農民に謝る気持ちを

 北京駐在記者 登科 南方週末 02/08/08
 
 2001年9月、「農民に謝る」という内部文書が陜西省の県幹部以上に配布され、多くの人がそれを見て涙を流した。
 この文書の作者は馬銀録という。陜西省白水県県委常任委員で組織部長である。2000年11月25日、白水県器休村で税金の納入を巡って数百名の農民と地元政府および当派出所間で衝突事件が発生した。
 2001年4/9、馬銀録は12人の工作組を連れてその村に入った。7/14に離村するまで96日間村に滞在。初めは村人に会うたび「この犬め」と罵声を浴びせられた。しかし離村に当たっては村人から卵やリンゴを送られる間柄に変わっていた。
 この90日の出来事を馬銀録は日記に記録し、農村での人間関係や血縁関係まで詳しく記録し、中国の基本組織である農村での現実と矛盾を、また農民の生活苦から、人間の善し悪しまで記録した。
 近日この記録が書として出版される。
 記者が馬銀録を訪れると、「農村を訪れるまで農民が何を考え政府に何を求めているか全く知らなかった。そこに現れている問題を幹部一人一人が自分のこととして理解して欲しい」と述べた。
 「私達は農民に対して心から謝るべきである。この申し訳ないという気持ちが有れば、農村問題の矛盾を解決する道が開けてくるだろう。11/25の衝突事件の解決もこの気持ちが先決だ」と述べた。
「農民に申し訳ない”というこの気持ちこそ、政治を司る者が先ず自覚すべき最初のとっかかりだ」とも言う。

 村へ入ると、何故農民はかくも恨むのか

 11/25事件について、新華社の報道はこう述べている。
”11/25、器休村で徴税幹部と農民とが衝突。その夜派出所警察は4人の農民を逮捕。数百人の農民がその知らせを聞いて地元政府を襲撃。また派出所にも押しかけ、逮捕された農民を連れ出した。こうして最悪な事件が発生。事件後、報復を恐れた農民達は翌年2月の正月になっても自宅へは戻っていない。
 各級幹部もその後この村には一歩も足を入れていない。その後何人かの派出所警察と地元政府幹部とが事件解決に村に向かったが、しかし村人の感情は激烈で、解決の糸口が見出せず村から引き上げた。”

訳注:新華社は事件後3ヶ月以上経って初めて報道した。
 
 このようにして、対立の続くまま、県常任委員で組織部長の馬銀録は上からの命令を受けてこの問題を解決するべくこの村に入ることになった。
 事件を穏便に解決するため、農民の感情を考えて、組織部の面々は車で村に行くことを止めて、一人一人手荷物を下げて、公営バスに乗って村に到着した。到着して直ぐに農民達は馬達に「コヤツ等は何者だ」「何処の犬だ」とののしる有様だった。
 馬銀録はこれを聞いて、何故こうも激しく我々を恨むのか、と不思議に思った。12人の工作組は事前の手配通り5軒の農家に分宿した。出発の前に工作組は自分の布団を持参し、食費は一人1日5元用意する。酒を飲まない、賭け事をしない、無責任なことは言わない、農民に親切にすることを約束し合った。
 夕食時に2人の工作組員が馬の家に来たので、彼が「食事が済んだのか」と尋ねると、「まだだ」という。「どうした」「宿の主の心が穏やかではなく、食事を作ってくれない」という。
 その内、他の工作組員達も続々やってきた。どの宿主も工作組員を疑っていて、「お前達は農民を逮捕しに来たんだろう」と言うとのこと。
 馬は言う。
「このような農民の疑問は今から思えばもっともなことだ。そこで、先ず農民の疑問を解かねばならないと考えた。我々が敵ではないことを知ってもらわねばならない。事件の根本的解決のために、問題は何処にあるのかを知りたいこと。これまでの幹部の態度の何処に問題があったのかを知りたいと、懸命に説明した。」
 馬ら工作組はこのようにして農民の考えを理解することが、10日から半月くらいは掛かることを覚悟してこの村にやって来た。
 ところが実際は96日に及んだのだ。

