手に負えない砂漠嵐
01/04/05 南方週末 長平



 3月10日午後 「ボタンチリン」
の砂漠地帯に立ち、砂を一掴み
してみると、砂は少し開いた手の
ひらから風に乗ってさっと散って
いった。
私の周りには見渡す限り砂漠があ
るだけ。薄く砂煙の舞い上がるのが
見え、風に乗ってそれもあっという間に移動していった。風はさして速くもない。5級くらいか。砂漠から離れて住む人間がここに立つと、遊牧民と彼らの牛や山羊・家屋、そして放牧場が年平均260日以上このような砂嵐の日々が続くことに驚かざるをえない。
 3月19日午後、「アラシャン左旗」近郷に「スオスオ」と言う低木の植わっているところを訪れた。風と砂と土埃があたりを覆い、車は海を行くがごとく左右に揺れ、砂は猛獣のごとく、群をなして車の行く手をふさぐ。見通し距離は50から100メータほど。戸外には人影はない。遊牧民は皆家に引きこもり、年寄りが酒を飲むのを見ている。
 3月21日の昼には、ここから千キロ離れた北京にも今年になって第六回目の砂嵐が吹き荒れた。
 三月二十三日午後、我々が進む前途の丘や荒れ地では溝と谷が入り組み、風はびゅうびゅうと音を立て砂が舞い上がり、石炭で動く車から吹き付けられた石炭殻が車の窓にばしばしと当たった。天気は突然薄黄色となり車は照明を頼りに進む。24日午後また、ここから数百キロ離れた北京に今年第7次の砂嵐が吹き荒れた。
 砂嵐は今世紀最大の中国の環境問題である。3月7日から29日まで、私達は草花咲き乱れる広州を出発。寒風吹きすさぶ千キロ北国にやってきた。「オチナ」から北京まで三千キロを砂漠の縁に沿って訪問。
 読者に砂漠化の真実をお伝えしよう。
この現象は読者の想像を遙かに超えているだろう。
砂漠化との対面は大変な努力を要するだろう。

 2

 統計に依れば昨年中国は、二十の省の都市で砂嵐の被害を受けている。その中には重慶や南京・杭州を含んでいる。中国のほとんどが砂嵐の脅威を受けていることになる。
 以下は既にマスメディアが繰り返し取り上げてきた数字である。
 二十世紀後半中国に現れた砂嵐の数は急速に拡大している。五十年代に五回、六十年代に八回、七十年代に十三回、八十年代十四回、九十年代二十三回、二千年
ではその一年だけで
十二回、二千一年では既に六回。しかも今年の新年の夜明け前に起こっている。
 砂嵐の根本は土地の砂漠化で、その速度は加速度的である。一九五〇、六〇年代は一五六〇平方キロ、七〇・八〇年代は二千百平方キロ、九十年代は二四六〇平方キロ。これは毎年一つの県の面積を失っているのと同じである。
 専門家によると近年の砂漠嵐による経済損失は五四〇億元に相当する。(十五倍すると日本円)
 環境汚染と経済損失はもとより人々を驚かせているが、しかしその中身はそれだけでは収まらないことを示している。
砂嵐の影響は社会生活上遙かに深い物を含んでいるのだ。
 砂漠化が引き起こす物的損失、生物界への破壊的な影響。牛羊類とその環境への驚異は牛山羊自身の品質と皮毛を退化させ、その存在の平衡を失った行く末はどんな結果をもたらすかはかり知れず、今専門家達は関心を高めている。

遊牧民は伝統的な生活様式を建て替えようとしている。ある企業は砂漠化を治めることに企業の利益を見いだそうとしている。国家は莫大な資金を投じて生態系を維持しようとしており、社会全体の資源配置とそこから生み出される利潤との関係が大きく変わろうとしている。
 土地が砂漠化した人々の移動、その移動人口は加速度的に大きくなり、死んだ牛山羊類とその環境、またそれらによる心理面の影響など、当に現実に対面している大きな問題である。



