副省長”仏”に頼る
01/11/08 南方週末 

 河北副省長仏に頼る内幕 記者 馬彦軍

 2000年6月23日晩。北京ではちょっとした名の通った女気功師、殷風珍。その家の仏の前で今懸命に頭を下げて拝んでいる1人の男。気功師が彼にどうしたのか尋ねると、その男は弱り切った顔をして「中央委員会がわしに説明を求めてきた」と語り出した。
殷は”中央委員会”とは何かわからないので「貴方が省長に出世するのでしょう」と尋ねると、男はさらに苦しい顔になって「いや、中央委員会が私を調査すると言い出した。お金のことは何も私は関係ない、と聞かれたら言ってくれ。ただ250万元は李という奴の金なんだ。もしおまえが尋ねられたら、その金は李に借りたものだといってくれ」

 この男は河北省の常任委員で、副省長の縦福罫という。4日後、彼は中共中央規律委に呼ばれ審議開始となった。これは党の新聞にも発表された。国務院も関係して、調査し、縦は党籍剥奪、公職追放、司法機関で処理を任せることになった。

 ある工場の技術者から出発して、確実に1歩ずつ上り詰めてきた副省長。いったいどうしてこのような道に外れたことをしたのか。仏に師事するような、善事を求めるようなその外形は、本当は賄賂をごまかすための見せかけにすぎなかったのか。

 アモイ不正事件

 2000年5月、中央検査委員会はアモイの不正事件からの報告として、一つの秘密報告書を上訴した。その中に嫌疑人として香港のある公司の社長で名は縦と言うのが贈賄罪で検挙。それに関係して縦福罫の罪は賄賂取得で25万米ドルと、それ以外に大量の中国人民元の横領の容疑であった。
 この報告が中央に重大事件との自覚をもたらし、2000年5月19日中央は即刻検査委を現地に派遣。アモイが事件の核心にあると見られた。
 公司の社長の縦から副省長縦に送られた金銭の詳細はなかなか実態が明るみに出なかった。
 相手が副省長ということもあって、検査自体困難を極めた。明確な証拠をさらに詳しく調べる必要が中央に報告された。

 5月25日、検査組は香港に飛びその地の高温に耐えながら検査を進め、公司の縦の妻からも情報と、および公司の従業員からの話から確証を得て、ついに副省長の商品購入カード類および銀行通帳に記録が残っているのをつかんだ。
 検査組が記した「縦福罫に関する報告書」6/24、中央規律委が検討して中央に上げた。
6/25、中央領導が確認してこの事件は確定。
6/27、当時入院中の規律委書記が自ら石家荘に出向いた。
 その日の午後は河北省党委は関係者が集まり、縦福罫とその秘書徐勇の逮捕手続きをとった。
 
手強い相手

 検査員を前にして縦福罫は静かに落ちついており、自らは何も語らなかった。検査組が証拠書類を提出する段階になっても、自分は潔癖だと言い張った。「どっかの幹部のように親族に特別待遇を与えたり娘の入学に利便を与えたり、息子に就職の便宜を与えたりした」ことはないと主張した。しかも彼は、自分の息子は現在になってもまだ就職できず毎日仕事を探して彷徨く有様だと強調した。
 近所の人の話では、彼はもと黒竜江省に住んでいた。仕事の関係で河北にきた。小さい息子が尋ねてきても会おうともしなかった。妻は病気がちで、職場の人の薦めで1年前に会いに行ったが、一目見て「大丈夫だろう」と言っただけで直ぐに河北に戻ってしまった。その間10分間も無かった。

 実際中央規律委は縦福罫に関してどんな情報も入手していなかった。仕事に対する態度は全て報告が上がらないようになっていた。検査組は何度か彼に報告書を要求したが、彼の回答書には仏教用語が羅列されているだけ。「道理のまま。はらみた。はら僧みた。菩薩様」
 このような言葉がいつも書類に充満していた。このような言葉が13回も繰り返されていたのである。これは許しを求め災難が来ないように願う仏教用語である。
 7月2日、ある資料の中に検査組はいかにも奇妙な姿をした女性と縦福罫が非常に仲睦まじくもたれ合っている写真を発見した。それは先述の殷という女大師であった。
 この写真を当人に見せると、縦福罫は最初少しバツが悪そうな顔色であったが、すぐにその女性とは何の関係もないと否定した。酒の上での失態と弁解した。この証拠を握って検査組は彼を副省長の椅子から追放する最初の一撃を与えることができた。この後香港の縦氏が彼に与えた種々の賄賂を、会計書類その他から、実態を探し出すことができた。物的収賄額は5.2万元に及んだ。こうして彼の有罪は確定的となった。この後更に一層の追求が続く。

