先頭分子の先生惨殺される

02/07/20 南方週末 記者 曹勇

 交通事故を装った謀殺

 02/4/26日午後5時半、湖南益陽市龍光橋の長坂村で、大雨の中32歳の南塘中学の李尚平先生が家から300メートル離れた所で倒れているのが発見された。頭は血で染まり、既に息絶えていた。

 知らせを聞いて家から父親の元教師李三保がよろめくように走り寄ったとき、彼の息子には全く呼吸はなかった。息子の右の顔半分が凹んでいる。右耳の後ろ側に指が入るほどの穴が空き、目は大きく開いたまま、土砂降りの空を睨んでいる。
 最初の発見者尹益秋の話によると、彼が近くの床屋で李尚平がバイクに乗って道路を通り過ぎるのを見かけたのは5時20分で、その後直ぐ床屋から出て現場に差しかかって、李尚平の倒れているのを発見した。その場にもう一人自動三輪の村人も通りかかった。 その村人が後に警察の調査で述べた記録によると、現場から約50メートル離れた畑で作業をしていた。バイクのきしむ音がした直後「ばん」というかなり大きな音が聞こえた。が畑からは茂った木々に遮られ何も見えなかった。彼は多分バイクがパンクをしたと思った。
 通報後、直ぐに市の交通警察隊が到着した。又法医も一緒だった。現場にいた人達の話によると、警察と医者の鑑定の結果「普通の交通事故」と言うことになった。
 その家族がこれに対し疑問を感じた。その理由は、現場にぶつかった相手の車の跡がないこと、バイクにも損傷がないこと、又現場の発見者達の話によると、事件の前後に他の車を見かけていないこと、等の理由があった。李尚平と同期の友達が警察で働いていて、彼が死体を見た結果、これは交通事故ではないと思ったと語っている。
 翌日4/27日、李尚平の残された家族が強く要求した結果、再び警察大隊と法医関係者が李尚平の家に検死に来た。そして交通事故死でないと判定された。
 右耳の大きな穴は銃弾の穴であり、弾は口から入り頭脳を経て耳の後ろまで貫通していた。故意の殺人であると判断された。
 その昼頃警察は現場近くから弾薬を見つけた。これが殺人の証拠品となった。
 記者が公安局で採訪したとき、副局長が「弾は被害者の身体から2メートルの位置から発射されている。1発で即死のはず。銃を使い慣れた人間の仕業で現場の選択や腕前共にその手口は見事だ。現場周辺は大きな木に囲まれていて、近くに家が建っていない、そして大雨の日を選んで歩く人も居ない、しかも現場の道路は曲がり角で人が居たとしても見通しの悪い所である。そして犯人は被害者の帰宅時間を計算して狙っている。
 このようなことを考えると、犯人は専門的に訓練を受けた人間である。」とのことだ。
 
 先頭分子の先生

 李尚平の死は当地に有る30幾つかの学校の先生達に大きな衝撃を与えた。李尚平は有言実行形で、先生達の敬服を集めていたが、当局にとっては頭の痛い存在となっていた。その方の人達の間では「先頭分子」と呼ばれていた。
 彼の父李三保の話によると、息子は正直一途な所があって、教育界で育ち、その仕事をとても大事にしていた。教育界に現れる不正を黙認することが出来ない性質だった。問題が発生すると直ぐにマスコミやインターネットで意見を発表する癖で、この間ずっと上部の指導者間で睨まれてきた。
 一つの事件があった。昨年8/30日、小学校の4名の先生と校長とが対立することがあって、校長は人を呼んで4人の先生を殴らせた。一人の女性は身体中大怪我で、しかし周囲の先生達には止める勇気はなかった。
 これを聞いて黙っていられないのが李尚平だった。校長連絡会の責任者の所へ行って、以降暴力を揮うことを止めるよう要求した。しかし問題の校長に何の咎もないので、李尚平は教育界に影響のあるインターネットにこの事件を書き込んだ。直ぐに市の党の副書記から彼に書き込みの中止命令がきて、事件はそれまでとなった。
 これ以降李尚平は友達の間で「闘志」と陰口を言われるようになった。