 まずもっとも差し迫った問題は、砂漠嵐を治めることであろう。今、数多くの専門家がこの問題に積極的に取り組もうとしていることが、誤解されやすいのだが、これは単純な技術だけで解決されると思われがちである。しかし現地取材したところ、これは技術だけではなく遙かに複雑に絡み合った社会問題であった。
 砂漠嵐の原因はその大半は人間が引き起こしているのである。その原因とは、人口増加、自然の乱伐、放牧の超過、水資源の乱用、ここには技術的な問題は何もない。
 政策の誤り、管理の混乱、地方の利益が調整されなかったこと、全体の調整がなされなかったこと、これらが砂漠嵐の社会的根本原因である。
 これらはまだ歴史的教訓となっておらず、つまり解決の見込みはない。
 例えば各種問題とそれに対応しょうとする財政の取り合いの中で、種々の問題が新たに現れている。もし改革が実行に移されなかったら、資本がいかに投資されようと、「雁の毛を抜くような」官僚主義の下では何も解決されない。
 ある人は次のように言っている。「建国以来植樹されてきた材木を統計すると、中国のどの家の竈も薪で溢れているだろう」
 一体ここには誰の責任があるのか?もし新しく造林管理機構を建てるとすると、それはおそらく政府部内のある機構に結びつくだろう。「銀河」から「バエンフト」を通って山を歩くと、秦の長城が見える。山を縫って走る長城は、昔、匈奴と言う敵の進入を防ぐために建設された。その他にまた山を巡って張り巡らされている柵も見ることができる。かってはそれらは国家を敵から保護するために有意義な物であった。しかし現在では大地の砂漠化を治める見地からすれば、我々自身が自然へ侵入していく敵となっているのだ。
 我々自身に勝てるかどうか、これがこの闘いのキーとなっている。

 3/10 晴れ
 三大砂漠を越えて

 ここは砂漠嵐の主な発源地、内モンゴル「アラシャン盟」である。
 現地人の「トオヤ」は背の高い駱駝に乗りながら、憂鬱な語調で、「5年前には彼女の家には三百匹以上の山羊がいた。駱駝は五・六〇頭。現在は山羊が百匹、駱駝は十頭」という。
 それは草牧場が砂漠化したからである。今も山羊は草を食べているようだが、しかしあれた土地には石ころと砂粒のみで、かすかに棘を持った堅い植物だけがある。
 彼女は「アラシャン右旗県タムスフラクスム郷下」の遊牧民である。今彼女が遊牧しているのは家から二.五キロ離れたところ。その家は「スム」から百五十キロ離れたところ。現在「スム」には」ただ六十戸が残るだけとなった。ここで働く女達は誰も二つの目だけを残し、びっしりと包帯を巻いて身体を隠している。砂嵐はほぼ年中吹き荒れ、少なくても二百六十日以上吹いている。今日はその中でももっとも天気の良い日らしい。風速は五級くらい。しかし砂粒が地上を飛んで移動する様は、ちょうど白雲が砂漠を走っていくようで、普通の人は誰でも、この砂埃が強風に乗って北京にまで飛んでいくのを想像するであろう。
 「トオヤ」と会ったのは既に砂漠を五百キロほど入ったところ。「バエンホト」から「クブ」村までの六百三十キロ。途上三大砂漠、トコリ、パタチリン、そしてウランプ、これらに沿って砂漠を突き進んできた。砂漠の縁に沿って進んだつもりが、有るところでは既に砂漠の中心になっていた。
 アラシャン盟林業治砂局の提供の資料によると、この辺りでは毎年千平方キロの速度で砂漠化が進んでいる。通ってきた道では植物はほとんど見かけなかった。たまに見てもそれは砂漠の物であった。
 しかも道路上には厚く砂が被っていて、時には砂が高く積もっており、それを車の車輪が乗り越えるとき白い砂埃が巻き上がり、雲の中を行くがごとしであった。
砂丘が湖を越え山を越えて移動し、道路の両側に我々を睨み付けるかのように並んでいた。
 同行の「ストピリク」はかってこの辺りの防衛警備隊の隊長であった。その十七年の仕事を懸命に勤めてきた。今十年前を振り返って語るには、道に沿って生えているのは「スオスオ」ではなく、楡と白柳が美しく列をなしていた。
 我々は将来を信じ将来を警戒して窓の外をうかがう。窓の外にはただ砂風のみ。その見えるところ単調極まりない。ストピリクもやがてうたた寝をする。
 「パインマオタオ」の道路上に有る検査室では、トラック運転手が乗り込んできた。彼はオチナベ道路保守の仕事をしている張明という。