 升官は何故不可能であったか

 彼のこれまでの出世街道は極めて順調であった。順風満帆と言えた。1942年生まれで1968年就職。1983年から1995年まで歴任市副書記。同市長。市委員会書記。副省長。1995年6月河北省党委常任委、同副省長。
 率直に言えば、党歴20年の老党員である。昨日までは確かに努力家の党員であった。検査委員によると、彼が河北省に来た頃そこのホテルに宿泊していた。仕事は連日深夜に及んだ。宿舎があてがわれた後も宿舎へ仕事の書類を持って帰るほどの熱心な仕事人間であった。
 しかし地位が上がるとそれが次第に変わってきた。自分の仕事量を次第に減らし、私利私欲が目立つようになり、1997年、付近の人に、もうこれ以上の出世はたぶん不可能だと公言するようになった。これ以降急速に態度応変。意欲無く、他人に冷たく、小言を言うのが目立つようになった。「もう今は上に良い人もいない。現在の党は駄目だ」とぼやくことが目立った。「このままのんびりして無理をしないように、その処世の気持ちが大事だ」と不満不平を漏らすことが多くなった。こうして仕事の態度は消極的になり、理想を持つ態度は消えていった。

 女大師出現

 縦福罫がむなしい日々と感じる頃が続いているとき、そこへ殷風珍という女大師が現れた。今年46歳の殷は吉林省の農村出で、小学卒であった。彼女は気功を少し習い、また按摩も習い、最後に予言者と称し病人を扱うようになった。1993年に北京に来て自分を「大師」「大仙」などと語り、活動を始めた。人目に目立つ行動をとり、あちこちで語りを行い、病人を診るといった幟を立て人から銭を取り始めた。
 1996年ある紹介があって縦福罫と知り会った。縦は殷が病気を治すと聞いて、しばしば北京にまで足を運び、やがて彼女の神通力を信じ、仏の御旗の力を崇め、自らも暇があればその道に精進し、やがて二人は意気投合した。縦は殷に向かって「私は子供の頃から貴女のような人に会う運命を持っていた。これは良い巡り合わせだ。治病にも良い。仏への帰依も心がけ、貴女と一緒に仏の名を唱えよう」と常に語るようになった。
 1998年から縦は中国全体の仏を求めて巡礼を始め、春節(正月)には家に帰らないことが続いた。お寺で宿泊していたようだ。1997年の末には殷の紹介で北京のお寺に住み込み、「妙全」という法名を貰っている。
 その名の意味は知識が広く、性格円満と言うことだ。このころには縦は完全に仏に縋りついていて、自己の政治生命も「大師」の予言によって「偉大な仏」になれると信じていた。
 しかし、彼は本当に敬虔な仏教の信徒になったのか。
 まず表面から見ると、彼の自宅および北京の事務所には仏らしい像は一つもない。布団のシーツの下に赤い布を敷き、縁には黄色の綾取りがつけられている。その綾には銅銭が縫いつけられていて、枕にはお守りやお呪いがあった。
 政治信念を捨てた彼は、仏の利用の大事な側面をよく知っていた。”お金を貯めること”である。賄賂を集めては「仏へ納める」と慈善面をしていた。

 仏の名を借りて蓄財開始

 縦の検査が始まると、一番問題となったのが、彼が作成した「偉大な仏」という名の幟であった。この旗で金集めを盛んに行っていたのである。この幟について、各企業の社長たちは疑いなく信じていた訳ではない。
 しかしその裏にある副省長という名の権威に押されて何も抵抗できなかったのである。
 ある小企業の店主、名は王という人は、殷大師に「今1つのお寺を建立したい。是非協力して貰いたい。そのために1000万元提供してほしい」と言われた。そう言われて王氏は仏を大事にすることにやぶさかではないとは思ったが、それは大金であった。しかし横には縦が居て、お寺の建立は徳の善行だ、きっとその報いは現れて、家族も企業も皆福を授かるだろうと催促された。もう出来るかぎりのことをせざるを得ないという気になった。
 こうして非常に多くの企業主が縦と殷の説得攻撃に遭い、お布施を出した。これらは全て2人のポケットに入った。彼ら企業主は、2人の要求を断るとどうなるか、常に考えざるを得なかった。その省では仕事が出来なくなるに違いなかった。
 香港の社長縦は副省長に要求されたとき、相手の権力の大きさを想い計るだけで震えが来た。縦福罫から種々の物資購入の要求を受けたとき、この命令を聞かなければ、香港でも河北でも仕事が出来ないことを知った。彼が河北に投資している財産が全て消えるのではないかと心配した。
 こうして極めて短期間に縦福罫は1700万元以上を手中に収めた。

