懸命の「反腐敗活動」の夢と現実
    その2 
 南方週末 02/08/29

 何海生がリストに挙げた有る企業の責任者徐某と法官とがグルになって国家財産数千万元を懐にした嫌疑で調査が始まり、徐某は現在逃走中。
 更に彼がリストに挙げたもう一人、法官の妻で、弁護士から巻き上げた巨額の金が明らかになり、現在調査が始まった。
 海南省の司法関係で腐敗を続ける法官達は、何海生が悪魔のように思えてきた。既に逮捕された法官達も彼を激しく恨んでいるようだ。
 有る筋の複数の人間達が何海生に接触を始めた。ご機嫌は如何とか、食事をしましょうとか、何が欲しいですかとか、と言う風にすり寄ってきた。しかし何海生は全く取り合わなかった。
 
 馬昇の不正解明開始

 記者が採訪中解ったことだが、海南省高級人民法院審判委員で執行廷長の馬昇の悪事が暴露されたのは、何海生のリストが大きく貢献している。02年6/5日、馬昇の巨額財産の入手経路が怪しいということが解り、海南省規律委が動き出した。
 この件を解決することは、海南省司法界の腐敗を解明する上で重要な一つの砦を越えることを意味していた。
 有る弁護士は記者に対して「省の司法官がこの10数年何の問題も指摘されていないのは、逆に異常なことだ。今正に不正解明の突破口が開けられようとしている」と語った。
 これこそ何海生が生きている内に腐敗の根本として解明したかった問題の人物なのだ。
 93年以来、何度も馬昇の悪事が指摘されてきた。97年と99年、海南省規律委は馬昇を調査することを決定している。しかしそれは尻つぼみになって、静かに幕を閉じた。 馬昇の政界での権力が大きいことが、誰にも解る理由である。しかし司法界腐敗の大御所であることはこれではっきりした。
 この馬と何海生の事件に関係有る3人の法官は遠戚に当たる。
 何海生が手を尽くして調べた資料の腐敗証拠の中で、馬に関する悪事が一番多い。
 その資料の証言者達は、ここで馬の立件が成功しなければ今度は何海生が危険になると心配した。馬昇の方は自身の権威に掛けて各種手を尽くすだろう。
 何海生もそのことを理解し、苦悩し、彼の全力を傾けて調査に打ち込んだ。
李可芝(仮名)海南省政治協商会議常任委員は、馬昇が不正に巨額財産を取得した証人の一人である。それは彼女が馬と長年の間、内緒の親しい間柄でああり、馬が巨額の不正金を入手した経路を良く知っていたのである。
 そこで何海生は彼女に証言者になってくれるように何度も頼んだ。
 02年6/6日、馬昇の調査が始まって2日目、何海生は李可芝に「貴女は恐れることはない。私が彼を告発したのであり、私は決して恐れない」と電話を6度掛けた。
 彼女は何海生の熱心さに動かされたが、しかし馬昇の特殊な力、社会的な、を十分に知っていたので、なかなか同意を得られなかった。 
 しかし遂に何海生の熱意が彼女を動かし、記者との面会には応じることになった。
 それは雨の降っている日であった。何海生の顔は紅潮していた。「きっと司法院の腐敗分子どもを引きずり卸してやる」と意気込んでいた。
 何海生が李に対し懸命に励まそうとしていた。「馬を恐れることはない。彼はもう逮捕されたのも同然だ。巨額財産横領と不正裁判の2つの罪で徒刑は15年以上に達するだろう」と述べた。
 李はそれでも躊躇していた。「15年の後彼は私を殺すでしょう」と青くなっている。 何海生はびっくりしたような顔で「馬が一人では何も出来ないのです。今の身分があるからこそ悪事を働いているのです」と説明する。「もし15年後、かれが人を脅迫するのなら、当然私はその時も彼と闘いましょう」と一言一言力を込めて説得する。
 李は、このような物欲の世の中で、何海生の様な人は本当に珍しい、と感嘆している。
 こうして彼の説得によって李が証言に立つことが約束された。
 李と同じように、この件に証言する人達は誰も何海生の熱意に説得され、決意していく幾つもの努力、困難な過程があった。
 胡士宏、ある企業の社長は、馬昇のことはよく知っている人間で、馬に抱き込まれていたし、彼もそれを望んでいた。
 何海生が胡を探し当てたとき、それまで胡は「何も話してはならない」と馬に釘を刺されていたが、何度もの努力の結果遂に、「一緒にやりましょう」と言ってくれた。
 胡が決心したのは、自ら決心したのではなくて、何海生の熱意と正義を愛する気持ちに動かされたのだ。
 胡士宏が書いた「馬昇は一体誰のために裁判長をしているか」という告発書の中で、国有財産を788万元使い込んでいると証言している。
 これら証言と各種証拠書類が海南省規律委員会の手に渡された。こうして馬に関する証拠はそろい、馬に対する調査も核心に来た。 馬の「職種をおろそかにして来た」という現職認識から、「巨額財産横領」の段階に調査が進んだ。
 02年4月、証言会が行われた。そこでは何海生の「反腐敗の独演会」の様子であった。何海生は自己の訴訟については一言も言わず、全ての時間を使って腐敗と闘うことの重要性を熱弁した。その時彼はこう語っている。「後は司法官達が好きなようにやるが良いさ」と。
 当時馬はまだ現職で、何海生は大声で司法官達に対し「私の反腐敗の行動は始まったばかりで、今後何人かが職を去っていくでしょう」と自信を込めて語った。
 一人の法官が「それは誰のことだ」とびっくりして尋ねたが、何海生は答えなかった。
 6/6日になって、その意味が法官達にも明らかになった。質問した法官は電話で何海生に「先日の私の質問の答えが今出ました。私が馬昇を退職させることになります」と連絡してきた。
 何海生の事務室は反腐敗の指揮所になってきた。車の手配から、書類造り、連絡や手配全てがそこでされた。この行動に関係する人達に対し彼は出来る限りの財政援助もした。 ある時は事件の調査に、司法官側から資料を持って彼の自宅に協力を求めてきた。
 
