戸 籍 制 度 が彼の人生を激変
02/03/07 南方週末

 現在新聞やテレビで戸籍制度改革が叫ばれている。庶民にとって、とても嬉しいことだ。しかし46才の「黄慶」がこの記事を見るときの気持ちは別の想いで満たされる。
 ちょうど10年前、雲南省検察院政治部の国家幹部の一人であった彼は一つの文を書いた。それは戸籍制度の欠陥を指摘したものだった。そのお陰で彼は直ちに2年間、牢獄に放り込まれた。その罪名は「反革命宣伝煽動罪」である。
 それ以降彼の人生は変わってしまった。

 「反革命」の文

 2002年1月20日、黄慶は記者の前に座って静かに語り出した。彼の顔には、これまでの苦しみがその顔にしっかりと刻み込まれている。
 「わたしはあの文がこれほどまでに厳しい打撃を私にもたらすとは全く思いもつかなかった」

 「1991年、私の息子は小学校へ入学した。昆明市の戸籍制度に従って、子供の戸籍が市の西山区にあったので、学校は西山区へ届け出た。しかし私の職場は五華区にあり、私は子供も職場と同じ区域にしたいと届け出た。その手続きのために私は何度も足を運んだ。ずいぶんと多くの人に面会に出かけた。その結果得たものは、子供を一〇キロメートル離れた西山区へ遣るのが嫌なら、その代わり学費はかなり高くなります」と言うものだった。「こんな不合理なことがあるだろうか。私は理解に苦しんだ。何という不公平だろう。そう思って1991年12月19日、問題の手紙を書くことになった。それはただ市政府が不合理を改善してくれることを願ってのことだった。もちろんこれに関して、”反革命云々という気持ちは毛頭無かった。」

 彼の弁護士「賀忠」はその手紙を記者に見せてくれた。その手紙は文字がびっしりと書かれていて、約4千字、6,7ページに渡っている。その内容は、先ず昆明市の戸籍制度が現実に合わない不合理なもので、そのことが二つの区域の人々を相対立さえもしており、その結果治安上の観点が強調されて、余計に滑稽なくらいの戸籍制度になっている、と言う中身だった。

 1.20事件

 この手紙の中で、同市の般龍区と五華区の人たちは特権を享受している、と書いている。その特権とは、入学、転籍、進学、などで優遇されている。肉や卵などの食券は市のどの地域でも使用できるが、西山区や他の区などは他の地域では使用できない。学校での備品も両区では明らかに品質に差がある。更に上級入学試験の時も明らかに五華区と般龍区は他に比べ優先されている。これらが積もりつもって両区の学歴は歴然となり、結果として、両区市民の蓄えまで明確な開きが出ている。これを当局は如何考えていますか。五華区般龍区両区が市の官僚の上に立っているからですか、両区があなた方を虐めているのですか。
 激憤も混じった書き方で、「できたら次のような看板を両区に建てたら如何ですか。西山区民と犬は入るべからず」と文は結ばれている。
  黄慶は市の管理者に対し、彼等は簡単な理屈も解らなくなっていて、普通の言い方では理解してもらえないと考えたという。彼等政府のお役人は、西山区で仕事をさせ、そこに住まわせて初めて理解されるだろうと言う。 
 
 この手紙に彼は署名しなかった。直接雲南省の党委と昆明市の委員会、人民大会などの党委に届けた。同時にまた雲南市の国有企業の幾つかの党委および労組にも届けた。
 彼はこれら国有企業は中国一級の組織で、広大さ故に戸籍制度の弊害も解っていると考えたからである。これら企業向けのものに、「もし政府がこれを解決できないときは、企業側から政府に要請してもらえないか」と追書している。