 農民の苦痛

 工作組の第一の仕事は農民を理解することであった。先ず馬銀録が思いもつかなかったと述べる事情とは、”農民の真に窮迫した生活”だった。馬が組織部長になる前は部隊に所属していた。彼はこれまでの報道から、農民の状態を裕福な生活をしていると考えていた。その後も農民と接触することは少なく、農民の実情を理解することはなかった。彼が泊まった農家は電気が20年前から来ていず、蝋燭暮らしである。農民は正にその日暮らしさえままならず、日々金を借りて生活していた。その金額たるや一度に1.2元で、それを明瞭に帳簿に記録しているのである。
 馬は言う。「私はそれらを見て心が激しく痛んだ。一度座れば立つ気が起こらず、一度歯を食いしばって膝を叩けば、それが止まらず、何度も我が身を恨んだ。自分が持っている金銭全てを彼等に差し上げても良いと考えたが、しかし、そんなことぐらいではこの窮状を解決するにはあまりにも現実離れしている」。
 村へ入って3日目、すなわち4/12早朝、工作組は合同会議を開き、これまでの経験を紹介し合った。組織部事務主任の楊永生が言うには「我々は制服を着ている。食費を出し、農家を訪問する。これは党の幹部のやり方だ。有る農民に言われたが、イタチを鶏に与えて正月を迎えるように、党は少し農民に与えて何か大きなものを農民から獲ろうとしているのではないか、と疑っている」と。
党の副書記長張新発は「今年リンゴの収穫が不作だ。有る若者は外へ臨時工として出かける用意をしている。出かけるに当たって、税収の時衝突した当人達が、我々に向かって攻撃をし掛けようと話していた。」
また副郷長の賀分政は「私は4軒訪問した。その内3戸は熱心に我々の到着を待っていたと言ってくれた。その農民が言うには、農村幹部は腹黒く、意地汚く、自分を押さえることが出来ない。したがって農民と話し合うことなんて先ず無い、と言う。また他の1軒は我々を信用しないと言う。ただ中央から来た人間だけが問題を解決できると話した。」

 こうして皆はそれぞれの体験を話した。たいていの農民は事件の犯人を逮捕し、税の取り立てに来たと思い、そのために農民をペテンに掛けようとしていると、こう農民は思っているようだった。 

 馬銀録は言う。「この会議後我々は直ぐに村民大会を開き、農民に我々の役目を説明し、村人の疑いを晴らし、お互いの誤解を晴らそうと言うことになった」と。

 村民大会 事件の解決へ

 村で大会が開かれた。会場の鉄門は錆びきっていた。会場は当日大掃除をして石灰で白線を引き会場を4つに分けた。11時、農民達は続々と到着した。4つの区分けに地域ごとに村人が入場した以外に、周囲に座る者、立ったままの者、壁の外にも内にも多くの農民が並んだ。
馬銀録はマイクで外部に立っている農民に対して中にはいるように呼びかけた。しかし、数人しか入ってこなかった。
 仕方ないのでそのまま馬銀録はマイクで話し始めた。

「門外にいる人達が中に入ってこないけれどそれも仕方ないでしょう。今回は自由参加です。今回は臨時大会で、開会前、有る人達はこの大会を開くべきでないと助言した。その理由は、この村には”雑談会”というものがあり、この2年間に8回この雑談会が開かれた。その一つで人身事故に発展しそうなことがあった。村の幹部が怒って煉瓦を投げつけ、身体には当たらなかったが窓ガラスが割れた。こういうことがあったので、今回もし誰かがその真似をして煉瓦を投げたら私、馬銀録が怪我をするかも知れないと心配した。しかしその心配は要りません。私達は同じ仲間です。だれも煉瓦を投げつけるようなことはないでしょう。
 さて私達が来た目的は、
 1.誰かを逮捕に来たのではありません。この数日村人の疑いの言葉を聞いています。ここではっきり皆さんに約束します。私達は誰をも逮捕しません。私達は逮捕権がありますが、理由も無しにその権利を実行することは有りません。もしそのような人が現れたら私も皆さんと一緒になって、そのような悪徳代官と闘いましょう。
2.私達の来た目的は中央・省・市の各委員会を代表し、農村の学習教育活動としてやってきました。我が党の村幹部の不健全な面とそのやり方のまずさと、規則を無視した行政態度、また経理の不明確、作風の不正などを実地に調べ学習するために来たのです。
3.私達は皆さんの意見を聞きに来たのです。県に対して、郷に対して、村の幹部に対して真の意見を聞かせて下さい。
3.私達は皆さんの悩みを解決するために来たのです。皆さんに如何なる悩み、または困難等があったら全て聞かせて下さい。解決できるものは最善を尽くし取り組みます。もし直ぐに解決困難な問題が有れば皆さんに相談の上、上部指導部にも訴え、解決を目指しましょう。

