侵略日本軍の残した毒兵器

 03/08/14 南方週末 見習い記者 劉鑑強

8/12日早朝、藁帽子をかぶった70歳くらいの老人がチチハル政府を訪れ、「私は多くの毒弾が在るのを知っています。自分が埋めました」と話し、世間を驚かせた。
 彼が言うには「1950年代、家の近くで数百個の弾丸が見つかり、処理の仕方が解らず、そのまま埋めました」と述べた。
 話を聞いた人が「そんな恐ろしいこと、何故もっと早く教えてくれなかったのですか」と聞くと、「この弾丸が危険なものであることも知らなかった。最近それらが有毒であることが解って、知らせに来ました」と答えた。

 すぐに政府危険物管理科の李沢さんとその老人が一緒に現場へ急行した。しかし老人は「ああ、周囲はすっかり変わってしまって、昔埋めたところが解らなくなってしまった」と迷い出す始末。
この老人が現れる8日前、この辺りで37人が毒弾で死傷者を出す、下記のような事件が起こっていた。それをその地方では、「チチハル8.4毒弾事件」として報道していた。

 
 「私の子供の脚に鴨の卵大の水ぶくれが」

 8/4日早朝、チチハル市興計開発公司の掘削機が卒海岩の現場で地下駐車場の掘削をしている時、5個の金属桶を掘り出した。一つは壊れ、他のも錆で覆われている。工事人達はそれらを200元で廃品回収業者に売り払った。やがて数日後に、この土地で作業した人達の中の16人が皮膚や呼吸器や目などに毒当たり症状が現れた。
 買い取ったのは李貴珍という人。彼は何も知らずその毒桶を市の廃品集積地へ持って行った。彼は桶の蓋が銅で、入れ物が鉄で内壁が鉛であることを知った。3種の金属はそれぞれ値段が違う。そこで仲間と相談し、鋸で切り開き分解して売ろうとした。仲間と2人で桶を切り開こうとした時、強烈な嫌な臭いの油気が立ち上がった。その作業が終わったのは午後の3時頃。同時に2人は倒れた。医者の診断によると、李貴珍は全身の95%の皮膚が火傷の状態であり、生存は覚束ないと診断された。
 
 当時のチチハル市周辺は連日雨が続いていた。王宇亮家では雨水が家の中まで流れ込んでいた。
 8/4日、王さんは、前記毒弾の埋められたと推定されるところの土を車一杯分、近隣の4人に手伝ってもらって家に運び込み水の流れを止めようとした。夜の8時頃、作業を手伝った一人陳さんが嘔吐を初めた。目玉が腫れて涙が止まらなくなり、明るいところを見辛くなった。翌朝その他の人達も皆、王さんと同じような症状が現れた。少し後、運び込まれた土の上で遊んでいた近隣の子供達3人に中毒症状が現れた。
 
 この原稿を書いている時、203解放軍の医者達が計37名の中毒患者を診断し、4名の児童を治療した。
 専門家により、これはガス弾中毒と思われると発表した。化学分析の結果、これらはかっての日本軍が残した化学兵器であることが解った。 
李貴珍の生命は風前の灯火となっており、その他の患者家族達の心配と被害は計り知れない。
 有る患者の母親は「うちの息子の目は真っ黒で、薬を塗るときとても痛がり、汗びっしょりになります。息子の性器も爛れてしまってどうなるか。もし我が家に娘がいなかったら、家系が絶たれる」と心配している。

 14歳の被害者少年の母親は「息子の脚に出来た水ぶくれは鴨の卵よりも大きく、それが次第に下の方に降りて行っています。とても可哀想で見ていられません」と語っている。

  過去にも中毒事件が間々発生

 8/11日午前、以前に毒弾中毒に罹ったことのある李国強と言う人が病院に現れ、20人以上の患者の家族と面談し、被害者家族を結成し日本政府へ訴えようと持ちかけた。 しかし当地の被害者達は、現在の治療で当分改善されたとしても、将来何時また再び何かの症状が現れるのではないかと心配している。
 例えば皮膚が爛れ、痒くなり、気管がつぶれ、視力が低下し,性機能障害などである。
 李国強はチチハル市フラアル区に住んでいる。記者が彼の家を訪問すると、常時床に伏し咳が止まらず、身体が虚弱である。彼が言うには、この原因は気管が腐りかけているからだという。

