貧乏学生と先生

03/09/25 南方週末  秋風(投稿)

 教師節(中国の祝日)も終わった。政府や社会、或いは学生達からもお祝いをされて先生は気分良い時を過ごした。
 先生の道を尊重すること、それは単に学生よりも先生の方が”尊い”と言うことを意味しているだけではない。
 それは学校も大切であり、教育が大切なことを意味している。
 言い換えれば先生と学生と教育総体は権力におもねることなく、お金や外部の力に負けてはいけないことを意味している。
 教育の尊厳は学生も先生も学外の力に負けることなく、人類が到達した最高の知識、偉大な観念、尊い価値、美しい情感、これらを伝えあってこそ教育の本当の価値が出てくるものだろう。
 しかし現実には不幸なことに、我が国では教師の尊厳は失われている例があまりにも多すぎる。教師自体の倫理が欠乏していると言える。それは権力によって潰されているだけではなく、商業の道から学校が支配されており、教師自体が迎合している。

最近の報道によると、四川省成都の学校で「学校管理」のために、高額な教育料を払った生徒は紅色の制服を着、普通の学生は青色の制服を着せられている。
 そして紅色の学生は、VCDやパソコンや扇風機等を利用できる。しかし青色の学生はこれらを全く使用できない。ここでは学生が完全に差別されている。

 また南京の職業学校では規則により学費を完納していない生徒は試験が受けられない。 ある生徒は900元の授業料が払えず、試験場に入ったが半時間経ったところで、担当の女教師によって、他の生徒の見守る中、教室外へ追い出されてしまった。
 そして受験した10科目のテストは全て0点として処理された。

 貧乏、これは誰もが嫌なことだ。変化の激しい時代、貧乏な学生はその敏感な気持ちが強く傷みつけられて、頭が痛いことだろう。 可哀想なのは、このような学生を苦しめる学則を、学生の気持ちを考えずどんどん増やしていることだ。
 公平であるべき学校の中に、公然と「差別政策」を持ち込んでいる。このような学校、先生達は、生徒を傷つけ人格を辱め、権力とお金に迎合している。一体教師の尊厳はどこへ行ったのか。
 
私の考えでは、これらの事件の中で、直接的に被害を受けているのは生徒であるが、このような学校と教師達の環境に「教師の尊厳」があり得ようか。
 あの試験中に生徒を追い出した女の先生よ、貴女は自分の頭で考えると言うことが出来ないのか。貴女は人格を完全に喪失している。このような先生をどうして尊敬できるのか。

 学校と教師の人格の喪失は教育制度の欠陥である。しかし制度の欠陥だけだというのは教育者の逃げ口上だ。企業が利益を追求するのは当然だ。しかしそこで働いている人達の生活を顧みないのは恐ろしい恥だ。医療制度にも欠陥があり、患者を医者が病院から追い出しているのは、病院の恥だ。
 教育制度には大きな欠陥が在るであろう。しかし生徒を試験途中で学外へ追い出す先生も大いに恥ずべき事だ。

 あらゆる権力や金銭の誘惑、その制度などに、先生達はそこで自分の人間としての尊厳を充分に考えて欲しい。困難な状況で人間としての尊厳を守る方法を考えない「教師節」などどこに意味があろうか。

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(南方週末)

訳者注:
 毛沢東在世中は権力に迎合する意外許されなかった中国。建国後50年経った今でも、権力と如何に迎合しているかが、人びとの自慢になっています。例えば抗争事件が起こり弁護士を頼むとき、その弁護士は位の高い裁判官と如何に関係が深いかを先ず自慢するのが中国の慣例だそうです。
 極端な例は裁判を弁護士任せにすることもあるそうです。勿論弁護士は裁判官の立場で権力を代表して裁決します。
 これは前回紹介した「現代化の落とし穴」の何清蓮著の中に書かれています。
 また中国にも黒色組織(暴力団)が拡大していて、これは他の国と違ってすぐに権力と結合します。党や政府高官が黒色組織と結びついているので、一般大衆にもそれに疑問を感じない、または真似をするというのが、中国の現状だそうです。
 中国の学校は現在はほとんど全て公立です。(一部大学に私立が出来ています)
 最近は日本の新聞でも中国の学校が1万元の授業料を取るところが出てきた事が報道されています。それが公立なので日本では理解できないと解説されています。
 ”権力と対決する”という何かの運動が中国で起こらない限り民主化は始まらないでしょう。