 注意深い指導者

 高級指導幹部となって、縦福罫はもちろん法律のことは充分熟知していた。収賄に当たっては必ず持参金者を接待し、その場で「帳簿上の処理を巧くお願いしますよ。絶対にしっぽを捕まれないようにね」と念を押した。
 例を挙げると、香港の企業家が25万米ドルを提供したとき、金の振り込みは省外から行うように要求した。振り込みを確かめた後になって接待に誘って、繰り返し帳簿上の問題はないかと尋ね、また絶対に口外はすまいと迫った。つまり副省長は悪事を働いていることを知っていたのである。

 収賄金額が巨大となって彼は多数の企業の帳簿を借りて金をふりまくことを考えた。1998年、彼は殷とその兄、殷風軍と計って北京に会社を設立。表向きの所有者は殷にした。彼が集めた収賄金をこの企業の帳簿に振り当てた。お陰で彼自身の口座が軽くなって、その収賄意欲は一層高まることとなった。
 まさにこれらの事実が暴露される段になって、2000年6月23日、彼は殷に泣きこんで、「俺は金のことは何も関係ない。250万元という金は李という人間に借りたものだ」と言い含めた。また「その他の名前の金は全て仏への献金だ」とも強調した。
 そして確かに殷はその夜の取り調べに対し「李と名乗る人から会社設立について依頼されてこの金を預かっている」と釈明している。
 
 縦福罫はこれまで何故捕まらなかったか

 彼の不正行為は決して永久に秘密のものでは無かった。2000年6月、彼は中央委定例行事のダブルチェックに引っかかった。
 しかしその直前まで、河北省の教育工作では堂々と自己の人生観・世界観を清廉潔白だとブチ上げている。「党内反腐敗の大闘争」に積極的に参加を呼びかけている。ここに彼の両面性が現れている。そして党の「日常教育」というものの良い加減さが見て取れる。 自己の不正を暴かれないために、自分一人だけ天馬空を行くがごとく振る舞い、思い通り何でもやれると自信を持っていた。運転手に甥を雇って北京と石家荘の間を飛び回っていた。
 個人の権力に制限がないと直ぐに腐敗が始まる。縦福罫が堕落に落ちはじめると、自己の思想も大事だったが、しかし彼の持てる権力は絶大であった。彼の周りの、行政から、企業管理から、市場管理から、これら全て彼の掌中にあった。
 贈賄で逮捕されたのは6名の企業家。李と名乗る企業主は「もし私の企業が河北省に無ければ、彼に献金する必要はなかった」と述懐している。
 しかし実のところ、このようなやり方は市場経済の規則から見ても違反であるだけでなく、彼はそのとき企業監督の権限がなかったのである。
 ただ、省の常務委員という肩書きが効いている。彼はその職務で計画・経済・財政など重要な部門を担当していた。彼はこれを充分に悪用した。縦という香港企業家は「私は彼と私的な交際は全く有りません」と答えている。ただ彼が一言話せば、他の人が百万言話す以上に効果があった」と語っている。 
 このような高度な権力を使って彼はやりたいように振る舞った。従って、今後、腐敗を防ぐ有効な制度上の対策が顕要ではないか。

  縦福罫の収賄贈賄の事実

 検査が進んで1996年3月から、受け取った金は1415万元。34万香港元。5.2万元の物品。計約1700万元。
 1997年、深浅(土偏の川)の企業社長王氏は縦福罫の協力認知を得て、自動車排気ガス浄化処理装置の会社を設立した。
 1996年春節の前、縦と殷はお寺を建てる名目で8万米ドルを王に要求した。
1996年末、また王に対してお寺へのお布施を要求。このときの金は130万元。
1997年夏、北戴河での仕事中、個人企業主の李氏に対し50万元を要求。1997年李氏が払おうとしたとき、縦の方が忙しかったので、後になって北戴河の党指導者に電話をかけ、金の完全な支払いを頼んでいる。
1998年末、北京のメヂアという所で別の李氏にお寺建設費150万元を要求。このときは何度も催促の電話を自らかけ、李は2年間をかけて完済した。
 200年2月、また別の李氏に仏像制作費として300万元を要求。これは2回払いで受け取っている。
 この同じような方法で、ある副社長から80万元を受け取っている。
1997年国際信託投資会社から、その経営上の相談に乗り、はじめは50万元を受け取り、しばらくしてまた要求し、追加の50万元を受け取っている。この件はその社長がたまたま副省長の事務室に現れたのを捕まえて、25万元を再び要求している。これは現金払いであることを念を入れて催促されている。
1998年には、有限会社の銀行からの借入金保証人となって、その見返りに7000万元を献金させている。
 2000年1月、縦福罫は北京で会議があったとき、前記の李に金を催促。李はそのころ金が不足していた。縦福罫は李に「君は最近3000万という大金を動かして居るではないか。これくらいの金は何とかなるだろう」
と要求し、李の会社に自ら出かけて催促。「こんなに手間をとらせるなら、こちらにも考えがある。俺が銀行に一声かければ君の口座は全てご破算だぞ」と恐喝している。
河北省の建築会社の劉という人は縦福罫の援助で工事可能な届けを拡大したとき、彼から50万元要求され、やや後に支払っている。