 1987年10月17日、フラアル区のガス公司が掘削工事中、日本軍が埋めた毒性の缶を掘り出した。中国一重集団医院職業病担当の李国強と彼の同僚が現場に到着し、その缶を検査し、蓋を開けたところ、紫色の煙がわき起こり、嫌な臭いがし、周囲にいる者は咳が出、苦しくなった。李国強は缶の中の約300リットルの液体を持ち帰り検査をした。
 検査に当たった一人が、液体の一滴を新聞紙に載せ点火したところ、強烈な刺激性のガスが建物に広がり、下の階にいた数十人が咳が止まらなくなり、何人かは我慢が出来ず窓から外へ飛び出した。
 後で解ったことだが、それが日本軍が残したガス弾で、窒素性の混合毒弾である。帰宅した李国強さんに毒症状が現れた。呼吸困難になり、心拍が激しくなり、顔色が黒くなっていった。右手親指が赤く腫れ、膿が出てきた。入院後何度も生命の危機を迎え、以後咳が止まらず、薬を放せなくなった。その後、50歳少し前に退職の道を選んだ。
 1996年、李国強さんとその他の被害者達は日本の東京地裁に日本政府への賠償請求の提訴をした。彼と一緒に提訴した王岩松さんは現在上海に住んでいる。先日のチチハルの事件を聞き知り、彼は寝る前に鏡に向かって自分の喉を調べてみた。喉の奥と目の回り、鼻腔に膿が出ている。呼吸困難もある。声が嗄れて、目の玉が腫れて卵のようになっている。
 毒ガス弾に中って以来16年間、彼の喉はずっと腫れていた。半時間ほど話すと声が出なくなる。30歳で老眼鏡が必要になった。身体虚弱で、指先には長年の間膿が出ている。膿がひどいときは一日の半分はその指を薬の液体に浸けていなければならない。
 
 それよりももっと前のこと、1950年、崔英功氏がチチハル市の化学の先生だった時、生徒が黄色の液体をお椀に入れて持ってきた。生徒が言うには校庭を掘っていたら大きな缶が出てきた、とのこと。
 工事の臨時工達がそれらを取り出し中を開けてみると、グリセリンのようなものが出てきた。崔先生が液体を手のひらに載せると数分して両手の皮膚がぶくぶくと泡立ってきた。その後すぐ皮膚が一皮一皮と剥けていく。
 この事件後早50年が経っているが、皮膚の腐乱との闘いは終わらない。
 現在80歳の崔元先生はこの話になると思わず叫んでしまう、「打倒帝国主義」と。

毒の悩み

 チチハル市の副主席曹志勃さんによると、市内にはおよそ20万発の毒弾が埋設されていると言う。彼は日本の化学戦史研究家である。
 1980年代初めの頃チチハルの軍隊に所属していたので、多くの資料を調べ、この結論に達した、と言う。
彼の調べによると、当時チチハルにいた日本の関東軍は対ソ作戦の一環として、第三道防衛線建設に、大量の化学弾を埋設した。
 日本軍の戦車や大砲の数はソ連軍に及ばなかったので、この化学弾を対ソ戦術上重要視した。そして創られたのが約20万発の毒ガス弾である。
 当時日本の準備より、ソ連の侵攻が早く、毒ガスの埋設が間に合わなかった。そこで日本軍は逃げる前に、証拠隠滅方法として、地下に埋設したのである。(化学弾使用は国際法違反であった)

 1938年、日本軍の参謀本部は、直属の部隊、516部隊を建設し、その任務はチチハル駅以東を目的に陸軍科学研究所を創った。これとハルピンの731細菌部隊とは姉妹関係にある。
 516部隊は250人構成で、技術関係者が大半を占め、主要な生産は毒ガス弾の迫撃砲である。この試射も行われている。この試射で中国側の軍民の死者は8万人を超えている。戦後これまでに中国の10数の省、市、30余の自治区で日本軍が残した化学兵器が発見されている。その大半は中国の東北地方である。中国側が数えた弾薬数は200万個以上、日本側の資料では70万個となっている。これらは戦後50年間廃棄の状態で風雨に晒され誰も知らない地下に埋められてきた。これまでにその被害に遭った人数は2000人、中国東北だけで1000人を超える。

 1929年、日本軍は広島県大久野島で大規模な製造を開始。これら化学兵器は先ず中国の大連に搬送され、汽車に乗せてチチハルに運ばれた。1925年の国際協定「窒素性毒ガスおよび細菌性弾薬の使用禁止条例」に背いて、使用したため、その罪状を隠すため、チチハル撤退時大量の毒ガス弾を地下に埋めた。
さらに同市近郊のノン江に捨てた。

 526部隊の金子時二氏が回想して「私たちは毒ガス弾、その筒、缶などを直経6メートル、深さ10メートルの穴を掘り埋めた」と言う。
 また同部隊の高橋正治氏とその同僚は、1945年8月13日午後3時に命令を受けた。「3日以内に倉庫内の毒ガスを全てノン江に投げ捨てること」と言うものだった。そこで汽車を使用しノン江まで運び、全てその河に投げ捨てた。
 ではこの河に投げ捨てられた毒ガス弾はどうなっているか。前述の曹志勃は「もしノン河に流されたなら、それは探索不可能でしょう」と言う。「中国側にはそのような予算はないし、日本だって不可能でしょう」と言う。
 
 また彼によると1950年代、吉林敦化で大量の日本軍の捨てた毒ガス弾が発見された。しかし中国では処理の方法が解らず、近くの山「ハアルパ嶺」に埋めた。現在その当たりにはどんな鳥も飛んでいない、とのことだ。