 天鵞(白鳥)湖の荒漠地

 午後5時過ぎ私達は天鵞湖に着いた。正確に言うと、これは天鵞湖の荒れ砂漠と言うべきか。辺り一面新しい車の轍の跡が残っている。これで見る限り、時々ここを車が通っているのだろう。ストピリクと張明の言うところによると、かってはここは美しい景色が見渡せる場所だった。
ストピリクが1984年にここへ来たとき、この湖は見渡す限り水面が広がり、湖の縁では葦が茂り、羊や駱駝がのんびりと草を食べていた。そしてまた天鵞が飛び交っていた。ある人は釣り糸を垂れ、またある人は船を漕いでいた。そのように美しい景色だったので彼らもまた良くここへ遊びに来た。
 専門家によるとここに住み着いている天鵞(白鳥)は、珍しい鼻に瘤のある種類で、その天鵞が住み着いているのでこの湖は天鵞湖と呼ばれている。
 張明は1999年の冬、彼らは職場からここを調査に来た。そのときは湖底に少し水があった。
 今私達が辺りを見渡しても、視野に入る数キロに渡って水は一滴も無い。最後に残ったほんの幾つかの芦が、寒い風の中に揺らいでいた。これは正に、大きな湖が砂漠に変わりつつある現象である。湖の底には美しい紋様が見られる。それは水の波が創ったものか、それとも風が創りだしたものか。それははっきりとは解らないが、しかしつい最近まで水があったことがはっきりしている新しい砂漠である。
 湖の傍に一つの土でできた建物が有って、その周りが羊の放牧場である。かまどや藁芝や靴の下敷きやら針金、それに羊と駱駝の糞などが散らばっていて、ひとがすんでいたことの印が残っていた。想うに彼ら放牧民は水と草を求めて天鵞湖を彷徨い、ついにその一滴の水さえ消えてしまったのだ。
 ここのモンゴル民族の遊牧民は「トアルフト」部族の末裔で、300年前、彼らの祖先はフアルカホ流域から東に移動し、ここに緑を求めて生息してきた。現代では彼らの人口は減少を続けている。

 子馬より小さくなった駱駝

 夜の7時頃、かってモンゴルの行政の一つがあった「庫布村」郊外に到着した。いくつかのコヨウというポプラが見える。それらは夕日の下に金色に輝き、縮れた枝は複雑に絡み合い、世の移り変わりの激しさを語るかのように、夕暮れの中に美しい姿を見せている。
同時に我々は不意打ちをかけたように近づきつつある砂丘を直ぐ近くに見ることができた。
 そのポプラは第3世紀地質変動時代から続いている古い植物で、既に660万年の長い歴史を持っている。オチナはポプラのもっとも多く繁殖するところ。しかし50年代には75万畝有ったものが、現在30万畝に減少している。
 誰もが駱駝は馬よりも大きいという。ところがこのポプラ並木に沿った辺りでは、やせた駱駝は馬よりも小さくなっているのだ。ストピリクは回憶して、80年代、この湖で見かけたもっとも美しい駱駝は強健そのもので毛並みは輝いていた。しかしそのような駱駝はもう既にこの世から消えてしまった。
 その他に「鱈」も消えてしまった。
 薫製の鱈はとても有名である。張明が言うには、10数年前、ここで捕れる魚は無料で、自転車の後ろに積むとその魚の尾は長いために地面をこすったくらいだ。
 私達が差し出した草木の資料を有る専門家が見て言う。「アラシャ盟」での植物は60年代には200種類有った。しかし現在では80種類に減少している。
生物の多様性が深刻な破滅の時代を迎えているのだ。

