「張志新」免罪にまだ
ある秘密
       南方週末 2000/6/16

 九八年八月に第一回発表した
「張志新」の記事について広範な
読者の反響を呼んだ。今彼女の
死後二五周年を迎え陳少京氏の
記すところの更なる真相をここに
お届けする。

1。張志新はなぜ殺されたか

 今年は彼女の犠牲死から二十五周年。二十五年前「張志新」は瀋陽で喉を切られた後銃殺された。一九七九年の春、この事件が無実であることがわかって、世間を震撼させた。ただし当時は社会がまだこの種の事件を全部は公表させなかった。当時、写真を撮り記事を書いた陣兎山氏がその間の事情と新しい秘密を公開した。
 陣氏が言うには、彼女は「文革中」林彪に反対して、四人組に殺されたことになっている。
しかしこれでは事実をほとんど理解できない。
陣兎山の報告書の中には次のように書かれている。
 彼女は祖国を領袖する毛沢東に対し、かっての偉大な業績をたたえると同時に、現在の疑問のある諸政策にたいし彼女の意見を熱意と階級的な感情を込めて発表した。
 
 「中国の党は誕生以来、及び新中国建国以来の初期におけるそれぞれの段階において、毛主席は正しい路線を堅持してきた。毛氏の偉大さは否定しようもない。しかし建国以降、彼でも間違いを犯している。その典型は大躍進政策に現れ、客観的な条件を無視し、ただ「連続革命」を強調している。そして社会に欠陥や間違いが現れてきた。これは彼・毛氏が左に傾いた誤りだと思う。
 その結果情熱は高まったが科学的態度が無くなり、謙虚や民主主義が弱まり、左傾した勢力が強まった。
 具体的に言うと林彪副主席が毛主席の左傾化路線をいっそう推し進め、左傾化の誤りを阻止できなくなった。その後社会的に巨大な問題、挫折と損失が発生している。誰もが将来を憂い不安になっている。
 こうして文革が始まったが、これは建国以来の左傾化の誤りである。現在の文革は党内から始まり党外に及び、社会のあらゆる物を破壊している。その路線党争はセクト主義となり人身攻撃を行い、大衆運動の形を借りて歴史上に例のない大規模で残酷で無情な闘争となっている。これは党の団結、国家の統一を破壊している。国家の正常な建設を阻害している。」
 
 張志新がこの意見を発表したのは一九六九年八月で、文革が中国全土を席巻している最中であり、一個人への盲従、一個人への崇拝がはびこっている時である。彼女は組織の会議で、脅迫の雰囲気の中でこの意見を言い切った。

 十年後、党は彼女の意見と分析は正しかった、先覚的意見だと表明した。本来は有罪ではなかった、彼女の不幸は有るべからざる時代の悲劇だと表明した。

 張志新はさらに言う。個人への盲従、個人への崇拝は、現在社会のあらゆるところで毛沢東への「忠」という文字となって張り巡らされている。過去の封建社会には「忠」が強調された。しかしなぜ現在「忠」なのか。かって人々は神や鬼を信じたが現在の私達がなぜ「忠」なのか。その人は党の上に聳えている。 

2.
 張志新は一九六九年一月九日遺書を書いて自殺を図った。これが直前に発見されて厳重監視となり「批判闘争」会に引き出され「死を持って党に反抗しようとした」と批判された。 
 張志新は批判大会で遺書の真意をただされた後、自分の意見は夫の曾真とは無関係だと主張し、彼とは離婚する考えだと述べた。
 同八月彼女は逮捕され、瀋陽の刑務所に入れられた。家族や親族との面会は拒絶され、世間とは隔絶の身となった。
 
 同十一月、同時に監視処分となっていた曾真は建昌という農村に戸籍が移された。夫は二人の子供を連れて瀋陽を離れた。一九七〇年八月張志新は無期の刑を言い渡され、瀋陽の強制労働改造所に入れられた。一年少し後、曾真は離婚届を書かざるを得なくなり、この届けの写しが彼女のところに回ってきたとき、彼女は平然を装って「離婚はすでに自分とは関係がない」と言った。
 張志新は”反革命分子”として七五年四月四日銃殺されたが、家族親族には入獄から死ぬまでの一切が知らされなかった。夫の曾真は十年という長い年月の後、九死に一生を得て二人の子供を成人するまで育て上げた。七八年春、彼と二人の子供は瀋陽に戻ることが許された。(七六年文革終了)

