飴と鞭

 

工学系研究科

修士課程一年

佐伯 享昭

 

  指揮者というのは何だか変な仕事である。音楽家なのに演奏会では楽器を持たず(弾き振りは除く)、タクト一本で勝負する。人によっては、「タクトなぞいらぬ、素手で勝負」という粋な指揮姿だったりする。同じ曲を演奏して、これだけ人によって身振りが違う音楽家もそうはいまい。ピアニストがいくら奇抜な演奏をしていると言ったって、鍵盤を叩くという動作はスピードや精度など細かいことを言わなければ皆同じ。ヴァイオリニストだって、弦を擦ったり弾いたりして音を出しているという点では音大の学生も老大家も大差ない。指揮者はどうだ。同じ曲をやっても飛び上がったり叫んだりする人もいれば、手首の先しか動かないような省エネな人もいる。人によっちゃあオーラを発していたりするらしいから凄いものだ。オーラに突き動かされてオーケストラが演奏したという話はあっても、オーラでピアノの鍵盤が動いたなんて話は聞かないから、やっぱり指揮者って凄いと思う。

  叫んだり、唸ったり、足を踏み鳴らしたりすることもあるので、決して音を出さない音楽家とは一概に言えないまでも、楽器を持たない指揮者が音楽を奏でるためにはオーケストラという人の集まりに弾いてもらうしかない。この際の方法論としては主に二つが考えられる。一つは依頼。要するに「こうしてくれないかなぁ?」という立場。「こんな風にしたらどうだろう?」というのも含めてしまってよいだろう。時には「お願いだからこうしてください」というのもある。もう一方は命令。即ち「こうしろ、ああしろ」の世界。これには「指揮棒で刺されたいか?」、「シベリア送りにするぞ」、「クビにするぞ」といった脅迫も含めてしまおう。

  依頼する側の立場はされる側より低いことが多いから(逆なら見かけ上依頼でも実質的には命令)、依頼する側としてはどうにかして引き受けてもらえるよう持ち上げたり、説得したりしなくてはならないわけだ。一方で命令する側は明らかに立場が上。ぎゃんぎゃん吠えたり、体罰を繰り出したり、冷静に客観的事実を指摘したりと拷問さながらのリハーサルが容易に想像できる。この二つはいわば飴と鞭。指揮者の肝はこのバランスにある・・・なんてもっともらしいことは言いません。私から言えるのは、鞭で叩かれる位なら叩く方を選ぶし、飴をあげる位なら自分で食べるだろうな、ということ。そんな輩がこれから数ある指揮者の中から指揮者という仕事を立派にこなしている(いた)人々をひっ捕まえて、飴派と鞭派に振り分けてしまおうというのが今回の企画。こんな風に見てみると、指揮者という仕事がもっとよく見えてくるんじゃあないかしら、といううっすらとした期待を抱きつつ・・・。

 

Claudio Abbado

  元祖飴派。この人が活躍するようになってから指揮者に飴派が急激に増えたのではなかろうか。「細部にこだわり、全体像を提示しない」と言う理由でChicago SOの音楽監督争奪戦でBarenboimに蹴落とされ、「民主的である」(でも彼は共産主義者らしい)という理由で天下のBerlin POの親分にのし上がった。しかし、年を追うごとに評価は下がる一方で、馬鹿馬鹿しいエピソードに事欠かない指揮者の代表格となってしまった。そんな「皆で頑張ろう」の彼だが、団員たちも「皆で頑張ろう」と思ってくれたときは結構いい演奏をする。London SOとやったMendelssohnがいい例。しかし、皆が必ずそう思ってくれるほど世の中は平和ではないらしい。・・・という具合に一部の評論家を含む多くの人に馬鹿にされていたClaudio君だが、彼の後任も決まってめでたしめでたし、もう21世紀を迎えようかというところへ来てとんでもないことをやってくれた。Berlin POとのBeethoven交響曲全集で、「Wandばかり誉めやがって、見てろよぉ!」という彼の叫びか知らないが、とんでもない演奏となっている。Beethovenのメトロノーム指示は「不可能ではない」と言い切り、自ら、それも完璧に実践してのけた。そんなことが「不可能ではない」オーケストラが他にいくつあるというのですか? やりたい放題の大巨匠へまっしぐら…ならいいのだが。

