「南方週末」の歴史
  03/04/10 

1984年南方週末は文化娯楽紙として出発した。
 その頃の発行部数は約千部。その頃から発行に関わってきた人が現在四名残っている。彼らに聞けばこれまでの移り変わりが少し理解できるのではないか。

 1984年
(当時編集長をしていた芦昆氏に聞く)
 80年代初めの出発は今から思えば楽な状況があった。大衆の文化への要求が多様化し始めた頃で、当時は南方日報という名前であったが、それは同時に党の宣伝紙でもあったので、人々の文化娯楽面の要求を満足させることは不可能と言えた。
 そこで84年4月南方週末が発行されることになった。ただし日報の記事補填程度の役割ではあったが。でもそれは時代が要求したものでもあった。

 その後の10年というものは、広東省は全国に先駆けて開放的な土地柄であったので全国から注目されていた。当然広東省の人々自身の気持ちがこの新聞に表現されていた。その内容が全国に新しい風を送った。
 その新鮮さは、世界の報道を参考にして取り入れたことであろう。
 90年代初め、中央から文化を担当していた王蒙が広東省にきたので、本紙は彼に何か投稿して欲しいと依頼した。恐らく簡単に拒否されることを覚悟していたが、彼は「私はこの新聞に注目しています。広東省の人達がどんなものを好み、何を期待しているか、大いに参考にしたい」と答えた。
 彼が強調したのはこの新聞が発行以来一貫して読者の気持ちを大切にしていることだという。読者の要求に答えようとしていること、しかも地方の党紙としての役割も持ちながら。しかしその頃から本紙は全国を視野に入れると言うことを重要視してきた。有る話題が数年後に注目されるかも知れないとしても、全国的な視点を堅持してきた。それで本紙は次第に全国から期待される新聞に成長した。
当時の情報源は現在と比べると天地の開きがあり、全国からの情報を集めることは実に困難だった。編集部はただラジオ・テレビの報道だけを頼りにしながら、一方で独自の情報網を作ることに心がけた。
 電話やファックスさえ贅沢なものだった。長距離電話は本社の許可が必要だったし、相手に電話があるかどうかも怪しいものだった。そこで手紙が確実な連絡方法であった。
 連絡が毎日必要となることになれば、双方の間に黙認された通じ合うものに頼ることもあった。例えば、「お久しぶりです」の簡単な内容のみで、相手が原稿の催促と理解してくれる、と言う風だった。
 中には電話での投稿というものもあった。それはファックスでは無く、まさに電話口を通して一字一句確認しながら原稿を書いた。
やがて次から次へと新しいものが登場して来た。編集・通信機器等については、それらが無害ならとにかく採用してみようという考えだった。
 本紙を出発させたのは10人だった。もう退社した人も多いが、しかし皆現在でも本紙の行方を注目している。その1人は現在アメリカに住んでいるが、記者が先日会った時、「今でもそのホームページを楽しみにしている」と言う返事をもらっている。
 この19年間の想いは、小さな苗が大樹と成長した事を確かに感じる。ここまで育ててきたあらゆる努力が本当に貴重なものだった。
 これまでの編集の基本は「新」を求めることであった。それはニュースだけではなく、新しい考え、新しい思想で、これこそがここまで育てられてきた生命の根元を生み出したのではないか。

1993年
 (89年に学校を出て、現在本紙副編集長徐列氏に聞く)