 以下私は世話になっている農家のことについて話をした。その家は村の西方にあり、一家の柱である主が胃腸病で、腕に傷をしていて、重労働が出来ない。主の妻の名前は葡萄という。夫婦の間には二人の子供が居る。上が小学5年生、下が3年生。昨日の午前その家にいたとき、夫婦がとても悲しんでいる姿を見つけた。入り口の戸は古くて腐りかけていて、鉄線で縛ってある。庭も部屋も小さく、食事は実につましい。現在7000元の借金がある。借金の内訳が詳細に記録して残されている。
 その中には1.2元の記録もしっかりと書かれている。子供を学校へやるお金が無く、登校できない。
 このような農民の家庭に、1999年11月23日夜、農村税金担当の幹部がやって来て、妻に向かって納税額が少ないと脅かし、彼女を殴り倒し、口が裂けて顔中血だらけになった。それだけではない。二人の幹部が来て家の門を針金で縛ってしまい、子供達が食事も出来なくなってしまった。もし我々の親や兄弟が殴られたなら、あるいは自分の家の戸を出入りできなくされたら、我々は一体どんな感情を持つだろうか。これを認めることが出来るだろうか。この様なことをさせている村の幹部達は一体何を管理していると言うのか。有る幹部は農民を殴るのを手助けしている。
 またある幹部はこのような悲惨な状況を見てあざ笑っている。このような党幹部は人間ではない。党員の資格はない。
 どうしてこのような悲惨な状況が発生するのだろうか、我々村の党に責任がある。党員自身にも責任がある。このような行動を誰がチェックしているのか。はっきりと大衆に謝らなければならない。厳重な処分を行わねばならない。農民を足蹴にする幹部を厳正に処理できるかどうか、今はそれを信じることが出来ないが。」

 馬がここまで話すと、会場に変化が現れた。村民自身が言うには、これまで会議で拍手が起こったことはなかった。しかし馬の話の途中5度も拍手が起こった。いつか演芸の専門家を呼んだこともあったが、そのときでさえ拍手が起こらなかった。
 工作組副組長は「私は会場のそこここで村人が泣いているのを見ました。私自身、馬が村人の妻が幹部に殴られた話をしたとき、涙が出てしまった」と語った。
 この会は村人の感情の動きに大きく作用して、以降工作組への気持ちが次第に和やかになっていくのがわかった。工作組は村人にとって”胡散臭い犬”ではなくなっていった。

