「李鴻章疫病を隠す」話を想い起こす

 03/07/17 南方週末  雷 頤 記

 今から百年以上昔の、1896年5月、李鴻章に好機到来し、清朝廷は彼にロシア皇帝ニコラス2世の戴冠式に出席するよう命令した。ロシアではこの式典を大々的に宣伝し、その準備をしたがモスクワには予想以上の大群衆が集まり、史上有名な「ホントン事件」が起こり、2千人の参加者が圧死した。ロシア側の総理、ビクトル伯爵はこのことを回顧録に記している。
 李鴻章がビクトルに「この大事件の詳細を貴方は皇帝に全て上奏しますか」。
ビクトル「もうすでに上奏し、皇帝はご存じだ」。李鴻章は盛んに頷きながら、「我が国では決して皇帝に不安を与えるようなことはせず、事件のことは隠すでしょう」と答えた。 中国ではその少し前に黒死病が発生していて、数万人が死亡していた。しかし中国の皇帝を取り巻く人達は「世界に何事もない」と奏上していた。清皇帝が李鴻章に「何か異常な疫病があるのではないか」と聞かれたときも「何事もございません。民は皆健康でございます」と返答した。その時周囲の人達は誰も皇帝を悩ます様なことは言う必要がないと考えていた。このことを聞いたビクトルは「我が国は清国に比べ一歩進んでいる」と誇りに思ったと記している。

 公正に言うならば、当時の皇帝を取り巻く官吏の中で李鴻章は最も開明的な人士であった。常に皇帝に偽情報を伝えることを良しとはしていなかった。しかし当時の官吏達と皇帝を取り巻く生活文化では、このような事実を上に伝えない風潮があった。

さて話はSARSに戻して、今回の官吏達の自分達内部だけのやりたい方法でことを処理するやり方は如何なものか。中国では14年も前の1989年に伝染病防止法が出来ており、疫病を隠してはいけない法律が出来ていたのである。そのことを現在の官吏達は知っていたのだろうか。
 中国に延々と伝わる、巨大な隠蔽を押し通すこの習慣。一体何時になったら我が国は法治国家として成り立つのだろうか。その前途を想うとき、立ちはだかる壁の厚さに圧倒される思いが中国全人民の脳裏に有るのではないだろうか。そこには公民の権利を軽視し、伝統文化と法治が衝突すると、悪臭に満ちた伝統の方が勝利する、実に重たい風土がこの中国には厳存する。

改革開放以来誰もが「民主と法治」の重要性を一応は口にするようになった。それは誰もが生活の中にそれが無くては真に生きている意味がないことを自覚するようになったからである。
 あの10年を超える文革時代は、中国の全人民に巨大な災難が到来した。誰もが言われも無き免罪を受け、泣き寝入りを余儀なくされた。社会に、民主と法治がなければ、いかなる国家であろうと社会であろうと、人民に重大な損害が及ぶことを、正に身をもって理解したのである。
 そして改革開放が始まり、社会全体が本来は「民主と法治」に向かっているはずである。文革時代は法が無く、天がなかった。(正しいことを話すことは出来なかった)
 その後に続く現代が、今一体何を準備しているのだろうか。
 今回のSARSにおいて、官僚達の好き勝手なやり方、上だけ見て自己の保身に走る、その方法が又再び全国の人達を悲惨な状態に陥れ、法治の重要性をひしひしと考えさせている。一人の人権を尊重することの如何に重要であるか、一人の権利を守るには法治が無くては何も実現されない。法治の道が如何に遠くても、困難であろうとも、しかし先ずそこを目指して進むことが最も大事であり、官僚達が特殊な知識を振り回し、彼等が「人治」を譲ろうとしないことで、世界の信用を無くし軽蔑されていることをはっきりと自覚して、中国を法治の国に、文明の道に進めで行きたい。 

訳者注:
 私は大連の学校で「魯迅」の伝記を習いました。彼は日清戦争時代、日本の仙台に来て医者になろうと勉強します。医学の道で、当時諸外国の植民地になっていた中国を救おうと考えたのです。しかし旅順で、中国人が日本軍人に首を切られているのを周囲で見ている中国人達が笑っている新聞記事の写真を見て、中国を救うには医学の道では駄目だと考え、文学の道に切り替えます。つまり肉体的に治療を施しても中国は救われない、精神面から改造が必要だと考えました。
 そして彼は帰国後中国の革命に参加し、1949年新中国建国となりました。
 そしてそれを以て、魯迅の考えた理想は実現されたかのように現在の中国の支配者は宣伝しています。
 その考えを一部の日本人でさえ受け入れているのではないでしょうか。

 しかしこの記事にあるように、未だに中国では人権が尊重されていない状態にあります。「民主」ではありません。「党主」なのです。
このことは、私が翻訳を開始して以来何度も「この記事の内容は何百年も昔の話だ」と感想を記したことからも理解してもらえると思います。時代遅れの政府の悪行の数は50個は軽く超えるでしょう。いやもう既に100個を超えたかしら。
どの一つの事件も、もしそれが日本なら社会をひっくり返す大事件だったと思います。それが全て人治故、法治ではない故、被支配者の国民が泣き寝入りをしています。こんな馬鹿なことがこの世にあって良いのでしょうか。
 もし魯迅が生きていたら、彼は何と言うでしょうか。中国を救うために文学では駄目なのかと嘆くでしょう。
 中国政府は日本に言います。「過去の歴史を見て将来に生かす」と。「現在を見るな」と。現在の支配者に将来を語る資格など無いのに。
 でもこの記事を注意深く読むと、「民主」と「法治」と言う言葉で核心をついているように見せています。勿論この投稿者は「民主」の為には現在の「党主」を廃止しなければ成らず、「党主」が有っては「法治」が無いことを熟知していることでしょう。しかし、もし「党治」の不必要を叫んだ途端、その人は逮捕されることを知っての発言なのでしょう。

 先日NHKはSARSの特集を報道しました。しかし北京政府から提供されたビデオを流したために、中国では数多くの患者を国家の総力を挙げて集中的に、軍隊を投入して治療したことを取り上げた内容でした。中国政府が疫病の発生を隠した為に大量の被害者が出たことを表面に出さず、まるで中国政府は疫病対策に大奮闘したかのようなビデオでした。
 一体、NHKには中国のことを理解している人がいないのかしら?