 
 訳者注

 中国ではこのような収賄事件が頻発します。そこには党の権限が莫大で、これは外国人には理解しがたいものがあります。
 中国は法治国家ではありません。
憲法の最初に、全てを党が指導すると書かれています。法の上に党が存在します。
 実際建国後20年ほどは簡単な法律だけでやってこれたようです。それは生産の全てを国民計画経済局が指導計画していて、毎日の仕事の場で党が指導するという形をとってきました。また消費部面では職場(単位)が住居と配給券を支給します。
 そのころは人々の生活範囲は極めて限られた小さなものでした。しかし文革後、土地の自由化が施行されると、一般国民が生産から販売まで自主的に行動するようになって、その活動範囲が今までとは比較できないほど飛躍的に拡大しました。
 そこで法律の必要性が議論され、1980年代から各種法律整備が開始され、1997年には法治国家を目指すことが、全人民大会で確認されました。
 2001年末WTO に入り、5年以内に商法や所有権法など1000の部門で1万条の法律が作成されつつあります。

 この記事に登場する「党内反腐敗の大闘争」
による幹部の死刑が昨年末、刑確定後即大量に行われました。それは法律ではなく党の権力行使です。
 これに対しアムネスティほかの世界の人権団体が法に基づく裁判を要求しています。
 法律上では、賄賂での死刑は無く、また刑確定後2年間は処刑できないことになっています。

 賄賂天下のもう一つの主因は、単位での「政治指導部」の存在です。
中国が日本軍と戦って解放を迎えるまで、その軍隊には政治指導部があって、これが最高権力とされました。これが闘いを有利に進めた主因だと総括されました。その経験を買って、建国後現在も各単位には政治指導部があって、そこに党員が座っています。
 日本企業が中国に投資する場合、この人たちを接待します。この「お勤め」は法律よりも優先します。
 接待される人「お偉方」の席順を間違えて名簿を置くと、それまでの設立準備は全てご破算となります。
 彼ら政治部の幹部は外国車を乗り回し、毎晩接待付けだと学生達が教えてくれました。

 2000年始め、私が杭州にいたとき、近くの都市が「今後、党の車も交通信号を守ること」という市政府の決議を発表しました。
 これはかなり中国人にとっては驚くことだったのでしょう、新聞に大きく報道されました。でも市政府より党の方が上だからこの決議は有効でしょうか?
 
 今年から裁判官と弁護士の国家試験制度が開始されます。

 なお、何故党が指導する必要があるかについて、「国民は意識と思想において低く遅れている。これを党が善導する」と教えています。

 去る2月17日、NHK第2が映画「桃源鎮」と言うのを放映しました。約5年前の四川省の農村の物語です。
 正義感の強い鍛冶屋のおっさんと、何事も賄賂で穏便に生きて行こうとする豆腐屋の物語です。村長の財産が不正に大きいのではないかと言うことで、街から検査組が来るという”噂”から物語が始まります。
 鍛冶屋がその噂を流したと言うことで村長夫人に礼状無しで逮捕されます。豆腐屋は、検査組が来れば村長の悪事がばれると考えて、「付け届け」をやめます。しかし実際やってきた検査組は全員村長の親戚らしいと言う噂が流れ、あわてて豆腐屋は村長に付け届けを持っていきます。しかし、また新しい検査組が来るらしいと言う噂で、またまた、豆腐屋がおろおろするという映画でした。

 私は中国にいる1年半、毎週映画を見ていましたが、こんな現実的な映画は初めて見ました。この映画も中国での法律と党との関係を知らないと理解しにくいのではないでしょうか。
 「芙蓉鎮」という映画で主人公を務めた「コンリー」という女性が今中国では大変人気があります。でも彼女は言っています。「私は今後とも実際の生活に関係するような映画に出たい。でもそのような映画の私を知っているのは外国の人ばかり」と。