万里の長城を自転車で飛び越えようとして失敗
02/10/10 南方週末  金凌雲

 02年10月2日、天津郊外の万里の長城を自転車で飛び越えようと人類極限技に挑んだ二人の内一人が失敗して地面に墜落、死亡した。
 亡くなったのは陜西省西安市のガラス店主、王家雄31歳。成功したのは王会海という。
 王家雄はガラス屋を経営する傍ら、得意の自転車で黄河や万里の長城を飛び越える計画を立てていた。
最近も高速道路を使った競技会で優勝の経験がある。
彼がこの計画をしていることを知った母はずっと反対を表明していた。
王家雄が怪我をしたと聞いた彼の父と妻が病院へ駆けつける途中、三輪車の運転手にその噂を聞いた。「確かその内の一人は亡くなりましたよ」と、聞いたとき脚が動かなくなったという。 
 家にはさらに8歳の息子が彼の成功を信じて待っていた。
 王家雄の死は彼の訓練を請け負った劉天良に2つの問題を突きつけている。
1はなぜこの事故が発生したか、であり、もう一つは王家雄になぜ保険が掛けられていなかったかと言うことである。
教練者の劉天良は今回の曲芸の計画と指導を受け持った。
 王は10歳から各種運動に励み、中学校で体育を学びながら、自転車での極限の技を追求してきた。彼はこれを体育事業の熱意から行っていると言っている。
 記者が現場近くで成功した王会海と教練の劉天良に出会った。その二人はすっかり沈んでいた。しかし教練の劉は今回の極限の祭典に一人が成功したことを誇りに思いながら、しかし一人が死亡したことに大きな責任を感じていると言う。

悲劇は金銭の節約から発生したのか

 天津の自転車運動クラブの責任者が言うには、今回の準備はあまりにもお粗末であった。 まず原則として、このような跳躍は必ず飛躍台と着地台を設置する。しかし今回の現場を見るとそのような物は用意されなかった。身体の防具についてもきわめてお粗末だ。あれでは衝撃には何の役にも立たない代物だ。靴はふつうの運動靴を使っていた。
使用した自転車について言うと、このような跳躍にはすくなくとも数万元以上の高級車を使うことになっているが、今回の自転車は5000元のものだ。さらにヘルメットはきわめて簡単な物を使った。こんなことは信じられない、と語る。
 これに対し先述の劉は激しく反駁する。
「防護服がどうして問題となるのか。跳躍台や着地台がなぜ十分である必要があるのか。実際に第一の跳躍は成功しているのだ。
もし、跳躍線上全て防護台を作れば誰でも可能だ。我々の行動は”極限”という名前の見せ物だ。そこに危険が伴うのは当然だ」。
 事故の模様について天津大学の物理学教授は「単に物理学の観点から検討すると、飛び出し点と着地点との高度差には問題はない。問題は飛び出し時の速度で、これが大きいために、着地点を越えて飛び出して頭から落下した」という。
 これを受けて教練の劉は、死亡した王は踏切の時4度もペダルを踏んで加速した。本来、訓練時は自由速度で飛び出すことにしていた。これが為、王は万里の長城の着地点を2メートル飛び越してしまった、ということを強調する。
 そして問題は二人の保険がなぜ掛けられなかったかに移る。
 教練で今回計画の責任者の劉は20万元の保険を掛けようとして、1度は契約に署名した。ところが字が違っているというので書き直すことになった。その書き直すのが事故の当日になってしまった。劉はヘルメットの中に保険金の8000元を用意していた。そして現場で保険の担当者を捜したがなかなか見つからない。携帯で呼んだが、それも繋がらなかった。そこで跳躍する二人に相談した。二人とも自信が満々だったので、保険無くても構わないと言うことになって、跳躍が始まった、という。
 最初の計画は黄河の飛び越えだった

 中国では1997年に黄河飛び越えに柯受良が成功して、しきりに人々の口に昇るようになった。ついに99年6/23日朱朝軍がモーターバイクで黄河を飛び越えて見せ、一躍英雄になった。
 その後自転車で黄河を飛び越えられないかと言うことが好き者の中であつく論議され、ついに西安のある企業がスポンサーを買って出た。そして劉がその計画を受け持つことになり、実行者を捜しているところに王の二人が現れたわけだ。これにもう一人張という名の人も加わり、西安人民体育場で試験飛行会が行われた。そこでの3人の飛距離は32,31,30メートルと出た。こうしてこれが大々的に報道され、3人の所にはひっきりなしにメディアが訪れた。街を歩くと「サイン」を要求する人も出始めた。
 ところが実際に黄河跳躍の日が近づいたある時スポンサーの企業が不況を理由にその計画から手を引くことになった。
 こうしてその計画が頓挫したが、しかし王の二人のやる気は衰えず、しきりに劉氏に相談を持ちかけた。しかし劉氏は00年は彼の年回りが良くなく、01年は彼の妻の年回りが悪い、と言って渋った。しかし02年は暦では馬年である。この機会を逃すことはないとして計画を検討したところ、まず万里の長城からということになった。柯受良が万里をモーターバイクで跳躍した天津市近郷が良いと言うことになった。そこで劉は天津市に行きスポンサーの会社を探し始めた。
 跳躍地点については地元の人の意見を聞いたり、現地を見聞し、ついに最適な場所を見つけた。王の二人は現場を見たとき、「ここならとても簡単だ。目を瞑っていても可能だ」などと自信がますます増えていく様子だった。
只の2万元の広告代を得る
 
