全ては明日のために

03/07/31 南方週末

北京への直訴状が効果を現す

 3月になってもまだ寒風の吹きすさぶ中を、楊雲標と同村の唐殿林の2人は阜陽駅にやって来た。これから汽車で北京へ上告しに行くところだ。しかし彼等はそこに現れた男達に上告の為の幾つかの荷物と一緒に引きずり下ろされた。

楊雲標は安徽省阜陽市から20キロほど離れたところの3合鎮南唐村の住人である。そこは中国でも指折りの貧しい村だ。98年10月から楊雲標は北京への上告生活を続けている。当時25才の彼は市の党規律委員会に
農民の税負担額が重すぎることと、村の管理局の態度の悪辣さを訴えた。
 約1月後の11月3日の夜、村の党委員会主任ら一行7人が彼の家に来た。
 その主任は「貴様か、上部に告発したのは。我々はそのことについて調査を指示された。これから行政所に一緒に来てくれ。話を聞かせてもらおうではないか」という。
 そのころちょうど楊雲標は西北政法大学への入学試験を受けた直後だったので、彼は腹を据えてこう答えた。「私は法律を学んでいます。もし私を同行させようと言うなら、その命令書を見せてください。あなた方はどういう法的根拠で私を連行しようとしているのでしょうか」と聞いた。
その7人連れはその場は苦り切った態度で引き上げた。楊雲標の身体には冷や汗がびっしり出ていた。

その2日後の夜、又一軍の人がやってきた。そして彼をぐるりと取り巻いて、有無を言わさず引き立てようとした。
 楊雲標は毅然として「話があるのなら昼間にしてください」と主張した。
 昔からの言い伝えに「動けないほどひもじい者は泥棒が出来ず、無実の罪で死を迎えている者は告発が出来ず、共にお役人に逆らえない」と言うことわざがある。
 楊雲標の父は良くこの話をして農民の窮状を諦めるよう言ったものだ。
 当時の最大の問題は税負担のことだった。税額負担表には140元を上限とすると書いてある。しかしこれまでどこの農家も2、300元を取られている。多いときは3,400元の時もある。
 そこで「国務委員会」および「国家苦情受付所」宛の手紙がこの南唐村から送りだされることが始まった。その一つ一つの手紙の中には全村300戸の署名と印鑑が押してあった。

 署名した人達はさらに代表者を北京に送り出すために1000元を集めることにした。有る家では20元を出し、貧しくて塩さえ買えない家も2元を出した。
 2000年4月、楊雲標ともう一人の村代表者2人が北京を目指した。途中の旅行費用を節約するために2人は1泊20元の小旅館に泊まった。北京に着いてからは連日バスに乗って「国家苦情受付所」「農業部外来受付」「中央規律委員会受付」「公安部受付」等を訪れて回った。
 2000年10月、安徽省党委員会監督署から数人が、突然当村にやって来た。
 こんなことは中国全体の中でも珍しいことで、真に大地震の起こった様な衝撃だった。 監督官達が先ず楊雲標に「貴男の行動の意義が確認できました」と言ったとき、彼の目から熱い涙がどっとあふれ出た。

 数ヶ月後、省委員会の指示が出され、村の党支部の書記と主任および記録担当者が7万元の収賄で解職となった。

 その後の効果

 この事件が世間に知れ渡り、多くの人が尋ねてきた。ある人は税を不法に絞りとられ、ある人は罪もなく逮捕されていた。
 ある人は楊雲標の家先の道路に跪いて頭を下げた。
 楊雲標はそれらの人達の話を聞き、現地へ行き調査を協力し、上告の書類作成を手伝った。それらが毎日続いたために楊雲標の頭髪が少しずつ抜けていった。

 こうして彼が作成した上告書のコピーは30センチほどの厚さになった。文字は丁寧に書かれ、文言も明瞭である。それらの底に共通している考えは、国家を作り替えることではなくて、国家の約束通り実行して欲しいという、そんな考えから、「苦情受付所」への上告となっている。
 
 楊雲標はまだ若い。しかし法律には詳しくその運用についても理解が深い。そしてその実行に見せる勇気はとても大きいものがあり、罪を着せられることを恐れていない。ただ、問題が有ることを上に訴え、法に基づいて運用して欲しいという強い願いから行動している。

 近くの孫庄村出身の44歳の張勇さんは、市の交通局で働いていたが、病気になって、村に戻ってきた。そして村の運営が極めて陰険悪質になっているのを知った。市当局に何度か訴えたが効果はない。そこで村の人達と知恵を出し合って楊雲標に相談することになった。張勇の母は建国後県の第一副主任であった。張勇も兵役に出たこともある。党員でもある。そして正義感の強い人である。

 しかし03年3月、村の財務表を彼が調査していることが知られて、村の党書記の息子が10人の荒くれ男達を引き連れ、手には棍棒を握り、彼の家に怒鳴り込んできた。その時は幸いにも巧く家の人達が張勇さんを匿い、事なきを得た。