 農村の矛盾は何故生まれるのか

 これらの調査を通じて工作組は次第にこの村の状況を理解できるようになっていった。
 まず最初に1998年後のことが明らかになってきた。この村での主要な産業はリンゴの生産である。1997年以前の状況は比較的良かった。それまでは県の10個の農業生産科目の中では最大の納税村となっていた。1997年後、リンゴの木の老化期に入り、また連続して干ばつが続き、市場価格が低迷し、農民の収入は大幅に落ち込んだ。有る家庭では子供を学校へやることが出来なくなり、有る家庭では借金をして税金を払うようになった。有る家庭では春になっても耕作に取り組めなかった。
 政府もこれを見て税率を下げた。しかしその下げ方は農民の落ち込みより遙かに少なかった。こうして矛盾は拡大した。農民は納める税の対策が無く、しかし執る方は冷酷だった。
 こうして幹部達は暴力を揮うようになった。当然農民との対立も現れた。この村の女性党員の白琴錦は「かって、景気の比較的良かった頃、村の1畝当たりの税額は600元だった。その頃は農民は進んで税を納めに来た。10日も有れば完済した。現在では税額は下がったが誰も納めに来ない。脅迫しても効果はない。これはどうしたことか。収入が無くて蓄えがないのです」と説明してくれた。
 しかし幹部達はこの状況を真剣に考えなかった。村の党支部書記の王玉田は馬に対し、「我々の党本部書記の***さんは全県の納税勧奨大会を開いて、決意表明しました。”3鉄政策を持って農民に対処する”と。それは1に農民の肝っ玉に鉄線を突き刺すこと、2に農民の顔に鉄線を叩きつけること、3に農民の手足を鉄線で縛っても税を取り立てること、この3鉄政策です。はじめ党の最高指導者は知らん顔をしていました。私はそれを聞いてなんだか恐ろしくなってきました。ところがそれが次第にその通りに実行されるようになったのです。幹部達は警察車に乗って村を廻り、村の端から端まで恫喝を始めたのです。子供達はその警察車が近づくと大声で泣き出しました。」と話してくれた。
 馬は「このような単純な恐喝方式は農民との間に摩擦を増やすばかりだった。そしてついに11/25事件を迎えるようになるのです」と言う。
 馬がこの村に来てから判ったのだが、農民側から故意に対立を作り出そうという人は一人もいなかった。
 農民は皆安全を求めており、それが有れば満足しているものなのだ。

 反省

 白水県県長の雷超武は工作組の報告書を見た後に「私はあの村でこのような問題が発生していることを全く知らなかった。聞いて本当に驚いた。気持ちが重い。県長として責任がある。昨年の派出所襲撃と村政府襲撃事件には主に7個の原因があると思っている。
 1.に社会の基本である農民を守る意識が薄弱である。2.に幹部の作風が乱暴である。3.に税額決定が不公平である。4.に農民の生活が困難である。5.に各種矛盾が交錯している。6.に農民にも情緒が浮ついているところがある。7.に幹部の状況認識が鈍くなっている。何故、税取り立ての幹部が農民を殴打するのか。自分の両親を打ち据えたりするだろうか。このように反省していかなければならない。」と話している。

 これに対し馬は「私達が農村に入り深く彼等とつき合い、大衆と語り合い、そして感じたのは問題は農民にではなく統治する側にあると言うことだった。」と言う。
 しかしそれまでの党幹部はこうは考えなかった。彼等は工作組の仕事を、農民を協力的にさせることだと期待していたらしい。

 さて工作組は一連の農村問題を提出した。リンゴの収穫が良好だった頃、器休村は70万元の税を10日で完納した。これを見れば農民が納税を嫌がっているのではない。出し渋っているのでもない。リンゴの収穫が下がってきて、自然災害も重なり、農民の収入は大幅に下落した。先ずこの事実を認める必要がある。
 このような困難な状況下で徴税行動が始まった。完全に納税させるために党は強硬な態度に出た。農民には彼等の意見を言う権利がないのだろうか。彼等の利益を守れなくなったとき、身体的な危険をさえ冒され始めた時、彼等は行動を起こした。ここで農民側にのみ責任を追求することが出来るだろうか。我々は現実から物事を考えなくてはならない。
本来は農民達の根本的な利益を守るのが党の任務ではなかったか。
 このような激しい衝突が起こってしまって、各種対策も討議され、郷の党では、農民が間違っており、幹部は正しい、と結論した。そのようなときに党幹部にとって「訳のわからない、胡散臭い工作組」が村へ入ったことになる。
 2001年5月26日、農村党本部最高責任者と徴税担当者7人の1行が村へ行き、事件に巻き込まれた農民達に向かって「申し訳ない」と謝罪した。
 馬は言う。
 「これは我々の党の質が高まったことを意味している。こうした気持ちが有れば農村の問題を解決することが出来る。農民の気持ちも静まるだろう。そうすれば耕作する気持ちになり、やがて納税も増えるだろう。」
 11/25事件に似たような事件処理が中国の各地でなされている。陜西省組織部長栗戦書は「農民は一つ問題にぶつかると、大きく悩む。そして怒る。それは幹部にもあることだ。問題が難しいと誰でも悩む。幹部の場合は自分の任務を忘れた場合大いに批判されるべきだ。そして大事なことは庶民が悪いのか幹部が悪いのか、これをしっかり理解しなければならない。」と言う。