 3/11 晴れ
 干し上がったイエン海

 イエン海は中国西部の最大の海。古代イエン文明の発祥地。イエン海に沿って建てられたイエン城、またの名を黒城、これは漢の時代までは遠隔地支配の重要拠点。ここでいくつもの争いがあった。
 1944年、林学派のトンゼンチュンが記したところの「イエン海」には、辺りには葦が密生し秋になると花が舞い、まるで綿が飛んでいるようであった。至る所で馬や牛や駱駝の群が見られた。天には白鳥が舞い、鴨が波に乗り、水青く空高く、雁が鳴き、葦を横切る風が音となり、天上の人間さえ知らない不思議なところ。ついにはゴビ砂漠に来たのでは思い惑うところではあった。
 50年代、東西のイエン海の水面は東が267平方キロに及び、西は35.5平方キロ有った。1961年西湖は枯渇。1992年東湖枯渇。
1993年5月5日、特大の砂漠嵐が「オナチ」を襲う。この後、嵐が頻繁となる。
 西イエン海への道路は全て黄色い砂で覆い尽くされている。
 我々は東イエン海にやってきた。あの大きな東イエン海、その真ん中に今も小さく水が湧き出ていて一筋の細い水流を造っている。しかしこの水は10メートルも行かない内に先は砂の中に消えている。
 砂漠化の様子は天鵞湖と正に同じ様子。旱魃に強い植物が湖底に生えている。まるで大昔から砂漠に生えているかのように見える。
 ここは「オチナチ」県スバタアルスム郷。
一緒に来た王さんは80年代にここに住んで働いていたことがある。彼はそのころの水や葦や魚や船遊びについて語ってくれた。寒風の中に立って、荒れすさんだ砂漠の中に見え隠れする湖岸を見ながら、彼は当時の遊牧民の幸福な生活を思い出して語った。
 それはたった10数年の前のことだが、しかし現実の光景の中で、あたかも現実とはかけ離れた伝説の時代のような感がした。
 遊牧民達が家財道具や子供達を荷車に積んで引っ越しを始めている姿を彼は語った。彼ら遊牧民は生態難民と呼ばれた。
 オチナチの辺りには12の湖と16の泉と4個の沢がある。そのどれもが大量の難民を発生している。
 ゾクカサ村のパトメンクは湖の傍で成長した。現在40歳。湖から遠くないところに住んでいる。今はそこも砂漠化したが、彼はかってそこで泳ぎ、魚を捕って遊んだ。
 ここはあらゆる本に「広大な沢と美しい水の流れ」と描かれたものだ。最近でも60年代にイタリアから専門家が来て、美しい森林と川の流れを記録にとって行った記事がある。しかしこれらの記録と、語り継がれた美しい物語は、ほんの5年か10年前まで、その豊かな水草の美しさが見られたのである。
 今、目の前の荒涼たる砂漠、この変化は一夜のうちに起こったのだろうか。風砂がパトメンク一家をここから追い出したのだ。残った家の壁には砂が高さ1メートルに達し、傍の山羊たちの建家は既に砂に覆い隠されている。恐ろしい流砂を前にして、パトメンクはやむを得ない感じで笑い顔を造って、またいつかこれらを引き取りに来ようと言う。
 彼のお婆さんとその妹が今小山羊たちに餌をやっている。彼の家とお婆さん達と両方で500頭の山羊を飼っている。それが彼らの大切な生活の基本だ。ただこれまでと違うのは彼の奥さんは70キロ離れた中国モンゴル貿易港へ行き旅館を始めていることだ。
 家庭の組み合わせが変わったのは、彼ら生態難民達が当面の方策として工面しているからで、このような方法もやがて限界になるだろう。というのはその旅館の周りには、同じ方法を求めて来た難民達が造った旅館がもう10軒以上有るからだ。
 
 3/12 晴れ
 風と砂で埋まった遺跡

 黒城はジンギスカンがかって兵を率いて攻めてきたところ。西漢以来それは要塞として重要な位置を占めてきた。それは今でもシルクロード上の大事な遺跡。
 ここから内外の多くの考古学者が貴重な文物を発掘してきた。我国でもっとも古いと言われる印刷物や蒙古時代の紙幣などが出ている。頭部の丸い清真寺や仏塔群なども出現している。黒城は「クブ村」の東南25里の所にある。
 それが現在徐々に黄色い砂に埋まりつつある。城の東西470メートル、南北384メートル。かってはどんな強者も寄せ付けなかった城壁だが、周囲は全て砂に埋め尽くされ、砂と壁とが同じ高さに埋まり、有る部分ではもう既に砂が壁を覆い尽くしている。
 私達は壁の上に立って周りを見渡すと、砂丘が差し迫って来るのが解る。
 現在の歴史は明日の歴史に続く。古城の行く末を想えば、その消えていく姿に対し強烈に、失いたくないと言う感情が湧いてくる。もしこのまま、直ちに砂漠化阻止の対策を施さないならば、「オチナ」全体の緑地帯が人の住めなくなる土地と化すだろう。しかもその日はそう遠くはない。今の資料によると、「オチナチ」の砂漠化の速度は毎年20ないし30メートルとなっている。

