編集後記2000
四月の魚
イタリアでは四月馬鹿のことを「四月の魚」と言う。アッバードがミラーノに還ってくるという噂がイタリアの一部で流れ、狂喜した人も多かったそうだ。資料館が魚と化してしまわぬよう地道な情報収集と編集作業を続けていきたい。
開設に当たってまず年譜と来日公演記録を作ってみた。いずれも、どこにでも載っていそうなものであるが、実はきちんとまとめられたものが意外に少ない。年譜はまだ不備な点もあるものの、いずれは、アッバードの八面六臂の活躍が、その時代、その場所における音楽・文化・社会という文脈のなかで見通せるようなものを完成させたいと考えている。また、海外文献のページでは海外誌に掲載されたインタヴュー二つを日本語で紹介した。
この資料館の主眼は言う迄もなく公演記録であるが、過去のオペラ・演奏会に関する正確な記録を入手するのはなかなか困難である。各歌劇場・オーケストラのアーカイヴにはあるのだろうが、現地調査までは編集子も手が回らない。ラ・スカラは1964年以降のオペラ公演についてはネット上でアーカイヴを公開している。その他の歌劇場・オーケストラでもこうした企画がないものであろうか。
インタヴューの翻訳へリンクを張らせていただいたベルリン・フィルの部屋の最上英明様に改めて御礼申し上げます。また、海外での公演記録をお持ちの方、御一報いただけましたら幸いです(一回分のプログラムだけというのも歓迎いたします)。
(2000年4月2日 編集子)
多言語主義
英語第二公用語化論なるものが存在するが、このサイトは多言語主義である。日本人のための資料館と謳いつつ肝腎のデータが欧語なのには理由がある。楽曲の表題や作曲家・演奏家の名前は言語で表記する方が利用しやすいというのが最大の理由であるが、もう一つは、原資料を引き写す際に一々訳す手間を省きたいからである。従って、ラ・スカラの公演記録はイタリア語、ベルリン・フィルのそれはドイツ語である。ところが、来日公演記録やディスコグラフィとなると多言語が入り乱れることになる。欧米人の目には甚だ見苦しいかも知れないが、一方、こうしておけば日本語を介さぬ人にも利用できるという利点もある。音楽愛好家の世界での第二公用語は必ずしも英語とは限るまい。
ディスコグラフィは漸次公開するつもりだが、入力作業が追いつかない。とりあえずベートーヴェンのみ公開した。演奏家に無断で作成した所謂海賊版は含めていない。
(2000年4月8日 編集子)
リュッケルト
ラ・スカラ公演記録を作成していたら、マーラー『アルトのための6つのリュッケルト歌曲』という記載に出くわした(1970年10月)。マーラーの歌曲のうちリュッケルトの詩によるものは、『亡き子をしのぶ歌』と所謂『リュッケルト歌曲集』の10曲だろうが、この演奏会でマリリン・ホーンが歌ったのはそのうちのどれだろうか。一方、ベルリン・フィルでは1967年にマーラー『最後の(或は最近作)5つの歌曲』をフィッシャー=ディースカウとやっているが、これは、『最後の7つの歌』として出版された歌曲集のうちの5曲という意味だろうか。この歌曲集は、『角笛』からの2曲と『リュッケルト歌曲集』を合わせたものだが、いったいフィッシャー=ディースカウは何を歌ったのか。編集作業をしていると次々とこうした疑問が出てくる。こうした細部をはっきりさせておくことは、アッバードの記録を残すという意味だけでなく、マーラーの演奏史を辿る上でも重要だと思うのだが。とりあえずそのままにしてあるが、今後も可能な限り細部を明らかにする努力を続けていきたい。
ラ・スカラの公演記録は、山本浩未様に提供していただいた資料(該当ページ下端を御覧下さい)をもとに作成しております。貴重な資料をありがとうございました。また、田川啓子様からは1992年以降のザルツブルク夏の音楽祭のプログラムを御提供いただきました。順次公開していきたいと思います。また、このサイトは、上記のお二人の他にも、かねてから交流を持っておりますアッバードの音楽を愛する友人たちに支えられて運営しております。この機会に皆様に御礼申し上げます。
(2000年4月12日 編集子)
ヴォツェック
アッバードはラ・スカラで『ヴォツェック』を二度取り上げている。1971年に、ミトロプーロス以来二十年ぶりにこの作品を取り上げ、さらに1977年と1979年に別の演出により上演している。1971年の上演の際には、同時期にピッコラ・スカラでビュヒナーの『ヴォイツェク』を取り上げ、1979年には、ブーレーズ/シェローによる『ルル』も含めたベルクのツィクルスの一環として上演している。同種の試みをアッバードは繰り返しており、八十年代にヴィーンで同曲を指揮した際には、ブルク劇場でビュヒナーの『ヴォイツェク』が上演され、さらに九十年代にはベルリンでベルク=ビュヒナー・ツィクルスを組んでいる。他にも、公演記録を詳細に見ていくと、この指揮者が若い頃から一貫した問題意識を持ち続けていることを示す記録が多々見られる。例えば、ムソルグスキーの合唱曲がプログラムに出現した跡を辿ってみていただきたい。
ベルリン・フィルの部屋の最上英明様にベルリン・フィル定期とザルツブルク復活祭音楽祭の資料をいただきました。資料館発足直後から支援していただきまして感謝しております。ベルリン・フィルの公演記録が1968年からいきなり1993年に跳んでいるのはそのためです。いずれ空隙も埋めていきますので御海容のほどお願い申し上げます。
今日は復活祭音楽祭の幕開け、『シモン・ボッカネグラ』の初日です。
(2000年4月15日 編集子)
火の詩
アッバードがベルリン・フィル定期でプロメテウスをテーマにした演奏会を開いたのは衛星でも放映されたから御存じと思う。あのなかにスクリャービンの交響詩『プロメテウス、火の詩』が入っていた。フィルハーモニーに照明装置をつけてスクリャービンの指示に従って色彩を投影した映像を憶えておられるだろうか。実は、アッバードが最初にこのアイディアを実現させたのは、1972年、ラ・スカラにおいてである。どのようなものだったのかは知る由もないが、おそらく、ミラーノ時代に既に試みたことをベルリンではもっと洗練された形で実現したのだろう。
同じ頃、ラ・スカラでノーノ『力と光の波のように』を取り上げている。世界初演がこの頃だったと思うが、参照したラ・スカラの資料には初演との記載はなかった。その前にどこかでやっていたのかも知れない。
資料館のフレームの色はいろいろいじっているうちに、結局、学会用ブルースライドの如き凡庸かつ無難な配色に落ち着きました。スクリャービンのようにはなかなかいきません。
(2000年4月17日 編集子)
ヘルダーリン・ツィクルス
1993年2月にベルリンで行われている二つの演奏会は、いずれもベルリンでのヘルダーリンをテーマにしたツィクルスの一環として行われたものである。このうち室内楽ホールでの演奏会は、他に、ヘルダーリン『ヒュペーリオン』の朗読、ブルーノ・マデルナ『ヘルダーリン』、ハインツ・ホリガー『スカルダネッリ・ツィクルス』等を含んでいたが、紛らわしいためここにはアッバードが参加したものだけを記した。前年に引き続きノーノ『プロメテオ』の一部を指揮したほか、クルタークの作品ではマエッラ・シュトックハウゼンとともに自らピアノを弾いている。なお、ベルリン・ツィクルスは、アッバードの芸術活動のあり方を考える上で大変興味深いものであり、その詳細についてはいずれ何らかの形でまとめたいと思っている。
復活祭音楽祭での『シモン・ボッカネグラ』(最新情報の項に配役表があります)は現地でたいへん好評のようです。Berliner
Zeitung紙にインタヴューがでています(海外文献の項を御参照下さい)。いずれ邦訳を掲載したいと思います。
平田由香様からユース・オーケストラを含む海外公演の資料をいただきました。ありがとうございました。ユース・オーケストラの項は準備中ですがいずれ掲載する予定です。
(2000年4月20日 編集子)
「すべてを達成したわけではありません」
4月15日付Berliner Zeitungに掲載されたインタヴューを紹介しておいた。ザルツブルク復活祭音楽祭の直前に取られたものと思われるが、内容は『シモン・ボッカネグラ』とは直接には関係がない。むしろ、二年前にベルリン・フィルを辞任する意志を明らかにしたときに敢えて語らなかったことの一端が今ようやく明らかにされたという感があり、ベルリン・フィルだけでなく一般に一流オーケストラ・歌劇場が置かれている状況に対する手厳しい批判が述べられている。アッバードが近年エクサンプロヴァンスやフェッラーラ・ムジカでのオペラ上演をはじめとする若いオーケストラとの仕事に以前にもまして力を注いでいる真の理由もここにあるのだろう。なお、一箇所そのままでは文意が通らないと思われる箇所があったが、敢えて訂正しなかった(文中に記載)。
山本博史様より演奏会記録をお送りいただきました。ロンドン響やシカゴ響の記録が含まれております。いずれ御紹介いたします。インタヴューへの御感想などもお気軽にお寄せ下さい。
(2000年4月23日 編集子)
「音楽をよりよく、より深く理解することができる・・・」
音楽にはつねに新しいものを見出すことができる、自分の愛する音楽を一回の演奏会で終わりにしたくない、さらに先へと進みたい、とアッバードは語っている。これは何も『トリスタン』のような大曲に限ったことではない。演奏会記録を丹念に追っていくと、一般的に必ずしも取り上げられる回数が多いとは言い難いレパートリーで、アッバードが若い頃から好んで繰り返し演奏している曲というのが次々と見つかる。例えば、ヴィヴァルディの協奏曲ト短調「ドレスデンのオーケストラのために」(ペルゴレージ『スターバト・マーテル』とともに取り上げていることが多いようだ)、ベートーヴェンのアリア『おお、不実なものよ』など。ベートーヴェンの序曲の中では『プロメテウスの創造物』を昔からよく演奏会のプログラムに入れているようだ。こうした細かい点にも着目していただくと新たな発見があることと思う。
さて、資料館も開設より一箇月になります。細々と存続して参りましたが、アッバードのインタヴューを掲載した後二三日は普段よりアクセス数が多かったようです。今後も地道に演奏会記録の更新に努める一方、機会があればこうした記事も掲載したいと思います。海外誌のインタヴューなどお持ちの方がおられましたら御協力いただければ幸いです。もちろん古いものも大いに歓迎いたします。
(2000年4月29日 編集子)
シュトックハウゼン
1976年11月3日、ラ・スカラでシュトックハウゼン『グルッペン』のイタリア初演が行われた。世界初演の約二十年後のことである。イタリア初演はラ・スカラの演奏会シーズンの定期公演であるが、興味深いのはその直後の11月8日の公演である。これは、「我らの時代の音楽」と銘打った演奏会だが、『グルッペン』の後にモンテヴェルディのマドリガーレ「唇よ、何と香しく」が演奏され、続いてシェーンベルクの作品、最後に再び『グルッペン』である。おそらく、二回目の演奏の前に座席を入れ替えたものと思われる。こうした、現代音楽とバッハ以前の音楽との組み合わせをアッバードは好んでいるらしく、後にヴィーン・モデルンでも『グルッペン』とジョヴァンニ・ガブリエーリを組み合わせていた。余談だが、「唇よ、何と香しく」はモンテヴェルディの作品の中でも特にアッバードの愛する曲であるらしい。ベルリン・フィル定期で取り上げた時も『グルッペン』と一緒であった。放送もされたから、お聴きになった方も多いと思う。
(2000年5月2日 編集子)
ビートルズ
