曾希聖の功罪計りがたい

 南方週末 03/07/10

 《曾希聖と農地請負制》の読後感
 卯家升(広州)

 曾希聖は建国後、安徽省で政府の仕事をしていた。62年中央が呼びかけて開催した「7千人大会」後、職を解かれた。それまでの行政経歴は10年を超す。解職の理由は農地の請負制を実行していたからである。当時、誰もが彼を党籍から外せとか、中にはすぐ殺せとか叫んた。その原因はどこにあるのか。

 「7千人大会」で曾希聖は政治的に批判されることになった。というのは彼は当時の大躍進政策に積極的に協力し、左翼の道を突き進んだからである。
 大躍進政策では数百万人以上の餓死者が出た。中国共産党中央党史研究所の副主任”蓼蓋隆”氏は「炎黄春秋」の中で異常な死者の数は4000万人を超すと書いている。安徽省はその中でも餓死者の最大の省であった。
当時建国後一貫して中央政府は「反右派」の闘いを強調していた。しかしこの安徽省には右派が多かった。当時政府は「農地請負制度」に反対していた。そのためこの制度を実行した曾希聖は激烈に批判された。

 しかし今日から当時の事件を見るとき、当時の世情を充分全局的に考慮しなければならない。
 全国の政治指導を党が「3面紅旗」(訳注:大躍進と人民公社化を推し進める旗)の印の下に実行していたわけだが、しかし具体的に見ると、各省の格差は歴然たるものがある。隣の江蘇省や浙江省は比較にならないほど豊かだ。そのような環境下で曾希聖は農民の生活を真剣に考え一つの活路を見いだそうとし、莫大な農民の死者続出という状況を避けようとしたのであろう。
 今この書の感想記が多く本誌に寄せられている。

 訳者注:
 中国国内で公に大躍進の死者数が4000万人を超えるということが発表されたのは、この記事が始めてではないでしょうか。
 2000年1月、私は有る大学教授の家でご馳走になりました。その時、教授は(40歳代後半)その死者の数は解らないが、当時近隣の子供達は皆栄養不良になって手足がバンバンに腫れていた、と言う話をしてくれました。
 またその前年の99年春、29才の郭と言う人が、親からそのころ中国全体に大飢饉が襲ったと言う話を聞いていると言いました。
 郭さんは、もし中国の農民が4千人も死んだことを知れば、農民は激怒して一度に3回も革命を起こすだろうと言いました。
 教科書にも餓死者が出たことが書いてありますが人数は書いていません。

 私が1959年に4000万人を超す人が中国で死んだという記事を見たのは、94年の6月の毎日新聞です。北京中央発として、「人類史には極めてまれで膨大な、世界大戦をしのぐ死者数」と書かれていました。

 建国後10年、死者累々の農民を見て毛沢東も少し反省し、「7千人大会」で自己批判しました。しかし具体的な政策の反省は全くなく、このように地方の行政担当者が馘首されるだけで、中央は誰も責を取っていません。
 しかも現在の教科書でも、これ以降全人民の団結はますます高まった、と翼賛して書かれています。
この5年後「文化大革命」という中国の国民にとって大災難が襲いかかります。
 
 そもそも大躍進政策の、道路から鉄釘を拾って鉄鋼生産の拡大を期待するというのは、技術的には全く幼稚な発想そのものです。それは毛沢東が親からもらったヨーロッパ行きの留学資金を上海で赤線遊びに使ってしまい、科学や生産技術に関して無知だったからだと、中国の学生に教わりました。
 しかし当時この政策の無為を毛沢東に教える人は誰も居なかった。劉少奇はすでにこの頃中国を救うには毛沢東を暗殺するしかないと決心していたようです。

 何故ここで曾希聖の「功罪計りがたい」と述べられているかというと、一方で大躍進に協力しながら、他方彼は「農地請負制」を実行し農民の自主性を採用していたからです。中国全体でこの制度が実行されるのは、毛沢東が死んでから、改革解放後のことになります。(これより17年後)
 それまで「計画経済」が行われ、全ての生産計画は地方の実情を知らない官僚主義に浸りきった公務員によって北京で立てられ、それを現地の党員(これも北京から送り出され現地のことを知らない人達)が農民を看視する形で実行しました。しかし安徽省の役人だった彼は農民の窮状を見るに忍びがたく、毛沢東の路線を半分認めながら、半分で農民の見方をしました。
 半分でも大衆の見方をした人は、当時の人口が6億少しありましたが、ほとんど居なかったようです。
「毛沢東にも誤りがある」と言って、死刑になったご婦人の記録も3年前紹介しましたね。彼女を入れて中国には2人いたことになるのかな。