明公村”人民代表選挙”事件
02/02/28 南方週末 
  記者 揚海鵬 

 選挙日の暴力事件
2002年、正月が正に過ぎようとしている時、明公村の村人達は誰も、異常な雰囲気を感じ取っていた。これから選挙が行われようとしているが、この村で大きなカマキリが力任せに衝突しょうとしているかのように、大変な事件が起こるのだ。1月6日、浙江省天台県明公村の選挙の当日。全村839名の選挙人の内、798人が投票。彼等は早朝から村の劇場に行って、3名の代表を選ぼうとしている。被選挙人は第14人民代表大会に出席する。異常な雰囲気を知った党は多数の幹部を集め、又公安達も集結した。初めに立候補者19人が名乗りを上げている。2度の振るい落とし方式で4名に絞る。残ったのは、村支部書記の「干人印」、党主任の「陳立樹」党員の「陳立傑」党婦人部主任の「戴玉珍」となった。
 この前に村の党委では27人から13人を立候補者として選定していた。
 村の顔役「干才平」は9票で第7位。そのため党の支持なしの立候補者となった。
 投票は当日13時50分終了。そこで大事件が起こった。党支持なしの干才平が447票で当選。又、干人印はそれよりも11票多く、2人で全数の過半を超えた。現地監督の「鄭和平」主任は2人の当選確定を宣言した。14時30分、県幹部と警察は引き上げた。14時45分、喜びを隠せない干才平と彼の兄の干才林が自分たちの家の門に立ったとき、10数人の手に刃物を持った男達が突然2人に襲いかかった。2人は懸命に逃げ出した。干才平は隣家の台所で斬りつけられ、干才林は百メ−トル逃げて田圃の中で男達に斬りつけられた。干才平の兄嫁の戴緑華も又側にいて二度の太刀をを浴びた。このようにして選挙当日の大事件が起こったのだ。

 
 天台は”佛の国”である。しかし村人の実態は、争いが好きで、聖地は山の上だけであった。交通が不便で、群れをなして集まることが多く、村全体が1つの砦のような形態をなしている。
 だが地元政府の目からすれば、この村は模範村と見られていた。この村人の宗族意識が危険なものとなることは今までは無かった。これはこの村が長年にわたって地元政府の駐在地となってきたからである。その管理は厳格に行われてきた。刊人印は村の党書記としてこの20年間先頭になって村の統治に当たってきた。
 80年代の初め(土地の私有化が認められて)村に工場が建てられた。刊人印は村で最初に”ゴム”の工場を始めた。村で同じゴム工場を建てたのは30軒あり、彼は村の最高所得者となった。彼の私営工場は50人以上の工員を雇っている。
 村人が言うには彼は村で誰もが認める最高権力者となった。それだけの経済的蓄積がはっきりと現れた。
 この村は中国第1級の模範村となった。県の副書記も刊人印の地元での権威が最高であることを認めている。
”我々地元政府としても彼の協力なしには何も出来ない”と語っている。
 地元政府の最高責任者は「彼は道理をわきまえており、能力もあり、村の有力幹部の1人である」と断言していた。

 事態が変わる

 1990年代中期、天台一体の郷鎮併合が行われた。明公村には県の政府が設置されなくなった。県の中心としての地位は変わった。するとゴム工場の利益も下がり始めた。同時に村の財政も悪化し10数万元の赤字となった。2000年に中心地の公道建設に5個の村が共同で140万元を負担することになった。刊人印はそのうち3万元を寄付した。彼の工場からも幾らかを寄付した。道路工事が完了すると10万元の欠損が生じた。1番金持ちと見られた明公村がそれを負担した。これにもちろん党書記も賛成した。
 道路工事は誰も反対しなかったが、しかし各種の赤字は村の皆が気持ちよいとは思えなかった。
 記者が訪問しているとき次第に解ってきたのは、刊人印が依然として表立った人間として振る舞い続けることを狙っていると言うことであった。つまり、県代表者としての地位である。この地位を利用して彼は各種政府各部門に影響を持つことが出来、それはすなわち工場経営にも大きな力となる。
 一方彼は村役人として、県政上の有力な顔見知りが無くなっていた。
 このことについて村の書記2人は記者に対し、「彼は近辺ではあまり好かれていないし、人も寄りつかないよ」と話してくれた。
副村長の「刊才法」は郷里の最高責任者だが、反対に刊才平兄弟と相当親密な関係である。
 こうして刊人印は20数年の豪華な生活を続けたが、ここに来て遂に挑戦を受けることになった。