 

Takashi Asahina

  新興宗教の教祖である。…というのがそれほど嘘に聞こえないのが凄い。彼の演奏会は儀式以外の何物でもない。指揮台へ上がる姿に信者は感動し、演奏が終わるとまるで奇跡が実現されたことを喜ぶかのような喝采。たとえそれがどんなにおかしいと思えるような演奏であったとしても…。そして、天上より垂らされた一本の蜘蛛の糸に群がる餓鬼の如くステージへと押し寄せる信者達…。個人的には大阪POのように慣れ親しんで癖の一つ一つまで理解しているような間柄なともかく、客演ではもはや彼には無理があると感じている。かつては相当おかしなこともやっていたのだが、現在は後光で振っているような感が随分とある。そして、彼の指揮はやはり分かりずらいらしい…。かつてはもっと細かいことの出来る鞭派の指揮者であったと思われるが、現在は…指揮者ではなく教祖様…。

 

Vladimir Ashkenazy

  この人も飴派。いわゆる「転職組」には飴派が多いように思える。専門分野でいかに巨匠として鳴らそうと、指揮の分野では素人さんだからか。この人の演奏で「当たり」だと思ったものが一つも無いのが凄い。統率するという概念が無いとしか思えないことすらあり、なぜ指揮者になったりしたのだろうという疑問が湧いてくる。飴派特有の現象として、うまく意図が伝わらないと何がしたいのか分からなくなるという現象をよく示している。その点、鞭派は音楽がどうであれ、締め上げようとする意思は必ず伝わってくる。なお、先日N響を振っているのを目撃したが、指揮技術は随分と怪しいものだった。あるイベントで、最初に(代理で)指揮をすることになった演奏会の打ち上げで「上手く振れなくてごめん」と言ったら、オーケストラの団員に「そんなことは最初から分かっていた」と言われたと笑いながら言っていた。それって…。

 

Daniel Barenboim

  Soltiの後を継いで颯爽とChicagoへ乗り込んだはいいものの、「何をやってもSoltiより悪いと言われる」と嘆く羽目になった失意の指揮者。それでも、愛する神様Furtwaenglerに少しでも近付かんとその速度調節機構の研究に余念が無い。しかし、元祖への道は遠く険しく、理解の無い聴衆に失笑される有り様。Abbadoより全体像を提示したという理由でChicago SOの音楽監督を勝ち取ったとされているが、先日衛星放送で流していたBeethoven8番(オケはBPO)を聴くと、その言葉が空虚に聴こえる。Furtwaenglerの猿真似は止めたらしいなどといわれているが、どうしてどうして。今やBerlin POをかき回せるのは彼くらいのものだろう。あわよくばBerlin POの音楽監督になどと色気を出した指揮者と契約を延長したChicago SOの我慢強さには感服。例えアメリカ五大オケの中でもはや最低と言われようと、彼についていこうという心積もりなのだろう。どうかお幸せに。Berlinの国立歌劇場は追い出されるらしいと先日新聞で見た。いよいよもってChicago SOを彼好みに徹底調教か?

 

Leonard Bernstein

  世間で騒がれるレオ様とはこの人のことである。その渋い顔とあふれんばかりの愛情から、方々で引っ張りだこ。Sonyから最も多く同じ演奏が出直した人の一人であろう。この人のマスターテープもそろそろ擦り切れてきているのではないか?この人の信念はLove & Peace。音楽が世界平和に貢献すると本気で信じることができた最後の指揮者であろう(信じていないのに同じ事をするのは偽善者)。勿論、どこのオーケストラへ行っても団員とはすぐにお友達。こんな彼に鞭が使えるわけがない。飴、飴、飴の洪水であったことは想像に難くなく、Berlin POとの一期一会の超名演の誉れ高いMahlerなど、飴玉をぶつけられすぎたせいで天下のBerlin POですらもうめろめろである。こんなに下手くそなBerlin POは滅多に聴けまい。飴も度を過ぎれば鞭になるということか。食べ過ぎれば虫歯にはなるな。

 

Karl Boehm

  ウムラウトを使わないとこういう表記になるのではなかったか?Bohmでもいいが…。Vienna POを締め上げることができた最後の指揮者であると言われている。リハーサルは信じ難いがみがみ親父ぶりで細部に至るまで念入りに仕上げたとか。顔といい、まあ鞭派でしょう。彼がいなくなった後のVienna POが本当に駄目になったのか、ということになると、そうでもないときもあるように思われるのであるが…。