 黒城を訪ねて

 私が車で黒城を訪ねる途中の過程をここで説明しょう。
 ここまでのたった25キロの道を車は丸2日掛かってたどり着いた。
 黒城は「オチナチ」での風光明美な名所旧跡として紹介されている。しかしそこへの道は砂漠化してしまっていた。私達を案内してくれたのは現地の運転専門家の王さんである。当然その道の専門家であるから、道のりは熟知している。
 3月11日午後王さんは目をランランと輝かせて前方の砂漠をにらみ続け、神経を奮い立たせて車が右や左の砂丘にぶつかるのを避けて行った。5時半、黒城が見えるようになった地点で、車の車輪が砂にめり込んで動かなくなった。王さんは慌てず、もう慣れた態度を示した。彼は経験が多いのだろう、我等を協力させて車を砂の中から押し出すのに懸命になった。その顔には大汗がびっしりと流れていた。そして3時間半後、だが車輪はまだ砂から頭を出さなかった。仕方なく信号機を持ち出し助けを求める信号を送った。やがて太陽が西に沈み始めた。そして満天に星が見えだし、月が砂漠から顔を出した。我々は砂丘の上で狼煙の火を炊いた。9時頃やっと救援隊が来た。
 3月12日朝、我々は提供された北京のジープ2020に乗り、ギアーを下げて、王さん自らハンドルを握った。再度黒城への道を進んだ。できる限り安全な道を選ぶように頼んで。
 ところが思いもかけず、このジープもまた砂に車輪がはまってしまったのだ。ついに、皆で枯れている柳の木を橇代わりにして、車を引きだした。さらに驚いたことに、まだ朝の太陽が昇りきっていない明かりの中で、王さんは道が解らなくなってしまった。周りは何処までも砂丘だけ。車は砂丘の合間を行ったり来たり。進んでは砂丘に突き当たり、また元に戻る有様を繰り返した。王さんは砂丘に向かって「このくそ馬鹿な砂丘の奴め!」と怒鳴りつけた。彼のこれまでの長い経験が本当に役立たなくなっていた。

 ある硝所で

 黒城を出てから我々の目標は「ウハイ市」である。また再び三大砂漠の縁に沿った道を走ることになった。途中1カ所防硝所に立ち寄った。ここからモンゴルまで4キロ。連隊駐屯地の煉瓦の壁が約70メートル壊れていた。連隊の一人のリーダーが中国語で我々に言うところによると、数日前の砂風で吹き飛ばされたらしい。それ以外にも別のところが25メートルほどやはり風で吹き飛ばされていた。リーダーの言うにはこれだけではなくて、彼が以前駐在した所では、コンクリートの壁がやはり砂風で引きちぎられていた。彼はまた我々に昨年冬に雪景色の中で撮った写真を見せてくれた。写真には一人の男の顔が写っており、非常に驚いた様子を見せている。というのは、そこではこの3年間一滴の雨さえ降っていないのだ。
 「オチナ」では年間降雨量は37ミリ。逆に蒸発量は三千七百から四千ミリ。国際的な標準によると年間降雨量が二百ミリ以下では人間は住めないとされている。傍では他の車が砂に車輪を取られて、シャベルを持ってきて砂をのけている。
 隊のリーダーが、これはもう良くあることでね、と語ってくれた。

 馬建林と彼の犬

 前面に一台のシャベルカーが有る。それは道路にたまった砂を道の両脇に掬いだしている。その機械を引っ張っているのはTN55Cのトラック。トラックの高い運転台に座っているのは四十歳代の馬建林。彼の後ろでは軍隊の汚れた毛布に彼の兄弟がくるまって寝ている。トラックの左側に、一匹の黒白の花模様の犬が走って着いてきている。
「砂の量は次第に多くなってきてね」と彼は恨みを含めた顔で語る。彼は道路整備隊の職員だ。彼の担当している道路は280キロ有る。10日に一度砂風が吹く。風が吹くと仕事は36時間連続して行わねばならない。道路上全て砂で覆われるからである。3月12日午後私が彼を見かけたとき、彼はその時点で20時間以上寝ていなかった。今度は彼の兄弟が暇を見つけて彼を助けていた。だが普段は彼一人の仕事である。そこで彼は犬をお供に連れるようになったのである。犬は走りながら時々主人を見上げている。砂嵐のあとシャベルカーが動かなくなることもある。そのときはやむなくブルドーザを駆り出す。
 