 指揮者が倒れた後

 ここまで来て胡散臭い方法で何海生が倒れた。
 02年6/25日、午前3時、睡眠中の何海生が突然呼吸が苦しくなり、全身が痙攣を始め、脈が120を越えたとき、意識がなくなり、息絶えた。
 彼の死因について、公開された理由は「過労死」である。
 しかし誰もその死因を信じる人はいない。一人の海南省規律委幹部は、「何海生は現在社会の大きな中心人物で、反腐敗の根幹をなしている。彼の死は今後の反腐敗の活動を鎮めてしまうだろう」と、感想を述べている。
 最大の影響は証人達である。誰も心理的に大きく彼に頼っていた。彼の死を聞くと有る証人は故郷へ帰り、有る証人は沈黙を始めた。 有る司法官の収賄事件の証人段某は、何海生に頼まれカナダから帰国して香港まで来ていた。そして証言のために海南へ行こうとしたとき、彼の死を知り、直ぐにカナダへ戻ってしまった。
 もう一人楊某は、何海生に頼まれ長春から海南島まで来ていたが、何海生が死ぬと担当司法官から脅迫の電話を何度も受けた。その言い分は「貴様の口を下手なことに使うと、何海生と同じ運命だ」というものだった。
 何海生は何人かの複数の法官も動員していた。また馬昇を担当する弁護士も、彼等は全部何海生の疑問の死を聞いて、今後のことを考え恐怖に駆られ、協力を止めた。
 つまりこうして、裁かれる人達はこれ以降大いに祝いの酒盛りを始めたのである。 
 ある規律委の幹部の考えによると、海南省反腐敗の闘いはこうして出鼻をくじかれ、何海生の破竹の勢いはとどめを刺された、と分析し、このような状況は中国の将来にとって真に反省すべきことだという。