 これら李尚平の生前の各種振る舞いが今回の事件と必ず関係があるはずだと、多くの先生が記者に漏らした。

 01/12月下旬、中学の先生達が銀行へ行って金を下ろそうとして、カードを差し込むと、当月の賃金がまだ振り込まれていないことが解った。
 先生達の間で大騒ぎになり、皆の注目が李尚平に集まった。彼こそが一番頼りがいがある、と言うことになった。何しろもうすぐ正月だ。
 今年の1月初め、中学校校長連絡会議の責任者が学校を視察に来たとき、李尚平と先生達は責任者にあって疑問をぶっつけた。そこで得られた回答がこうだった。「市の財政局が先生達の賃金を支出してくれない。その理由は、政府の予算がないからで、それは全体で30幾つかの学校に及び、先生の数は635名に及ぶ。しかも学校長も支払われていない」ということだった。 
 李尚平にはこのような言い訳が納得できなかった。
 1/15日李尚平は「教育界の責任者の無責任」と言う記事を書いて、湖南のインターネット上に投稿した。その中身は「教育管理部門の管理者達はいろいろな名目にかこつけて予算を使い込み、或いはピンハネしている」というものだった。
それ以降当地の教育界で変事が続発した。
00年全県800名の先生に対し賃金調整があり一人当たり450元が支払われることが決まっていた。しかし02年になってもまだそれは払われなかった。逆に全教師に対し一人当たり120元の食事代が賃金から引かれていた。
 その理由というのは、教育界指導者が生徒に配った資料を本来は無料なのに生徒から金を取ったと、一人の先生が暴露して、それを聞いた指導者達が頭に来て先生達を懲らしめるために賃金を減らしたものだった。
 李尚平は投稿の中で「私達教師は賃金が増えるという話を聞いてさえ喜ぶどころか、心配なのです。多分その話の中には何か訳があって、失望と怒りを感じることが起こるのではないかと思うからです」と書いている。
 インターネットの書き込みは確かに何か効果が生まれていた。投稿して二日目、政府から先生達に対し「必ず新年(2月8日)までには未払い賃金を払います。そして皆さんは楽しい新年を迎えて下さい」という連絡が来た。しかしその約束は果たされなかった。

  当局に嫌われる

 今年の2月下旬、新学期が始まって、また李尚平が先生を代表して政府に賃金支払いを要求することになった。
 政府担当者は大声で「3/15日までに必ず皆さんに届くようにします」と約束した。どの先生も指を数えて銀行口座のカードに変化が生まれることを期待した。しかしカードには何も現れなかった。
 愚弄されていると感じた先生達は南塘学校に集まった。そこから政府に何度も電話をした。しかしまるでゴムまりのように、押しても引いてもしっかりとした反応は無かった。彼等は次に市長熱線(市民の要求を聞く部署)に電話をした。しかし相手は極めて冷酷に「それは財政部に行って下さい」と答えるだけであった。財政部では教育関係部署に聞いてくれと回されるだけ。先生達は電話を止めることにして、一致して政府に押しかけることにした。このとき李尚平は幹部達が一番嫌うことを思いついた。
 湖南電視台(テレビ局)に全て暴露してやろう、という計画だ。
 彼が遺品として残すことになった日記の中に、有る幹部が李尚平のやり方を不満に思っていることが載っている。その幹部は学校全体に圧力を掛け、今後いちいちマスコミに通報することを止めるよう命令してきた。もしその命令に服するなら、必ず賃金を払うと言う日記だ。
 南塘学校に記者が採訪を申し込んだとき、確かに学校責任者は、李尚平に今後マスコミと接触しないよう、圧力を掛けることを上から連絡を受けていたという。
 しかし李尚平はそんな上からの要求を無視するかのように、ニュース記者を招待した。3/18日、湖南省電視台は数人の記者を学校に送って来た。
 その席で教育長は、テレビ記者と並んだ李尚平に対し、怒りを隠せず、李尚平を睨み付けた。
 それは2日後そのまま放送された。その直後、有る学校の責任者が教育局の担当者に「で今後どうなりますか」と尋ねたことがあった。教育局の指導者は「もうテレビに放送されてしまったのだ。屁にもならん」と野卑な言葉を使って答えた。
 