3.
 一九六九年九月二四日張志新は監獄に投入された後、虐待と暴力の限りを受けた。十二月二五日、張志新は党に加盟後二十五周年の日を迎えていた。この日を祝って彼女は「迎新」という詩を書いている。これが見つかって、獄吏の殴打を受け、凌辱された。そして紙と鉛筆を取り上げられた。悲憤慷慨のあまり、小さな木ぎれを使ってトイレ用紙に次のような告発書を書いた。
 
 詰問。告発、弾劾書。聞け、専政の責任者よ!
  1,なぜ私から鉛筆を取り上げるのか。批判大会の私の言動が悪かったからか、それとも忙しくて私のことを忘れたのか。もし私に鉛筆を与えるのが怖いのなら、そんな考えは無意味だ。私の鉛筆はあなた方の銃で取り上げられた。しかし銃で鉛筆を取り上げるやり方は永久には続かないでしょう。
  2,自称無産階級の代表という党の責任者達、いったいどこが無産階級といえるのか。未完の革命詩歌を取り上げる口実で凶行殴打を繰り返し、女子政治犯を凌辱するおまえ達!おまえ達は一人の女性党員を好き勝手に凌辱して良いのか。凶行、脅かし、罵しる者達よ、おまえ達には法というものが無いのか。私は党と人々とに訴えます。私は糾弾します。君達だけが法というものから逃げることは出来ないのだ。
  3,君達の獄吏は何の理由もなく女性を凌辱して良いのか。
  4,君達の管理下にある獄房ではどんな悪辣な手段を使って政治犯を虐待してもよいのですか。ここの長として、責任を逃れることはできないことを覚悟しなさい。
  5,獄房の責任者として、いつまでも政治犯に圧力をかけ続け、生理用品も取り上げるあくどいやり方が許されるのか。
 おまえがもし無産階級なら何故真理をおそれるのか。無産階級の党の執政官が政治犯を殴打し、凌辱し、生活面で虐待し、狡猾なやり方を続けるのか。
 おまえはいったい何処の無産階級なのか。
 君達はこのような卑劣な手段を使って恥の上塗りをし、革命家の意志を軟化させ、誤った路線に従わせようと言うのか。
 このやり方自体が、君達に真理がないことを証明している。真理の前で手をつかね、無能をさらけ出し、そして何も得ることはないでしょう。
 おまえに教えておこう、もし革命を順調に進めるために、まず失敗と犠牲が絶対あり得ないなどと考えるとしたら、その者は決して革命家ではない。一人の党員として、誤った路線のために迫害され、党から追い出された状態の女性の党員。家族から切り離され、この複雑先鋭な状況の下、種々の失敗欠点失策はさけられないことは解りきっている。これらは進行の過程で克服されうる問題であり、常に自身を高める覚悟が必要です。闘えば闘うほど強くなるのです。これは常に真理を求めているからです。これこそ本来の党員の態度ではないでしょうか。それに対して君達は一体どんな態度をとっているのか。

4.
 記者の陣兎山の説明はまだ続く。

 張志新は二度の判決で死刑を宣告された。第一は七十年五月十四日。
 中級人民法院の審査官は回顧して言っている。
 彼女は六十九年の逮捕後、直ぐに罪を認めていれば数年の刑で釈放されていただろう。しかし彼女は罪を認めなかった。そして死刑に同意した。そして高級人民法院へ送付した。
 当方院の担当官は死刑確定後、回顧して言っている。彼女は口だけを動かした、手は動かしていない、これは犯罪として立件するだろうか。
 「文革中、右傾化はすなわち敵」であった。この高級法院担当官も、当時は彼自身の気持を会議上で表明することはできなかった。
当時「右」よりは「左」に傾くことが良いとされた。担当官は今更右に傾くことはできないと考え、二年以上の刑を決定して、これを上級に具申しようとしたが、自分が右傾していると批判されかねないので、刑を最大に重くして十五年とした。こうすれば自分が右傾していると誰も思わないだろうと考えた。しかし軍委員会の代表にこのことが知れ、ここで書き直され、結論は死刑。即執行と決定。これに対し、各級法院は反対意見を表明することは無かった。
 その後軍司令部は反面教師として生かしておくことがよいとして、無期懲役と改訂。こうして瀋陽での強制労働改造所送りとなった。