イタリアのCorriere della seraがザルツブルクでの『シモン・ボッカネグラ』の後にアッバードの談話を取っている(4月17日付)。『シモン』は2001年にパルマとフェッラーラでマーラー室内管弦楽団と上演し、2002年にフィレンツェ五月音楽祭でもやるそうだ。最近イタリアでの仕事が増えているが、今月はベルリン・フィルとアルゼンチン、ブラジルに初めて演奏旅行をするし、フェッラーラでの『コジ・ファン・トゥッテ』はキューバで公演するそうだ(出演者は無報酬)。Berliner Zeitungのインタヴューで触れられていたベルリン・フィルとマルサリスの共演の話も出ていた。ストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチ、ガーシュウィン等、ジャズに影響を受けた音楽と一緒に演奏するという。ロックは、との問いに、「スコーピオンとの共演は受け入れがたい、金のためになされたことだ。ジャズやロックと一緒にやるのも時には良いが高い水準でやるべきだ、ビートルズがそうだった」と。
日本語表記の方が良いという御希望もいただきます。日本語にした場合に最も困るのは人名の表記です。人名や難解な現代曲のタイトルのみ原語表記にするという方法もありますが、日本語と、ウムラウトやアクセントの入った欧文を同じページに混ぜると、ブラウザや機種により文字化けが起こります。そういうわけで、ムソルグスキー『はげ山の一夜』がドイツ語になったりイタリア語になったりしておりますが、御海容のほどお願い申し上げます。
ベルリン・フィル演奏会記録、初期の数年分が抜けておりますが、1979年以降の分は着実に進んでおります。1994年の演奏会形式の『エレクトラ』に関しては、出演者の名はわかっているものの、端役に関しては誰が何を歌ったのかわからないため空白にしておきました。もし、ベルリンでお聴きになって当時の記録をお持ちの方がおられましたら教えていただけませんでしょうか。昔アッバードの録音予定が発表された中にこのオペラが入っていたため、『エレクトラ』狂の編集子は大いに喜んだのですが、実現しなかったようで甚だ残念です。ドキュメント番組でさわりだけ聴いて涙したものです。かかる次第ですのでお聴きになった方、話だけでも聞かせていただければ幸いです。尚、基本的にベルリン・フィルの年間公演プログラムに適宜修正を加えていく形で編集しておりますので、実際に演奏された曲目が異なることもあるかと存じます。お気づきの点があれば御教示いただきますようお願い申し上げます。
(2000年5月4日 編集子)
『ドン・カルロ』
1977年から1979年まではラ・スカラ二百年祭のためのたくさんの催しが行われ、アッバードもヴェルディの四作品とノーノ『愛に満ちた偉大な太陽に』を指揮している。このうち、ロンコーニ演出の『ドン・カルロ』は、五幕最終改訂版に、パリ初演以前にヴェルディが削除した音楽を一部挿入した版によるものであった。当時放送されたものを、音も映像も劣悪な録画で視聴したが、聴いているうちにドラマに完全に没入してしまい、特に第四幕以降は涙が止まらなかったものである。1977年12月7日のラ・スカラ二百年祭初日には、フレーニ、カレーラス、オブラスツォワ、カプッチッリ、ギャウロフ等が出演しているが、放映されたのは1978年1月7日の公演で、出演者はプライス、ドミンゴ、オブラスツォワ、ブルゾン、ネステレンコ他。初日の録音も聴いたことがあるが、TV放映された公演の方が迫力があるように思われる。アッバードもまるでものに憑かれたような指揮ぶりで、映像を観ていて怖くなったほどであった。この映像はいまだ商品化されていないようだが、こういうものは是非残しておいて欲しいものである。
ヴェルディのオペラの中でも編集子は特にこの作品に思い入れが深い。原作でのロドリーゴの台詞"Das
Leben ist doch
Schoen"をヴェルディはオペラの中では採用しなかったが、音楽の中には、凄惨なドラマにもかかわらず、それでも人生は美しい、と呟きたくなる瞬間が至るところにある。
ベルリン・フィルの演奏会記録がここに至って困難にぶつかっております。1996年夏以降の演奏旅行の記録が揃っていないのです。とりあえず、1996年秋のニューヨーク公演は山本博史様が現地で聴かれていたので埋めることができましたが、1997年4月のヴィーンでのブラームス・ツィクルスとその後のイタリア公演の情報はまだ揃っておりませんし、それ以降の分も不完全なものしかありません。皆様からの情報をお待ちしております。
(2000年5月7日 編集子)
ローマのベートーヴェン・ツィクルス
3月7日付けのLa
Repubblicaに来年2月にローマで行われるアッバード指揮ベルリン・フィルのベートーヴェン・ツィクルスの予告が出ていたので遅ればせながら掲載しておいた(今後の演奏会から)。サンタ・チェチーリアの企画委員会のルチアーノ・ベリオの談話も出ていたが、それによると、サンタ・チェチーリアの新ホールはレンツォ・ピアーノの設計で建てられたものらしい。トリーノのリンゴットも、アッバードがこの都市にはベルリン・フィルの響きを生かせるホールがない、と言ったのを契機にピアーノが設計したものという。そもそも、ルイージ・ノーノ『プロメテオ』の初演でアッバードとピアーノは一緒に仕事をしているから、二人はよくよく縁が深い。なお、ローマに続いて2月後半にはヴィーンでもベートーヴェン・ツィクルスが予定されている。
1996年12月7、8日のベルリン・フィル演奏会、当初はバルトーリとの共演でベルリオーズの声楽曲をやるはずだったのだが、バルトーリがキャンセルしたために急遽『牧神の午後』に差し替えられた模様である。ジルヴェスターにバルトーリが参加したのはその埋め合わせといったところだろうか。
1997年4月のベルリン・フィル演奏旅行については、ベルリン・フィルの部屋の最上英明様、及び星野敦子様から資料を提供していただきました。まもなく御覧いただけるようになるはずです。それ以降の演奏旅行の情報もお寄せいただければ幸いです。
(2000年5月9日 編集子)
ラ・スカラ公演記録
ラ・スカラ公演記録の作成作業がひとまず終結した。ラ・スカラ二百年祭の後アッバードが芸術監督を退いてからは出演回数がぐっと少なくなり寂しい限りだが、それでも、ノーノ『プロメテオ』とロッシーニ『ランスへの旅』という重要な企画が入っているのに注目していただきたい。さて、公開した公演記録に含まれているのは、アッバードが同歌劇場で指揮したすべてのオペラ公演(演奏旅行を含む)、及び、1967年以降のすべての演奏会である。演奏会には、他のオーケストラがラ・スカラに客演したものも含まれ、従って、イスラエル・フィル、ロンドン交響楽団、ヴィーン・フィル、ベルリン・フィルの公演も含まれる。また、演奏会以外の催しでアッバードが参加したものが二つばかり入っている(ヴェルディに関するシンポジウムと、フルトヴェングラーの『指環』の催し)。一方、現段階でこの公演記録から欠落しているものもある。そう、1960年から1966年までにアッバードが指揮した演奏会である。ラ・スカラに限らず、アッバードの若い頃のイタリアでの活動についてはなかなか情報がない。RAIを始めあちこちのオーケストラに出没しているのだが。
さて、進行中のベルリン・フィル公演記録だが、1997年春のベルリン・フィル演奏旅行については結局情報が得られたものの、今度は秋のヨーロッパ演奏旅行で躓いている。調べられる範囲内で埋めてみたものの、欠落も多いので、ここにまとめておく。
1.マドリッド、リスボン、アムステルダム、パリで演奏されたマーラー・交響曲第二番のソプラノ独唱は、シャルロット・マルジョーノの病気のためいずれも代役が立っている。アルト独唱は、おそらく三回とも同じ人ではないかと思われるが誰か解らない。アムステルダムでの合唱団も不明。
2.バレンシアとバルセロナでの演奏会のプログラムははっきりしない。おそらくマドリッドの三回のうちいずれかと同じだろうが、マーラーの第二交響曲ではないようだ。
3.パリでは三つのプログラムで四つの演奏会を行っているが、どの日に何をやったのかわからないため、変則的な書き方をしてある。ヴェルディでの独唱、合唱は不明。
既にお気づきの方も多いとは思いますが、ベルリン・フィル演奏会記録の1995年8月の部分に誤植がありました。8月が4月になった上、イタリア語になっておりましたので、前回更新時に訂正しておきました。既に印刷された方は、誠に申し訳ございませんがその部分のみ再度打ち出していただきますようお願い申し上げます。ところで、上記のベルリン・フィル演奏旅行の詳細を御存じの方、御一報願えましたら幸いです。ベルリン・フィル最新情報も掲載したいのですが、Philharmonische Blaetterの最新号が何故かまだ届きませんので、早く知りたい方はベルリン・フィルの部屋を訪問して下さい。
(2000年5月13日 編集子)
プロメテオ
現代音楽なる項を新たに設けたが、編集子は何も音楽のゲットー化を目論んでいるわけではない。アッバードの同時代の音楽への貢献が極めて重要であることは言う迄もないが、敢えてこの項目を設けたのには他にも理由がある。戦後の音楽史の流れというのは極めて複雑に入り組んでいて、編集子の如き素人にはなかなか全貌がつかみにくい。しかし、そのなかでアッバードが取り上げているものには或る種の方向性があることは確かであり、それを整理してみることによってアッバードの音楽観を新たな切り口で考えてみることができるのではないかと期待してのことである。
さて、いきなりノーノ『プロメテオ』ときたのは、編集子がこの作品に思い入れが深いからに他ならない。そもそもアッバードが1992年に組曲版で演奏した折の映像を観て興味を持ち、1998年の日本初演の折に秋吉台まで出かけてゲネプロを含めて三回も聴いてしまった。予め読んでいったカッチャーリのテクストが難解なのには閉口したが、音楽そのものには、聴く者に何かを伝えようとする強いエネルギーが感じられ、魂が全く未知の世界をさすらうような素晴らしい時間を味わった。特に、Interludio
Primo以降の静謐な響きの美しさは忘れがたく、聴き終えた後にも深い印象が残りいつまでも消えなかったものである。そのあと異様に聴覚が過敏になり二箇月間全く音楽を聴かず、秋の夜をただ虫の音のみを聞いて過ごしていた。『プロメテオ』のあと最初に聴いた音楽がアッバードとベルリン・フィルによるマーラーの第三交響曲であったというのは幸せであった。
アッバードはベルリンでは自らの編んだ組曲版を演奏しているが、流石にこの作品の最も美しい部分を抜き出している。最後がヘルダーリンで終わり、声が静寂の中に消えていくあたり、曲順は異なるものの、原曲の雰囲気を良く生かしていると思う。編集子が聴いたのは1999年9月の演奏で、このときはさらに一曲減らしてあった。
ベルリン・フィルが1998年5月に行ったヨーロッパ演奏旅行と、同年夏のルツェルン、エディンバラ、ロンドンでの演奏会について、判明していない点をまとめておく。
1.1998年5月の演奏旅行は、ほとんどの公演がマーラーの第三交響曲であった。独唱はすべてリポヴシェクかと思いきや、トリーノはラルソンであったことが判明、予定通りか急な変更かは不明だが、他の都市の公演についても直前の独唱者変更までは確認できていない。但しヴィーンとフェッラーラはリポヴシェクに間違いないようだ。少年合唱に関しては現地の合唱団が参加した可能性もあり確認していない。