 80年代から90年代の初めの根を張る段階から、92年に「南方週末」と言う名前に変わり、文化娯楽紙から総合的な週報と内容を変えた。
 それはちょうど「登小平」が広東省に来て、「豊かになれる者から豊かになろう」と言う講話を発表した時と一致する。時代の要求に有っていたと言うべきか。
 新しい解放を求める動きを当時は左派と呼んだが、それを先導したのは60年代に大学を卒業した学生達で、陳微尖、譚軍波、徐列、朱徳付、譚庭浩等である。また次の年代も徐々に加わった。彼らに共通しているのは文化系の修士生であった。
 彼らは初め新聞報道について何の経験・理論も持ち合わせていなかったが、若さによる理想に頼って、本紙を文化娯楽紙に終わらせることなく、「民主、科学、啓蒙」を旗印に、中国を前進させる大道を選んだ。
 登小平の講話発表以降、改革は大きな流れとなり、それまで水面下に隠されていた社会的諸問題が表面に浮かび出るようになった。
 それを新聞が大きく報道することになって、人々はそこから新しい新鮮なものが吹き出てくる窓と見なし、読者が増えていった。
「南方週末」も例外ではなく、報道の質も量も小さく幼稚であったが、それらの社会現象を大衆の理屈で理解できるものにすることに大きく貢献したと言える。中には客観公正報道の原則を忘れて、事件の整理に記者が理論的解釈を加えたこともあった。
 しかしこの時期中国は大きく変動していたので、大衆の側に立った、大衆の声を代表する記事となったのも事実であろう。 
当時出た記事で「政府の命で働く臨時工は身売り奉公人ではない」と言う記事は、当時の政府の腐敗現象を突いて、読者の強い支持を得た。
 また、教師達の収入を減らしている悪業を暴露した記事や、貧困地区の学校へ行けない子供達を取り上げた記事は多くの義捐金を集めた。  
 これらは本紙が現実を見つめ、「民主」を求める基本精神が、大衆の支持をもたらしたのであろう。
 報道にはその道の規律というものがある。如何なる人といえどもその道に入れば、その規律に従うことが必要となる。問題がある所に直ぐ記者がはせ参じる、この敏感な感覚、これがなければ新聞が成長すると言うことは生まれない。
 やがて本紙は中国では事実報道の双翼と見なされるようになった。
 93年8月、深浅で大きな爆発事件が発生した。本紙は直ぐにこれを報道したが、これは簡単なことではなかった。記者が調査を始め、1つ1つ読者の疑問を解き明かしていき、ついに管理の如何に乱雑であり常時これらの事件が起こっていることを明かしていった。 続いて「西安航空事件」が起こり、記者が現場に行って、それまではこの様な大事件も2・3行の報道で終わっていたものを、現場の様子を詳細に記事にした。また事件が6月6日でその発表は8日であった。この早さと事実の詳細な報道が以降の中国報道界での見本とされるようになった。
 「怒りのアドレヤ海」の記事では、次のようなことがあった。
 外国船で働く中国船員が屈辱的な労働条件に怒り、ストライキをし、それが外国の同種労働者の支持を得て解決、帰国した。ところが帰国して下船したとき中国当局に違法労働として逮捕されたのである。直ぐに本紙が事実を採訪し報道し、それが広範囲な読者の支持を呼び、ついには無罪で釈放された。この時の公正で良識有る態度が、その後も本紙の基本姿勢として現在も受け継がれている。
 しかし中国の政府当局がいつも法律上正義を守るとは限らない。
「劉秋海事件」では数年に及ぶ訴訟とその報道にも関わらず、中国の法治のあり方が問題になったままだ。
 困難があったがしかし南方週末はついにその発行部数100万を突破するようになった。その影響力は現在も日増しに増加している。

1998年
沢宇宙(98年卒業後入社。経済記者としてその主任を務めたが00年9月退社)

 社を離れて2年半になるが、「南方週末」について語ろうとするとき、心は穏やかではない。有る人々は本紙を色々と有らぬ言葉を使って悪口を言っている。そのことは本紙の出版に関わってきた人誰もが経験していると思う。
 私は98年に卒業後入社した。その前に4人の学生が本紙の事前会議に参加し、4人とも揃って入社した。その4人とも皆各種事情で社を離れている。 
採訪に当たっては誰かに付き添われて共同で行った。そのことは私にとってとても勉強になった。私の経験は極く短いが、しかし当紙が誕生以来最も早く素晴らしい勢いで発展する頃で、その様をこの目ではっきりと見せて頂いた。それは何という素晴らしい経験だったろうか。しかし思えば私はまだ若かった。

 社では誰もが兄弟で、採訪に当たっては誰もが誠実をモットーとした。
 詩人が言っている。パリを訪れた人は2度と忘れられないだろうと。その同じ言葉を私は当紙に当てはめる。私自身は幼稚だったが、しかしそこの一員であったことは生涯に亘って忘れないだろう。私がそこを離れたことは、それは人生にままあることで、誰もが会い、また離れていくものではないか。有り難う。

2001年
 沈顛(専門部所属) 