 

Sergiu Celibidache

  生は本当に凄かったと口々に言われ、私のようにCDでもあまり聴きたいと思わないなどという輩には一生理解できないであろう指揮者。色々言ってみたけれど、やっぱり最後に盛り上がって終わりなんだよ、という風に彼のBrucknerが聴こえてしまうのはまずいんだろうか?拍手がなかなか始まらないのは単に客が曲を見失って、終わったかどうか分からなくなったからじゃないかなんて言ってはいけません。お店の試聴で8番を聴こうと思って、時間の都合でコーダのあたりまで飛ばしたら、ぶわーっと鳴っているだけでどこだかしばらくわからないで困惑したのはこの私。先日リハーサル風景をテレビで見たが、異常なほど細かい指示に呆れた。耳が恐ろしく良かったと言われるが、それ故、団員は彼の気にしている違いを聴き取ることができているのか、といった疑問が湧かないでもなかった。こんなねちねちリハをやるのは勿論鞭派。でも、オーケストラがべらぼうに巧いかと言われると、そうでもないのがお洒落。

 

Christoph von Dohnanyi

  私の知りうる限りで最も端正な音楽を奏でることのできる指揮者の一人。彼の指揮の下で音楽が荒々しくなったり、雑然としたりしているのを聴いたことは殆どない。その副作用として、派手な盛り上がりを期待すると肩透かしを食らうということが度々あるのだが、そういったものを聴きたければ他の指揮者を頼ればよいだけの話。しかし、それゆえか、時に曲に対して不感症なイメージを与えることがしばしばあるのは事実。場合によっては嫌々振らされているのではないかと思うことも。そのような場合であっても、細部に至るまでの緻密さは並大抵のものではなく、嫌々でここまでできるものかとも思う。Szellが築き上げた最高の楽器を使って、全く異なる方向性でありながらも最高水準の響きを生み出すその手法は果たして鞭によるものなのか。現存の指揮者の中でも最も紳士然とした彼には無骨な鞭は似合いそうにないが、かといって飴派とも思えない。スマートな鞭?

 

Vladimir Fedoseev

  ロシア爆裂系指揮者の一人と言われている。しかし、Vienna SOを振ったときの演奏などはどこか煮え切らない部分が付きまとう。Moscow RSOとの最初のShostakovich5番にしても、状況がやや複雑であったとはいえ、期待外れの感がある。「春の祭典」のような暴力的な演奏は鞭無しで達成されないとは思うが、どうも常に鞭が振るえる人ではないように思われる。

 

Wilhelm Furtwaengler

  神様である。何せホールの入り口に来ただけでオーケストラの音色が変わるのだ。オーラで指揮ができた恐らくは最初で最後の指揮者。録音からははっきり言って何も分からないに等しいものがあるが(虹色の音色がしたなんて言っているのは誰だ?透明感があったというのは本当か?)、そんな神々しさを感じさせたと言われる人が飴一辺倒であったはずが無い。どこで音を出していいか分からなかったと言われる指揮など、我が子を千尋の谷に突き落とすような行為であろう。鞭を鞭であることすら悟らせなかった・・・のであれば神様の資格十分。

 