 強敵現る

 挑戦に来たのは姪の亭主の刊才平である。彼の実力も侮れない。1996年から1998年の当村党委主任で幹部になると目されている。彼は男3人兄弟で、親戚に仲間が多く、この村では大きな存在となっている。もちろんその経済面の裏付けも相当なもので、2番目の刊才林は上海天台商会の副会長、噂では県の最高幹部とも仲がよい。1番上の刊才清は最近水力発電所に大きな投資をしている。この村での3人兄弟は最も裕福な生活を送っている、との噂である。
 最近の村人の考え方も変わってきた。経済力と人間の上下関係は次第に魅力を失いつつある。
 干才平は顔が広く、コネが効く繋がりを広く持っているだけではなく、更に、村の書記と並ぶ経済力を所持している。
 一方村の書記の刊人印はこういう考え方を嫌っていて、宗族内の上下関係は昔からのしきたりで、これは無闇に乱してはいけないと常に口にしていいる男だ。
 彼は刊才平の叔父に当たる。彼の妻の姪が干才平に嫁いでいる。この結婚は身内を固めるための習慣から選ばれている。
その他、1996年から1998年に掛けて、刊人印の配慮で干才平は村民委員会の主任に選ばれている。つまり当然、干才平は刊人印に感謝の気持ちを失ってはいけないのだ、と言うことになる。
干才平が主任に選ばれると、村の会計担当者に自分の署名が必要だと宣言した。さらに、書記の刊人印の署名は要らないと付け加えたのである。このことを会計担当者は直ぐに書記に告げた。そのときの書記の反応は「ではこれからの出費は全て議会で承認を取ろう」と回答した。
干才平としては以降、息が詰まる感じがした。というのはどの会議もやはり書記刊人印の支配下にあった。こうして干才平の不平があちこちで聞かれるようになった。彼は「おれは子供の皇帝か」とふて腐れた。しかしそれ以上はどう仕様もなかった。全てのことは会議に提出しなければならなくなった。
 ここで両者の対立は全面対決した。叔父と甥の関係は冷え切った。

 矛盾

 ”水力発電所の争い”が両者の対立を決定的にした。 干才平兄弟の今日の財をなしているのは青龍発電所による。ただこの建設に当たっては書記であり叔父の協力も大きかった。村の財政困難の折り、兄弟は書記の協力のお礼として村の会計に謝礼金を提出するべきだとの議論が起こった。2人の兄弟は発電所から毎年6、70万元の収入があった。書記がこの費用提出を要求したのに対し、兄弟は提供を拒否した。当然書記の叔父は激怒した。
 2001年9月、書記の提案で村議会として2人の”発電所補助費”を村へ提出するよう法廷へ調停を申し出ることになった。対立はこうしてはっきりと表面化した。
 もう1つの対立は、”公道側面の汚水管”である。2000年12月18日、兄弟は自分の家の前を通る汚水管を移し替える工事を始めた。その理由は彼等の家が公道に面していてその低い位置に家があり、時々汚水が溢れて家に流れ込むからである。
 これを知った叔父の書記はあらゆる関係部門に連絡を取って、その工事を差し止めようとした。工事会社を恫喝し、警察を動員した。これを知ると兄弟側は顔を真っ赤にして咆吼した。2001年旧暦正月5日、まだそれは正月の最中である。兄弟の義兄の干才清が大刀を揮って書記に斬りかかった。書記の逃げが早くて足の一部に怪我をしただけでことは済んだ。書記は当然法廷に持ち出すべきだと思案したが、また宗族内の問題であることも考え、世間体も悪いと考え直した。書記が憂慮している内に、県の最高責任者が調停をすることになった。県内の全ての党員、幹部が料亭に呼ばれ、料理が山と積まれた。
 その席で刀を揮った干才清が全員の前で頭を下げた。そして書記に5000元の金を包んだ。だが書記はそれだけでは気が済まなかった。というのは村では依然として兄弟が大手を振って歩き回り、又金を派手にばらまいて顔を広げていた。ただ書記が兵役の頃、兄弟の一番上の兄と仲良くしていて、その兄は今どこかで商売をしている。
 刃傷沙汰があった後、干才清は只48時間だけ拘留されただけだ。それも最高責任者の差し回しであった。そのことの意味を考えて、彼は気持ちがいらいらした。

 謀

 兄弟は更に謀を進めた。その主とした目的は叔父の面目をつぶすことであった。そうすれば兄弟の地位が上がると考えた。それは新しい宗族内の当主交代となる。
 2001年10月30日、兄弟3人が集まって車に岩石を積み、セメントも用意して、書記の経営する店舗の前にそれらを積み上げ使用不可能にした。兄弟はこれを「反腐敗大闘争」と呼んだ。「彼は権力を悪用して市価の半値で仕入れている」と張り紙した。