2.同年夏のルツェルンでの後半二回の演奏会のプログラムには、モーツァルト、ブルックナーが含まれていたらしい。ベートーヴェンをもう一回やった可能性もある。
3.エディンバラ、ロンドンでのベートーヴェン『第九』、及びロンドンでの合唱団は不明。
ヴィーン・フィル及びヴィーン国立歌劇場の公演記録の作成を本格的に始めました。オペラ公演についてはなかなか正確な記録が入手できないのが現状です。いくつかのオペラ公演を掲載しておりますが、当日の急な出演者変更に関しては必ずしも対応できていないことをお断り申し上げます。ヴィーン・フィルについては、1980年代以降の定期演奏会の記録は何とかなりそうですが、1970年代以前の定期、および演奏旅行については資料が欠落しております。事情通の方に御協力いただければ幸いです。
佐藤公俊様から1998年ベルリン国立歌劇場の『ファルスタッフ』他、情報を提供していただきました。「その他のオーケストラ・歌劇場」の項にて順次公開の予定です。
(2000年5月20日 編集子)
クラウディオ・アッバードのベートーヴェン
1986年ヴィーン国立歌劇場音楽監督に就任したアッバードは、翌年春にヴィーン・フィルと来日、東京でベートーヴェンの交響曲全曲演奏を行っている。編集子は連日通いつめたが、これが結果として我がアッバード遍歴の始まりとなった。ベートーヴェンの交響曲はそれまでにも何度も聴いていたが、このアッバードの演奏には、世界観が根本からひっくり返るほどの衝撃を受けた。特に、『エロイカ』、第五番、第八番から受けた感動は今でも鮮明に蘇る(初日の第六番と最終日の第九番も。結局全部になってしまうが)。『エロイカ』で、輝かしく強靱な旋律が次々と溢れだし、それらが些かの隙もなく絡み合って展開していくのは、眩いほどに美しく、爽やかな緊張感が感じられた。音楽が自然に呼吸していて、聴き終えたときに何か壮大な建築でも眺めているかのように音楽の姿が鮮明に心に残るのだ。最初からすべてが最終楽章に向かって突き進んでいるように、音楽がじわじわと高揚していく。第五番のフィナーレに突入した瞬間の輝かしさを今でも昨日のことのように憶えている。
あのときのベートーヴェンには、初々しい青春の輝きとも形容したくなるような活力が溢れていた。今よりも低音に重みがあって、第九番などでは特にティンパニの響きが強く出ていたものだ。アッバードの音楽には独特のテンポの揺れがあって、それがこの人の音楽の魅力の一部なのだが、このときの『エロイカ』や第九ではそうしたテンポの変化に一瞬フルトヴェングラーの影がよぎることがあった。それが見事にアッバードの文脈に溶け込んでいた。
それから十年近く経って、ベルリン・フィルとの来日公演で第九番を聴いたが、このときはヴィーン・フィルとの演奏とは響きのバランスもテンポの動きも全く違っていて、また新鮮な感動があった。そのあとは興奮して眠れず、丸一日ベートーヴェンが心の中で鳴り続けたものだ。アッバードは最近再びベートーヴェンに力を注ぐようになったが、それは決して偶然ではなく、ベートーヴェンの解釈に関して、アッバードが新たな世界を開いたからこそなのだろう。そんなわけで、新しいベートーヴェン全集のDVDには大いに期待している。
ベルリン・フィルに関しては、演奏旅行に関し若干の遺漏はあるものの、ともあれ1966年のこの指揮者による最初の公演から現在までのひととおりの記録ができました。しかし、直前の出演者やプログラムの変更、アンコール曲目など、まだまだ不備な点は多いと思います。皆様の御支援を得てより完全なものへと成長させていくことができればと望んでおります。
ヴィーン・フィル公演記録は現在作成中ですが、アッバードが国立歌劇場音楽監督に就任する以前の資料が欠けております。また、1987年の来日公演の直前に行われたAnn
ArborとNew
Yorkでのベートーヴェン・ツィクルスのプログラムを御存じの方がおられましたら御一報いただければ幸いです。
(2000年5月27日 編集子)
ベートーヴェンの第九交響曲
先日ヴィーン・フィルとのベートーヴェン・ツィクルスのことを書いたが、第九についてもう少し触れておきたい。80年代前半からベートーヴェンでもオリジナル楽器による演奏が現れて来たが、1987年にアッバードがヴィーン・フィルと演奏したベートーヴェンは、現代オーケストラによる演奏の伝統を継承しながらそれを独自の新しい感覚で捉えていた。響きが輝かしくて透明なのはこの頃も今も全く変わらず、アッバードの音楽の魅力の一部だろう。実際、世界がかくも美しく見えたことはいまだかつてなかった。日本では十一月頃になると空が深い碧色に澄みわたっていて陽の光が眩いような日がときにあるが、学生の頃、そんな空を見上げつつ、アッバードの音楽の色だ、と思ったものだ。とはいえ、このときのベートーヴェンは今よりも重心が低音に寄っていた。第一楽章の再現部に入るところなど、ティンパニを思い切り強打させており、そのエネルギーには圧倒された。障碍となるものすべてを跳ね飛ばすような激しさと、すべてを肯定してしまうような優しい包容力とが共存していた。
独特のテンポの揺れについては前回も書いたが、『第九』の最終楽章、歓喜の主題が低弦で提示され次第に他の楽器が加わって行くところ、tuttiの五小節手前で突然テンポが上がる。一瞬フルトヴェングラーの影がよぎるのだが、それがアッバードの音楽の息づかいにいかにもふさわしくて、完全に彼自身の解釈の中に溶け込んでいた。美しい瞬間としていまでも記憶に焼き付いている。
爾来、九年間ヴィーン・フィルとの実演に呪縛されていたが、1996年にベルリン・フィルとの来日公演を聴いたときには、思わぬ方向から飛んできた弾に直撃されたような衝撃を味わった。あまりにも違っていたから。版の問題は措くとしても、テンポの揺れもアーティキュレーションも全く異なる。響きのバランスも全く違っていて、例えば、前述の第一楽章再現部でも、ティンパニの低音の響きを煽らない。音楽は速いテンポで瞬時もとどまることなく流れていく。それでいて細かいところまで実に表情が豊かで、例えば、同じ第一楽章の展開部後半、第二主題が展開されるところなど、同じ動機が繰り返されるたびに音楽の色が微妙に変化していって、聴いていて心が躍った。こういうことを具体的に書いていくと際限がない。結局は総譜を眺めつつ当時の記憶を片端から辿ってみな書いてしまうことになりかねない。だが、アッバードの音楽を聴く歓びとは、まさに、こうした無限に変化する音楽の表情を追い続け、演奏家と聴衆とが呼吸まで完全に一体化するような美しい時間を味わい尽くすことに他ならない。
アッバードが独自のベートーヴェン演奏のスタイルを作り上げつつあることがベルリン・フィルとの演奏には感じられた。いよいよ第九以外の曲でそれを味わうことができるわけである。編集子としては『エロイカ』を是非実演で聴いてみたいのだが・・・。
ヴィーン交響楽団との1989年ヴィーン・モデルンでの演奏会、ヘルベルト・ヴィッリの曲は『蛙と鼠の合戦』という作品です。古代ギリシャの叙事詩を題材にしたものと思われますが、作品の原語タイトルがギリシャ語かドイツ語かも不明なので空欄にしてあります。
ヴィーン・フィル公演記録ですが、手元に資料が断片的にしかないために、順不同で穴を埋めつつ作成しております。未完成のものは出すなという批判もあるかと存じますが、たとえ一部だけであっても貴重な資料は早く参照できるようにする方が良いと考え、公開に踏み切りました。勿論、誤りや追加などの御指摘があれば是非お寄せいただきたく存じます。
ベルリン・フィル公演記録の初期の数年間のデータを修正いたしました。ようやく届いたベルリン・フィル百年史を参照したのですが、必要箇所を含めて大幅な落丁があり返品する羽目になりました。なお、次期シーズンのプログラムも既に掲載してありますので併せて御覧下さい(「今後の演奏会から」)。
(2000年6月3日 編集子)
カロカガティア
カロカガティア、という言葉が古代ギリシャにあることを、ユルスナールの翻訳でも知られる詩人の多田智満子氏の文章で知った(『別冊世界 この本を読もう!』岩波書店、2000 )。美と善(=倫理)は分かつべからざるもので両者が一体となっているのが理想である、という概念らしい。真の教養人のことをカロスカガトスと言うそうだ。この言葉から、アッバードが「エピクロスは、人生の歓びを味わうことと理性でものを考えることを切り離してはならないと説いた。この意味で、芸術が政治に教えるべきことは多い」と語っていたのを思い出す(Musica sopra Berlino、1997)。アッバードはベートーヴェンでもヴェルディでも、或はベルクでも、実に美しく深い音楽を創り出すが、のみならず、それがつねに社会の中で生きる一人の人間としての信念とごく自然に結びついているという点でも稀有の存在だろう。編集子自身も、真の知識人であるアッバードから、音楽だけでなく人生についても多くを教えられた。
谷口太郎様からロンドン響とシカゴ響の演奏会の情報をいただきました。イギリス、アメリカのオーケストラについては手元に殆ど情報がありませんので、資料の入手先や、一回の演奏会のプログラムでも結構ですから、お寄せいただければ幸いです。
ヴィーン・フィル、国立歌劇場公演記録に誤りがありました。1990年5月の『エレクトラ』は肩の具合が悪いと称して振っていません。翌年のニューヨーク公演でも『エレクトラ』演奏会上演が予定されていましたがマゼールに交替しています。1989年夏のザルツブルクでは指揮しています。
来年のザルツブルク復活祭音楽祭のプログラムを加えておきました。
(2000年6月10日 編集子)
フィガロの結婚
1994年秋のヴィーン国立歌劇場来日公演での『フィガロの結婚』序曲が始まった瞬間の瑞々しい感動をよく覚えている。『フィガロ』の音楽には、登場人物の所作も心理も音楽にすべて書いてある、とよく言われるし、そのことは自分でもかねてから感じていたつもりだったのだが、このときのアッバードの演奏を聴いて、これまで一体何を聴いていたのだろう、と思った。爽やかなテンポで疾走して行く音楽の表情は絶えず微妙に変化し、聴く度に新たな発見があった。結局五夜すべて通い詰めたが、何と豊饒な音楽だったことか。第二幕フィナーレ、一件落着と思われた状況が庭師の登場でまたもや攪乱されるところ、作曲家自らが面白がって囃し立てているのがオーケストラから聞こえてくるし、その直後でフィガロがにわかに足を引きずり始めるあたり、音楽を聴いているだけで笑いがこみ上げてくる。ジョナサン・ミラーの演出もまた、音楽に込められた笑いの要所を心得て見事に視覚化していた。
第四幕フィナーレ、スザンナの姿をした伯爵夫人が夫の愛の言葉を聞いているところ、取り違えとわかっていながら聴くたびに心を打たれる。生きていることは美しい、と思う。一瞬もとどまることなく時間が過ぎ去って行くからこそ、人生は美しいのかも知れない、アッバードのモーツァルトみたいに。幕切れ、本当に花火が上がって、舞台が一幅の絵になった。
ヴィーン・フィル公演記録の1976年−1997年分の入力が終了しましたが、まだ欠落や誤りがあることと思います。1975年以前については手元に資料が殆どないので完成の見通しは立っておりません。オペラ公演についてはプレミエ時の出演者はわかる範囲で入れておきましたが、以後の公演については不明です。また、再演は必ずしもアッバードが指揮するとは限りませんので、再演の公演日には間違いがあるかも知れません。今後も時間をかけて完全なものにしていきたいと思いますので、御支援のほどお願い申し上げます。