 今回の「チチハル8.4毒ガス弾事件」で発見された5個の筒はフラアルに送られ、日本軍廃棄の化学性武器倉庫に保管された。
 この倉庫は元は”中国一重集団公司”の弾薬庫であったが、3年前、日本側の出資により、「見本軍廃棄ガス弾倉庫」と改名された。最近発見されたガス弾の数は約1000個に達する。
 現在その他の地方でより一層大量の弾丸が発見されているが、しかし日本側の資金の送付が遅れ倉庫建設がされていないとのことだ。
 チチハルの別名は「鶴城」と呼ばれている。当市の人達は丹頂鶴の楽園としてここを誇りにしている。また「緑色野菜の都」でもある。
 美しいノン江は中国では数少ない汚染のない大河の一つとなっている。チチハル政府の建物の屋上からノン江の静かな流れを見ることができる。
 有る市民が言う。「一体日本政府は何時になったらこの美しいノン江の砂の中に埋められている毒ガス弾を拾ってくれるのだろうか?」と。

訳者注:
 大連からハルピンまでは約1000キロメートル北へ行く。さらにハルピンからチチハルまでは北西へ約400キロメートル。そこからソ連国境までは約500キロ。
 日本の戦後処理が終わっていないことを痛感します。
 
 森村誠一の731部隊のことを描いた「悪魔の飽食」が出されたのが1981年。これは中国側で文化大革命が終わった(76年)直後です。日中国交も回復され、中国では改革開放政策が取られ日本と往来も行われるようになり、現地調査も出来たから出版可能だったのでしょう。
 私は1999年5月にハルピンの731部隊の跡を見学に行きました。ハルピンは緯度から言うと日本の北海道の北端、宋谷くらいの所。冬は−40度、夏は+40度になります。(大陸性気候)

 ただ、日本側の対応について、中国の現状を紹介している私としては、ここで一言書きたくなります。
 この「悪魔の飽食」が発行されたとき、日本の革新、或いは左翼陣営は大いにそれを歓迎し、宣伝しました。そして日本政府を攻撃しました。それはそれで一つの正しい行動だったと思います。
 ではその時中国政府が既に社会主義政権として、人権上、人道上許されない独裁政治を行っていたことについて左翼陣営は正しい行動を取ったでしょうか。あまりにも一方に偏っていなかったでしょうか。中国が何をしていたかは調べれば解った時代です。
 中国に行って計画経済とは何か、職場単位の中で人権が守られているか、何が行われてきたかを見れば一目瞭然でした。
 さらに、中国の生産の推移を見れば明らかに異常な社会だったことが解るはずです。
 生産の実態を見るのは、国際交流の基本ではないでしょうか。当時の中国は生産が停滞、或いは国家消滅の一歩手前でした。

 しかし、事実は、全く中国の実態を見ようとしなかったのではないでしょうか。
 以前紹介しましたが、当時「総評」という労働組合中央組織が毎年交流行事を行い、中国に何百人という人数を送っていました。で、彼等は日本に何を紹介したでしょうか。中国の社会主義の実態を正しく紹介したのを聞いたことがありませせん。私が聞いたのは「社会主義は素晴らしい」という、あまりにも現実を無視した、事実とかけ離れたものでした。これほど事実と違う見方を出来たのは何故か。これは歴史的な謎だと私は思います。中国建国後の30年間に中国人は極度に苦しい、人間の社会としては許されない悲惨な生活を中国の党に強制されてきたのは、今では世界公認のことです。

 建国直後のことを描いた小説を数多く紹介してきました。その他にも数多く読むことが出来ます。その中に登場する中国人の生活と社会を人間的と思う人がいるでしょうか。
 では、中国では建国直後から、人類史上まれに見る抑圧と弾圧が行われていたことを、何故日本の革新陣営は無視してきたのでしょうか。
逆に美化さえした団体もいます。
 日本人そのものが無知なのでしょうか。そんなことはないでしょうね。でも事実の経過から見れば、当たっているのかな。
 以前紹介したフランスの「マルクス主義学者」として有名な人もその無知の代表かな。この人の場合、1990年代半ばまで無知でいたから、正に歴史的無知ですね。これほど事実と違うことを主張する政党や学者、或いは専門家などが戦後日本の社会に存在しえたことは、本当に歴史的な謎です。やがて、いつか解明されるでしょう。
 でも学者が何故それほど事実と違うことを主張するのだろうか、考えたら寝られなくなりそう。
 
どちらにしろ、中国への戦後処理を完全にすませないと、私たち自身も日中両国の本当の理解が出来ないということでしょうか。
 そういう意味では私は北朝鮮に対しても、とにかく戦後処理を大至急済ますべきだと思います。戦後処理をしないで、相手にまだ謝っていない状態で、相手の拉致などの行為を避難する権利が日本だけにあるとは思えません。