2001/3/15 南方週末 記者 黄広明

 姚偉の心は復讐心で燃えている。彼は自分ではっきり自覚している。
「人の気持ちはその顔色に表れます。見てください、この凶悪な人相を」
と言いながら眼鏡を外して顔を見せた。以前と全く変わってしまったのです。
 以前とは8年前の1993年。彼は幼女姦淫罪の罪を着せられ入獄
することになった。
入獄後6年半して彼は無罪を宣告されたのである。

 天から降ってきた災い
 1993年、河北省郊外に住む姚偉はハンタン市に来て働こうとした。
生来楽観的な彼は別にその先を何も心配していなかった。
彼は一軒の家を借りた。その家の半分には別の家族が住んでいた。
 6月11日、その思わぬ事件が発生した。その日の昼時、姚偉は友達と酒を飲み始め午後少しして酔いつぶれた状態で眠ってしまった。
 彼が眠りに落ちる前に覚えていることと言えば、意識朦朧とした状態で友を送り、その後眠りこけ、そして目が覚めるまでの間にこの事件は起こっていた。
目が覚めたとき、辺りは既に暗くなっていた。彼は人にたたき起こされ、気が付いたとき、彼は居間のソファーの上で寝ていた。同じ家に住むお婆さんが真っ青の顔になって怒りを表して目の前に立っていた。「一体おまえは何ということをしてくれたのだ」
 彼は意味が分からず聞き返すと、お婆さんは「そこで待っていなさい」と言って急いで出かけていった。
 彼が家族の者にどうしたの、と聞くと、「大変だよ、あの婆さんが言うには、婆さんの小さな孫娘が下半身から血を流していて、それがおまえさんの所為だと言っているよ」
彼はソファーから飛び起きて、何を馬鹿なと思ったが、しかし自分は何も記憶が呼び出せなかった。
 1994年5月、河北省ハンタン市当区の人民法院では審理結果の発表があった。
1993年6月11日17時頃、被告は賃貸中の家において酒を飲み、隣室のお婆さんの孫娘5才が眠っているところを襲い強姦した。徒刑9年、政治権利剥奪2年を執行する。

 何が証拠か

 判決書類の中で唯一の証拠として取り上げられているのは、公安局刑事科学技術鑑定による、「被害少女の身体から取り出された精液からその血液を判定すると”AB”となっている。被告の血液も同じAB型である」
弁護人が取り上げた多くの状況証拠からは、彼を犯人とするには矛盾する事実が数多く存在した。その中で唯一の証拠が血液型であった。
 公安局の鑑定以前に、市の法医医院も同じ被害少女の身体を検査したが、精液は勿論何も発見することは出来なかった。
 実際被害少女の身体からはどんな残留物質も発見されなかった。
 従って、公安局が取り上げた証拠物件は、いかなる過程で如何にして作られたのか、偽証の可能性さえあるものだった。例え姚偉と精液が同じ血液型であっても決定的な証拠とはすべきではない。同じ血液型の人は無数にいるのだから。
 2審の判決書の中には、弁護人提出の諸矛盾については、これは矛盾とは認めず、と書かれている。

屈辱

 これまでの長い人生で、姚偉は自分が罪を犯したことが無かったと考えている。裁判記録の中には随所に「彼の態度は一貫して罪を認めようとしていない」と言う文字がある。 こうして彼は入獄することになった。彼は裁判途中のことを振り返って言う。「丸太ん棒で殴られたことは何度もあった。その苦痛で一睡もできなかった。本当に悲惨な状態だった」
 公安派出所から裁判所へ送られるその朝、自分の姿を見直した。
 パンツは科学検査の時に既に取り上げられていた。ズボンは幼児の使う股の空いたもので、これは警察が逮捕時のものを下半分引き裂いて作ったものであった。
(訳者注:中国ではおしめの習慣がない。幼児は股割れズボンをはいている)
 彼は両手で前後を隠しながら、この姿で通勤の人混みの中を、人々が笑っているのを見ながら、市中を引き回された。
 この時初めて彼は「屈辱」とは何か、を強く理解した。
こうして「幼女姦淫」の罪名の元で6年半の獄中生活を送り、彼は「もう既に羞恥心というものは自分の中にはかけらもない。破れたズボンをはいて街を歩いて、それがなんだと言うんだ。今日こうして街に出られるようになったが、何の恥も感じなくなってしまった」と話してくれた。
 彼は逮捕直後も、これは誤解によるもので、何時かは判ってもらえるものと信じていた。しかし検察院での審判開始の当日、これらの期待は見事外れた。「君が受け入れようと受け入れられまいと、それは当局には関係ない。君は起訴されるのであり、これが我々のやり方なんだ」と言う判決を聞いて、彼の心は絶望に突き落とされた。
ハンタン市法院の1審での審査中、彼は既に絶望していた。彼はもう既に何も言う気が起こらなかった。
 1994年11月、ハンタン市中級人民法院の第2審でも原判決が通った。
 12月30日、姚偉が最終裁決を受け取り署名をさせられるとき、かれは”私、姚偉は無罪だ”と書いた。

