと言うことです。報道の自由がないため。ただ大衆側には「反階級敵」と言う発想そのものがないようです。
 そして都会では、このようなロマンティックな物語が新聞に載るようになりました。

 「中国現代化の落とし穴 何清蓮著 草思社」の本によると、建国後30年間の密告制度による中国人の精神的歪みが大きく現在も強く残り、それが現代の腐敗の原因の一つだと指摘しています。
 この本によると、改革以前は、現在のような社会そのものをひっくり返すほどの巨大な「腐敗」は存在していません。それは国民が全て現金を持っていなかったからです。全てはこの記事のように配給切符です。計画経済で国全体の生産が極度に萎縮し、誰も生産手段を持たず、人間として最低の生活用品さえ充分に持たなかったので、中国人は自分たちのことを「無産階級」と呼んでいました。そこには現在のような腐敗はあり得なかったとのことです。
 1980年代から巨大な腐敗が始まりますが、その主たる方法は国有財産の私有化です。国有財産の私有化の方法には各種有りますが、犯罪のほとんどは、国有財産管理部の人達だそうです。例えば有る国有企業の全資産が、財産管理の党幹部の所有権に移り、現在は18%だけが残されている例があるそうです。
 1989年6月に天安門事件が発生しますが、反政府に立ち上がった学生達の要求は、この国有財産の私有化で巨大な資産を作った登小平の息子や家族に対する実態調査要求だったと書かれています。
 なおこの著者は2001年この本を書いたため監禁され、同年アメリカへ逃げています。
 この本は発売後ベストセラーとなったと書かれていますから、腐敗の実態を中国人自身もかなり知ることが出来たのでしょう。
 中国の腐敗や恐怖政治のようなニュースは、ひょっとして中国人より、この私の訳を読んでいる人の方がよく知っているかも。何故なら「南方週末」が大連市では売っていませんでした。上海より以南で海岸寄りの大都市だけと思います。

 腐敗の実態は少しずつ紹介していきましょう。