 民間での反腐敗の動き

 何海生が反腐敗の懸命の努力をしていたとき、商人の間でもその感化は大きかった。
 巨大な壁を前にして、さらに規律委員会の面々が明確に退却を始めたとき、商人達は何海生のあの反腐敗の意気込みを忘れなかった。
 ある人は何海生がここまで闘えたのは、肝が大きかったこと、彼の方に理があったこと、更に金も相当使えたことが上げられる、とした。
 風聞では、何海生は民間に反腐敗のセンターを設置し、そのための基金を募り、当然何海生も出すつもりでいた、の計画を持っていた。これまでは彼の企業がそのセンターの役割を果たしていた。そのためその会社はほとんど正常な生産は出来なかった。
 何海生は生前、反腐敗は経済的な基礎が必要です、と語っていた。
実際多くの人達が反腐敗の告発をやろうとした。しかし相手の大きさに飲み込まれ、見ただけで尻込みする状態がこれまでだった。そうして諦めていくのが普通だった。
 ある政府の幹部は何海生を評して、彼がやろうとしたのは自分のことではない、その敬虔さ、その熱心さ、正直さ、又子供のような天真爛漫さ、などを称賛に値すると称え、何海生が自分を犬ころと自称していたのを捉えて、彼は何時も相手を持ち上げていたと感心している。
 彼の友達は、反腐敗と商売は同じものではない、その道の専門家のすることで、これは下手をすると家族や関係者に大きな被害をもたらすかも知れないし、結果は失敗するだろうと警告していた。
 又ある人は何海生の反腐敗の動機は、彼の性格によるもので、別の言い方をすれば、大きな使命感、或いは栄誉感とも言える。それに誰もが認めるのが、一度やりかけたら止まらず、やり抜くという態度だった、と評している。
 ある法律の専門家は、彼は社会の公共事業の一部を請け負ったようなものだ。それに従うような運命を持っていたのかも知れない、と言う。
 何海生の反腐敗活動の間、母親はずっと、カナダに居た。母は彼の活動に一貫して反対していた。「お前は商人ですよ。反腐敗は個人の出来る範囲を超えていますよ」と諭した。
 国際電話で、何海生は母親に、今大きな成果を得つつあって、もう英雄扱いで、多くの人から敬服されているよ、と話していた。
 母はそんな話は聞きたくないと言って、電話を切ることが何度もあったという。
「お前は恐ろしくないのか?」と母が聞く。「恐ろしくなんか無いよ。俺には子孫が続くから」と息子は答えたのである。
 息子を止める者は誰も居なかった。もうほって置くより他になかった。
 家族団らんの最後は01年年末のことだ。彼はテーブルの上で、「俺の人生で自慢できることは2つある。一つはカナダと中国の2大陸の学生を育てたこと。もう一つは、反腐敗活動だ。中国の利益を俺は守っているのだ」と大声で話した。
 娘の何例励は父親が何か大きなことをして有名になったのを知っているが、でもそれが父にとって何であったのかは解らない。
 02年5/15日、何海生の4歳の息子が誕生日を迎えた。そしてその場で子供達はカナダへ戻る方がよいと考えた。
 「お父さんはある人(馬昇)が逮捕されるまで帰れないよ」と家族に話している。その時は永遠の別れになるなど思いも寄らなかった。
 8/24日、記者は海口の浜海大道公司の事務室(何海生の会社)に来た。
 そこは社員はもう誰も居ず空っぽだった。事務机や電話器の上は埃だらけ。夕闇が迫り何か異様な雰囲気を感じた。母親は何海生が残した告発書や証拠書類を整理しながらぶつぶつと独り言を言っている。「何海生がやったことは正しいことだったのだろうか」と。
 後ろの壁には何海生の写真があり、母を見つめていて、まだ生きているかのように見えた。

 訳者注:
 確か昨年の今頃、広東省のラジオ局が「中国の党は権力を国民に返還すべきだ」と放送しました。
もちろん放送局などのメディアは党が所有しています。そこがこんな放送するのはよほど腐敗が進んでいるのだろうと思いました。でもその時は中国内部がどれほど腐敗しているのか知らなかったので、ぴんと来ませんでした。
 でもこの記事を読むと誰もが驚きますね。私自身まだ信じられないよ。

 私自身の理解を紹介すると、2年前大連の新聞で「学校の先生が子供を内緒で二人産んだ嫌疑で、党に竹刀で叩き回されて気が狂った事件」を知ったときが、この種の党による社会的不正の最初でした。(私の日記に掲載) でもその時も実は半信半疑でした。
 これからどうなるのでしょうか。

 話は変わりますが、最近の日本での殺人事件で中国人が増えてきました。
 先日の新聞で当局の対談が有り、彼等犯人は中国へ帰ると牢内で半殺しに会うので、日本の獄に居た方がましだ、という記事がありました。
 早く国民を人間として扱う国に変わって欲しいですね。