良心に従って法廷を守ることの困難

 南方週末 02/12/05 郭国松

 02年11月14日、河北省炉龍県法廷。寒風の吹く中、一人の痩せた頭の髪も薄くなった老人が、かっての正式の法官としての服装で、開廷を待って入り口に並んでいる。
彼の名前は 賈(コ)庭潤と言う。彼はここで法官として10年間院長を務めてきたので周囲のことは全て知り尽くしている。
建物は変わらないが、しかしそこに現れる人間は変わった。今年からは、彼が上級組織から解職の命を受けてその職を去った。今日は普通の人間として彼の一生を変えてしまった裁判を見学に来ているのだ。
 良心を持って法廷を守ってきた法官が何故このような様に変わってしまったのか。
炉龍県の有るホテルの中で、彼は記者にこれまでの8年に渡る有る事件の様子を初めは感情を高ぶらせて、しかし次第に平静に戻って、事の顛末を語ってくれた。

 証拠のない大事件

 94年3月のある日、炉龍県の法院で、その後彼を苦しめることになった一つの事件を担当することになった。その名は「永平聯合社の代表姚(ヨウ)青山氏の汚職・公費流用事件」という。
 この企業は炉龍県では最大の大きさなので、「秦皇島日報」と言う新聞のトップを飾った。しかし実はこの事件は犯罪の要素を含まないとして、何度も検察院から調査を拒否されていた。
 賈庭潤は分厚い5巻の調査書を睨みながら、一方で永平聯合社の詳細調査を行った。そして解ったことは、この企業は集団企業の形を取っているが、その実は個人の寄せ集め株で出来たものである。代表の姚の身分は農民で汚職及び公金流用が当てはまらない。そこで裁判長の賈庭潤はこの件を無罪と決定した。そのことを県の党委員会に書面で報告した。

 賈庭潤は日記を開きながら、「95年の3/15日、有る党の最高指導者が賈の自宅に電話をしてきた」という。その電話では、「姚を無罪にするつもりか」と、明らかに嫌みたっぷりに幹部が語りかけてきて、貴様は自分が何をしようとしているか解って居るのか、と脅迫された。
それに対して裁判長の彼は法官の全員がこのことに賛成しており、私はそれに責任があると答えた。
こうして党と法廷とが正面衝突することになった。
 裁判長として彼は心穏やかになれなかった。それまでにも党との交渉の場があったが、いずれも単なる話し合いの形を取っていた。明確に意見衝突の形は初めてだった。
 翌日すぐに党と裁判所とが対立していることが広く噂になり、状況は一変した。多くの人が賈氏に電話をしてきて「ここは一つ貴方が折れた方がよい」と言う意見が続いた。
 ある時職場の仲間が「聞く所に寄ると君は今公務員として再評価の時だそうだよ。評価を落とさないように気をつけたまえ」と助言をしにきた。しかし賈裁判長はそのことをあまり気にとめなかった。
 95年3/15日から4月半ばの間に、賈は何度も党の方へ報告に出かけた。
 4/12日、賈が県の事務所へ出かけたとき、偶然県の党委員会常任委員に出会った。この常任委員が言うには、この事件は党幹部の間で「有罪にすることに決定された」と耳打ちされた。 
 これを聞いて賈裁判長は驚いた。正常な審議ではこの事件は有罪になり得ない。
こうして賈裁判長は以降この件が気になって眠れなくなった。いつも頭の中にこの案がとりついて、神経がおかしくなった。
 20世紀の60年代に北京政法学院を卒業した裁判長は記者に対して、「有罪の証拠無しに、しかも数人の裁判官全員が無罪と決定しているこの事件で、いったいこの私にどうしろと言うのでしょうか。その時私は50才でした。その前は公安局にも居ました。その後法廷の職務に回りました。
 それまで無実の人に罪を着せるなどと言うことはしたことがありません。しかし党は絶対です。私の良心は何処に置けばよいのでしょうか」と嘆く。

 秦皇島市中級法院の最高責任者と賈庭潤は古くからの友達である。彼が賈に対して「姚青山に3年ほどの刑を着けてしまえばどうかね、そうすればその内、党の指導者も交代するし、その時裁決のやり直しをすれば良いのではないか」と折れることを進める。
 