 事故に遭遇
 
運転手が言うには「この道は予想したより遙かに走りやすい」。普通は、アラシャンを訪れた人にはくれぐれも、行く道が大変な想像も着かない難道であることを言い含めねばならないらしい。道の両側に積み上げられた砂の壁を見ながら500キロ以上走ったころ、どうしても睡魔に勝てなくなってきた。私と写真記者の二人が夢まどろんでいると、突然、身体がひっくり返って頭を叩きつけられた。「何事か!」車がひっくり返って、従って頭が下になっていた。私も運転手も車から這い出してきた。車は道路から外れること500メートルの砂漠の真ん中。辺りの様子はすっかり変わっていた。我々はそれぞれ血の出た頭を押さえながら、慌てて周浩の名前を呼んだ。丁度上手い具合に彼は荷物と一緒に近くに放り出されていた。彼は倒れたままじっとしており、頭は砂だらけ、流れている血が砂の中へ垂れていた。時間は夜中の10時20分。我々はアラシャンの中央病院に送り込まれた。

 3/16 晴れ
 黒河は何故水が途切れるのか

 アラシャ盟水利局副局長「楊振宇」が我々の訪問を迎えてくれた。彼は丁度会議から帰ってきたところだった。その会議の議題は、今年度の黒河流域の水の分配と今後の対策であった。彼は内モンゴルの代表者の一人だった。
 その前に、オチナチで、我々は二人の高齢者に面会している。その二人というのは特別の経歴を持っている。一人は63歳で地元政府の顧問で、前副族長である。1959年オチナで林業を初め、現在もそれは続けている。
 もう一人は64歳で、族水利局顧問。やはり前族副長。1964年以来オチナでの水利工事を続けている。
 この二人の老人は長い人生の間、緑地帯の生態と水利建設を見てきた。彼ら二人はこの黒河の水が枯れ、湖が枯れ、生態が悪化していく有様を驚く目で見てきた。
その一人が言う。「私はずっと心配してこれらを見てきた。イエン海と私とが同じ運命にあるのではないか」と。「しかしひょっとして、私よりも先に海が消えてしまうのではないか」
 その二人は口をそろえて、オチナの緑地帯の生態悪化が黒河の水が無くなる根本原因ではないかと言う。黒河の源はチ山脈にあって、その流れは青海・甘粛・内モンゴルの3省の7つの県と市を経て全長821キロ、流域面積13万平方キロ。その最終の行き着くところが東西のイエン海である。
 統計によると、1958年の黒河がオチナチにもたらした水量は12億立方メートル。しかし1992年では、1.83億立法メートル。専門家の見るところ、黒河上流の水源地帯では別に大きな変化は起きていない。では何故現在水枯れが起きているのか。
 黒河流域の水量減少の問題は、60年初めに地元政府がこれを重視し始めていて、中国政府にその対策を求めてきた。
 これまでの間、これに取り組めない問題が続出してきた。文革があった。食料増産重視の時代があった。経済発展第一の時代が続いた。そして1992年の末、やっと中国政府が乗り出し、黒河水量分配について対策を始めた。
 黒河中流域では既に農業水利の大工事があり、分流を造り、移民が入り込み、そして灌漑面積は1949年の103万畝から1990年には340万畝に増加しており、人口もまた55万から120万に増えている。「金張掖」と言う土地はすでに、甘粛省のみならず全国の重要な食料と野菜類の供給基地となっている。
 制御を失ってからの局面はもう後戻りができなくなっている。1992年から1999年の間、水の取り合いは誰にも譲り合えないものとなっていて、それがオチナの生態を一層悪化させているのだ。2000年、オチナの砂漠化は北京にも吹き寄せ、国務省も重視し、初めて行政的に水の分配に強制的に各地が従うこととなった。黒河流域管理局の誕生となった。
 今年になって砂漠の嵐は例年よりも速く北京に吹いた。そこで国務院が主導して治水管理の会議が開かれた。そして3年以内にイエン海に再び水が戻るべきだと強調された。
 しかし黒河流域管理局甘粛省代表は、私達記者の質問に対し、このような行政が結果だけを強調する方法に憂慮を示した。
 彼の考えでは、このような号令は一時的なもので、根本的な常時守るべき管理方法を決定すべきだと述べた。
 彼は例を出して、昨年水の分配問題で、7・8・9の各月に放水を停止したことを引き合いに出して、そのとき当地の農業に莫大な損失を出してしまった。一般民衆の間に30以上の衝突問題が発生した。
  