(2000年6月17日 編集子)
ZUSAMMENMUSIZIEREN
6月16日付Tagesspiegel紙に、Frederik
Hanssenという記者がアッバードの肖像を書いている。曰く「クラウディオ・アッバードとは何者か」。アッバードの実像はなかなか見えない。インタヴューはできるだけ断ってしまう、ベルリン・フィルの記者会見ではぼうっと座っているだけで誰も敢えて彼にものを訊こうなどとはしない。何とか気の置けないインタヴューを取り付ける。こういう場でのアッバードは、口でははぐらかすような答えをしても眼がすべてを物語る。では、プローベではどうか。
「アッバードはプローベでも余り喋らない、しばしば長いパッセージを何も説明せずに弾かせる、往々にして自分の解釈はコンサートマスターにしか打ち明けていない。こうしたことは彼が内気だとかドイツ語力が足りないとかいうことではなく、『暗黙の了解』という原則に基いて仕事をしているということによる。本当に良く知っている者同士では、理解し合うのに言葉など要らない。長いこと一緒に室内楽をやっている音楽家の間でも同様である。諸々の状況で相手がどう反応するかわかっているから、細部に拘泥することなく、一緒に正しい解釈を追い求め、最良の響きのバランスを見出すことができるのだ」。
室内楽での仕事のやりかたを大オーケストラに適用しようとすることは一つの挑戦である。オーケストラの中に、アッバードがプローベで喋らないとこぼす人がたくさんいるというのは驚くにはあたらない、と執筆者は言う。ひょっとすると理由は簡単なことかも知れない、つまり、オーケストラではほとんどの演奏家は指揮者から遠く離れすぎていて眼を見ることができないから、と記事は結ばれている。
1976年5月ヴィーン・フィル定期のプログラムはシューマンではなくブラームスではないかとの御指摘を山本博史様からいただきました。23日の演奏会が放送されているので、御指摘の通りブラームスでしょう。この演奏会のプログラムは『ウィーン・フィルハーモニー』(音楽之友社、1987)に依っていますが、同月28日、29日のメータ指揮の演奏会のプログラムがシューマンですので、誤植と思われます。謹んで訂正いたします。なお、現地資料による裏付けが取れていない部分については、詳細が判明し次第、必要な訂正・追加をしていきますので、随時最新版を御参照下さい。
マーラー・ユーゲントオーケストラの公演記録ができました。オーケストラ発行の資料(インターネットでも閲覧可能)に、公演日のデータをわかる限りで付け加えておきました。同オーケストラの公演を聴かれた方は日程を教えていただければ幸いです。
「アルトゥーロ・トスカニーニの芸術」からリンクしていただきました。トスカニーニに関する豊富な資料があり、中でも伝記と膨大なディスコグラフィが目を引きます。こうした愛好家の地道な努力によって偉大な演奏家の芸術活動の全容が次第に明らかにされていくというのは素晴らしいことです。世界のトスカニーニ賛賞者とも協力してますます充実させていかれることを祈ります。
(2000年6月23日 編集子)
シューベルトの音楽は良き友
アッバードの芸術活動の中でヨーロッパ室内管弦楽団(COE)との仕事は極めて重要な位置を占めている。なかでもノーノ『プロメテオ』初演とロッシーニ『ランスへの旅』蘇演の二つはこのオーケストラが設立後早い時期に成し遂げた偉業である。また、アッバードとこのオーケストラとの仕事で忘れてはならないのがシューベルトである。それまで省みられなかった自筆稿に基いて交響曲全曲を演奏し、録音もしている。日本で全曲演奏したのを聴いたときは毎晩新たなシューベルトの世界に眼を開かれたものだ。第八番(ハ長調)フィナーレで、リズム動機がダイナミックに揺れ動いていくのを聴きながら、こんなシューベルトもあったのかと心が躍った。『未完成』はどの部分にも細やかな表情が息づいており、特に第二楽章が味わい深かった。ふとあらわれる短調の部分の哀しいほどの美しさが忘れられない。最後のたった一つの和音が、響きを微妙に変化させながら果てしなく拡がり、その中に全世界を見る思いがした。爾来、どの演奏を聴いてもこの終わりの部分には満足できない。ただ一つの和音に永遠を聴いてしまってからは。
最近はマーラー室内管弦楽団との仕事が増えたこともあり、COEとの活動は減っているようだが、それでも、1997年には、ザルツブルクとベルリンで、シューベルトの交響曲とオーケストラ編曲による歌曲を演奏するという好企画を実現している。ベルリンでの演奏会は、壮大な「さすらい人」ツィクルスの一環であった。COEの公演以外にも、室内楽ホールで連日シューベルトのピアノ曲や室内楽曲が演奏され、プログラムを眺めているだけでも壮観であった。
どこを更新したのかわからない、と思われるかも知れませんが、データを一度公表したらそのままというわけではなく、絶えず修正し補充しております。綴りの誤り等も発見し次第訂正しております。随時最新版を御確認下さいますようお願い申し上げます。
(2000年7月1日 編集子)
モンテヴェルディ
1999年12月13日、ベルリン・フィルハーモニーの室内楽ホールで、「愛と死」ツィクルスの一環として一つの演奏会が催された。この演奏会は、前半がヒリヤード・アンサンブルによるデュファイ他、後半がアッバードとアントナッチ、そしてベルリン・フィル団員を含む器楽アンサンブルによるモンテヴェルディ、という二部構成であった。実は似たような演奏会が1998年9月25日にフェッラーラで行われている。前半がタリス・スコラーズによるジョスカン・デ・プレ他、後半はベルリンでの演奏会と同様の趣向で、このときはアッバードはアンサンブルの指揮だけでなくチェンバロも自分で弾いていた。この種の活動はどうしてもオペラや大オーケストラの公演の蔭に埋もれがちであるが、実はモンテヴェルディやジョヴァンニ・ガブリエリの作品は若い頃から折に触れて取り上げている。あまり聴く機会もないだろうから一枚くらいCDを残してくれると嬉しいのだが。
フェッラーラでの演奏会の直後、9月29日、30日、10月1日に予定されていたベルリン・フィル定期を、アッバードは急性ウイルス感染症(要するに感冒か)のためキャンセルしている。このときに予定されていたベルリオーズ、ラヴェル、ドビュッシーの作品は、サヴァリッシュの代わりに指揮した翌年1月の定期で指揮しているが、ベルリオーズ『エルミニ』のみは演奏しなかった。アッバードは以前『幻想交響曲』の固定楽想に言及した際にこの作品のことも語っていたので、編集子は大いに興味があったのだが、残念である。
上記のフェッラーラでの演奏会は器楽アンサンブルによるものでオーケストラによる分類項目には入れられませんので暫定的に「その他」の項を設けて入れておきました。器楽奏者の名前はわかりません。
(2000年7月8日 編集子)
EUユース・オーケストラ
1978年、クラウディオ・アッバードを初代音楽監督としてEuropean
Community Youth
Orchestraが創設された。アッバードは献身的にこのオーケストラに尽くしているが、若い人と仕事をするのは彼自身の喜びでもあるのだろう。最初の演奏旅行がマーラーの交響曲第六番と意気軒昂だし(「Claudio
Abbado at
Work」という映像の中でプローベ中にオーケストラが悪ふざけをしている場面があったがこの時のものか)、その後もマーラーを好んで取り上げる他、ブラームス『ドイツ・レクイエム』、シェーンベルク『グレの歌』等の大曲を上演している。『グレの歌』はFMで放送されたのを聴いた。これを契機に『グレの歌』に溺れる羽目になったが、このときの演奏は今聴いても感動を新たにさせられる。
オーケストラの設立にあたり現在まで事務局長を務めるジョイ・ブライアー女史によると、アッバードは演奏旅行中のメンバーの食事にまで気を遣ったそうである(「リハーサルとか独奏者がいつやって来るかといったことにアッバードが関心を持つだろうとはもちろん予期していたが、まさか彼と献立の打ち合わせまですることになろうとは思わなかった」(Matheopoulos
: Maestro : Encounters With Conductors of Today.
1982))。一人一人の個人的な問題にも心を配り、誰が誰を好きになったかまで気に掛けていたという。アッバードの後はハイティンクが音楽監督を勤め、現在はアシュケナージがその任に当たっている。なお、現在はEuropean
Union Youth
Orchestraと名前を変えているので資料館でもその表記に従っているが、公演記録中では当時の名称を使用した。
COEを指揮した1987年12月5日ヴィーンでの演奏会は、翌年の『フィエラブラス』の上演資金を集めるためのガラ・コンサートである。曲目はアッバードが指揮したものだけを挙げたが、他にもホッター、シフ、グートマン以下、多数の演奏家が参加している。
山本兼司様からヴィーン・モデルン音楽祭での演奏会等について情報を提供していただきました。アッバードは同音楽祭に最近までほぼ毎年出演していますが、日本では必ずしも詳細に報道されていないのが実状です。資料館ではこうした点を充実させるべく努めたいのですが、資料があまりないのが悩みです。
マーラー室内管弦楽団の次期シーズンにアッバードはノーノ『プロメテオ』組曲を三回、ヴェルディ『シモン・ボッカネグラ』を五回指揮する予定です。回数は必ずしも多くはないものの内容は充実しており、今後の活動に期待が持たれます。
(2000年7月15日 編集子)
我らが時代の音楽
実はアッバードはこれまでの日本公演で二十世紀生まれの作曲家の作品は一度も指揮していないのではないか。日本で演奏した作曲家を生年順に並べると最も新しいのはプロコフィエフということになろうか。ヨーロッパ室内管弦楽団(COE)との初来日の折、本当はもっと新しい曲を入れたかった、とアッバードは語っていた(『音楽の友』1988年5月号)。このときはハイドン、シューベルト、メンデルスゾーン、ブラームスからストラヴィンスキー、プロコフィエフに至るまで多彩な作曲家が取り上げられ、いずれも実に楽しい演奏会であった。それだけに、アッバードのこの発言を読んで、リゲティやヴォルフガンク・リームの作品が加えられなかったのを惜しんだものである。後にこのオーケストラとはシェーンベルク、リゲティ、シャリーノの作品を録音しているが、この国では国内盤すら出なかった(ちなみにマーラー・ユーゲント管とのヴィーン・モデルン第三集も日本盤がない)。
アッバードに啓発されて、編集子は、ノーノ『プロメテオ』(アンサンブル・モデルン他、1998年秋吉台国際二十世紀音楽フェスティヴァル)、リーム『レンツ』(若杉弘指揮東京室内歌劇場、1999年)と日本初演を聴き歩いたものである。昨年秋に念願かなってベルリンの室内楽ホールでアッバードの指揮により『プロメテオ』の組曲版を聴いた。この組曲版、昨年カーネギーホールでもマーラーの第九交響曲とともに演奏しているのだから、日本でもやって欲しいものだ。
1983年にコヴェント・ガーデンで指揮したタルコフスキー演出の『ボリス・ゴドゥノフ』、プレミエの日付のみ掲載しておきましたが配役がわかりません。他に、1988年のヴィーン・フィルとのパリ演奏旅行、COEとの『ランスへの旅』蘇演時の日程・配役等、二三のデータを追加しました。尚、COEとの『フィエラブラス』の配役に誤りがありました。スチューダーは公演では歌っていません。フロリンダを実際に歌ったのが誰かは調査中です(御存じの方は教えて下さい)。