 教育費は何処へ消えた

 テレビ報道は確実に影響を表した。世論と、はるか上級からの圧力が掛かり、3/22日各区政府と財政局、等が一同にあるまり対策会議が開かれた。そして42万元の予算が組まれることになった。
 記者が地元党委員会書記に採訪を求めた所、次のように答えてくれた。
 この数年政府予算には大きな借金が存在している。その額は千万元を超える。何処の職場もそれを負担してくれない。
   訳注:昔は単位(職場)が負担した。
書記と県長の名前で借金をし、各農村には千ないし二千元の融通をしてもらい、政府予算に26万元集まった。しかしまだ16万元足りない、という。 

で、問題は教育予算は何処へ消えたかである。県政府の言い分は、最近農民の支払いが悪く、40万元の収入減となっている、という。
しかし、記者が調べた所、この県の経済状態は全国でも最高に恵まれた所。記者が訪れた何処の村も教育予算は完納しているという。 本来教育予算は農民の納税から一人当たり2%を集めて構成されている。しかしこの県は5%を集めている。しかも何処の村も、例え農民に完納が無くても、村政府の予算から上納しているという。有る関係者が教えてくれたところによると、各村からの上納金は全て受け取っているが、おそらく一部は他の予算に回され、一部は誰かの懐に入ったのだろうという。しかしこの説明はまだ証拠が挙がっていないし、党の正式の検査が始まってもいない。
 金額の幾らかは学校のトップに入っているはずだという説明もあった。しかし追求するとそれもハッキリとは言えないと言う。
記者が教育局事務室に行き、李某という人に尋ねたところ、「学校が区政府か県政府に返還したのでは」と言いかけて、急に「いや、これは私とは関係がないので、私は何も知らない」と逃げを打った。
 又別の教育局の担当者は記者を見ると不機嫌丸出しで、マスコミとは何の関係もないことだと言って記者に対し露骨に不快感を示し、このことを報道してはならないと、命令口調で言った。

 有る予感

 02年3/27日、賃金はついに支払われた。そして先生達はやっと1月遅れの正月を祝って賑やかな一日を過ごした。
 先生達は口々に「私達は初めて勝利を得ました。」と言う。
しかしその勝利は李尚平には持たされなかった。彼の妻はその時既に何か大きな不幸を予感したという。
 3/21日、テレビで学校関係の報道がされた翌々日、李尚平は日記に次の様なことを書いている。「密かに囁かれて居る噂が聞こえてきた。ある人が私が気に入らないらしい。私が邪魔だとか、少し虐めてやろうとか、或いは首にするとか、言われているらしい。」
「何か起これば私はその時は行政訴訟にでも訴えよう。先生達が何時も上から言われるままの人間である必要はない。皆と計って団結する必要があるかも知れない」
 このように李尚平は上からの圧力を受けても彼の意志を曲げようとはせず、常に前向きに考えを進めていたようだ。
 彼の妻の話では、李尚平は賃金が出た後も、大人しくなることなく、天引きされている食事代のことを追求する必要があると家で話していたそうだ。そのことが学校で再び緊張を生み出していたようだ。

 妻の記憶によると、今年の4月になって突然彼の気持ちに変化が表れ、すっかり落ち込んでいたらしい。
 その頃突然彼は妻に向かって「ある日俺が死ぬようなことがあったら、、、」と話し出したので妻が驚いて「一体どういうこと?」と尋ねたら彼は何も答えなかった。ただ「こんな話は両親にだけは話してはいけない。心配するから」と言うのだった。
 こんな夫婦の会話のあと直ぐ後悲劇が起こった。
 この事件の犯人についていろんな角度から噂が立った。しかしどれも彼とは無関係な噂ばかりだった。わざと違う方向へ庶民の興味を持っていこうとするかの噂が多かった。
 ただ公安局雷局長は誰が犯人であろうと必ず解決してみせると息巻いている。
 ただこの事件が他の地方の先生達にまで伝わり、恐怖の渦中に落とし込めている一方、省政府は財政から数億元を出して全県20幾つかの教師の賃金を払う準備をしている。
 李尚平の父親は「私の息子があの世でこの知らせを聞いてきっと喜んでいるでしょう」
と語っている。