富士山麓の村を他山の石に
 南方週末 02/06/07 張煥利

 休息場所として有名な富士山北麓、水も豊かに横たわる山中湖、山有り水有り、周囲の豊かな樹影が気持ちを和める。
 日本では行政単位は1都2府43県と区分けされ、その下に3200余の市町村がある。その区分けは中国とほぼ同様。その区分けから見ると日本の「村」は中国の「郷」に相当する。
 山中湖村は約2000戸の家と6000余の人口を抱える。村としては最も小さいものである。形は小さくとも区役所には一通りの担当部門が作られている。総務課、税務課、住民課、計画課、建設課、水道課、産業振興課、福利健康課、環境衛生課、観光課、教育委員会、議会事務局など。村長は高村朝次。50才を少し超えたところ。言葉穏やかに語る様はどこかの大学教授風だ。

 日本では村長は選挙で選ばれ、任期は4年。順列第2位は副村長。第3位は出納長。しかしこの2人は公務員で選挙で選ばれるのではない。山中湖村ではこの村独特の課も設けられている。水道課、観光課など。村長だけが自分の部屋を持ち、他の人達は共通の大部屋で仕事をする。副村長と出納長の机は大部屋の一角に置かれている。その机の隣は資料室で、新聞などもここにあり、住民が閲覧している。
 高村村長は、「昔と違って、ここは現在では有名な観光地となっている。しかし50年前のここは住む人も少なく貧しい所だった、と言う。
 富士山は円錐形の休火山で、山中湖村は海抜1000メートル。1年を通して気温はやや低く、農作物に適した時期は短く、この土壌に含まれる灰のお陰で、農業には適していない。以前村として、村民に養蚕業を奨励したこともある。その後450ヘクタールの山地を解放し材木伐採、炭焼き、村以外への材木販売などでやってきたが、しかし自給自足には至らなかった。
 戦後日本経済の発展に連れて、山中湖村に道路が敷かれ、東京大阪など大都市との協力関係を結び、また機転の利く人が出て、経済会が作られ、村の向上が図られてきた。そして外部にここの風光明媚な環境を大いに宣伝し、この環境に適した種々の仕事が生まれ、次第に仕事と収入の道が生まれ、村も豊かになってきた。
 山中湖村の夏の平均気温は約20度。最高気温でさえ30度は超えない。かってはこの低温故に作物には適していなかったことが、この村を貧しくしていた最大の原因。
 現在ではこの低温故に有利な条件となり、伐採を押さえ、自然環境を保護することで、樹影を増やし、白鳥や鴨なども飛来し、避暑を目指した観光旅館が増え、観光避暑、休暇、あるいは土地を貸し出し別荘としての利用が増え、この別荘は3800戸を超し、県外からの企業や個人或いは政府やその他多くの団体等が建てた休養施設が1000棟を超える。この数年休暇村としての期待が高まり、現在30棟の休養施設が建設中である。

 村長高村は毎日出社後各課へ廻り、仕事の様子を聞いて廻り、あるいは新しい要求を探し、村議会の面々と談論して意見を聞いている。彼は村の住民一人一人を大事にし、彼等の要求こそ最も大事だと自覚している。こうして村としての問題が何処にあるかを探し出せると考えている。また、他の町や村からの情報も注意し、時には経済や新科学技術の専門家を招いて指導を仰いでいる。
 記者が今後の一層の発展について尋ねると、村長は、「山中湖村は春が来るのが遅く、冬が来るのが早い。これに目をつけて、一年を通じて冬でも遊びに来れる、美しい大花園を作ることを考えている」と語った。

 訳者注:
 これは日本の新聞記事ではありません。何事もないかのようなこの記事。あえて中国の記者が取り上げた記事。「他山の石に」というその意図は何処にあるのでしょうか。
 もう一つの翻訳「街へ出る幹部」と関係しているようですね。この「街へ出る」記事には中国の幹部達の生き様が実に上手く登場していますね。一言で言えば権力があるけれど、自分からは何もしない、という官僚体質が。
 これがつい最近までの中国全体(98%)の姿だったのです。(現在公務員は3割)
 それに比べ、山中湖の記事で最も力を入れて書いているのは村長の「自主的な姿勢」であることが解ると思います。

 1980年代後半、ソ連では炭坑や鉄道での大規模災害が連続しました。また中央計画経済局の巨大な倉庫には全国から集められた製品の4割が再分配されないで積まれていて、これらに対しゴルバチョフがテレビの画面で「又公務員の怠慢だ」と怒鳴っていました。
 このとき私自身について言うと「公務員の怠慢」と言う言葉の意味をあまりにも軽く捉えていました。何百人に一人の問題だろうと。ところが約10年して中国に行き、公務員の傲慢にして怠慢な態度がそれが社会主義国では一般的なのだと言うことを知りました。
 ゴルバチョフは、あのとき国家の崩壊を予想していたんだと悟り、ゴルバチョフの顔が鮮明に蘇りました。
 彼は「ペレストロイカ」に国家の再建をかけていたのですね。
 でも彼は大衆に権限を戻すことはせず、国家は崩壊しました。

 1999年、アメリカの大統領クリントン夫人が北京の百貨店で、売り娘が釣り銭を遠くから投げて、そのまま向こうへ行ってしまう姿に会いました。これが全世界に報道されましたが、でもこれの意味するところを理解した人はどれだけ居たでしょうか。
 また北京に長く住んでいた人の話では、例えば肉屋へ行きウインドーの中に商品がないので店員に「この品物は何時来るの」と聞いたら、「私は公務員で肉とは関係ないでしょう」と突っ慳貪に言って向こうへ行ってしまう姿が1995年頃まで続いたそうです。

 昨年暮れNHKで「ソ連崩壊から10年」を報道しました。それによると、崩壊後5年から8年して初めてモスクワの商店に品物が揃ったとのことでした。中国では1979年の改革後、農民の自主的生産を認めた直後半年で、全国のどの店にも農産物が並んだそうです。1982年には万元戸も現れています。
 
 キューバも1994年に土地の自由使用を認めた直後商店に農産物が並んでいます。
 私は1993年末のキュ−バで、何もない店の前に配給券を持って並んでいる長い行列をこの目で見ました。
 私が見た頃はキューバではまだ全て党が指導していて、農民も公務員も言われることしか手を出さなかったのだと思います。
 上述のNHKで、穀倉地帯と言われるウクライナの、1998年の映像でしたが、農民の姿が映りました。「給料が出ないよう。機械が壊れたよう」と言って、何もしない農民達の姿が有りました。壁崩壊から8年も経っているのに。
 これから想像すると、あの壁崩壊の時「自由だ」と言って驚喜した多くの大衆、実は彼等も毎日の職場では「傲慢にして怠慢な」公務員で、自分からは何もしなかったのではないでしょうか。

 でも中国について言えば、私は崩壊はないと思います。
 日常の生活必要品は党と関係なく生産されています。また昨年WHOに加盟しました。その結果世界中の人と中国の大衆が直接取引を行います。これはもう、幹部の言うがままと言うことはあり得ないでしょう。