 11/25事件後、器休村の数ある問題が出そろった。村の党組織が不健全であること。財政管理の混乱。農民と幹部との仲が極めて鋭く対立している。有る農民は油を幹部の家に来て門の廻りに撒いたりしている。また幹部のりんごの木を切ったり、幹部が刀を持ち出して農民に斬りつけたりしている。
 農村の問題は詰まるところ財政問題である。この数年器休村での財政帳簿付けは混乱している。有る村幹部が言うには農民に貸し付けた金は26万元に昇るという。またある幹部は党支部の判子が各種証明に必要なら先ず金を持ってこいと脅している。この印判が無ければ村では何も出来ない。村人はこれに対し大いに不満で、「幹部の家が銀行か、彼等は何故こうも多くの金を持っているのだ。彼等は村人に金を貸し付けていると言うが、その金が何故そんなに多く幹部の手にあるのだ」と疑問を呈している。

 当然農村問題を正規のルールに載せて解決するためには、先ずその貸し付け帳簿を明確にしなければならない。
 工作組はその貸し付け簿を10年前から順を追って調べ始めた。その項目を全て公にした。その仕事はいろいろな阻害があり大変な困難を伴った。しかしそのやり方は大衆の支持を得た。
 ある時馬が歯が痛くなって外へ出かけようとしたとき、一人の老人に「ちょっとお話したい」と、呼び止められた。そして彼の袖を引いて「我が家の嫁は飯を造るのが大変上手い。是非我が家へ来て下さい」と勧める。
 馬が「そうですか、有り難う」と言うと、その農民は「貴方が歯痛なら、嫁にご飯を軟らかめにしてもらおう。今仕事が忙しいならいつでも良いです。毎日即席麺だけでは飽きるでしょう。今の仕事も急がずゆっくりとお願いします」と続けるのだった。
 このような申し出を受けて馬は農民の支持が出来てきた以上今回の仕事は絶対上手く完成させねばと、考えた。
 こうして工作組は1991年以降で、村幹部21名の貸し出し簿を全て公開し、幹部達が村の財産を私有化している項目を洗い出した。それを見た村人達は拍手喝采をして歓声を上げて喜んだ。有る者は歌い出した。工作組の指導の下、新しい2個の党委員会が選び直された。
 工作組はこうして村に96日滞在し、7/14日離農することとなった。
 馬達が行李を詰めて離農しようとしたまさにその時、農民達は銅鑼と鐘を鳴らし、「人民の公僕、農民の友、百姓の心を知り、党を浄化し、民に変わって難を払う」等と書かれた錦の幟を掲げて送りにきた。中には椅子や草履や卵やリンゴなどを包んできた者もあった。
 後に馬はこのときを想いだして、「私達は
この壮大な歓迎を見て誰も泣き出した。私達だけではなく、村民も泣いた。私達は農民に送らなくて結構だと言ったが、農民達は私達の手を取って泣き、引き留めた。私達は何度も農民達に向かって頭を下げた。農民にこの暖かい送迎を感謝し、いつかまた会えるようにと挨拶しました。」

 馬が村に滞在した間、彼は20万字に及ぶ日記を書いた。彼等の仕事の過程と彼自身の気持ちを全て書いた。工作組の中央から来ていた副主任劉登高は自分たちの受け持った仕事で庶民達の比較的多くの満足を得られたこと、そしてこの馬の記録が感動的であると述べている。また、農村問題学習にとって、今回の工作が多くの成果を収め、農村の今後の発展にとっても大きな役割を果たすだろうと述べている。
    