 私企業の責任者が睨まれる

 ではどうして党の指導者達は姚青山を嫌うのか。そのために正直な院長までもが今巻き添えになって苦しまなければならない。
事態の理解には80年代の農村での請負制度の改革に始まる。
 姚青山は炉龍県のそれまでは農業公社四街第四生産隊62戸の一人であった。それが改革で30戸と32戸とに分離された。そして共有財産も2.4万元と2.5万元に分けられた。それには各種機器や設備を含んでいる。
 現金を貰った30戸の方は各自に分配し、それぞれ独自に農業を始めた。
 32戸の方は共同で話し合いを持ち、各家庭から資本を出し合って、「永平紙箱会社」を設立した、株主代表に姚青山を選出した。
この企業は工夫を凝らし仕事の幅を広げ、総資産が2000万元に成長した。そしてついに県内では最大の企業になった。企業名も「永平聯合社」とし、姚氏は社長に就任した。 90年代になって県政府はこの企業に対し市の管轄下に入るよう説得を始めた。これ以降県と永平社との衝突が目立つようになった。92年6月、県政府は突然会計監査として企業に入り、党最高責任者の名前で「今後一切の企業活動の停止」を命令した。
 この突然の嵐に驚いた株主、32名の元農民達は必死になって対策を考えた。
 彼らは宣伝した。「我々の会社はこれまで製品不良を出したことはない。税を出し渋ったこともない。それなのに何故生産停止か」と。
 92年8月、県の会計検査局では会社を封印し、設備と機器にも封印を貼った。
 こうして前途洋々な企業の生産が停止させられた。
 県の検査局は「債権支払い能力無し」と公表した。
 93年6月、県長助役の嚇大民は永平社に対し現在の仕事を天津の造紙会社に回すよう命令した。そしてその依頼費として年間15万元払うことも命令した。
 姚青山は激怒した。当時彼らの企業は政府から一銭も支援を受けていない。それなのに何故天津の会社に仕事を回すようにしなければならないのか。2000万元の企業として毎年15万元を払うことはたいしたことではない。しかしその金額には明らかに政府へ回す賄賂代を含んでいる。「とても承伏できない」と姚青山氏は机を叩いて叫ぶ。
 2月後、姚青山氏は県の検察院から「汚職犯」として逮捕された。
 同時に県政府は企業局、工商局、検査局、法院、農業銀行などの責任者を集め県政府の決定を伝えた。「永平聯合は破産した」と。

 93年9月10日、県の法院も「破産」を宣告した。
 即、県政府として企業内の設備や機器の廉売を始めた。中には24万元の機器が2.4万元で売られた。
 印刷工場が全体で2万元で売られ、16台の車は使用禁止の紙が貼られ、暫くしてくず鉄として売り払われた。
 こうしてこの界隈の県下第一の企業があっという間に灰となり、煙のごとく消えてしまった。

 悪運降臨

 この様な大芝居の状況があって、賈に法院長としての仕事が回ってきたのだ。
そして賈院長は戻れない道、つまり正義の道を選んでしまった。
 94年5/19日、県の党委指導者が賈を呼びつけた。「永平社破産の事件を大至急始末すること。当該企業の債権を処理すること」。
 その場で賈は「この私企業の債権処理は法院の権限ではないこと、党委自ら処理をして欲しい」と主張した。しかし当然話し合いは成立しなかった。
 7月、県党委は賈の辞職を要求。公の仕事から手を引くように、と命令された。
 8月19日、関係部門が集まって賈法院長の解職を決定。
 8/23日、賈は法院を出て司法局の一職員となった。
 9/16日、秦皇島人民大会で賈法院長の解職理由が不十分と確認。
 この間、県の人民大会主任が、賈の解職は市の人民大会の権限ではないと反論。しかしこの主任も解職となった。
 このころ市と県の党委が集まって「賈の経済問題を調査する」として会合がもたれたが何も決まらず。
 
 賈が司法局の一職員に貶められてから、彼は「党員権2年間監察処分」となり、公務員としての身分が2階級下げられた。それまでの620元が350元になった。
 この処分は賈にとって随分応えた。「私はこれだけが頼りに生活しています。賃金が半分になりました。当時糖尿病や胆結石や腎機能不全などになっていて、病院通いに金が必要でした。でも支払う金が無くなり通院を止めました」と頭を下げて彼は苦痛を語る。
彼は関係部門に訴えてみた。しかし何の反応もなかった。
 賈が居なくなった法院は、姚会社代表に対し、「汚職、公金流用、拘禁罪」として、7年の刑を決定した。
 その後北京大成法律事務所の脱明忠氏の懸命の努力の結果、01年5/18日、秦皇島の中級法院は「事実が明確でなく、証拠不十分」として原判決を撤回し、再審となった。