 3/20 晴れ
 砂漠周辺の黄河

 ウ海市郊外。黄河の岸辺。太陽は向こう岸に静かに沈もうとしている。その夕日は金色ではなく、冷たい白色である。それは砂塵の影響だそうだ。黄河の水は岸辺を離れること数百メートルの真ん中辺りのみに流れを止めている。露出した河床は雑草が一面に生え、それを草刈り機で刈って牛の餌にしている。棗の砂地に生える種類のものが、ただ一つ寂しく立っている。脚が草を蹴り、砂煙がもうもうと立ち、靴を取られてしまった。
 向こう岸は見渡す限り砂漠。ウランプホ砂漠。その巨大な砂漠がこの黄河の河床の中まで押し寄せてきているのだ。

 争議を起こしている喬木

 黄河に沿ったある国が昨年ウ海市に問題を投げかけた。
 その国の市街建設区で一種の喬木を育てていたところ、専門家達が学術的な問題があると言い出した。彼らによると、ここの指導者は形だけの良さを考えているが、もっと科学的な見地からの点検が必要だと言いだした。それがその後大きな論争となった。ウ海市のトップはマスコミの報道は事実と合わない、と言う。そその考えは今までずっと固持してきた。報道部の担当者が我々に新彊の楊とアカシアとウルシ等、植樹率のとても高い植物を見せてくれた。傍の溝には黄河の水がさらさらと流れ、見たところこれらは十分に育っていることが解る。
 しかしフフホトの専門家はやはりこれは一時的な現象だと主張した。内モンゴル環境保全局の担当者は生態上の改善に熱意を示しがら、今のやり方に強い憂慮を示した。彼は「生態建設」という言葉さえまるでトップは解っていないと漏らした。
 彼の指摘によると、生態建設と言いながらその実、環境破壊をしているという。例えば盲滅法に外地から繁殖力の強い植物を持ち込めば、その災害は必ず現れるという。大量に外地から持ち込んだ植物は、生物の群生の多様性を破壊するだろう。何処にどんな植物を持ち込んでも良いというのではなく、喬木でさえやはり慎重な選定が必要だという。彼が生態の自然の回復が大切であり、保護することが大事で、単なる建設では無いという。

 3/21 晴れ
焼け石に水

 マオウス砂漠に沿って、我々は何度も、そんなに大きくはないが、数10メートルの高さの砂塵を見た。イクチャオの職員が我々にその現象を説明するとき、顔色が全くなかった。「連続3年の大旱魃、有る地方では一滴の水さえ降らない、地下水の水位は昨年度は6メートルも下がった、植樹造林は増えてきているが当初予算の10分の1しか使われていない。まるで焼け石に水だ」
 マオウス砂漠の中にあったいくつかの村は黄色の砂に埋まり、村全体が河套地域へ移住した。

 3/22 晴れ
 砂に埋まった道路

 イクサの領内に一条の黄砂を被った長さ50キロの車道がある。これが当地の人達の誇る大規模工事である。3月22日、我々がウラブホ砂漠を越えるために、マオウス砂漠に沿って数千キロの不毛の地をやっと乗り越えてここまで来た。何というすばらしさだろう、車道の両側には1キロ強に渡って放牧禁止地帯があって、芦を格子に組んで黄砂の来るのを止めて、その他の木々が育つのを助けている。それら全体が将来、砂丘の移動がこちらへ来るのを必死に押さえようとしている。
 その上、途上のスバルと言うところで我々はやむを得ず停止した。それは前面が砂丘が囲いを突き抜けてきていて、車道を塞いでいたからだ。シャベルカーが今懸命に土砂をのけていた。管理員が言うには1998年の道路建設以来、これは初めての砂丘出現らしい。