  監獄内外で

1995年初め、姚偉は監獄に入った。そして長い長い刑期を迎えた。監獄は本来自分を懺悔するところ。しかし彼には何を懺悔するべきなのか。監獄では政治試験が行われた。それらのひとつのテーマは「自分の犯罪を如何に考えるか」というものだった。彼は実際何を書くべきか、答えはなかった。どう考えても書くべきものは浮かんでこず白紙で提出した。
 ところが、彼の答案は成績第一として発表された。今、彼は複雑な思いで語る。「監獄では犯人が罪を後悔することは減刑を目的にして可能である。これは分かり切っている。しかし自分には減刑の願いは毛頭無い」
1995年夏、彼が獄中から何度も願い出ていた離婚手続きが通り、6才の娘は姚偉の父と母に預けられた。
 ”家族に幼女姦淫犯が居る”と言う噂は致命的である。1993年8月、これら世間の噂から逃れるために、両親はやむを得ずサカ市に引っ越しをした。こうして楽しかった家庭は沈黙のものに変わってしまった。
 娘の名前は姚”欣悦”であったが、姚偉の母が、もう再び”欣”も”悦”もそんな喜びを表す言葉は今後関係ないとして、新月(中国語では同じ発音)に改名した。

  思わぬ所から 

 姚偉の運命はひとつの偶然の事件から変わりを迎えた。1998年10月のある日 姚偉の父が所属する中国冶金公司が技術者の名簿を整理することになった。当然血液検査も行われた。父の血液型はBであった。母の血液もB型であることが判った。化学分析担当の母はここで考えた。両親が共にB型であれば、その子がAB型であるわけがない。
姚偉を犯人とする唯一の証拠は現場の幼女の上に遺された精液から検出されたAB型であった。
 彼の母はここに考えが及んで震えが止まらなくなった。母は急いで監獄に連絡を付けた。そこでは息子が5年以上の刑期を過ごしていた。監獄ではもういちど姚偉の血液検査が行われた。その結果はO型であった。再度別の医院でも検査が行われた。その結果もO型であった。
1999年3月、何ヶ月も費やしてやっと弁護人と連絡が取れ、このころその弁護人は天津にいたので、彼とは4年以上連絡が途絶えていたのである。5年を経過してこの事件が再度取り上げられ、中級人民法院とその関係部門へ再審理要求がなされた。
 訴えにより法院は重要証拠の根拠が崩れて再審理を決定した。しかし、この法院は審理をなかなか進めなかった。ある時は今は忙しいと言い、又ある時は今は出張中だと言い逃れた。本当に再審が取り上げられたのは北京へ直接訴えた後のことである。河北省最高高級人民法院は1999年7月19日に再審決定。ここが中級法院に再審命令を出した。1999年12月18日、中級法院が判決した。これまでの全ての有罪を取り消して、無罪とする。

 国家賠償

2000年正月5日、姚偉は深呼吸後大手を振って監獄を出た。6年半ぶりに戻った自由の世界。しかし彼の顔に感激の表情は微塵も現れなかった。
 「これはあまりにも遅すぎだ。神経が麻痺してしまって、何にも感動しなくなっている」。
 出獄後、一銭もなくなっていた彼は、市の中級法院へ国家賠償を求めて訴えた。 彼の試算によると精神的な損害抜きで20数万元に達していた。(日本円に直すには15倍する)
 賠償提訴後早1年経つが、何の連絡もない。市の法院担当官の一人、王少華は最高責任者が現在研究中と答えた。その後全く連絡はない。市の中級法院の法官の一人は、この免罪のそもそもの原因は、公安当局が血液検査を間違ったのでありそちらに責任があり、この事件は審判委員会が決定するもので、現在どうなるかはっきりしていないと言う。市公安局の刑事科学技術鑑定が6年半の誤審をもたらしたのであり、その鑑定した当人が責任を負うべきであると言う見解を述べたが、しかし現在まで何の進展もない。当社記者が各関係部門に問い合わせたところ全て拒絶された。

