社会総体の喜びを


 南方週末 03/09/18/ 
 茅迂詞 (天則経済研究所)

 25年間の「改革解放」は、世間では大成功と見られている。お陰で誰もが物質的な面ではそれなりに改善されている。物質文明の面で充分な改善がされたが、また同時に精神的文明でも大きな進歩があったと見るべきであろう。しかし現在顧みるに、なお一層大きな改革が必要ではないだろうか。
 かって、登小平同志は言った、「両手でしっかり掴め」と。しかし実際の所、我々は両手で掴んでいるだろうか。以下人びとの生活について考えてみたい。

 市場経済が導入されたその目的は、多くの財を創出することであった。その過程では当然として人びとの中に貧富の差が出来るが、やがて最終的には誰もが豊かになれる日を目指したものだ。この改革と発展の過程で確かに社会の物質的総量は大きくなってきている。
 改革以前には中国には1人の富人さえ存在しなかった。中国全体で自分の自動車を持てる人はたったの1人だった。現在では自分の車を持っている人は1千万人くらいは居るのではないか。さらに一層の富を求めて多くの人が邁進している。では豊かになればそれだけその人は満足しているだろうか。これは一概には言えない。金持ちの家が必ずしも幸福だとは言えない。それどころか金持ちになったが故に家庭的に問題が発生している例は山ほど在る。
 では逆に貧しい人はどうだろうか。彼等の生活も少しずつ改善されてはいるが、しかし彼等から見ると金持ちの態度が好ましいとは思っていない。それどころか社会的地位が没落して気持ちの面でも歪みを生んでいるだろう。それを当然とは考えないだろう。多くの人びとがテレビを買い、家の面積を広げ、食卓のおかずは豊かになっているとき、富人と貧人共にいろいろと問題が発生しているのではないか。

 いかなる経済学者もその国内での収入の格差を問題にする。この差が少なければその社会は摩擦が少ない。この推測は当然であろう。
 しかし中国では「先ず豊かになれる者から豊かになろう」と提起した。では富人がどの程度富になれば問題が発生するのか。この摩擦発生を予防し矯正する方法は在るのだろうか。矯正は又第2の問題を生じないだろうか。これらは事前に予測するのは困難だ。
 他の国、資本主義諸国と比較すると、彼等の貧富の差は中国より少ない。そして数世紀に亘って安定している国もある。ということは、問題は経済だけではないと言うことか。

 
 中国人は誰も富を大きくするために奮闘してきた。企業家は金を貯めるために奮闘した。学生は就職と学習に、労働者も金を貯め仕事に励んだ。社会全体が富を増やすために刻苦奮闘した。これは正しかったと言えるのではないか。いかなる社会といえども物質的な蓄積無しには何も出来ない。
 だが現在の問題は誰もが最終目標をお金を貯めることだけに絞っていることにあるのではないか。もしそうなら、これは明らかに間違いであろう。
 お金は最終目標達成の手段にしか過ぎない。最終目標は人間にある。一人一人が豊かさを実感でき、社会全体で富が増え、豊かさを楽しむことが出来ることにある。社会の富は手段で目的は人間の生活にある。ここの区別が極めて大切なことである。
 市場経済が始まって誰もが無自覚に金銭の奴隷となっている。金を貯めた人は、バイキング方式の料理屋へ行き思い切り食べている。でもまだ満足できない。思い切り食べることはそれほどの金銭をかける必要がないかもしれないが、しかし思い切り食べる必要などないのだ。しかしお金を好きなだけ食べることに使うことが、その人を満足させてしまうのだ。どうして人間とはこんなことが判らなくなるほど愚かなんだろうか。
 この状態こそお金の奴隷と言われても仕方がないだろう。
中国では既に財産を数千万元貯めている人も出ている。その金は一生かかっても使い切れない。なのに毎日それを勘定している。さらに金儲けに奮闘を続けている。金儲けの為の時間があってもそれを使う時間がない人もいる。在る企業家は金儲けのためにこれまでの大切な友達と反目して別れた人もいる。そして人の信用を失って企業を倒産させた人もいる。
 そしてよく目に付く汚職の得意な人びと、
良心を捨ててもっぱら金儲けに精を出している。彼等に人生の満足というものが有るのだろうか。きっと日々の生活はきょろきょろと不安のし通しではないか。たとえ彼等の罪がバレ無くても心の中に安心というものがないであろう。本当に生きていることの喜びというものが有るのだろうか。日々これお金だけを追求しているから正にお金の奴隷と化している。それこそ苦痛ではないか。
 現在、建国当初と比べると豊かになって来てはいるが、そのことで精神的に豊かだと自覚している人がどれだけいるか。お金の奴隷となっている人達に精神的豊かさなど自覚できるものではない。苦痛を感じているかもしれない。

 これらマイナスの原因はいろいろある。拝金主義。ただ金だけを追求する。お金のあるなしで人を評価する風潮さえ生まれている。物質以外に他の尺度が存在しない人達。
 派手好きで金をばらまくのが好きな人達。何を目的にしているのか、人の恨みや妬みだけを増幅しているのだ。
 その社会総体が如何に豊かであるかは、消費をひけらかすこととは関係がない。
 人びとは仕事を通して、精神的鍛錬を経て、社会の富を築く。しかし富が増えると苦痛が増加するというこの社会の一面は、注意しないと社会を破壊する。消費をひけらかす傾向はこの意味では戦争と似たり寄ったりである。
 再度言う。我が国の改革は成功している。社会の富が確実に増えているのを誰もが認めているからだ。しかし常に生きている満足感を社会総体で感じられるように注意をしないと、とても危険なことになる。この方面に注意して改革をさらに一歩進めることが必要ではないか。