 人為的な事件

 02年11月14日、県の法院で本件が再審された。この事件は既にもう10年になる。犯罪名は「買収、公金流用、拘禁罪」
 調査の結果89年姚青山は企業として購入したカラーテレビを数人に売り、1.3万元を取得。社長と副社長とで相談し、その内4400元を職員宿舎の録音機を買い、8600元を企業会計に繰り入れた。残り1.3万元が姚が個人用に使ったとされる。
公金流用については、88年に企業流動資金が不足して、職員給与支払い分から借用することにした。個人が必要と言えば随時支払う約束になっていた。
 ここから姚は1万元を借り90年6月には利息を含めて12450元になっていた。職員代表者会議が話し合って1万元を姚に提供すると決定。しかし姚は受け取らなかった。さらに姚は自分の賃金の未払い分が43285元有りこれを会社は姚の帳簿に振り込んだ。
 又姚は住宅購入資金として会計から15900元を借り帳簿に姚の借入金で有ることを記録した。これらは全て証拠があり、また証言者もいる。
 不法拘禁罪、これは民事事件があり既に解決済みとなっており、弁護士の話では、ここに再び持ち出す理由は全くないという。

 こうして弁護士脱明忠は姚の無罪を求めて懸命の弁護を行った。
 彼の説明では姚に関する金銭の出入りについては全て記録があり、いかなる犯罪にも匹敵しない、と語る。
 さらに重大なことは永平社の企業設立については農民が協力して設立したもので、そこに政府の援助は全く存在していない。
 ただ最初の登記の折り、「集合企業」とした名前が使われた。
訳注:これは国家が何割か資本参加したもの。
 
 しかしこれは歴史的に当時の状況がさせたもので、最高法院も国家工商総局なども明確にこの様な時代があったことを認めている。
 現在は誰が投資したかによって、その所有者が決められている。

 秦皇島工商局が市の人民大会への報告書に「永平聯合は名は集合となっているが、その実は個人のものである。代表の姚青山は現在も身分は農民である。汚職、公金流用の罪はあり得ない。」と書いている。

  審理が終わって弁護士は記者に対して、「これは極めて人為的で、司法制度の公金をあまりにも無駄に消費させる事件です。しかも前途有望な企業を倒産させてしまった。これはもう取り返しが付かない。本当に心の痛む事件です」と語ってくれた。
 記者は採訪が終わって、最後に「永平社」の跡を訪れた。
 至る所残骸の山。機器は錆または腐りきっている。
 獄の生活が長かった姚青山氏は既に足腰が立たない障害者となって、他人に三輪車を押して貰って現場にやってきた。この変わり果てた工場の光景を見ているうち、彼はすすり泣きを初め、やがて大声で泣き出した。
 賈庭潤氏は古い上着を引っかけ、ただ黙ってこれらの光景を眺めている。    

 訳者注:
 河北省 省都は石家荘。北に北京と接している。天津とも近い。

 この事件が物語る悲惨さの原因は、中国では裁判所が独立して居ず、党の下部機関であることです。党は憲法に全ての法規の上位に位置すると記されています。
言い直せば独裁と言うことが明記されています。
 そのため人生を左右する重大な審判を事実を調査することなく、上級の意志で決定することが常時行われています。
 これまでの翻訳でも明らかになったことは、法院関係者が中学卒の学歴者が多いこと。中には学校を出ていない人も居ました。有る記事ではヤクザもいました。
 この記事の賈氏のように法律の専門学校卒が少ないことは、党が裁判の権限を制限し、その役割を軽視している事を示しています。
 学校の先生達が学歴が高いので罪をなすりつけられた事件も有りました。
無罪の人に罪をなすりつける事件は何件も翻訳しました。
 昨年2002年から法院関係者は国家統一試験を受けることになり、実施されましたが、しかし及第した人があまり出なかったことも翻訳しました。この制度は外国を真似たものです。或いは外国の批判をそらすためです。
しかし法官の知識と教養が高くなっても、その地位が低く、独立していなければ、意味がないと思います。
 党の最高責任者(領導と言います)は税金を増やすことよりも、直接の賄賂が欲しいのです。何という低級悪質な人達でしょう。
 こうして農民達が苦心の末作り出した優良企業が潰されました。姚氏は何故10年の獄中生活で足腰の立たない障害者になったのでしょうか。
 こんな事を許していて中国の将来が有るのでしょうか。
 私の感想 ああ無情 !