先刻、マエストロが御病気との報が入ってきました。急遽イタリアに問い合わせたところ、順調に快復されているとのことです。一日も早く御快癒なさいますよう、心からお祈り申し上げます。
(2000年7月22日 編集子)
Millenium Bug
本来なら編集子は今夏のザルツブルクに行くはずだった。ところが、アッバードがザルツブルクの『トリスタンとイゾルデ』『コジ・ファン・トゥッテ』の指揮を降りたという報を一月四日の朝になって目にして、夏の予定は直ちに初期化されてしまった。新聞等で報じられたアッバード側の理由は、第一に、ヴィーン・フィルのローテーション制(上演ごとのメンバー交代)に納得できない、第二に、『コジ』の舞台デザインが演出家のノイエンフェルスと協議したのと違う、ということであり、それに対するモルティエの反論も掲載されていた。アッバードが敢えて口にしなかった事情が他にもあったのではないかと推測される。
かつてミラーノ、後にヴィーンで、時には連日のようにオペラの指揮台に立ち続けたアッバードは、ここ二三年間、マーラー室内管弦楽団とのオペラの仕事を増やしている。『ドン・ジョヴァンニ』『ファルスタッフ』『コジ・ファン・トゥッテ』そして来年の『シモン・ボッカネグラ』と。今後アッバードが我々の前にどんな世界を開こうとしているのか、興味が尽きない。今後の実り多い芸術活動のためにも、時にはゆっくり静養して浩然の気を養って下さい。
本来なら1982年5月にロンドン交響楽団とヴィーン・フィルを指揮することになっていたようですが、何でも怪我をしたとかで降りています。後者はレヴァインが代役を勤めています。
EUユース・オーケストラの公演記録ができました。オーケストラ発行の資料を参照したのですが、一回の演奏旅行中に取り上げられた全作品を列挙しているため、個々の都市での具体的なプログラムは必ずしも明らかではありません。このオーケストラ以外にも、ヴィーン響をはじめ、細々したデータを追加しました。
訂正が一つ。1999年フェッラーラでの『ファルスタッフ』、最終公演(6月4日)のみはアッバードではなくStefan
Anton Reckが指揮しています。
(2000年7月29日 編集子)
鴎外の方法
高校生の頃、鴎外の『渋江抽斎』を読んで、家系や師弟関係に始まり果ては何を好んで食ったかに至るまで細々した記録が果てしなく並んでいるのに閉口したものだが、その後十年以上を経て改めて読み返してみると当時は理解できなかったものが見えてきた。鴎外の日本語そのものの美しさについてはここでは触れない。別に抽斎という人物に興味を惹かれたわけではない。一人の知られざる人物に共感を抱いた鴎外が一見些末に思われる事実そのものを徹底的に調べ上げた、というその方法論に興味を覚えたのである。抽斎が殆ど無名であった以上そうした道を採るしかなかったのかも知れない。だが、それは少なくとも一人の人間を理解するための一つの有効なやりかたではある。
翻って自らの方法を問う。一人の音楽家に魅せられたら、彼の人の音楽を聴かずには居られない。聴きうる限りの実演を追いかける、レコードをすべて聴く、放送されるものはすべて録音し、昔の放送録音を追い求める。それで満足できるかというと、収まらないのである。過去の演奏がすべて記録に残っているわけではない。音楽は一回限りのもの、殆どのものは後から聴きたくても聴けないのである。なれば今度は文献を探し求める。資料収集を初めて気づくのは、演奏家について啓蒙的に書かれたものよりも、生の事実そのものを記述したものの方が遙かに面白い、ということだ。すなわち、いつ、どこで、何をやっていたか。
鴎外に戻ろう。かの作家は武鑑を収集していたという。鴎外を読み始めた頃は、そういうものを眺めて面白いのかな、と気楽な感想を抱いていたものだが、気がつくと自分もベルリン・フィル百年史の演奏会記録などを飽かず眺めている。単なるデータの羅列から一つの時代、一人の人間、或は様々な人物の間の関係が、生き生きと浮かび上がってくる瞬間がある。そこに詩が生まれる。その喜びがあるからこの仕事は止められない。
注)鴎外という字が正しく出ませんのでやむを得ず代字を使用いたしました。
山本博史様に多大なる御尽力を戴いてシカゴ響の公演記録を入手することができました。整理するのにしばらく時間がかかりそうですが、順次公開していきますので御期待下さい。
今回は細かい追加・訂正が多数。落丁のため交換に出していたベルリン・フィル百年史がようやく届きました。調べてみると1981年のデータに誤りがあり、また1982年の演奏会のデータが未掲載だったことが判明しました。GMJOの公演記録は1995年分が欠落しており、補充いたしました。その他、ロンドン響、COEのデータを追加しました。
(2000年8月5日 編集子)
「それは彼の人生であり、魂である・・・」
既に聴いたことのある音楽のさらに深い魅力を忽然として悟ることがある。学生の頃、アッバード/シカゴ響のマーラー・第二交響曲のレコードを聴いてこの曲の真実に目覚めた。半年もの間、憑かれたように日夜このレコードを聴き続けたものだ。スコアを常時携行して暇さえあれば眺めていた。
低弦の第一主題が決然と出る瞬間に、凛とした気迫が感じられて好きだった。力強い意志を秘めた符点リズムの動機と、憧れに満ちた夢見るような美しい歌とが絡み合って展開していく第一楽章は、連日のように聴き続けてもつねに新たなものを発見させてくれた。青春を追想するようないとおしさの感じられる第二楽章もいつ聴いても新鮮だった(アッバードはしばしばシューベルトとマーラーの親和性について語っているが、この楽章の演奏は特にそれを強く感じさせる)。第三楽章には病的なまでに耽溺した。『角笛歌曲集』のあの主題が繰り返し回帰し、そのたびに新たな動機が重なっていくのに、聴くたびに胸を躍らせたものだ。そのうえ、アッバードの演奏はテンポが生理的に心地好くて、呼吸まで音楽と一体になるような気がした。
そしてフィナーレ。かくも多彩なものが混ざり合った巨大な交響曲を、まるで壮大な建築のように端正に組み上げるアッバードの演奏にはただ恐れ入った。音楽の表情は絶えず変化していき、次々と新たな世界が開かれて行く。特に、舞台裏のオーケストラが全く独立に入り込んでくる箇所から、遙か彼方でトランペットが鳴り響くあの静寂に至るまでの音楽を、アッバードのレコードで聴いたときには、驚くほど新鮮に響いた。それまでにもこの曲を聴いたことがあったにもかかわらず。そのあと合唱が入ってから壮麗な終結まで、徐々に音楽が高揚してゆき、我を忘れるような感動に誘われる。
強靱なエネルギーと初々しい抒情とが交錯し、息を潜めるような弱音から眩いまでの全強奏まで、響きは自在に変化する。雑多な要素が混淆しているにもかかわらず、音楽の姿はつねに瑞々しく爽やかだ。
アッバードのマーラーにはつねに凛とした高貴な精神が感じられる。特にこの第二交響曲、種々雑多な要素を自らの内部に取り込みときには自己破壊的な衝動に駆られながらも、つねに強靱な意志を失わず澄んだ眼差しで高みを見つめている作曲家の魂を感じさせる。青年時代、この交響曲を自らの人生の指針のようにして生きていた。今でもこのシカゴ響との録音を聴くと若き日に還る思いがする。
ヴィーン・モデルン音楽祭の情報を追加致しました。ヴィーン響、COE、GMJO及び「その他」の項を御覧下さい。1995年11月5日にGMJOとヴィーンで演奏会をやっていますが、マティネと夜のヴィーン・モデルンと、一日に二回やったようです。マティネの前半は室内楽でモーツァルトのピアノ五重奏曲K.
452、後半のベートーヴェンの協奏曲のみアッバードの指揮です。
シカゴ響の公演記録、順次公開中です。夏の夜のひとときを、アッバードの軌跡を追ってお楽しみ下さい。
(2000年8月12日 編集子)
若き日の歌
毎年この時季が来ると、アッバードが初めてヴィーン・フィルを指揮して演奏したのがマーラー・第二交響曲であったことを想う(1965年、ザルツブルク)。ザルツブルク音楽祭でこの曲が演奏されるのは初めてで、ヴィーン・フィルのパート譜にも間違いが多かったという。アッバード自身がこの曲を指揮したのもこの時が初めてであろう。シカゴ響との録音を繰り返し聴き込んだ後で、このザルツブルクでの演奏の放送録音を聴く機会を得たが、アッバードの軌跡の中でもおそらく最も美しい演奏の一つではないかと思いたくなる、素晴らしいものであった。その魅力については前回シカゴ響との録音について書いたものと重複する部分もあるので詳述は避けよう。初々しい覇気の感じられるのびやかな演奏で、ときに勢いに任せて突っ走るような箇所があるのもまた聴いていて愉しい。瑞々しい抒情の溢れる歌と、ときに現れる翳りのある表情には魅了される。この人の演奏で聴くと、いかに巨大な作品であっても、音楽の姿が端正に浮かび上がるのだが、既にこの頃からそうだった。若かりし日の記念碑である。
後に指揮者は、この時の演奏について、些か大袈裟な箇所がある、と語っている(Musica
n.18, 1980)。確かに、第三楽章後半のUnmerklich
draengendの箇所など、凄まじい勢いで追い込んでいる。とはいえ、最近のベルリン・フィルとの演奏には、時として、かつてのザルツブルクでの演奏にみられるような勢いがある。シカゴ響との演奏はスタジオ録音だから、同列に論じることはできないのだろうが、アッバードの解釈の変化が微妙に現れているようで興味深い。
8月16日付BZ紙及び翌17日付各紙が、アッバードは今月末からのザルツブルク、ロンドン、ルツェルン、フライブルクでの演奏会を降りる、と報道しました。代役はハイティンクとのことです。ベルリン芸術週間には復帰する見込みだそうです。芸術週間の後に控えているマーラー室内管とのノーノ『プロメテオ』はキャンセルするわけにはいかないでしょうし、その後もベルリン・フィル定期で意欲的なプログラムが予定されており、続いて日本公演、と日程は密に詰まっています。来るべきプロジェクトの数々に備えて慎重を期したのかも知れません。九月のベルリンには健やかに復帰なさいますようお祈り申し上げます。
(2000年8月19日 編集子)
Per non dimenticare, per continuare di pensare.
これまでに何度『ワルシャワの生き残り』を指揮したのだろうか。当資料館で把握している限りで十回を越えるから、実際にはそれを遙かに上回るのだろう。初めてこの曲を聴いたのは、1989年のヴィーン・フィル定期が放送された時だった。シェーンベルクの後はブラームス『ドイツ・レクイエム』が演奏され、すべて聴き終えた後はすっかり消耗したものだ。その後、この演奏はヴェーベルンの作品と併せてディスクになった。たびたび聴ける曲ではないが、それでも、ヴェーベルンともどもこれまでに何度も聴いた。シェーンベルクの作品が美学的な意味で深く、美しいからだろう。芸術作品として優れている、ということは当然アドルノが指摘したような危険をはらむ―「美的様式化をつうじて、しかも合唱の厳粛な祈りをつうじてさえ、あの想像を絶した運命が何らかの意味をもっていたかのように描かれてしまう」(Theodor
W.
Adorno、1962)。しかし、純粋に音楽的な意味で美しいということは、繰り返し聴き続けられるということである。聴き続けられることにより、記憶は我々の心に刻まれ、さらに、我々すべてが共有すべきものとして普遍的な意味を持つようになる。
五十五年目の夏がまもなく過ぎ去ろうとしている。
注)引用は、細見和之『アドルノ 非同一性の哲学』(講談社、1996)pp.
