外で働く辛い日々
    南方週末 02/03/28

(訳者注:中国の平均賃金は約1000元。日本円にするときは15倍する)

 46歳の韓建平さんは顔色が土のようである。家で飼っている鳥は広い籠に住み、猫は自由に遊び回っている。娘は大切にされているが、ただ彼だけが希望無く生きている。

「お母さんが連れて行かれたよ」と言いながら70歳の真白の髪の”張”お婆さんが、トイレに置いてある10キロを超える鉄のコンロを運びだそうとしている。両手で抱えて息を吸ってよいこらしょっとコンロを水平に保ちながら抱え上げた。トイレのドアを足で押し開けながらゆっくりと歩き出した。階段を下り表に出るとコンロを地面に下ろした。お婆さんの腰はまだコンロを抱えているかのように曲がったままだ。これは土曜日の朝のことだ。
 空はやっと陽が昇り始めたところ。北京市朝陽区のあるところ。早起きの老人達はお婆さんを手招きして体操の仲間に入れようとするが、張さんはかまわず真っ直ぐ市場へ。
 大鍋に水を沸かして粉ミルクを溶かす。赤や緑の、ブリキや塩ビのコップに熱いミルクを注いでいく。
 直ぐに又コンロに大鍋を掛け、お茶の葉を入れて煮抜き卵を200個作る。
 娘が起きて手伝いに来た。
 三輪車に湯を積んできて、即席麺の準備を始める。落花生や木の実などを小さな包みに分けていく。
 娘婿も来た。40歳を超えている。身体はがっちりとしている。本名は李軍というが、張お婆さんは彼を「小李」と呼ぶ。彼も鉱泉水などの飲料を三輪車に積んできた。車の上がその飲み水で山のようになっている。彼がそれを自転車で引っ張り、後ろには娘と外孫が押している。
 こうして一家4人の稼業が始まる。

 4年前、李の妻の仕事がおかしくなりだした。それまでは北京市の有る紡織工場の裁断工として働いていた。1週おきに3日の仕事が、週5日の休みになり、ほとんど下崗(シャーカン。最低年金保障を貰った退職)となった。しかし本当の下崗ではない。下崗は少し賃金が出る。失業ならそれなりの救済がある。そのときの状態は月に100元少ししか出なくなっていた。こんな状態が数年続いて職を離れた。そのとき2万元支給された。その後企業からは何の連絡もなくなった。
 昨年李軍も企業内部での退職待ちとなった。月に400元出る。但しアルバイトをしてはいけないという条件が付いた。
 三輪車は北京市の旧雑貨市場の入り口に置いた。ここは北京市では一番大きな交易市場だ。土曜日曜日に開店される。もう何処も人出で満員となる。入り口に置いた車を子供に見張り番させ、李軍は筵に鉱泉水やその他飲み物類おやつ類などを並べる。妻がリヤカーに暖かい飲み物を乗せ、その人混みの中を売り回る。妻にとっては店を出す店主も、入り乱れる遊行客もお客となる。客に向かって「鉱泉水は如何。即席麺がありますよ。温かい飲み水もほら」と声を張り上げる。また「温かいミルクは如何」も彼等の呼び声だ。客に一杯の即席麺を渡すと直ぐに次の客を目指して車を引き続ける。昼になって孫が三輪車を持って応援に来た。孫は到着すると直ぐに大声で叫んだ。「おっ母が捕まったよ」と。この交易市場の管理人に連れて行かれたのだ。 

