長慶油田の暴力事件

01-12-06  南方週末記者 劉科、魏建国

 最近頻発する油田や炭坑の資源争奪戦争は表面上単に経済的な利害の争いではなく、実体は中央と地方の利害の争いであり、陳腐な古いしきたりを守るか或いは新しい経済実態に合わそうとするかの矛盾である。現在中国はWTOに加盟する時を迎えて、その市場経済の主たる意図するところは全ての人間が平等に参加できるということである。この大きな流れの中で、しかし有る部分では”特別待遇”を受けようとする問題が厳然と存在する。”不正な分け前に預かる”と言うこれまでの長期の資源浪費のやり方は今更に大きな将来への憂いを投げかけている。これは今、正視せざるを得ない問題であり、わが「南方週末」が報じた長慶油田の暴力事件は、今後とも多くの読者が重大な関心を寄せ、法を厳格に守り、民間の者がやっていける、この当然の命題を注視していきたい。
 11月24日、一つの事件が誰をも仰天させた。”数百人の暴力団が国家の油田を暴力的に占拠”、というこの事件は11月19日、陜西省延安市安塞県で数百人の群衆が機器を持って油田を占拠したことに始まる。
 長慶油田公司の4カ所の油田現場の保守要員に殴りかかり、33人の傷害者を出し、周囲の車を破壊し、撮影機や各種機械を損壊した。その被害額は約10万余元。(日本円は15倍)
 ここで注目されるべきは、引導してきたのは1台の警察車であり、そしてまた、これは一般住民の仕業ではなく、地元石油企業の安塞県採油公司の従業員であった。
長慶油田公司は主として陜西・甘粛・寧西の三大地方の石油を担当する国家企業である。何故地方の一企業がこのような猛烈な過激な攻撃を巨大国家企業に仕掛けたのか。
 11月28日、記者は延安に来て調査を始めた。
強硬な侵権者

 長慶油田は4個の油田を持っている。記者が叩き壊された2台の車を見ると、中型のワゴンで、ガラスは飛び散って車の中は細かいガラスだらけであった。油田警備大隊の王龍は記者に次のように説明した。「あのとき奴らは車を取り囲んで鉄棒で気違いのように叩き割った。我々は車の中で何人か固まって頭を抱えてうずくまっていた。しかし誰もそれぞれに怪我をした。」

事件の原因は簡単である。以下は本油田党書記の許四徳の説明である。
11月15日保守警備員が巡回中、有る村で、まさにこれから油状を掘ろうとしている採油公司の人達を発見した。そこで長慶公司側は衛星測距器で位置を確認したところ、そこは長慶の所有地であることが判り現地連絡の上、書類でも事実を提出した。
 書記の許四徳は11月18日、再び問題となっている土地の調査に出向いたとき、あの採油公司は以前として掘削を続けていた。こちらの停止要求に対し、相手の責任者薫仁成は書類上に”掘削停止”を書き込んで了解の態度を示した。
翌11月19日、我々の検査員が3回目に見回ったとき、また彼らが掘削を続けているのを発見した。そこでこちらも決心して実力で阻止しようと言うこととなった。
 その時の警備長が言うには「我々は午後一時半頃現場に着き、止めろ、と要求した」しかし彼らは聞こうとしなかった。そこで、ここで無理にでも停止させなければ、もうすぐにでも採油が始まりそうであり、そうなると停止は少し困難になってしまう。そう考えて警備責任者は、県政府と県鉱山管理局にこの状況を連絡した。
 午後4時過ぎ、警備責任の時海濤は相手企業に”採油即時停止要求”を送った。その時相手事務所は深閑としていて誰もいず、仕方なく社長代理の名は李という者にそれを手渡した。
 採油現場の気違い沙汰

現場ではこの時思わぬ事態が発生していた。長慶油田公司側の者が見たところでは、「午後4時15分頃、こちらが車に乗っていると突然警察車を先頭にジープや大型車などが続いてやってきて、その各車には人が満員で、手に手に鉄棒などの武器を持っていた。彼らは我々近づくと、ぐるりと周囲に並んだ。その数約3・400人位。こちらはずっと車の中にいた。声も出さなかった」。
 ”向こうから来た頭領らしき者が「我々が何をしようとしているか、見せてやる」。そして「やれ!」という一言の後、同時に鉄棒などをふるって、車をばしばしと叩き出した。車のガラスは見る間に割れてしまった。長慶公司側の一人が言うには、「棍棒が我々の身体めがけて襲いかかってきた。仕方なくこちらは頭を低くしてうずくまるしかなかった。中型の車はまだ良いが、ジープなどは酷いもので逃げ場が無く、首の当たりを思い切り叩いているようであった。また小型車の一人を指導者と思ったのかそのやり方はもっと激しかった。
 このような破壊行動は10分間ほど続いた。しばし休んだかと思ったらまた第2陣の攻撃が始まった。こちらは全員頭を下げてうずくまっているので、腰に着いている携帯などを彼らは簡単に見つけて取り上げてしまった。又車の中の金目のものは全部盗られてしまった。盗られまいと抵抗すれば直ぐ猛烈な攻撃が来た。ある相手の奴は自分の手が冷たいといって、こちらの運転手の手袋まで取り上げてそれで鉄棒を握っていた。結局その攻撃は3度に渡って繰り返された。その後1台の警察車が来て、やっと事態が静かになった。それは5時40分頃で、我々側が引き上げることが出来た」。”