 一九七三年獄中での「批林批孔」大会に犯人は参加した。これは林彪と孔子の右寄りを批判する大会であったが、この席ですでに精神異常となっていた張志新は大声で「中共極右路線の総元は毛沢東」だと叫んだ。この結果張志新は反動の立場を固守し、また重罪を重ねたとして死刑を宣告、即確定。七五年二月二六日、遼寧省市党の拡大会議の席で彼女の件が議論された。出席者は一七人。議題は「反革命犯張志新」
 そのときの発言。「彼女は反動の極限だ」「無期決定以降ひたすら反動を続けている。死刑に相当だ」「それが当然だ」「服役期間中一貫して反動を行ってきた。一日延びれば一日反動を行う。殺してしまおう」「そうすればさっぱりする」「そうだ」
七五年三月六日監獄は彼女が「精神異常ではない」と上級に報告。彼女の本質は変わっていないとして、執行を要請。四月四日、張志新は瀋陽で死刑執行された。

5.張志新が夫に与えた訣別書

 彼女は一九五〇年中国人民大学で働いている頃、夫「曾真」と知り合った。その年朝鮮戦争勃発。彼女は河北師範大学に在学していたが、党の「米国に抗し、朝鮮を助ける」呼び掛けに答え、筆を捨て軍に志願参加。そのころロシア語の翻訳家が必要であったので、張志新は中国人民大学ロシア語科へ回された。五二年卒業に当たり、学校に残って働くことになった。曾真は当大学哲学科の書記であった。そして二人は出会いを重ねるうち愛し合うようになった。五五年結婚し、五七年瀋陽での仕事に移った。二人にはやがて二人の子供ができた。彼女が反革命分子となった六九年の時は、上の女の子が十二歳、下の男の子が三歳であった。
 そこで彼女は夫に決別書を書いている。

 結婚して一四年、産まれた一男一女にたいし、私は充分なことを出来ませんでした。あなたが変わって育ててくださるようお願いします。長女の「林林」には我慢強く、女の子は年が経つほど問題もあることでしょう。でも大事にしてやってください。決して早婚を選ばないように。母親として子供達には済まないと思っています。もうすぐ春節ですね。これまで私の至らないくせに子供をしかったこともあります。でも悪く思わないでください。よく勉強し体を鍛え、我慢強さに欠ける欠点を直すよう言ってやってください。そして弟の面倒をよく見るように。嘆いたりしないで、強く生きてください。
 この十数年私はあなたをよく愛せないで来たかも知れません。でももう全ては終わりました。私のことは全て忘れてください。新しい生活を選んでください。あなたにと思って貯めた少しのお金、これは不断から貯めていたものです。両親か又は母が病気の時にお使いください。もしそれに役立てば、私のたった一つの親孝行かも。でもこのことは決して親には言わないでください。このことを聞くと直ぐまた病気になるかも知れません。出来たらこの三ヶ月の間十五元づつ送っていただきたいのですが。でもだめかも知れませんね。お身体を大事にしてください。そして革命のためにも自分を大事にしてください。

 私は両親には手紙を書きません。もし子供の面倒をみる人がいないのでしたら、天津に預けてはいかがでしょうか。もし身体の都合で無理なら「何」おばさんに頼んではいかがでしょうか。毎月の出費が増えますが毎日の肩の荷は少しは楽になるでしょう。とにかくあなたしか子供を育てる人はいないのですから。子供達をよろしくお願いします。本当にあなたには申し訳有りません。
 この十数年党には充分に報いることはできませんでした。私達の生死は全て革命のためにと思ってきましたから。革命のために全てを捧げようと。
 これまでも沢山の過ちをしてきたかも知れません。もし許されないのなら進んでもっとも厳格な刑を受けましょう。恨み言は何もありません。
 正しい革命事業は永遠に前進し続けるでしょう。ああその麗しい未来のために歓呼します。その前進と勝利万歳。
 その未来に少しでも力を注ぐことが私の願いです。その路が間違っているかどうかは、私が決めることではなくて党と人民が決定してくれるでしょう。その決定に私は何の不服もありません。
 中国共産党万歳!
 偉大な祖国万歳!
 毛主席万歳!
  志新
一九六九年一月五日晩
 しかしこの手紙は日の目を見ずに保管され、家族に渡されたのは十年後であった。夫と二人の子がその手紙を見たとき、涙と悲嘆の極みであった。