 孫は昼飯を食べると、温かくした飲み物の缶類を持って直ぐに出かける。
 お婆さんは悲しくなってきた。今やっている店出しは本来は立派な一つの仕事なのだ。これを止めたら食べていけない。しかし止めるべきか。
 以前は税金を納めたら店を出しても良かった。しかし現在はそれが禁じられた。
 どうも最近は付け届けが必要らしい。しかもその付け届けをする人達と管理人と親しい関係があるらしい。最近気がつくと、市場内で店を出しているのはどうも方言があって余所者らしい。
 「ふん、店を出すのは泥棒みたいに思われている。こんな70歳を超えて、何故毎日苦労しなければならないのか」
 お婆さんには2人の娘が居て、その2人と、上の娘の結婚相手と、それから息子とその連れあい、全部が失業している。
 下崗の子供達は仕事を懸命に探したが、商店の受付、保母、道路清掃工、車の見張り、駅の周辺の人員整理工、単位の住宅街門の見張り番などなど、でも、どれも直ぐに断られた。
 今は息子の家族が皆仕事がない。上の娘の家族は土と日にだけ仕事がある。
 夕方家族の三人が帰ってきた。机の上に今日の稼ぎを投げ出す。小銭ばかりが転がり出る。夫婦がそれを並べ直して数える。数えながら明日も行くかどうか相談している。妻の方が「あの市場の管理人は私の顔を覚えたみたい。思い出してもウンザリだわ」と嘆く。
 でもしかし、2人は明日も出かけようと決めた。
 そのすぐ後、妻は三輪車を引っ張って、あす行く市場に出す品物を買いに出かけた。
 李軍が残って食事を作り始める。16歳になる息子がテレビの載った机に向かって宿題を始める。しかし目はテレビの方を向いたきり。台所から李の大きな声が響く。「テレビを止めなさい。高校に入れなければ飯食えないぞ」と。
 お婆さんは三輪車の上の品物を片付けている。最後に、まだ熱いコンロをトイレの隅に置きに行く。
 子供だけがこの家族の将来の希望だ。
 北京市東南の住宅街は、この歴史的古都の”かさぶた”と言われている。大門の入り口には華やかなネオンが輝くが、そこを一歩入いると家々の落ちぶれた様が直ぐ解る。

 3月16日土、その入り組んだ長屋の路地の一角の88号院で、韓建平が寝ころんで、傍で宿題をしている娘を流し見ている。娘は立ったまま何かを書いている。このような姿が毎朝見られる。
 ここは6平方メートルに満たない家の中。すんでいるのはこの親娘と二羽の鳥と一匹の猫だ。家の面積を2人で割ると3平方メートルに満たない。ただ鳥だけが人間に比べて大きな面積を占めている。もちろん猫もこの長屋の複雑な小道を自由にのし歩いている。1人あたり3平方メートルに及ばないと言うことは、1人が大の字になって寝ころぶともう1人は立っていなければならないことになる。
横幅90センチの1人用ベッドに横板を加えて、親娘の寝床となっている。2人用のベッドは家に入らない。
 家の門を出たところにコンロがあり、それで食事を作る。食事と書き物用とその他諸々の用にするテーブルが一つ。椅子の置き場はない。娘は長年、立ったまま食事と宿題をするのに慣れている。
 ここには窓が無く部屋は薄暗い。しかし誰が見てもこれは人間の家だ。壁に垂れ下がった布きれを寄せると外が覗けるようになっている。これが羊の腸のような長屋の最奥に位置する彼の住まいだ。ここに彼は17年住んでいる。