 跳躍地点が決まり、長城管理局と交渉の結果、管理局はこの計画を承認することとなった。当日の入場料は管理局の収入とし、その他跳躍台の準備や広告代等は全ては劉天良が実行委員長となって計画を進めることとなった。当日の会場入場券は普段30元が80元とすることも確認された。
 どちらにしてもスポンサーを得ることがまず最初の重要項目となった。7/10日、準備会はメディアを招待し、そこでこの計画を10/2日に行うと発表した。
 跳躍台にはスポンサーの名前を広告として掲示するが、それを受け入れてくれるスポンサーがなかなか見つからなかった。
すでにこの種の跳躍はいくつか実行されていて、新鮮感が薄れていると言うこともあった。そしてやっと集まった金は2万元であった。
 特に天津と言うところはこの種の話題にあまり熱が入らなかった。各企業との交渉に劉天良が玄人では無いと言うこともあって、広告料は400とか500元という低い金額を前後した。
 
 準備に疲労が重なる

 8/8日から9/12日にかけて跳躍台などの現地設備が劉の努力で完成した。その仕事は劉が費用8万元を個人のものから捻出した、と言う。 
 さらに当日、前座として歌舞団の出演も依頼した。跳躍当人二人の保険については実行の4日前にやっと手続きを開始した。
 9月末になって長城管理局と劉は談合を重ね、10/2日の成功後続けて7日まで連続興行を打つことにし、その収入を管理局と劉が分け合うことに決まった。
 訳注:10/1から7日まで中国は国慶節の祭日が続いた。

 一方跳躍出演する王の二人は連日練習を続けていた。
いよいよ跳躍の当日朝、広告主の社員が10人ほどが王家雄に入場券を手配して欲しいと申し込む一幕があり、王はとてもこれを嫌い「俺はそんなことしていられないよ。そんなことするなら俺は家に帰ってしまうぞ」と怒鳴り返していた。そして興奮した様子がありありで、何度もトイレに行き帰りしていた。
10:00 観衆の入場が始まった。3000人ほどがすぐに集まった。さらに向こうの山側にも数千人が居た。
10:30 前座の歌舞が始まった。
12:10 まず王会海が高度差30メートルの跳躍台に上り、長線距離にして76メートルの走行路を走り出した。長城を飛び越したところで自転車と人間が分離して防護網の上に墜落した。しかし当人がすぐ立ち上がり、観衆に手を振った。歓呼は山全体に響いた。12:25 王家雄が観衆の猛烈な歓声の中を走行した。しかし着地点が長城を飛び越し地面にそのまま墜落。臨終の一声を観衆に残しながら。

 誰がこの計画を悲惨にしたか

 計画主任の劉はこの計画が金儲けではないとしながら、しかし資金不足が準備不足に繋がったことを認めている。またこの計画が田舎芝居だったと言われることが一番応えるとと漏らしている。
 記者が現地付近で噂を聞いてみると、劉は5万元の金をもらって一人の命を失った、と言っていた。しかしこの噂を劉も知っていて、この種の言い方が劉の気持ちをもっとも苦しめているという。
 さらに「これまで跳躍の快挙を成功した数人と比べて、彼らと今回の我々とどう違うのか、我々だけが田舎芝居だったのか。
 我々だって人間究極の快挙を達成するために、金銭を度外視して、熱心に完成を追求してきたのだ」、と劉は熱意を込め語る。
 またある人は彼らのやってきたことを、命を弄んだ、と避難する人がいる。これに対して劉は「我々は極限に挑戦するため、それなりの準備と訓練を重ねてきた。
 たとえば自動車を運転する人が事故を起こし他人を傷つけたとき、その人は命を粗末にしていたからその事故が起こったと考えるだそろうか。」と反駁する。
 記者が跳躍に成功した王会海になぜこのような計画に挑戦したか聞いたところ彼は「どう言うか、まあ、やりがいがあると言うことかな」と答えた。 

 誰が管理すべきか

 天津市の群衆体育管理局の王所長は、この種の運動は現在どんな規制もない、ただ今後のことを考えると、検討する必要があるかなと思う、との回答だった。
 実際この問題は各種方面と関係している。広告を主体とする商業道徳の問題。運動面からの訓練や質の問題。安全方面からの問題。当局の体育関係が管理すべきかそれとも文化関係の管理か。現在どこもまだ明確なものはない。
 記者が長城の管理部に問い合わせたところそこからは会見を何度も拒否された。
  10/4日、長城のある管理者が教えたくれたところによると、現場付近の長城入場者は事件当日に比べて減ることはなく、かえって普段よりも増えたという。”国慶節”の休暇を利用した人たちは、事件の現場を確認してお互いに話題をふくらましているという。つまり誰も予想だにしなかったことだが、事件が入場者を増やしているのだ。


訳注:
 読者の中に9/17北京に旅行された方が居て、貼付の写真を送ってくれました。(少しカットしましたが)
 北京近郷で万里の長城を綱渡りした人がいたそうです。現地の新聞にTVも放映と書かれています。