6.死刑囚家族の学習

 陣兎山の記憶によると、彼は七九年初夏、張志新の娘「林林」を訪問している。娘は死刑囚家族学習会の模様を陣兎山にこう語った。
 ”七五年初春のある日、大雪の日でした。瀋陽の裁判所から二人の人が来て、林林と弟が学集会に参加するように父に通告しました。
 父は二人の子供を連れてあの大雪の中を刑務所に向かいました。中に入ると少し暖かい空気が流れてきましたが、でも心の中は震えが止まりませんでした。気持ちは屋外の大雪より冷たくなっていたからです。
 法院の二人は私達を座らせ、学習会の開始を告げました。その一人が「毛主席語録」を取り出しある部分を読み上げました。その内容は今でははっきりとは思い出せません。が、階級闘争とか、一切の反革命を断固鎮圧するとか言う言葉がありました。
 その後母の話になり、父に何かを聞いていました。父は、数年前にすでに離婚していて、法院が二人の子供を父に預けたと説明しました。法院の人は私に聞きました。「君は監獄で母が何を話したか知っているか」と。私は首を横に振りました。本当に私は何も知らなかったのです。当時私が聞いていたのは、母は反革命だと人が言っていたことです。何故母が反革命か私にはわかりません。母が獄に入って直ぐ、父は衣服を届けに行きました。でも面会は出来なかったそうです。叔父が北京から来て面会に行ったときも許されませんでした。母が逮捕されて以降、家族との連絡は一切途絶えていました。だから獄内のことは全く何も解りません。
 法院の人は大声で「君の母は極めて反動だ。改造を受け入れない。頑固一徹だ。偉大な毛主席に反対している。負けを知らない毛沢東思想に反対している。無産階級革命路線に反対している。罪に罪を重ねたので、政府は現在加刑を考慮中だ。もし極刑になったら君はどうするか?」
 私は頭がぼんやりしていました。どう答えたらよいか解りません。心臓が砕かれた思いでした。でも私は背筋を伸ばして、父に前もって言われた通り涙が出ないようにしました。でないと母に如何なる迷惑がかかるか解らないからです。
 父が私に変わって答えました。「どんな状況になろうと、全て政府にお任せします」
 法院の人はまた尋ねました。「極刑の場合遺体は引き取るつもりか。彼女の身の回り品を引き取るつもりか」と。
 私は頭を下げたまま黙っていました。すると又父が私に代わって「私達は何も要りません」と答えました。
 法院の二人はそれ以上何も言わなくなり、二人でひそひそと話した後、何かを記録し、一人が私に教育を始めました。私達二人の子が良い教育を受け、党の政策を重視し、母とはっきりと決別すること。そして母が犯している思想を説明しました。
 私は何時も学校で習っている先生が言っている通り答えました。でも正確には何を言ったか思い出せません。
 そして又法院の二人は相談した後、私に書類へ署名と捺印をさせました。こうして学習は終わりました。この間弟は父のそばで何も言わず、しがみついていました。
 帰路ぴゅうぴゅうという風雨と豪雪の中を父は私達子供をつれて帰りましたが、その夜は食事を作らず、わずかに残っていた餅を子供に半分ずつ食べさせて、「食べたら直ぐ寝なさい」と言いました。
 私はオンドルの側で弟と寝ていました。父は私達が寝てしまったとみて、ゆっくりと立ち上がり小さな箱から母の写真を取り出しました。何時までもじっと見つめている父の顔にやがて涙が出てくるのが見えました。私は床から抜けだし父の首にしがみつきました。そして大声で泣き出しました。父は「泣いてはだめだよ。もし近所に聞こえたらどうするんだ」と言いました。やがて弟も目を覚ましてしまいました。そして三人は抱き合って何時までも何時までも泣き続けました。でも出来るだけ大きな声が出ないように気を使いながら。
  。。。。”
 このような痛ましいことがこの世にあるだろうか。黙って聞くことさえとても普通の人には出来ないことだ。
 この学習会で瀋陽法院の人が作成し、林林に署名と捺印をさせた原本の写しが、後ほど発見されて今手元にある。
   
林林「ただ今聞きました張志新が犯した反革命の罪について、初めは私に影響を与えましたが、しかし今は大丈夫です。この学習によって認識を高めました。母子と言えども階級性を持っています。母が私を生んだとしても、母が反革命なら、もう母親ではありません。私の敵に変質しています。母は党に反対し、毛主席に反対しました。今は徹底して母と闘わねばなりません。私は最近、学校の教師と父の指導の下、母が反革命であることを学習しました。私と母とは住む世界が違うのです。以降私の成長に影響を与えることはないでしょう。」
 質問「張志新はもう反革命の決心を変えようとはしない。その罪は極刑である。それについてどう思うか。」
 林林、タンタン「断固抑圧すべきです。母を死刑にして人民から害を除くべきです。私たちは遺体は要りません。政府の考えどうりに処置をしてください。母の遺品の品物も私たちには必要有りません。政府のご処置にお任せます。」

 そのとき林林は十八歳弱、タンタンも十歳に満たなかった。