すっかり変わった生活

 2001年2月7日、巳年の正月15日、大雪が降ったあるとても寒い冬の日、記者は彼の住むサカ市に来た。彼と両親の家は引っ越してここにずっと住んでいた。
そこは70年代初めに建てられた古い形の宿舎で、周りの道路はぬかるみででこぼこしていた。彼が出獄後、両親とここに住んで以来、その部屋の広さは40平方mで彼と娘が一部屋、両親は客間を寝室にしていた。ひとつのベッドが部屋のほとんどを占めていた。
 彼の父の最大の心配は二つあった。
一つは彼が報復に走るのではないかということ。もう一つは生活の逼迫故に何をするか判らないことであった。
 父が息子について語る所によると、以前は朗らかで、冗談もよく言い、又良く笑った。少し怒りっぽいところもあったが、現在ではいつもいらいらして直ぐ怒りだし、何かを恨んでいる素振りはいつも顔に現れている。
「私が常に心配しているのは、彼が何もしでかさなければ、それはそれで又問題と考えている。危険な状態が続いているということだから」
 又ある面で姚偉には現実を逃避しようとする心理も現れている。彼は人に会うと、直ぐに昔の占いに関する諺を持ち出して語り始める。自分が遭遇した事件について、これは自分のやむを得ぬ天命ではないかと言ったりしている。
事件前は総じて楽観的だった彼が、今は何事も信用しなくなっている。
彼の父は65才で一生を国有企業の中で過ごしてきたが、しかし息子の事件発生後は、免罪を証明するために金を貯める必要が出来、定年後も弱った身体にむち打って臨時工として働いている。
 母の希望は簡明である。もう再び忌まわしい事件のことは忘れて、これからは次第に普通の状態に戻っていけば、それで彼女は充分満足だという。
  姚偉は仕事を探しても見つからず、一日陰気な顔つきで街をうろついており、両親の気持ちに大きな不安をもたらしている。

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 編集を終わって:
 免罪が一人の個人を如何に悲惨に変えてしまうものか。そしてそのため、恨みと敵討ちの気持ちが充満して、やがてどんな暴力行為に、或いは非理性的な行為に走るか計り知れない。我々は姚偉の事件が多くの法を裁く人達の良心と責任感の向上を求める。
同時に、我々は現代社会の理性と秩序を守るために、姚偉の心の中に渦巻いている悶々たる復讐心が無くなることを期待している。そのためにこの6年半の免罪による刑期を賠償されるべき権利を持っていることを法律的に明確にし、もって昔の健康的な生活に戻れるようにするべきだと考える。
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現憲法を考える

 刑事被害者の補償制度

 刑事事件での被害者は全くの不幸だ。法の規定によると犯罪人を追求する権限は国家権力の具体化である裁判機関の下に執行されることになっている。もし刑事被害者が出れば、当人はその受けた経済的損害に匹敵する賠償を民事訴訟によって受ける権利を有するはずだ。
 民事事件では犯罪人の責任を追及し、その弁償を求める。しかし犯罪人自身にその弁償能力が無い場合、損害の弁償は困難となる。これは被害者にとって極めて不公平だ。
 これらの問題を根本的に解決するには、我が国の法律専門形の一部で考えられているのは、国家による損害補償制度である。ニュージーランド、英国、スエーデン、(前)西ドイツ、オランダ、フランスなどの国では既にこれらの国家による補償制度が存在している。補償制度は刑法に書かれている。刑法の任務は犯人を逮捕し、人民を保護することである。逮捕は手段で保護が目的である。もし逮捕のときに人民の権利財産の保護が出来なければ、これは執行制度の不備である。長年に渡って治安情勢の悪化が続き、事件発生が増加し、従って我々は犯人逮捕を強調してきた。その仕事は国家の責任だ。刑法の主目的は犯罪撲滅にあるが、犯罪人とその被害者との関係においては、被害者に関する損害補償が軽視されてきた。法律上、犯罪と共に起こった被害者への補償と損害賠償がまだ認められていない。
 被害者の補償については、本来は犯罪者自身が負うべきである。これは自明の理である。司法機関は犯罪撲滅に当たって犯人追及のみの傾向にあった。しかしこれからは被害者の経済損失の挽回にも勤めるべきである。

 その犯罪人が弁償能力が無い場合、もしくは不足の場合、国家がそれを補償すべきではないか。
 困窮な状態に落とされた被害者が、それらの諸々の条件で社会的弱者にされてて行く状態は、その社会の文明程度を表すことになる。従って国家はその状態を無視することは出来ない。国家が引き受けるべきこれらの責任は、各級政府の具体的な執行体制に具現されるべきである。政府には税収の安定化という面から予算が作られている。今後は当然賠償のことを考えて、それも予算に入れるべきである。もし政府がその義務を執行しないなら、被害者は誰に補償を求めることが出来るのか。このような見地から、補償制度が出来て初めて、いかなる被害者も補償を受ける権利が出来る。
 当然、国家によるこのような補償制度は、社会保障体系の一環であるし、社会保障基金の確立をも促す。
 被害者への補償制度が明確に憲法に規定されれば、刑事訴訟の各種事例においても被害者は当然の権利を有すると言える。
こうしてはじめて、もし司法機関やその関係者がこれらを疎かにした場合、被害者は法的手段を持って訴えることが出来る。
被害者補償制度の確立に当たって、一般に被害者は困窮に陥るので、実際上社会全体で平等にその権利を行使できる一種の保険制度が必要ではないだろうか。

 
免罪が一個人を如何に
変えてしまったか