 この手紙を届けた翌日、1991年11月20日、そのときの最高責任者が「特別重視すべき問題」との発言がなされた。「重視」とは、その中身ではなく、その”手紙の出し方について”と言うことであった。
 その日からその最高責任者の指導のもと、昆明市公安局は「11.20反革命事件」として行動を始めた。
 事件の真相解明は以外に早く目処がついた。その手紙の用紙が検察院のものなので、だいたいの見当がすぐつけられた。省全体が警戒に入る中、検察院の同僚の目は黄慶に注がれた。そしてこの天をもひっくり返す大胆な犯人は検察院政治部の国家幹部であることがハッキリした。
黄慶は逮捕され拘留された。彼はそのときの状況を、「あれは12月の6日、今でもハッキリと思い出す」と語っている。
「公安が私を縛り上げて外へ連れ出そうとしたとき、丁度そのとき子供が学校から帰ってきた。子供は私を見てたいそう吃驚した。しばらくはぽかんとして立ちつくしていた。声が出ず、私が連れ去られるのを黙って見送った」
  黄慶自身も事態が良く掴めていなかった。なに、たった一つの手紙の問題、自分の気持ちを話せば直ぐに釈放されるだろう、と思っていた。
 しかし事実は彼が考えたように簡単には終わらなかった。1991年12月16日、彼は”反革命宣伝煽動罪”として逮捕された。
 法律に詳しい彼は逮捕状に「嫌疑」と言う文字がないことに気づいていた。事件そのものは複雑なものではなかった。1992年3月29日、昆明市中級人民法院で判決が出た。 反革命宣伝煽動罪で刑期2年と宣告された。政治権利剥奪2年。
 
 判決に対し黄慶は不服を申し出た。彼はただ、党の上級組織が問題の存在を知ってほしかっただけであること。反革命の構成要素が何もないこと、と省の最高人民法院に訴えた。
 1992年8月14日、雲南省の最高法院は、彼が国家機関の構成員であり、法律を守る立場にあり、現在の戸籍制度を守るべき人間である。しかしこれを破り、工場の労働者を煽動し、ストライキを示唆し社会の安定を破壊しようとした。これは国家の犯罪を犯したことであり、反革命罪に相当する。よって下級判決を支持する。
 賀弁護士は「彼が煽動を計って世間を騒がそうとしたこと」という判決文に注目する。 そのときの党領導(最高指導者)の気持ちが、たまたま居所が悪かっただけではないか。後になって静かに考えれば、実際は彼が、戸籍上不公平な扱いを受けていることに不満を誰かにぶっつけようとしただけのことだ。根本的に「反革命罪」などに相当するはずがない。裁く側の政治判断の誤りにすぎない、と考えたと言う。
 「当時私はそのことを懸命に説得した。それは通らなかった。正に荒唐無稽とはこのことだ」
 不思議なことは、この事件が起こって直ぐ、雲南省検察院は職員とその子供、および似たような環境の家族を五華区に転籍させたのである。

 人生の転落

 検察院の幹部が国家反革命罪となってから、彼の人生はすっかり変わってしまった。
1993年1月16日、黄慶は刑期満了。出所の翌日、1月17日、彼は検察院の職を解かれた。彼にとってどうして生きていくか、目の前が灰色に変わってしまった。
 彼は「労働模範」家庭に生まれた。1970年、中学卒業後昆明の陶磁器工場に配属された。1977年工場の保守に転属。1982年工場党委の書記に抜擢。同年、成人大学試験にパス。西南政治法律学院入学。1985年卒業証書を得て、検察院政治部の文部秘書に従事。そのころの彼は順風満帆そのものであった。

 解雇されてからは、人々が後ろ指を指しているのが解り、どこへも出かける気になれず、家に引きこもっていた。”気持ちが押しつぶされそうになり”そして家族は食べるのに困るようになった。ある時彼は妻と口論し、薬を飲んで自殺を図ったが、何とか無事に済んだ。当時彼の妻は陶磁器の工場で働いており、収入は250元。もちろんそれだけでは食べていけない。彼は責任感の強い男であったので、必死になって職を探しに歩いた。彼の出来ることと言えば、法律と文章を書くことである。しかし「反革命」と言う罪名が誰をも近づけなくしていた。そんな彼を助けたのは同僚の幹部で、彼に露天商法を紹介ししてくれた。そこで彼は卸売り場で靴やお茶、お酒、陶磁器、お盆などを仕入れて、街々を売り歩いた。ある時は市政府の管理員に出くわし、逃げ回った。ある時は逃げ遅れて捕まったこともある。何度も頭を下げて終に罰金として10元を取られた。しかし翌日はまたすぐに同じように店を広げた。こうして、月に200元前後の収入が得られた。
 やがて露天の土地から追われて、次は別の街で店を広げた。彼は朝早くから夜遅くまで露天商を続けた。
 1995年、彼はビール売りの友達が出来、1996年建築材料の市場に酒類の店を出すことが出来、それ以降少し落ち着いた生活が送れるようになった。
 