 やがてその違法な公金使用が判明し、3合鎮の党委員会は次のような決定をした。
「不正は46万元あり、村の党委員会は6人が連盟で損害賠償に応じること」
 この結果を見て3合鎮の党委員会の副書記兼党規律委員の王春京は、「これは本当にすごい変化だ」と驚きを隠さない。
「今まではどの村にも不正事件がごろごろしていました。しかし、この事件以降、何か問題が起こるとすぐに書類を作成し、市や県や省に、時には北京へ上告する運動が起こっています。そしてある日突然上部から、または中央から検査組が村へやって来るのです。私がその案内役になります。」と言う。

 王春京は50歳少し過ぎ。この地域の党幹部である。彼の村は近隣の中では比較的豊かと言える方の村で、昔から幹部を担当していて、近隣のことは何でも知っている。

 楊雲標は「私たちの行動は法律の運営を正常にすることを願っているだけです。理性と建設的な精神に徹しています。」と言う。

 昨年5月、3合鎮の幾つかの不正事件が漏れ聞こえてきた。一つは党がワゴン車を不正な金で購入したこと。もう一つは河川修理の費用として各農民から必要経費20元を取り立てたが、実際かかった費用は一人当たり9元であった。
 これを農民達は市へ上告した。市から調査組が来て、鎮の党書記が「違法行為」と記録した。その後書記は転職。王春京は「ワゴン車も上部機関は不正購入と認めたので、現在は誰も使用していない」と言っている。 

在野から執行機関に入る

 2001年4月、南唐村党委員会の選挙管理委員会は唐殿林を高得票で村議会主任と認定した。楊雲標も村議会会計および書記と選任した。在野から当局へと「生活権利を守る分子達」が転身した。
 しかしこれで事態は好転するわけではなかった。
 党委員会に任務を確定された面々が仕事に就き、農民からの税収作業が開始され、近隣は完納したが、昨年70%の納税率だった南唐村は今年は30%しか集まらなかった。
 そして問題は村の農道や水利工事・植樹などの修理費は法律では最高15元となっていたのを、選出された2001年は徴収無し、翌年は13元徴収することとなった。が、実際は村民の60%しか納めなかった。その他の近隣村は一律に15元徴収していた。
楊雲標は苦笑いしながら「この村の人達は生活に響くことにはうるさいからね」と言っている。
 党副書記の王春京は「この南唐村に発生した問題が幾つもある。この数年南唐村の仕事がやりにくくなっている」と、婉曲に批判しながら話してくれた。

 南唐村は30万元の赤字となっているが、それらはこれまで村主任達が徴収してきた税額が不足していることを示している。
 最高幹部達も税収完納の方法が無くて困っているようだ。
 これまでいくつもの上告事件があり、それに対応して村主任を党が解任することが続き、村の状況は複雑になってきた。
 村主任に選任されてきた人達、親戚関係、それらの間に利益が対立する団体のようなものが構成されてきた。楊雲標や唐殿林など、これまで農民の生活権利を守る運動で大きな信頼を得てきた面々も、主任に選ばれて以降は農民の評価も変わってきたようだ。

 2001年の財務表が公開されて、その中に88元の招待費という項目があった。有る農民はこれを見てすぐに「これは腐敗ではないか」と言う。
 楊雲標はこれを聞いて「いや、これは上部組織を受け入れたときの、やむを得ない食事代です」と弁明している。「過去の村の招待費用は20万元有った。どうして今年のこんな小さな項目に目が付くのかな」と不思議がっている。

 同じようなニュースが党鎮政府の元にも届く。39歳の唐永林の言い方はもっと率直な気持ちを出して「この招待費は外へ遊びに行ったのではないよ。あの楊雲標というのは国家の教育部で訓練を受けた人間ではないか。国家に世話を受けながら、彼が来てから、騒ぎが多い」と不満を突きつける。
 「楊は上級幹部が来るとすぐやって来て付いて回る。お金のことは出来ず、お金を返す方法も知らず、人を叩いたこともある。それらは全て私が上部に報告している」と続けて教えてくれた。

 唐永林は唐殿林と兄弟。楊が叩いたのは唐永林の妻の張敏である。張敏は村の借金をゼロにするため自分で上部から数万元の金を借りてきた。それを知った楊は怒って返しに行こうとし、彼女ともみ合いになり、彼女が傷ついた。楊は謝って、人を通して謝意を表すため弁償すると言付けた。

 楊は記者に「もう役人は辞めたい」と漏らしている。「役人になると、農民の生活を守る運動は出来ません」と言う。
 「例えば農民の納める税金について言えば、国家の納税表はそれなりに巧くできている。しかし国家は農民の上納に対してそれに報いるだけのことをしているだろうか。」
 続けて彼は「一つの地方を発展させようとしたら、現在は必ず民間の力を借りねばならないと思います。役人を辞めて民間で働きたい。」
 楊は残念なことに経済については素人だ。つまり現在の農村の窮乏を何とか助けることを考えると、胸が痛むと言う。