昨年9月、馬銀録の日記「農民に申し訳ないという気持ちを」が印刷され陜西省の県クラスの幹部に渡された。またその後西北大学から「現代中国郷村治世と観察の研究書」として出版された。
 馬は「農民に申し訳ないと言う気持ち」は単に11/25事件のことだけではない、また青の村のことだけでもない、現在全中国の多くの農民がこの言葉を受ける権利を持っている。つまりそれだけ数多くの農民達が不公平な扱いを受けてきているのだ」と述べている。
 器休村でこの大きな事件が解決した後、農民達は8つの更に重大な問題を提案している。この問題については馬には回答の資格がない。
 農民達の提出した問題とは、”工作組が農村で学習したことを、上部の党は学習してくれたのだろうか。もし学習したのなら、現実に基づいて問題を解決するという精神で対処するなら、何故我々の過大な納税額を軽減できないのか。”

”あなた達都会に住む者は、道路を歩き、子供を学校に行かせるとき、道路補修税を払うだろうか。学校の先生に謝礼金を払うだろうか。農村でのこれら目的税は何時軽減されるのだろうか。私達農民があえぎあえぎ生きていくのではなく、もっと元気に働けるようになることをあなた方は願わないのだろうか。 農産品は現在下降を続けている。農薬や肥料、農機具などは上昇し続けている。これは誰の責任なのか。”

 これらの問題に対して馬銀録には答えることはできない。

訳者注:
この記事は中国の政治制度が良く解ります。
1.事件の報道は党が管理していること。
2.党が警察車を使用し、逮捕権を持って   いること。農民への暴行に当たっては書  面での許可証が不必要なこと。
3.村には住民の自治権がないこと。代表を  選べないこと。
4.腐敗した幹部を排除するには党中央に頼  るしかないこと。司法の独立がないこと。
  司法も党が管理。
5.税制度が法律で決まっていないこと。
6.最低税額減免制度がないこと。
7.学校の義務教育が行われていないこと。8.社会福祉制度が全くないこと。
9.農民から告発する権利と制度がないこと。  党との間で傷害事件が起きたとき、農民  からは何も要求できない。これは都会も  同じ。解決するのはいつも党から行う。
10.農民への損害賠償が払われていないこ  と。脅迫罪だけでも相当な金額ではない  か。その支払い責任は誰か。当然党でし  ょう。何故そのことに触れないのか。
11.党中央に、人口13億の内9億を占め  る農村を担当する責任者が居ない。
警察署と地元政府を襲撃するまで、中央  は無関心・無責任でいられる。農民の地  位向上を計画する政策が全くない。
  世界の他の国でこのような事件が起これ  ば、当然担当大臣または政府全体が辞職  です。
12.暴力を提案した最高責任者、県党本部  書記の***さんと言う表記。最も大事  な本事件該当責任者の名前だけが何故伏  せる必要があるのか。


 それから驚くのは、工作組の責任者が農民のことは何も知らなかったと言う、その認識。こういうことが、人口の8割が農民の国、中国であり得るのでしょうか?
(工作組とはその実、統治者であり、国の政治を預かる人間です。そのための教育と権利と待遇を受けている)
 例えばそんなことが日本にあるでしょうか。

 年間の納税額が70万元の村で、10年間に腐敗幹部が私有化した税が26万元。(この多くの部分は特別税として村道改善などに使われている)
 これから見ると、工作組が活躍して農民を喜ばせた話は、目くそ鼻くそのたぐいで、農民の生活向上にはほとんど影響しないでしょう。根本的なのは税制改善と、収穫向上の指導、国家の助成、農民を人間として扱うこと。これはまあ無理でしょうか。

 それから西北大学が馬の日記を出版したと言うこと。学術研究上有益だということでしようが、今更という気が私にはします。この50年、何を研究していたのか。

 人民日報の記事には「党は遅れた大衆を領導し、その利益を守る先頭に立って闘う」と書かれています。
この記事からは「え・マジに?」と問い直したいですね。
 本当は「党は大衆より遅れ腐敗した幹部を養い、その不当利益を守るために闘う」と書き直すべきではないでしょうか。