 昔、長屋街の入り口には金持ちが集まっていた。李蓮英はここに住んでいた。その他いろいろ名のある人が住んでいたこともある。
 次第に歴史が移って北京の有名な邸宅が分割されて次第に小さくなり、ついに長屋と変わって、その又小さくなったのが現在だ。この町内にはトイレは男用が1つ、女用が2カ所しかない。毎朝トイレの前には延々と列が出来る。
 町内の党委副主任”胡威”は誰が一番金持ちか、と言う質問に、「ここには誰も居ないね。月に6元から400元までだろう」と言う。
 韓建平には収入が全くない。かって居た建築公司は倒産して彼は失業した。
 「タン案」(タンは木偏に当たる。党による国民支配の重要文書。個人の中学以降の経歴が全て記され、書き加えられていく。個人は見られない。)さえ、失われたようだ。
 彼は道路に出て自転車の修理で日銭を稼ぎ娘を養ってきた。娘が3歳半の時、1998年彼は中風になって体の自由が効かなくなった。仕事が不自由になると一層貧しくなり、貧しさが増すと身体の自由は更に不自由になった。まるで犬が尻尾を咬もうとしてぐるぐる回るように、この病と貧しさは何時までも追いかけっことなるであろう。
 46歳の彼の顔色は土色だ。籠の中を飛び回る鳥と自由に駆けていく猫を見ながら、彼は娘だけが将来の楽しみだと自問している。
現在は政府の最低生活補助を受けて生活している。他に40元の穀物油が入る。
 彼が一番困っているのは、16歳の娘とおなじ寝床で寝ることだ。どんな身体の動きも伝わってしまう。本当に困ったことだ。
 冬場は彼は床に縮こまり、夏は外に出て真夜中まで過ごす。娘の寝込んだ頃家に戻って来る。
家の冷蔵庫はもう現在では生産されていない古い形。それは2年前叩き売りで買った。
そのときはまだ新しく見えた。
 娘の学費が収入の半分以上を占める。今年の春、300元の課外教科書や、284元の英語や国語の教科書、物理の実験費その他諸々の学費で2月分の政府の補償金が全部消えた。しかしどんなにしても娘のためには金を出さねばならない。それ以外にこの窮状から抜け出す方法はないのだ。だから彼の目には娘の聡明さが、もう極めて人並みより優れているように思える。
 特に娘の歌が上手いことに彼は満足している。彼は録音機を借りてきて聞いてみた。ところがその機械が古くてガーガー言うばかり。
 先日のこと、北京放送学院の専門家が彼女の声を聞いて、当学校に入学させてみてはと勧められた。しかし、500元要るという。彼にはそんな大金はない。娘のことを考えると可哀想になる。もし、もう少し金持ちの家に生まれていたらと、想像してみる。

 近所の子供達も似たり寄ったりで、大きくなると両親の小さな部屋を半分に分けて、そこへ妻を迎え子供を作る。この境遇から抜け出たいのなら、大学に入るしかない。住民委員会の叔母さんが、貧しい家庭では家庭教師を頼めないから、高校へ行けるのは半分以下で、大学となると極めて少ないと説明する。

 西興街の170号に住む王新煥の娘は昨年旧師範大学に入学した。これは千軒以上もあるこの街でかってなかった最高の出来だ。その娘の家は8.7平方メートルで、30センチ掛ける20センチの机があるだけ。しかも娘の父親は脳障害のある人だった。
 毎月の収入は朝早くから夜遅くまで働く父の500元。そして今春師範専門部へ7000元提出した。これらは借金でまかなった。毎年進学の度に1万元の借金が増えていく。
娘が進学して以来、家族の食卓にはおかずが無くなっている。ただし、主夫の作る大饅頭が付く。娘が就職すればこの様も激変するだろう。
 何処の家庭も子供が救いの希望となっている。住民世話役の胡さんも同じだ。病気になっても薬を飲んだことはない。ただ子供が学校でお金が必要と言えば、そこは懸命に捻出する。しかし学校を出れば就職できるのか。88号長屋では2人の学卒者が家で遊んでいるではないか。
 彼女自身長屋を歩くとき、時々壁に頭をぶっつける。血圧が高くて歩行もままならないのだ。

 退職年金で息子達を養う。

 北京琉璃街168号の殷家は今ドアに釘が打たれている。琉璃街全体が取り壊しになっている。(オリンピックを迎えて街を改造。開放式トイレを閉鎖式に。トイレは共用のみ)
 昨年の春節は家族揃って楽しく過ごした。お婆さんが取り壊し中の家を使って鳥小屋を造り、にぎやかな鶏の鳴き声が聞かれるようになっていた。そしてそのお返しのごとく、69歳のお爺さんがガラス戸にぶつかって倒れて肋骨を折り入院。手術に6000元を使った。入院は4ヶ月続きまだ松葉杖が離せない。お婆さんは「私は、住む家が無けりゃ死ぬばかりだよ」と言う。2人の息子も下崗になった。
 上の息子は二度目の結婚をし、以前の北京革製品工場が倒産失業、腰の病があって仕事が見つからない。その嫁は河北省から来ていて、やはり職無し。3歳の孫は母と同じく北京の戸籍がない。下の息子も下崗。最近少し臨時収入があった。上の息子が「42歳になってまだ爺婆に縋っている。でも他に遣りようがない。ただ、嫁姑の仲がよいのだけが取り得だよ」と言う。お爺さんが貰っている退職年金が彼等1族を支えている。お爺さんの退職時は毎月200元だった。それが今は1000元弱に増えている。
 彼等は今後指定された街へ移るか、あるいは3年待って街の改修が終わってから金を払ってここに戻る道もある。
 この両方とも問題がある。戻るためのお金がない。指定地に行けば、孫の学校区域が変わってしまう。
 「この孫の成績が良くて、現在クラスで4番の成績。全校生徒の中でもやはり第4番だ。引っ越しして学校が変われば、成績も落ちるだろうし、今年の高校入学に影響が出ないだろうか」と心配そうに殷爺さんは言う。
 家の近くを見渡すと辺りはほとんど取り壊されている。しかしその中に一カ所煙が立ち衣類が干してある。そこには30歳を超えた女性が1人でまだ住んでいる。こんな寂しいところでまだ移住が終わっていないと言うのはどんな意味か。
 街全体で2000人ほどの内、ここへ何割かは戻ることが出来る。残りの人達は北京市外へ移ることになる。
この殷家庭もおそらくここには戻れないだろう。