274-275 による。
若き日に一度だけメトロポリタン歌劇場を指揮しています。正確な日程と配役がはっきりしませんが、わかる範囲で載せておきました。このときはスコアのカット、配役、プローベ等に関して、望んだことが必ずしも実現されなかったとのことで、アッバードも不満を抱いていたようです。爾来メトロポリタンではオペラを指揮していません。
先日FMで放送された本年二月のベルリン・フィル定期、モーツァルト『ハ短調ミサ』の独唱者が変更されていましたので、公演記録を訂正しておきました。
(2000年8月26日 編集子)
遅ればせながら
これからはもっと読書やスキーをしたい―1998年2月に、アッバードがベルリン・フィルとの契約を更新しないと表明したときに、各紙は一斉にそう報じた。勿論こんな発言は韜晦に過ぎない、何か言いたくない真の理由があるはずだ。ひょっとしたら健康上の理由では、と編集子は要らざる心配をした程である。最近になって漸くアッバードは本心を明らかにし始め、当資料館でもその片鱗を既に紹介した。ところで、冒頭のアッバードの発言の出典は、1998年2月13日付BZ(ベルリンのタブロイド紙)のインタヴューである。最後に、もっと自分の時間が欲しくはないか、と尋ねられたのに対し、「ベルリン・フィルとの契約は2002年まで。その後はもっと本を読んだり、ヨットやスキーをしたいですね」と答えている。それだけのことだが、それがまるで辞任の理由であるかのようにベルリンの各紙が翌日一斉に報道し、日本でもそう書かれてしまうというのが怖い。片言隻句を捉えてもっともらしい因果関係を作り上げてしまうというのは洋の東西を問わず報道機関の得意技のようだ。件のインタヴューでは『ファルスタッフ』のことなども語っているので、些か旧聞に属するものの、邦訳を掲載しておいた。大衆紙の記事だけに、Berliner Zeitung所載のインタヴューのような深く突っ込んだ内容は期待できない(語学的にもBZは遙かに易しい)が、カネッティを引用したあたりの発言が心に染みる。
9月6、7日のベルリン芸術週間の演奏会も降りた模様です。芸術週間のウェブサイトでは既に指揮者がジンマンに変更されています。復帰はヴェネツィアでのルイージ・ノーノ没後十年記念演奏会からでしょうか。
今回はインタヴューを掲載しましたので(海外文献の項)、シカゴ響公演記録の追加はお休みさせていただきました。次回に御期待下さい。
(2000年9月2日 編集子)
Berliner Luft
ベルリンは水が豊かで緑が多い。上空から見ると、平坦な大地に苔みたいに貼り付いた緑の中に、紙を切り抜いたように光る湖が現れて、その畔にベルリンという都市はある。シュプレー川から水路が分岐していて、その一つがKulturforumにほど近いところを流れている。木々の緑が優しい色をしている。日本の夏のほとんど暴力的なまでに繁茂する強烈な緑を見慣れていると、ベルリンの穏やかな緑の色に心が安らぐ。大都市でありながら妙に心の落ち着く街だと思う。バスで水路沿いの道を進んでポツダム通りを左に曲がり、前方左手に黄色いフィルハーモニーが見えると、それだけで胸が躍ったものだ。そのフィルハーモニーではちょうどマーラーをテーマに芸術週間が催されていて、アッバード/ベルリン・フィルの交響曲第九番を二晩聴いたほか、シャルーン・アンサンブルの室内楽版『大地の歌』も楽しんだ。第九番の初日の前にはノーノ『プロメテオ』組曲版が演奏されたが、この夜のアッバードは高揚した晴れやかな笑顔で現れ、マーラーの交響曲のフィナーレも澄んだ晴朗な表情をたたえていた。翌日は打って変わってひたひたと心に迫ってくる怖いほどに緊張した音楽を聴かせてくれた。どういう音楽になるか、演奏家自身にもやってみないとわからない要素がおそらくあるのだろう。後に第一夜の公演が放送されたが、これを聴き直すたびに放送されなかったもう一つの演奏を想う。1999年秋のベルリンの想い出である。
ベルリン・フィル公演記録、1994年のシューマン『ファウストからの情景』の公演日に誤植がありました。五月ではなく六月です。謹んで訂正いたします。
来年のマーラー室内管弦楽団との『シモン・ボッカネグラ』の配役表を追加いたしました。シカゴ交響楽団の公演記録は1982年分まで掲載してあります。この次のシーズンより首席客演指揮者となり出演回数が増えます、御期待下さい。
(2000年9月9日 編集子)
数えてみると
アッバードがヴィーン国立歌劇場で指揮した回数が最も多いオペラは何か。『シモン・ボッカネグラ』である。1984年3月22日から1990年10月25日までに、計二十回指揮している。残念ながら公演日は必ずしも全部はわかっていない。ラ・スカラと同じ舞台であり、プレミエが出たのが音楽監督就任前だったため、同歌劇場でのアッバードの仕事の中では比較的話題になることが少ないが、やはり『シモン・ボッカネグラ』がこの指揮者にとって如何に重要な意味をもった作品であるかを改めて考えさせられる。ちなみに、アッバードが同歌劇場の音楽監督に内定したのは『シモン』のプレミエの直後であった。次いで多いのが『ヴォツェック』で、来日公演を含めて十六回、やはりこの人の音楽家としての経歴の中で極めて重要な作品である。以下、『ランスへの旅』が十五回、『仮面舞踏会』、『ホヴァーンシチナ』、『フィガロの結婚』、『ペレアスとメリザンド』が各十四回、『アルジェのイタリア女』が十二回、『ドン・カルロ』、『ドン・ジョヴァンニ』が各十回、『ボリス・ゴドゥノフ』、『カルメン』が各八回、となる。折角だから全部書いてしまうと、『フィエラブラス』が七回(ヨーロッパ室内管弦楽団との公演は除く)、『エレクトラ』が五回(ザルツブルク音楽祭を除く)、『ローエングリン』が四回、『セビリャの理髪師』が二回である。以上合計百七十三回。蛇足だが同歌劇場で『チェネレントラ』を振っていたのはクラウディオではなくロベルトである。こちらは二十回。
え、ラ・スカラで最も多く指揮したオペラですか。当資料館には全部掲載してあるはずですが、暇がなくてまだ数えておりません。どなたか数えていただけませんか。
残念ながらヴェネツィア・ビエンナーレに始まる一連のノーノ没後十年記念演奏会も降りてしまいました。予定されていた演奏会を一つ一つ抹消していかねばならないのには心が痛みます。されど体調は良好の由、十月初にはベルリンに復帰の見込みです。それに伴いベルリン・フィルの「ドイツ統合の日」特別演奏会、及び10月5、6日のプログラムが変更されました。
(2000年9月15日 編集子)
ミラーノでは
ラ・スカラの天井桟敷がなくなる、という話が伝わってきたのは9月の初めだった。そう簡単になくなるものか、と半信半疑でいたのだが、やはり9月12日よりなくなったらしい。表向きの理由は、立見席の存在は火災予防条例に反するということらしいが、そうするとこれまで違法のまま存在したのだろうか。
実は、一時的に天井桟敷がなくなるということはこれまでにもあった。1990年4月、『ラ・トラヴィアータ』のプレミエの時である。このときの表向きの理由が何だったのか知らぬが、数十年ぶりの『トラヴィアータ』上演にあたりスキャンダルを避けるためらしいと日本の音楽雑誌には書かれていた。編集子はこのときたまたま現場に居合わせたのだが、開演後も劇場の傍にたむろしていたloggionistiが、黒いベルベットのリボンで束ねた花束を調達してきて天井桟敷の葬儀を挙げ始めたのには驚いた。抗議の方法にまで遊び心がある。日本だったら主催者つるし上げ等の殺風景な光景のみが展開されるところだろうが。一方、初老の男性が一人、黄色い画用紙で作ったバッジを配って歩いており、編集子も一つ貰った。茶色の文字でPTという印が押してあるので尋ねたところ、Povera
Traviataだそうな。そのバッジは、裏に粘着テープを付けたまま、今でも持っている。
今回は事情が異なるようだが、防災上の理由というのが急に出てきたのがなんだか胡散臭い。いずれ解決すれば復活するということだろうか。現地では反対の声が盛り上がっているようだから今後どうなるか気がもめる。
目下のところ復帰は十月三日の「ドイツ統合の日」演奏会からの予定ですが、それに伴い九月末、ベルリン芸術週間の演奏会の指揮者はロジェストヴェンスキーに変更されました。
シカゴ響公演記録、1984年分をお届けいたします。アメリカ演奏旅行を含んでいるためたくさんありますが、実は同年の分はこれで全部ではないのです。この直後に大物が控えておりますが、入力が間に合わず次回に廻しました。
(2000年9月23日 編集子)
『ヴォツェック』断想
残念ながらペーター・シュタインとアッバードによる『ヴォツェック』の舞台には接することができなかったが、ドレーゼン演出による1989年のヴィーン国立歌劇場との来日公演は三回とも聴いた。アッバードは、シュタインとの仕事では音楽と舞台で起こることとが完全に一致することを重要視した、と語っているが(Musica
sopra
Berlino、1997)、ヴィーンの舞台でもそうだったのだろう。ベルクの音楽にはまるでモーツァルトの『フィガロの結婚』みたいに、何もかも表現されている。第三幕第二場の殺人の場面など、よどんだ空気や泡立つ沼地や蛙の鳴き声が、肌触りまで感じられるほど生々しく聞こえてくる。ヴォツェックが「Nix」と呟いた後の静寂は、音が全く鳴っていないにも拘わらず、全曲中で最も雄弁な瞬間の一つだった。息づまるような緊張が最高に達し、最早これ以上持ちこたえられなくなったまさにその瞬間に音楽が始まり、赤い月が出る。この場面の直後のH音の凄まじいクレッシェンド、そしてヴォツェック溺死後の胸を抉るようなニ短調のアダージョが、今も鮮明に蘇る。
ドレーゼンの演出は登場人物の性格を見事に視覚化していた。特に、世の偽善者の代表みたいな小心者の俗物である小男の大尉と、誇大妄想にとらわれ人間性を喪失した不気味な大男の医者とが面白かった。こういう人物は我々の周りにはいくらでも居るから、ヴォツェックの悲劇はここでは極めて具体的な形をとる。シェロー演出のウンター・デン・リンデンの『ヴォツェック』が、ヴォツェックを迫害するものに具体性を持たせておらず、ヴォツェックが得体の知れぬものに徐々に追いつめられていくのを、現代人の誰をも襲いうる不条理と捉えていたのとは対照的であった。
9月25日発行のDer
Spiegel誌が、「ベルリン・フィルをめぐる陰謀」という記事でアッバードとヴァインガルテンの確執を報じ、三日間ほどベルリンの各紙が騒ぎ立てていました。それによると、アッバードがインテンダントの即時退任を要求(かなりきつい言葉が書いてありました)、彼が辞めないなら自分が辞めると「脅しをかけた」とSpiegelが報じたとか。これを受けて、オーケストラ理事会は、アッバードは2002年まで音楽監督を勤めると発表、Spiegelの記事の内容を批判しているそうです。ちなみに同誌はもともとアッバードに対しては好意を持っておらず、数年前にもこきおろしておりました。
10月3日にはベルリンでアッバードが『エロイカ』を指揮します。一方、日本ではいよいよベルリン・フィルとのベートーヴェン全集のCDが出ました。『エロイカ』から聴いています。
(2000年9月30日 編集子)
十三年後の『エロイカ』
10月3日、ドイツ統合十年記念演奏会で、ベートーヴェンの『エロイカ』を演奏し、クラウディオ・アッバードはベルリン・フィルの指揮台に復帰した。
十三年前、東京でのヴィーン・フィルとの連続演奏会で最も心を打たれたのが『エロイカ』だった。あのとき、音楽と完全に一体となって呼吸しながら、自己と世界とが完全に合一したような感覚を味わっていた。初めて経験する、めくるめくような喜びに満たされていた。世界にはかくも美しいものがある、信じるに値するものがある、それが何なのかはわからないが、アッバードのベートーヴェンにはそう感じさせるだけのものがあった。ポストモダン、ニューアカデミズムに席捲され、ベートーヴェンを真摯に聴くなどということはあまり流行りそうにもない世の中だった。しかし、アッバードの音楽は、こうして現代にベートーヴェンを演奏することに積極的な意味を見出している、そして新しい解釈を再発見していくひとがいるではないか、という希望を与えてくれた。闇の中に一条の光が見えれば、ひとは歩き出さずには居られない。