 3合鎮の党副書記の王春京によると、3合鎮内部で持ち上がる大衆からの告発は、ここ数年いつも近隣の4倍を示していて、勿論県内トップである。これについては幹部達も何とかしたくてうずうずしている。
 昨年冬季に水利工事をやることになって、それまでは農民一人当たり10元出させていたところを、鎮政府幹部達は誰もその取り立てに賛成しない。
 そこで各村別に担当する地域の水利工事を受け持たせたところ、一人当たり5元で工事は完成した。

  一つの夢

 7/22日、南唐村の小学校は大騒ぎになった。北京から19名の学生が集まったのである。彼等は北京師範大学、中国農業大学、中国政治法律大学、復旦大学、武漢大学の学生達で、「大学生と農民達との郷村社会共同学習会」を開くという。
 安徽省阜陽はすでに、国内の農村の生活と基本政治の研究の焦点になっていたのだ。
  
02年8月、中国社会科学院農村研究所、中国農村発展促進会、香港アジア交流センターが連合して「中国農村建設論壇」が計画され、唯一の農民代表の挨拶を楊雲標が担当することになった。それを聞いて楊は大変驚いた。「有る香港の学者は、人間の善し悪しはその人の顔つきを見れば全て分かると言っています。どうしましょう」と悩んでいる。

 楊は今「生活区域活性化のために、公民が如何に参加するか、その具体的項目は何か」という書類を書いている。それは上部への建議書の形となっていて、「本来は最も力があり発言力もあるのが農民の筈だ。生活の場において、毎日の仕事の中で、最低生活が守られ、文化的に啓蒙され、科学的思想も豊かになり、そしていつか農民が社会の主人公に成るときが来る」こういう考えが書かれている。
 
 今年の新年の時(旧暦)、楊の家はとても賑やかになった。出稼ぎに行っていた若者がやって来てカラオケ機を持ち出した。ビリヤードも組み立てられた。
 夜遅くまでカラオケや将棋(象棋)やバトミントン、ビリヤードと賑やか極まりなかった。
 誰もが「こんなに騒いだことは生まれて初めてだ」とか「まるで子供に戻ったみたいだ」等という。「昔は野原を子供達が駆け回り別の村の人達が羨ましがったものだ」と言う人もいる。
 25歳の郭強は楊の抽斗から写真を見つけ出した。10年前、子供達が一緒に写っている。
 前列には若者と子供が着るものもなく裸で、腕を胸に当てて並んでいる。一目見て貧しさが解る。
 郭強は今は兵役に出ている。彼は楊の家の壁に掛かった黒板の上に、次のような詩を書いた。

 儂らは一つの夢がある
 自分たちの村を
  文明と豊かさに恵まれた新しい村に作り   替えよう
君らにもこんな夢があるか
 儂らは皆の夢を大事にしよう
 そして、この夢に向けて努力することを
   誓おう 

添付図は楊家に集まったな仲間が議論しているところ


 訳者注:

 村から北京へ上告者を送るため、「貧しくて塩も買えない農家は2元を差し出した」と書かれているのを見て私は吃驚します。現実の農村の苦しさが暴かれていますね。
 日本にもこんなに貧しい農民がいたことがあるのでしょうか。

 1元で卵を4個か5個買えます。都会でも3元で蕎麦丼が買えます。だから2元を出すのも大変なことが解りますね。しかし腐敗した党幹部が懐に入れる金額は千元、万元の単位です。
 北京へ行く途中20元の宿に泊まった、と有ります。これは多分集団部屋だと思います。足の踏み場もないくらい布団が並びます。
日本の皆さんが旅行団体で中国に来ると、1泊500元か1000元程度の宿でしょう。
 私は学生と一緒に旅行したとき10元の宿に泊まりました。(大連便り参照)
 それは山の中で、風呂もなく、トイレは屋外で、部屋の大きさは4畳くらいでした。ドアに鍵もかからなかった。水道もなかった。宿主が遠くへ汲みに行っていました。

 村の人達が公金の「会議費」という項目に強烈な疑いの念を持っているのが解りますね。
 もう一つ気になるのは文章の中に「これは社会を変えようとしているのではなく、現在の法律を守って欲しい気持ちからだ」と言うようなところが2回出てきます。これはやはり中国では新聞の発行が自由に出来ないため、党の検閲を考えてのことでしょう。
 本来なら法律を変えてでも、すぐに「農民を自由に、豊かにしろ」と書きたいところでしょう。

 さてここに登場するのは中国では最も「建設的」な人のいる村でしょう。香港の学者達も注目しています。でも前回の書籍紹介では「宗族支配」が蔓延していると書かれていました。本当に今後どうなるか心配です。