01年実習に社を訪れたとき、広州は既に深夜だった。事務室はがらんとしていて、ベッドも何もない。ひんやりした紙類の上で私は仮眠を取った。
 しかしその後の日々は毎日が熱く感ずる日々だった。その熱は新聞の記事から伝わる熱い熱だった。
 最初に読者の投稿を閲覧する役になった。どれもが不揃いの読みにくい字で書かれていた。そこには汗が滲んでいるのもあった。その1つ1つに先輩記者が感想を書き込んでいた。有る投稿は煙草の包み紙を使っていた。投稿者が書いている。「今、私は汽車の駅に寝泊まりする放浪者です。やっと2元を手にして南方週末を買うことが出来ました。」と有った。
 私は当紙の記者達にその心躍る経験を色々教わった。荒れ狂う砂漠を採訪し、途中汽車が故障しそのため記者が軽傷を負ったが、かれは下車することなく採訪を続け、2万字の長文を書いた。
 またある記者は三峡の工事現場を臨時工に紛争して採訪し、一千キロに及ぶ追跡で悪質な輸血の現場を突き止めた。そして悪質な管理者を訴える被害者を記録した。
 私自身も記者達の執拗な職業的態度を体験した。有る先輩は毎週の印刷前夜は不眠で頑張り、何度も繰り返して文を読み直し、記者に電話して事実を確かめ、訂正した。その顔には汗が漲っていた。
 私があるとき推理で原稿を書き上げてしまったとき、彼は何度も読み返して、眉に皺を寄せては考え込み、論理が会わないと私に突き返した。
 今では本紙は人々から注目されるようになり、就職を目指して訪れる学生達は、まだ小さな本社を見て、返って心は躍るのではないだろうか。
 02年2月私が正式な社員となった。その頃当紙は市内版を発行する準備をしている頃で、女性の協力者を求めていたのだ。
 発行に当たっての問題点はこれまでの伝統を如何に受け継ぐかと言うことであった。有る人々は都市版を発行すればきっと流行を追ったつまらない記事に埋められるのでは、と心配したが、しかし現在の新聞を見ればその心配は当たっていないと思う。
 至らないことが多いとは思うが、都市生活の分析と解剖に役立っているのではないだろうか。
都市版はこうして生まれたがまだ小さな赤子であり、如何にこれまでの批評精神を発揮できるのか、今も産みの苦しみを味わっている。都市版は漫画や図表、写真を多く入れ視覚に訴える努力をしている。
 こうして私は1人の実習生から正式社員となれたが、都市版について言うと、毎日の動き生きている生活の一部を取り込む態度が必要で、事実から離れることなく、望みは高くが期待されている。既に1000号を記録したが、何時までも新鮮な感覚は失いたくないと心している。
 青春は老いを知らず、ゆえに青春は敵なし

記者注:
 昨年朝日新聞が、この南方週末が献血に応じた人達がHIVに掛かったことを書いたために記者が解雇されたことを紹介しました。でもそのことはここには登場しません。
 それとこの新聞が出発した5年目の天安門事件について、あれだけの学生が政府軍に殺されながら何も記されていないのはまだ仕方ないのでしょうか。でも資料として保管されているかも知れません。いつか役立つ日が来るでしょう。
 その他記事に出来ないことが数多く有ったことでしょう。 
 記事に発表されたもので、民主的憲法がある国なら当然直ちに改善されるべき事件が、現在も堂々と厚顔無恥に存在し続けているのもあります。それは私の訳したものだけを見ても、少なくとも10や20はあります。
 逆にここに書かれていて、私が紹介していないのもあるようです。それは私が記事の重要性を読みとれなかったからです。

 私がこの記事で最も注目したのは80年代の出発時に、記事を書くに当って「民主」を求め、「誠実」な態度を堅持した、と書かれていることです。
 これまでの中国で「民主」を求め、「誠実」であることは、何重もの壁を乗り越えなければ出来ない大変困難な事であったと想像します。
 しかし千部からスタートし、ついに現在は百万部に達したというのは、本当に凄いことです。この記事から推測すると、この数年、特に90年代末に急速に伸びたようです。
それは中国の開放と民主化に、まさに時を同じくするのでしょう。その解放にこの新聞が大きく貢献したことは容易に想像できます。私は偶然、中国が激変を始めた直後に中国に1年半滞在し、新旧両方の顔を見たことになったことがこの記事から理解できました。
 勿論今後も、もっと激しく変わるでしょう。
それを世界の人達が期待しています。