ベルリンでの演奏会は聴けないが、ベルリン・フィルとの新しい交響曲全集で『エロイカ』を聴いた。響きは小編成になってむしろ強靱な精神を感じさせるようになった。内声の動きはさらに透明に聞こえるようになり、爽やかな感動を与えてくれる。同時に、そこにはかつて聴いた瑞々しい音楽の流れが息づいていた。実際、全体にテンポが速くなったものの、音楽のなかの時間の流れは、『エロイカ』に限って言えばヴィーン・フィルの頃と基本的には変わっていないようだ。時を経て変わるものと、変わらないものとがある。フィナーレの音楽が徐々に高みへと昇りつめていくのに身を任せながら、アッバードが再びベートーヴェンの意味を問い直してくれたことに改めて感謝している。
ドイツ統合十年記念演奏会は聴けませんでしたが代わりにヨーロッパコンサートを五箇月遅れで録画で楽しむことができました。ベートーヴェンの第九交響曲。
一カ月ほど前からヴィーン国立歌劇場公演記録に少しずつ配役表が補完されているのにお気づきでしょうか。今回も『ドン・カルロ』を始めいくつかのデータを追加いたしました。この作業に手間取ったためシカゴ響公演記録の続きはお休みです。前回『ヴォツェック』の演奏会上演のデータを公開しましたし、この直後にもう一つ大物が控えておりますのでどうか御了承下さい。首席客演になった途端に好きなことをやっていたようですが、それを実現させたシカゴ響も立派なものです。
(2000年10月7日 編集子)
精神の勝利
九月に入ってからベートーヴェンばかり聴いている。アッバードの新全集が出るのを待ちきれずに、フルトヴェングラーを聴き直していた。特に、『エロイカ』の1944年盤とバイロイトの『第九』と。アッバードの全集が出てからは憑かれたように聴き続け、さらに、放映されたヨーロッパコンサートの『第九』も聴いた。
アッバードのベートーヴェンの中で、ヴィーン・フィルの頃と比べて最も大きな変貌を遂げたのが『第九』だろう。1996年来日時の演奏と比べてさえ、一段と表情の深い演奏になっているように思う。この来日時には専ら版の問題や古楽器演奏の影響が取り沙汰されたものだが、アッバードの成し遂げたことの本質は、そうした新しい演奏様式の中に、ベートーヴェンの音楽の精神を蘇らせた、というところにある。ベートーヴェンの音楽には、世界に対する信頼を取り戻させてくれるような強靱な伝達力がある。フルトヴェングラーの『第九』がいまだに聴き継がれているのも、この演奏にそうした力があるためだろう。
1996年の実演でもその凄まじい気迫に圧倒されたが、新しい録音及びヨーロッパコンサートでの演奏は、細部の表現がより深くなり、この交響曲の美しさを新たに見出していく喜びを与えてくれる。例えば、第一楽章展開部から再現部にかけて、ティンパニの動きがとても豊かで、四年前に聴いたのとはまた違う感動があった。
アダージョ楽章が美しい。十三年前と比べてテンポが遙かに速くなり、にもかかわらず、さらに深く歌い込まれるようになっている。強靱な精神と優しい包容力とを感じさせる、クラウディオ・アッバードという人間そのものが現れているような音楽である。演奏様式は変わってもベートーヴェンの精神は脈々と生き続ける。アッバードは新しい現代の様式の中にベートーヴェンの精神を爽やかに蘇らせた。こういう音楽があるかぎり、ひとは世界を信じて生きてゆける。この『第九』は精神の勝利である。
10月5、6日の「Musik ist Spass auf
Erden」ツィクルス開幕演奏会のプログラムを掲載しました。予め発表された出演者が一部変わったようです。主役四人揃っての『アルジェのイタリア女』第一幕フィナーレという素晴らしい贈り物もあります。『ランスへの旅』も予定されていましたが、『アルジェのイタリア女』に吸収合併されてしまったようです。なお、11月のヴァーグナー演奏会のプログラムも最新情報に書き換えましたので御確認下さい。この直後に日本公演です。
シカゴ響公演記録を二回連続で休載いたしましたがその代わりヴィーン国立歌劇場公演記録を追加いたしました。『アルジェのイタリア女』も入っております。
(2000年10月14日 編集子)
気がつけば数えている
気がつけば、数えている―山室恭子『歴史小説の懐』(朝日新聞社、2000)を楽しく読んで、あとがきにこの言葉を見出して微笑んだ。ここのところ編集子も毎日数えているからである。ヴィーンで『仮面舞踏会』を十四回振っている。資料館で把握しているのは十一回、あと三回はプレミエの時に違いない。歌手の出演データをしらみつぶしに調べて、後の三回の日付を割り出す。『アルジェのイタリア女』は十二回、資料館には何故か十三回載っている。他の指揮者の出演データを検索して、プレミエに引き続いた公演のうち二回はウェルザー=メストが振ったことを突き止める。ちょうどこの時期に『ヴォツェック』の公演が重なっている。『シモン・ボッカネグラ』は二十回、アッバードが振ったのはプレミエ時と音楽監督在任中のすべての公演。いったい、いつごろ何回振ったのか。かくて、頼みの綱のヴィーン国立歌劇場五十年史は、さんざん酷使された挙げ句にA、Bの項あたりは早くも分解しつつある。だが、こうした作業の中から、一瞬、生のアッバードの活動が垣間見えたときの喜びは格別である。若かったとは言っても、連日のように『ヴォツェック』とロッシーニを交互に指揮し続けるのには無理があったのだろう。この直後に同歌劇場のベルリン公演で、『シモン』と『ヴォツェック』を振っている。
かくて今回もヴィーン国立歌劇場公演記録の補完作業に追われ、シカゴ響公演記録は休載。ヴィーンについてはいずれ校訂報告を出します。次回はヴィーンをしばしお休みしてシカゴ響の続きをやろうかと考えております。尚、来日公演の『ボリス・ゴドゥノフ』の配役表に誤りあり、訂正しておきました。
(2000年10月21日 編集子)
『ボリス・ゴドゥノフ』のこと
最後にアッバードの指揮するオペラを聴いたのは1994年のヴィーン国立歌劇場来日公演の『ボリス・ゴドゥノフ』だった。『フィガロの結婚』に続いてこちらも三日間通いつめた。このときのアッバードは絶好調で、この『ボリス』にはただただ圧倒された。ヴィーン・フィルは、繊細な弱奏から八方破れの全強奏まで、この上なく雄弁な音を出し、あのNHKホールを鳴り響かせていた。第二幕、大きな時計の振り子が揺れている場面、幕切れでボリスが良心の呵責に苦しむところの音楽に深く心を打たれた。こうした内面的な深みを味わわせてくれる一方で、個人の遺志とは一見無関係に動いていく歴史の力を感じさせるところもあった。例えば終幕のクロームイの場がそうで、群衆の合唱から凄まじいエネルギーが溢れ出していた。また、旅籠屋の場面では庶民的な笑いの感覚を大いに楽しんだものである。既に録音でも聴いていたとはいえ、ムソルグスキーの音楽にこんなに夢中になったのはこのときが初めてだった。
なによりも、プーシキン原作のロシアの史劇を十分愉しませてくれる一方で、これを現代の世界にも通用する普遍的な歴史の真実として伝えてくれた、素晴らしい上演であったと思う。特に終幕は、次々といろいろな権威を担ぎ出しては捨て去ってしまう愚かな民衆の中に実は恐るべき底力が潜んでいるのだということを見せてくれ、なんともいろいろ考えさせられる舞台であった。
ちなみにアッバードはこのオペラを1979年にラ・スカラでリュビモフ演出により上演、1983年にはタルコフスキーに演出を依頼しコヴェントガーデンで指揮、この舞台をヴィーンで再演した。来日公演もこの舞台だったが、この年はザルツブルク復活祭音楽祭でヴェルニケ演出による上演も指揮をしている。アッバードはこの舞台にも思い入れが深かったらしい。舞台写真を見ると人々が大きな鐘を担いでいる場面があるが、これはもともとタルコフスキーの映画『アンドレイ・ルブリョフ』からの着想だったそうである(Musica
sopra Berlino、1997)。
お待たせいたしました。シカゴ響公演記録1984年分はこれで完結です。なお、1986年11月のヴェルディ『レクイエム』のアルト独唱、『レコード芸術』1987年1月号に三浦淳史氏がヴァレンティーニ=テッラーニと書いておられましたが、プログラムではフィニーなのでこちらを採りました。年間公演予定ではヴァレンティーニ=テッラーニだったのかも知れません。新校訂版による最初の演奏だったとのことです。
(2000年10月28日 編集子)
Man kann immer etwas Neues finden.
ベルリンからPhilharmonische
Blaetterの今期第一号が届いた。見返しがドイツ・グラモフォンの広告、ベートーヴェン全集の函でお馴染みのアッバードの写真が大きく出ていて、同時にきれいな色が目に飛び込んできた。何と、ベートーヴェン全集、日本盤と装訂が違うではないか。インタヴューの原文も読みたいし、どうしても欲しくなって、輸入盤を買いに走った。彩度を抑えて揃えた五色の紙ケースに一枚ずつ入っていて、指揮者の味わいのある写真がそれぞれ表紙に付いている。かくてベートーヴェン全集をまた最初から聴き直す。音楽の爽やかな呼吸に身を任せながら、内声の細かな動きを心ゆくまで楽しみ、随所に現れるいかにもアッバードらしい音楽の揺れを味わう。聴き直すたびに新たな魅力を発見し、新たな感動を呼びさまされる。昔もこうしてヴィーン・フィルとの全集を聴いたものだった。今、また新たな世界が開かれている。
時代は変わり、それとともに演奏様式も変わる。だが、いかなる時代にあっても、我々はベートーヴェンの音楽から生きる喜びを際限なく汲み取っていくことができるのだ。ベルリン・フィルとの演奏を聴いて、改めてその想いを強くした。『第九』のアダージョを聴きながら、生きていて良かった、と、十三年前に味わった喜びを再びかみしめている。
シカゴ響公演記録が完結いたしました。山本博史様ありがとうございました。1986年11月15日の演奏会は定期ではなく"Bravo Abbado"という特別演奏会ですが、曲順は不明。おそらく実際にはチャイコフスキーが最後に置かれていたのではないかと思われます。
(2000年11月3日 編集子)
静寂のなかに永遠を聴く
「原光」のなかでも最も静謐な瞬間に、殺風景な電子音が鳴った。1996年10月20日、東京でのアッバード指揮ベルリン・フィルによるマーラー・第二交響曲の演奏会でのことである。アルト独唱が「紅の小さな薔薇よ」と歌った後のオーケストラ間奏のところだった。血の気が引いた。指揮者の背がびくっと引きつったのがわかった。呼出音が執拗に鳴り続けるなかで、それでも音楽は続いていた。息を詰めるような緊張は破られはしなかった。電話の持ち主が音を止めるまで、張りつめた最弱音が続いていた。アッバードという指揮者の怖ろしさを思い知らされた瞬間だった。会場に響き渡った電子音よりも、音楽の創り出す静寂の方が、遙かに勝っていたのである。騒音に拮抗してこの静寂を維持し続けるのに、どれほどのエネルギーが要ったことか。
アッバードの音楽では、時に、この上なく静かな瞬間こそが何よりも雄弁で力強いことがある。『ヴォツェック』ではマリー殺害の直前の深い静寂が何よりも多くのものを語っていた。また、マーラーの第九交響曲フィナーレ終結での時が止まったような音楽とその後の長い余韻は、刹那のうちに深い永遠を感じさせた。静謐の中に真に美しいものを聴き取るというのが如何に大切なことかを、アッバードの音楽は教えてくれる。
山本博史様より、1984年3月のヴィーン・フィル定期でのベートーヴェンの交響曲は第七番ではなく第八番であるとの御指摘をいただきました。FM放送されたとのことです。この項は『ウィーン・フィルハーモニー』(音楽之友社、1987)に依っておりますが、単なる誤植なのか、それとも予告では第七番だったのが第八番に変更されるといった事情があったのか、よくわかりません。真相はこれから調査予定ですが、事情を御存じの方がおられましたら御一報いただければ幸いです。
ヴィーン国立歌劇場『ホヴァーンシチナ』の配役表を追加いたしました。
(2000年11月11日 編集子)
予感