 居住委員会は、7号7門101の劉家は経済的に困難であることは理解している。しかしその家庭の収入は最低保障線を越えていて、援助は不可能だ。
 その根拠はこうだ。78歳の劉さんは退職後1000元入っている。46歳の息子は未婚で、300元の失業保険が入る。これら合計額を3人(劉お婆さん含む)で割ると、一人あたり400元を超える。これでは最低補償線を超える。しかしこれでは政府指定の安価な住宅を買えない。食事をすれば、病気の薬は買えない。薬を買えば食事を制限することになる。
 こんな状態なので、もし家族に子供が居るところは更に苦しい家計となる。
 外に出ている上の息子夫婦は、実際もっと困難な生活だ。息子は腰を痛めて未だに直らない。夫婦共に失業中。2人の子供が中学と高校に通っている。学校は家の近くにあるが、自分自身をも世話が出来ない身でどうして子供の世話が出来ようか。
 更に、彼等家族の内三人が病気を持っている。しかし劉老人だけが昔の職場から医療費がでる。半年に1500元以内という条件があって、治療費の90パーセントが出る。 
 3年前お婆さんが買い物に出かけたとき目眩がして地面に倒れた。けいれんが出たが、医者には一度も行っていない。床に伏して3年になるが、血圧を測ったことも、薬を飲んだこともない。お婆さんは「今でも本当は何の病気かまだ解らない」という。時々椅子に掴まって立ったり出来るが、言葉ももつれて良く解らない。
 おそらく脳血栓だろう。劉爺さんはそのことを知っているらしい。お爺さんが一度脳のCT検査を受けようと考えたことがあるが、300元要るらしいとわかった。この種の病気の薬も安くない。「とても高いので手が出ない」と彼は言う。
 息子は胃に出血があった。9死に1生を得て生き返った。職場復帰後保障を貰う身となった。最近企業合併となったが、幸い新しい企業も保証金を出してくれている。しかし仕事が出来ないから賃金は出ない。
 「俺たちは足の骨を折っても医者には行かないんだ。」と息子が言いながら折った足を見せる。
 家にあるテレビには埃がたまっている。というのは金を払っていないから映らないのだ。
彼は毎日公園に行って日向ぼっこをする。誰とも話をしない。「こんな身体の人間を誰が友達にしてくれるだろうか」と言う。
 劉老人が彼を背負いながら「医者にはかかれないし、するとこの息子を将来誰が面倒を見るのだろうか」とつぶやく。
 昔の大きな街が長屋に分割され、長屋が再び小さく分割され、それが更に小部屋に分割されて、そこには大勢の人達がひしめきあって住んでいる。

 訳者注:タン案
 学生中に恋愛をした人はここに記され、卒業時に数千キロ離れたところに”分配”(国家の名による就職)されました。10年前まで。
 何時までも想いを断てない若い2人の”美しい物語”が星の数ほど中国に生まれたと教科書で習いました。そんな大事な個人管理の調査書が無くなった人がいる話を聞けば、1番驚くのは誰でしょうか。もちろん中国人自身でしょう。
 数年前のこと、名古屋で在日中国人の調査をしている中国要人に立ち会った話は、どこかで書きましたね。