 書記は彼等を法廷に届けた。12月11日、法廷は即決して兄弟は5日以内に岩石とセメントを撤去するよう命令した。兄弟は法廷に反抗しなかった。が、期間内にあとかたづけもしなかった。書記は我慢できなくなった。村の中ではすっかりメンツをなくしたと落胆した。お互いがにらみ合いを続けた。書記の方が一貫して押され気味であった。この山村で昔からの権力者が、今はやり返す力を失っていた。上級組織、政府、法廷、誰もが援助できない状態が続いた。
干才平は県人民代表選挙に打って出ると発表した。誰もが当然、一波乱起こると予想した。月日が流れ、兄弟達側の経済力と上級との繋がりは一層緊密にされた。議会のある委員2人は記者に対し「でもあの兄弟に対抗できるのは書記しかいない」と漏らした。
2002年1月4日、村に小字報「村人に告ぐ」が張り出された。「兄弟達は発電所建設費の借金をまだ返済していない。彼等は共に精神異常を来している。村の主任として公費15000元を使い込んでいる」と書かれていた。
干才平側はこの字報が書記の仕業だと見た。

切り札投入

 双方の最後の切り札は県代表選挙となった。どちらがそれを占拠するかで今後の全てが決定する。双方共にこのことを熟知していた。選挙運動は白熱化した。票の買い占め以外に、一人でも囲い込もうとして、干才平は出稼ぎに県外に出ている140人の村人達に電話をし、家族に代理投票をするように頼んだ。もし彼等が県に近ければ、ここからそこまで自ら出かけ、委託投票をするよう提案した。彼は上海に出かけている学生にまで連絡を取り、連れて返って投票させることもした。2人の党公認の候補者は記者に「思いも掛けないことが起こった」と語った。「あの兄弟は金持ちだが人格が悪く、おそらく当選しないだろう」と考えた。ところがどうしたことか、その兄弟揃って上位当選したのだ。
 県大主席「鄭和平」は、143票の県外からの委託票は全て干才平の名前になっていた、と説明している。
 さて結果が出た。誰もこの結果を変えることはできない。当然20年権力を謳歌した書記にも対策はなかった。こうして血を流す事件発生となった。

 流血事件後

 2002年1月6日事件の夜、天台県警察は犯人5人を逮捕した。1ヶ月してその他の凶器を揮ったものも逮捕された。警察の説明では事件に関わった者22人、主犯「ウ」は逃亡。彼は収税局の幹部。また書記の娘婿。ほとんどの犯行者は県外15キロから募った者だった。
 1月24日、県公安局は核心の嫌疑者として書記を逮捕した。逮捕理由は娘婿を天台県の南に位置する臨海市に隠しているとの情報である。主犯は現在肝臓病が重く出廷できないとの申し出があったが、法廷はこれを拒否した。
書記、刊人印は県では有名な人。彼が逮捕されて驚かない者はなかった。
 ただ、更に人々を驚天動地にさせたことは、書記は逮捕後数日で出所。その直後2001年度の最優秀党員として表彰されたのである。
 天台県の最高責任者も激怒した。天台県としては長年にわたって宗族関係の勢力削減に努力をしてきたところ。その努力が省での表彰を受けてきた経緯もある。党中央の、ある機関誌でも「県代表を殺傷するこの事件は我慢できるものではない」と書かれていたのにである。
 書記が逮捕された直後、7つの村の党支部が連名で上級に依願書を提出した。「書記とその宗族間の争いは正義と覇権の闘争であり」「今回の責任は全て兄弟側にあります」と記されている。
 「これまでの村人の生活のために、書記は長年に渡って役所の仕事を通して県に尽くしてきた。一度犯罪を起こしたとしても、政府は超法規的な恩赦を与えるべきである。そうしなければ今後誰も政府に協力をしなくなるであろう。政府が寛大な処置を執らないなら、宗族問題の解決は捗らないだろう。これらの理由によって天台県の党責任者はここに法の施行に当たっては相手を見て裁く意義のある処置をお願いする次第です」

 法廷の方でも1つの考えがあった。省内での新しい地域編成後の選挙はこれまでと違った組み合わせになり、利害対立もあり得ること。それが暴力にまで突き進むことも考えていた。
 最近干才平が村の代表に選ばれて、県の議会に出席した。そこで刊人印を今回の殺人事件の張本人として糾弾することを提議した。
 事件が推移して、村の長老達は嘆くばかり。宗族間の決まりで解決することは不可能であった。逆に村の若者達はこの事件に興味を抱いた。新しい強者、兄弟は村に富をもたらしてくれるのではないか。兄弟もまた宗族の本家ではないか。書記と比べても同じく忠義心のある人間ではないか、などなど。

 2002年1月6日、浙江省天台県の明公村で、代表に選ばれた干才平が身に10数カ所の傷を負う襲撃事件。主犯は書記の娘婿。その姿は村人全員に見せられた。
 農村での法治意識はまだまだという所か。村の権力構造の複雑さと民主主義改革の困難さを示してあまりある事件であった。