 その後、彼らが事務所への帰り道は困難極まりなかったという。車の中はけが人だらけ、ガラスは無く冷たい風が吹き通し、ヘッドライトもなく陜北高原のぐねぐねとした真っ暗の山道を5時間もかかって戻ってきた。普段なら1時間半の道である。
 現場にいた警察車

 採油公司側の説明は辻褄の合わないことが多い。有る曹という副社長は11月19日作業員が仕事中、長慶油田公司の30人ほどの作業員が現場に来て掘削を止めろと要求した。現場が混乱してはいけないと思い、周囲で掘っている仲間を呼んだ。近くにいたのは約70人ほど「こちら側は最後までじっと押さえて手を出さなかった。ましてや破壊行動などは何もしていない」
 しかしその説明はおかしい。何も手を出していないなら、ではあの車の窓ガラスの叩き割られた破片は何なのか。彼らの県政に上げている報告書によると、”現場作業員達は国家財産の大きな損害を避けるために努力をした”という文面が見える。
しかしあの車の破砕されたガラスくずを見ては誰もこれを信じることが出来ない。長慶公司の方の主張では、相手側は3・400人という大量の人数動員があって初めて可能な短時間の大量破壊であると説明している。これは明らかに組織的で、偶然ではなく、計画的である。採油公司の方の言い分である当時現場にいたのは70人ほどだという説明について、彼らは従業員全体で100人ほどであり、現場にその時いたのは一般の通りかかりの人達である。その見物人は100人ほど。計200人ほどだとなっている。
しかし我が記者が現場で見たところ、現場は山の中であって、付近にはほとんど住民はいない。だから見物人がいたというのは少しおかしい。
採油公司の言い分では、当時彼らの側に警察車がいたというのは、これは滑稽の極みだと主張している。公安を悪用するにも程がある、と強調している。
 しかしこれは、長慶油田公司が持っているビデオによると、確かに現場に1台の警察車が見える。カ−ナンバ−は「陜03841警」となっている。これは長慶公司の社員が盗み撮ったものだ。撮った社員が言うには、撮影機は直ぐに破壊されたが、幸いにもこれだけは隠し持ってこられた、と言う。
 
 4個の分け取り

事件の発生5日前、11月14日にも双方は近くの村で対立が発生していた。しかしこの時は大きな対立には至らなかった。
 近隣の人の話では双方の対立は以前から起こっていたようで、対立の問題は採油権である。だいたい、採油公司は長慶公司の合法的な敷地内に採油権があるのだろうか。
これは国家の法規から説明が必要である。
天然石油は国家の重要な戦略的物資である。そこで国家が第1級の管理を実行している。この政策によって、「中国石油天然ガス総公司」「中国石油化工総公司」「中国海洋石油総公司」と「延長油鉱山」とがある。このうち初めの3個は中央に直属で、最後は陜西省の管理となっている。ここで、この省では国家企業の長慶油田公司と地方政府所有の延長油鉱と省の下に位置する県所有の採油公司があり、最後に総合石油開発という連合投資形態の企業とで成り立っている。人これを4頭の馬の分け取りと呼んでいる。この土地の識者が言うには、この分割は土地の政治家の力関係と密接に結びついている、とのことだ。
陜北の延安は革命の聖地とも言われ、誰もが一目置いている。しかし同時に長期に渡って、最も貧窮な土地柄でもある。そこで感情的な対立が出やすいこととなっている。ここで最近石油資源の発見が相次ぎ、それぞれの企業が一喜一憂状態を作り出している。がこれまではお互いに黙認してきた。
採油公司が合法性を得るために、延長油鉱山公司の管理下に置かれている。そこで採油公司の正式名は「延長油鉱山管理局杏子川採油公司」と呼ばれる。しかし採油公司は実際上は延長油鉱山とはほとんど関係が無い。両方は別々に県の方へ税を納めている。
さてこれまでずっと貧窮を味わってきた陜北県にしてみれば、これは天からではなく地から湧いてきた宝であった。油が来たれば富が来る、油が去れば富も去る、と考えた。1989年の全県の収入は151万元、翌年採油公司誕生後は古い井戸を使って開始したがそれでも1年だけで100万元の収入があった。
このような状況が現れて、これはしめたものと飛びついた。これ以降、長慶油田公司と採油公司との間の争いは耐えることが無く続くこととなった。
 こうして地方政府所有の採油公司の財政が即ち県政の命運となったのである。従って一つの紛糾が起これば、地方政府にとっては死活問題と考えるほど、それに力を注いで傾倒した。こうして事態は次第に複雑になった。
 有る現地人が言うには、企業がどんなに大きくても、地方政府には叶わない。まして延安は特殊である。誰もがその歴史を尊重している。この県は超1級の県と見なされている。この大衆的に認められた優位性を考えて、ある長慶公司の管理者は次のように苦慮しているという。すなわち、どんな事件が起こってもそれを大きくはしたくないと言う考えに捕らわれる。この県とは関わりたくない、でないと、必ず他の面で意地悪される。
延長油鉱公司の有る鉱山長は「彼ら採油公司がこれまで掘り当てた所で我慢してやっていてくれれば、それなら問題はないのだが」と言う。      
大勢で分け合う