 遅かった喜び

 彼の妻が言うには、自分は夫の「反革命罪」と言うことを聞いたとき、正に青天の霹靂であった。そんなことが信じられますか?と記者に話してくれた。私達は結婚して8年、もし彼がこれまでも私に何か隠して企んでいるとしたら、もうそれはすでに表に現れているでしょう。実際彼はこの間ずっと赤旗を守りその旗の下に、何をするにも実直そのものの生活でした。それが「反革命」などと、いったい誰が信じられますか。
 何とか夫を助けたい彼女は弁護士をいろいろと捜して回った。しかし誰も彼女の話を聞こうともしなかった。その道の専門家達に連絡してみたが返答はなかった。彼女はふて腐れるだけ。全く救いの道は閉ざされた。「この世は広いが、自分はあまりにも小さい。自分に出来ることは本当に何もない」。

 黄慶が職場追放となって、単位(職場)の社宅を出なければならない。しかし行く当ては中国は大きくても自分たちの住む所はどこにもなかった。厚かましくもここに粘るしか方法がなかった。ときどき家明け渡しの催促人が来たが、家族の皆が声を潜めて留守を装った。
 「そのときの気持ちは本当に辛く、いっそ死んでしまいたかった」と黄慶は回顧して顔をゆがめて語る。
 しかし遂にそこを追い出された。しばらく農民の家を借りた。やがて妻の工場の宿舎に移った。それが出来たのはその工場が倒産して、給料が出なくなってその保証として家が供給されたのだ。しかしテレビも冷蔵庫も洗濯機も何もなかった。ある時息子が床板を破損させてしまったが、修繕の費用がないので代わりの板を拾ってきてその上で子供は寝た。
 現在彼等一家は親戚の家に厄介になっている。本当に質素な生活を続けている。
 黄慶を知る人は、彼の最大の変化は心ではないかという。
 彼は毎朝ぼろの自転車に乗って街の反対側にある所まで出かける。この間彼は全く一言も話さない。生活に全く希望がない。今日一日が済めば、ああ、今日も生きていられた、と言う気持ちが持ち上がるだけである。これがかって法律の専門家としての彼の人生である。
 1998年、昆明市戸籍管理制度が緩やかになって、彼の子供が五華区に転籍となった。その戸籍を見ながら彼は、「ああ、ここで俺は喜ぶべきなのか、それとも大声で泣くべきなのか」と顔を曇らせている。
 彼は2002年になって、彼が提出した意見書は10年早かったと顔を湿らせている。

 
 訳者注

 黄慶は陶磁器の工場にいるとき妻と出会ったのでしょう。それで西山地区の戸籍です。その後彼は検察院に職場変更し、五華区に宿舎を貰いそこに移っています。以前の区の学校までは10キロ離れていると書いてあります。
 一つの単位は大きくて人口にして10万人を超えるものが普通です。学校も病院も何でも有ります。隣の単位と接するときは、道路に金網が張られています。
 その単位で生活の全てが行われます。単位で配られる食券はそこで有効です。
 建国時はこれが人類の究極の理想社会と考えられました。「飢えのない」社会です。
 しかし、この記事のようにそこを放り出されると生きていけなくなります。
 戸籍は基本的には計画経済を実行するために施行されました。
 昨年この制度が5年以内に全廃することが決定されました。
 一番喜んだのは人口の85パーセントを占める農民です。中国の1990年からの高度成長を支えたのは出稼ぎ農民です。しかし彼等は都市での戸籍がもらえず、公安に内緒で都市に出稼ぎに行きました。そのため都市での家賃は、公安に知らせないと言う約束で、家主から「ぼられ」ていました。
 ただし、全ては賄賂次第だそうで、都市住民の年間所得の5年間分ほどを公安に届ければ戸籍が買えるとのことです。

私が大連にいるとき、かごを抱えた人たちが、正に蜘蛛の子を散らすように全速力で逃げて行くのに何度か出会ったことがあります。そのおじさんやおばさん達は、建物の陰に隠れて公安の通り過ぎるのを待っていました。
 
 杭州にいるとき、両足のない人が夕方人出で満ちた道路に座り、自分の困窮の生活を地面に書いているのに出会いました。一文字一文字枠を書いて実に丁寧に綺麗にチョウクで書いていきます。そこへ公安が来て中止させましたが、でも罰金は取っていなかったと思います。やはり南の経済の発達したところは公安まで親切なんでしょうか。