出張でとある地方の都市に三日ばかり滞在した。小さな川沿いに古い町並みの残る美しい町である。観光客に混じってにわかに中年男性の群が出現したのだが、ここに来るとみなおおらかな表情で歩いている。時間がゆったりと流れているのだ。仕事中だからといって、この静かな町を何も急いで通り過ぎることはない。都会の雑踏に戻ったらさぞ疲れることだろう、と思う。案の定、帰ったら仕事は山積していた。にもかかわらず、ゆったりとした幸せな心持ちが続いている。普段は殺風景な人混みにしか見えない風景がいつになく澄みきっているのである。空が抜けるような透明な碧色になり、空気のひんやりする季節になったからか。それだけではない。
アッバードが来ているからだ、と気づいた。ものがみな美しく見える日が続いているのは、まもなく幸せな時間がやって来るからだろう。何かが起こる、という期待が高まる。
待つ、というのは時に幸せなものである。
アッバード来日に伴い多忙になりますのでしばらく資料館の更新が滞るかも知れません。御海容のほどお願い申し上げます。
ヴィーン国立歌劇場『ランスへの旅』の配役表を補完いたしました。その他、誤植の訂正が多数。
(2000年11月18日 編集子)
クラウディオが帰って来た
待ちに待った時が遂に訪れた。11月23日、アッバード指揮の『トリスタンとイゾルデ』は東京で初日の幕を開けた。
生涯にわたって心の奥深くに残り、人生を変えてしまうような音楽体験がある。この夜の『トリスタン』がまさにそうだった。大いなる静謐と言うべきか。室内楽のように繊細な、静かな響きのところが、何よりも力強く雄弁であった。深い静寂というものは同時に限りなく情熱的でありうる。一瞬たりとも緊張は緩むことなく、最初から最後まで音楽に惹き付けられた。どの瞬間にも音楽に完全に没入していた所為か、長大な作品があっという間に終わってしまったように感じられた。とりわけ第二幕、夢中で聴いているうちに、いつしか「愛の夜」が訪れていた。ここから、ブランゲーネの見張りの歌をはさんで愛の二重唱が次第に高揚していくところ(ここでのアッバードの指揮が熱っぽくて素晴らしい)、もうこのまま時が止まって欲しい、と願ったにもかかわらず、破局は容赦なく襲いかかった。『トリスタン』がこんなに短く感じられたのは初めてである。
「愛と死」の最後の和音が消えていった後、深い闇と静寂が訪れた。永遠に続くかの如くに感じられた比類ない沈黙が、早すぎる拍手で破られてしまった、それだけが残念だった。
こうした夜のために世界は存在する、こういう夜があるからこそ人生の意味はある。夜が永遠に続きますように。永遠の夜、甘美な夜。
アッバードは普段にも増して情熱的な指揮ぶりであった。ここ数箇月間抑えていたものが一気に溢れ出したのだろうか。カーテンコールに出たクラウディオの笑顔がひときわ輝いていた。
演奏についてはいずれゆっくりと書きたいと思います、今回の「後記」は信仰告白のようなものです。それにしても、『トリスタン』の公演はベルリンでは一回きり、ザルツブルクでも二回のみです。それを三回も聴けるのですから我々は幸せでしょう。マエストロに心からの感謝を捧げます。
(2000年11月24日 編集子)
宴のあと
嵐のような十日間だった。『トリスタンとイゾルデ』の公演が三回と、ベルリン・フィル演奏会が二回。アッバードの『トリスタン』は昼も夜も心の中で鳴り続け、他のことは何も考えられなかった。碌に眠りもせず、碌に食事も摂らず。とはいえ職業的責任は全うせぬ訳にいかない。トリスタン、仕事、演奏会、仕事、仕事、そして夜はまたトリスタン。指揮者にとっては大変なエネルギーを要した日々であったに違いないが、聴く方もまた消耗した。息をのむような緊張した時間の連続だったが、それは何と美しかったことだろう。生きていて良かった、この瞬間を味わえて良かった、いま改めて喜びをかみしめている。『トリスタン』最終公演はまさに一つの奇跡だった。
それにしてもクラウディオの笑顔の素敵だったこと。あの戸惑ったような照れたような微笑みにはこれまでもカーテンコールでしばしば出会ったものだが、『トリスタン』終演後に見たのは、かつてないほどに澄みきった幸せな笑顔だった。この人にとって、音楽をすることはすなわち生きることなのだろう。
ありがとう、マエストロ・アッバード。またお会いしましょう。
今回もCredoの続きです。いずれ感想をまとめたいと思いつつ「日々の要求」に忙殺されております。
ベルリン・フィル来日公演のプログラム冊子にアッバードと同オーケストラの公演記録が掲載されています。資料館と突き合わせて必要な修正・補完を加えましたのでまた御参照ください。
但し、1993年のヨーロッパ演奏旅行については問題があります。資料館の記録は写真集Das
Berliner Philharmonisches Orchester mit Claudio
Abbadoから転載していましたが、2月20日ラヴェンナ公演、5月25日アテネ公演のみ、同写真集と来日公演プログラムの記載が異なっていました。1996年来日時のプログラム冊子掲載の資料と比べると今回のものはかなり詳細に誤りの訂正がなされているようです。一方、写真集にも1992年4月ザルツブルクでの演奏会が抜けているなど、いい加減な箇所もあります。迷った挙句、今回、資料館では日本公演プログラムの方を採用しました。参考までに写真集に掲載された曲目を示します。尚、1997年以降に関しては、プログラム冊子にはかなり遺漏があるようです。
20 Februar 1993, Ravenna
Richard Strauss : Tod und Verklaerung op. 24 / Brahms : Symphonie Nr. 1 op. 68
25 Mai 1993, Athen
Mussorgsky : Eine Nacht auf dem kahlen Berge / Richard Strauss : Till Eulenspiegels lustige Streiche op. 28 / Brahms : Symphonie Nr. 1 op. 68
(2000年12月2日 編集子)
再び『トリスタン』
何と言ってもヴァーグナーは長い。あの素晴らしい『ヴァルキューレ』ですら、ヴォータンが世界の終焉について語り出すと、ややもすると今どこを歌っているのか見失うことがある。『トリスタン』でも、「愛の夜」を聴いた後ではマルケ王の語りで時には少々息を抜きたくなることもある。しかし、アッバードの演奏を聴いているときにはそんな余裕はとてもなかった。ベルリン・フィルのまるで室内楽のような響きの織りなす綾にすっかり魅せられていたというのも確かだが、音楽が台本の意味内容をすべて感じさせてくれたことが最大の理由だろう。
イゾルデがタントリスを殺さなかった時に、既に愛は生まれていた。第一幕で、二人はそのことを互いに知っていながら、名誉や復讐の話をしている。そして、二人以外の誰も、裏の意味には気づいていない。そうした対話の二重の意味合いが、音楽を聴いているといやでもわかってしまうのである。思わず身を乗り出して手に汗を握りつつ聴き入ってしまう。第二幕以降についても同様のことが言えるが、今は止めておこう。
つまり、ヴァーグナーの音楽はそこまで描いている、そして、アッバードとベルリン・フィルは完全にそれを響きにしてしまっている、ということだ。こう言ってしまうと自明のことのように聞こえるかも知れない。しかしながら、ドイツ語のテクストの微妙な含みなど理解できないにもかかわらず音楽を聴いてここまでわかってしまう、というのは稀有の体験である。そういう演奏が実現したというのはこのうえなく幸せなことだ。今回の上演に接して漸く『トリスタン』が本当にわかってきたという気がする。ヴァーグナーは長大な台本を書いた、だが無駄な言葉は書かなかった。
早くまっとうな感想を書けと叱られそうですが、実はアッバードが帰ってしまってから完全に腑抜けになっており、この調子だとちゃんと書けるのは半年後くらいになりそうです。そのうえ他の仕事も入ってしまい、今後はこれまでほどまめに更新できなくなるかも知れません。本来なら編集室の改装などやっている場合ではないのですが。とはいえ、少しずつでも新しい内容を付け加えていく所存ですので、今後とも宜しくお願い申し上げます。
十二月に入って更新したのは「ベルリン・フィル」と「今後の演奏会から」です。
(2000年12月9日 編集子)
静寂と闇と
奇跡のような『トリスタン』最終公演を聴いた後では、他の音楽を聴く気には到底なれない。アッバードのCDですら聴けない。ただあの『トリスタン』が心の中で鳴り響くばかりである。
「愛の夜」から破局に向かう二重唱までの美しさは心に深く刻まれている。ベルリン・フィルの響きは室内楽みたいに透明で繊細で、息を詰めて聴き入ったものだ。音楽は、静謐に、しかしときに激しく昂揚ながら歌い継がれて行く。最も静かな瞬間に、最も激しいエネルギーが感じられる。静謐というものが同時に限りなく情熱的である、ということを改めて教えられた。この世のすべての価値を超越してしまうほどの強い愛を確かめ合うのに、絶叫する必要は全くない。大切なのは静寂である、深い静寂の中に愛の声を聴くこと、それだけで十分である。二人にとってだけでなく、それを聴いている私たちにとっても。
最後のイゾルデの「愛の死」、上演を繰り返すたびにテンポがさらに遅くなり、音楽がさらに静謐になっていったような気がするのだが、自己満足的な愛の陶酔に終わらず、真の共感を誘い出してくれるような歌であった。最後の和音の余韻が空間に消えていった後の深い闇と静寂、初日の夜はこれが数十秒あまりも続いてくれた。
来日公演直後に最新の文献を入手、目下はまっております。いずれ何らかの形で御紹介できればと思います。
アッバードがカラヤンに見出される契機となったのがベルリン放送交響楽団の「RIASは紹介する」シリーズへの客演であったことは良く知られていますが、そのプログラムが判明しましたので御覧下さい。ラフマニノフの独奏者は不明です。また、「今後の演奏会から」を補完しました。
(2000年12月16日 編集子)
生命の輝く夜に
十三年前、アッバードがヴィーン・フィルを指揮してベートーヴェンの交響曲を演奏するのを聴いて、生まれて初めて、生きていて良かった、生まれてきて良かった、と心の底から感じることができた。ひとが生きていくためにはたった一つの理由があれば良い。世界は美しいと感じること、世界を信じること、世界を愛すること、そういう感覚を一瞬でも持つことができれば、ひとは生きて行くことができる。アッバードのベートーヴェンはそのことを教えてくれた。十三年後、ベルリン・フィルとの演奏で再び第七交響曲を聴いた。ヴィーン・フィルで聴いたときよりもさらに瑞々しく輝かしい音楽で、アッバードはまた若返ったように思われた。あらゆる瞬間が輝いていて、特にフィナーレは、もう眩くて目を開けていられないほどだった。この演奏を聴いて初めて、生きていて良かった、と思った人が、あの夜も何処かに居たに違いない。これでまた、明日も生きてゆける。
ヴィーン国立歌劇場公演記録の作成を再開、『ヴォツェック』の配役を一部補完いたしました。
(2000年12月23日 編集子)
ジルヴェスターを聴く前に
段ボール箱に雑然と詰め込まれた膨大な資料―切り抜き、コピー、果ては手帳の余白の書き込みに至るまで―を何とか整理したい、このままでは活用できない、そうした危機感から「資料館」の構想は生まれました。断片的な記録の数々から公演記録を再構成しながら、どうせ作るなら他の人にも利用して貰おう、そうすれば新たな情報を提供していただけるかも知れない、と考えたのです。最初は、こんな零細サイトはアッバードの音楽を愛する友人たちにしか見て貰えないだろうと思っていたのですが、蓋を開けてみるといろいろな方々が訪れてくれたようで、何とかここまで細々と存続して参りました。今後も少しずついろいろなデータや記事を出していく所存ですので、末永く御活用いただければ幸いです。情報をお寄せ下さった方々、メールを下さった方々に心から御礼申し上げます、とても励まされました。
2001年も宜しくお願い申し上げます。
ヴィーン国立歌劇場での『ヴォツェック』の配役をすべて掲載しました。後は『シモン・ボッカネグラ』を残すのみです。
(2000年12月30日 編集子)
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