 1994年、国家政府の上層部でもここに対して問題意識を持つようになった。国務院の有る幹部は一つの指示を出した。94年4月13日、本、中国石油天然ガス総公司と陜西省政府は”陜北地区石油資源に関する協議書”に署名した。これは413協議と略称されている。この内容は長慶公司の登記している土地は約500平方キロとする。その中には安塞など6県の開発企業を含む。長慶のある人はこの協定を「土地と平和との交換」と呼んでいる。これによって長慶油田と県とは明確に土地区分がされた。ところが意見の一致しない土地がまだ残ったのである。それが安塞県である。そこの土地区画は明確な区分けが不可能であった。ここが、以降ずっと嫌な尾を引いていくこととなった。
「413協議」は以降の各県や公司の活動領域に合法性を与えた。安塞などの数県は常に新しい土地の油田を求めて開発を続けることとなった。有効な油条は売りに出せば誰もが投資に乗ってくる。こうして遂に740の連合公司がこの一つの地域に開発のしのぎを削ることとなった。
 石油は美味しい肉だと言うことで、投資団体がここに群がることになったのである。国内外の投資を呼び込み、これには有る党の機関も有る社会団体も含まれている。4人で分け合うはずが、”大勢で分け合う”状態と変わってしまった。
 石油は多くの人の財布に富をもたらした。以前は貧窮であった陜北県は現在では100万元の富を持った人が何人も現れた。ある人の説明では、一人の社長は423の油条を所有している。年産17万トン、固定資産2.53億元、これは採油公司の所得を超えている。
 連合企業の利潤に注目すればするほど、お互いの企業間の約束が守られなくなり、長慶油田との対立も増える一方となった。その連合企業内部にも問題は顕在するようになった。利潤を急ぐあまり、製品の製作流通過程で重要な問題、特に腐敗現象が現れている。(中国で腐敗というと、幹部の収賄を指す。全ての企業は党の政治指導部を持つ)
2000年10月、陜西省の命令で、外からの投資を禁止することになった。そして石油生産に関して整理整頓が行われた。これ以降安塞県は県内の連合企業を採油公司に統合させた。この結果採油公司はさらに合法的な地位が高まった。

地方政府と国家資源

 陜北での石油に関する開発権利はこうして巨大な利益をもたらした。これは客観的な事実だ。延安のある人は、石油が採掘されて以降、目に見えて延安は変わってきた。市の建物は増え続け、交通への投資もされ教育へも投資されてきて、それがはっきり判る。延安とその付近の県では財政のなんと80%が石油に頼っている。これを”油財政”と呼んでいる。
しかし問題は残されたままだ。採油公司と連合企業が合併したが、実際上何の整理もされず、管理と技術の上でお互いにバラバラである。例えば、油田採掘率は長慶公司の5分の1の低率となっている。言い方を変えれば長慶が1万トンを採掘すれば、採油公司は唯の2000トンのみの産量である。これは全体で考えれば、膨大な資源の浪費である。
 2年前、国家経済貿易委員会は陜北地区に対して調査を行った。その結果、「採油公司の技術水準は、石油開発の企業としての資格に匹敵していない。陜北地区の石油採掘の方式と秩序の混乱は、県政府の行政上の問題である。各企業間の争いは、”国家資源法”とその関連法規に基づき、413協議を完全に実行する必要がある」
「実際上2年前、国家貿易石油化学1999−1239号の書類はこれらの解決について根本的な方法を提示している。即ち各県にまたがる採油公司は延長石油工業集団としてまとまり、生産性を高め、これら全体が中国石油天然ガス総公司と合体すべきである。これのみが根本的な解決方式となろう」。

がこの提案は幾らも進展せず、そのまま2年が過ぎた。こうして誰もが目を覆うような長慶油田暴力事件が発生した。今後もこのままだと暴力事件は継続して続くだろう。