Mariss Jansons

  世界的なジュニア・ブームだと一部で言われているが、この業界でもその波と無関係ではない模様。べらぼうに弾けると噂されるPolliniの息子はいつ出てくるんだろうとどきどきしたりしているのは私だけではあるまい。よくは知らないが、お父さんのArvid Jansonsはよく日本へ来ていたらしい。そういえば、Leningrad POの来日公演で副指揮者を務めたりしていたっけ。CDとして出ているものはそれほど多くは無いが、可も不可も無くといったBerliozがあるかと思えば、限りない透明感に胸を打たれるMozartRequiemがあったりと今ひとつ実体がつかめない。息子のMarissはというと、Leningrad POとのShostakovich7番を極めて明晰に振ってみせるなど、このオーケストラの首席指揮者に収まっていればそれなりの活躍ができたはずであろうと思われる。しかし、彼が落ち着いたのはOslo PO。北の国でオーケストラを一生懸命叩き直し、何とか清涼感のある響きを出せそうになるに至ったが、彼が本当にやりたいことがどれだけできていたか。挙句の果てにはEMIを放り出される始末。最近の来日公演ではそんな彼が最近手に入れたPittsburgh SOという機能性では大分勝る武器を用いて、これまで溜まりに溜まっていた鬱憤を一気に晴らそうとするかのような耳の限界を超えようかという金管の咆哮(金管奏者の前に、恐らくは木管奏者の耳を保護するためであろうアクリル板が立ててあった)と皮を破って地の底まで叩き付けようかという大太鼓の強打の中に彼の苦労と苦悩が垣間見え、それがShostakovich5番という曲の内面と見事なシンクロを見せていた・・・のであればもっと偉くなっているだろう。一見人のよさそうな写真が多いが、指揮姿は結構な暴れん坊であり、あまりに厳しい指揮者の後はつい(相対的に)甘い指揮者を選びがちであることも踏まえると、Leningrad POの首席争いで彼が破れたTemirkanovよりも鞭派だったりするのではないかと思う。

 

Otto Klemperer

  Knappertsbuschに優るとも劣らない引き延ばし演奏を晩年に繰り広げたが、彼よりたくさん練習し、細かいことを気にした分だけより知的であるという認識が一般化されているらしい。指揮台から転げ落ちたとか寝タバコで大火傷をしたとか、演奏と全然関係の無いところでのエピソードの多さは驚異的。しかし、その結果身体はますます動かなくなり、演奏はますます遅くなったのだから、一概に無関係とも言えまい。平気で人の悪口を言う人がわざわざ飴など差し出すはずも無い。ましてやMahler7番で聴かれるような常軌を逸したテンポである。あんなものを徹底させるのにはそれなりの努力が必要であったことだろう。鞭派は鞭派でもいやらしい鞭の使い方であったことは想像に難くない。時々自分で振るった鞭が自分に絡まったりするのがポイントか。

 

Hans Knappertsbusch

  この人は難しい。練習をしない人だったと聞く。言わば飴も鞭もはなから放棄していたのだ。その指揮姿は腹で振っているように見えたと言われるなど、ろくなエピソードが無いが日本とドイツの田舎にはファンが多いらしい。何を振らせてもおかしなことになるが、相手はドイツの田舎オケばかりではない。どんなオーケストラにも自分のやりたいようにできるところから、鞭派の分類が相応しいのではなかろうか。少なくともこの人が頭を下げてお願いする様なんて想像できない。オーケストラのメロメロぶりから察するに、麻酔薬の染み込んだ毒針付き鞭かしら?芸術ではなく芸としてならファンでなくても楽しめる。有名なMravinsky"Ruslan & Lyudmila"序曲は子供の喧嘩に大人が殴りこんでくるような、凄いのだけれどもどことなく場違いなような居心地の悪さが爽快感の陰にあるが、同じ曲をこの人が振ると隣の家が火事になろうが、核戦争が始まろうが知ったことではないと言わんばかりの無神経なテンポ設定になり、恐れ入る。この人の一番凄いところはスケールを肥大させる朝比奈や構造的側面を照らし出したと言われることの多いKlemperer、何だか分からないがとにかく神々しかったと言われるCelibidacheの遅さと違い、意味も必然性も理由も無く遅いところじゃないかと思う。

 

Lorin Maazel

  10歳にならぬうちから指揮をしていたというから、タクトを振ること60年以上(一時期、指揮棒を持たずに指揮していたりもしたが)。現在最も指揮が上手い指揮者の一人であろう。先日のDas Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunksとの来日公演での「幻想交響曲」では実に明快且つ的確な指示が飛び交い、最後は信じ難い熱狂の渦に巻き込まれながらもフォルムを崩さなかった。Vienna POの美点を生かしながらも思うようにコントロールできる現存では唯一の指揮者でもある。舞台上での彼はいかにも悪人顔である。こんな顔をした指揮者が投げる飴はきっとワサビ入りだったりするに違いない。鞭を楽しみながら打てる人のような気がする。

 

Yevgeni Mravinsky

  当時、この国には飴という概念があったのだろうかと思うことがあるが、その中でも飛び抜けて怖い存在であったことはまず間違いない。絶対者として君臨したという点では、国の体制から考えても彼以上の存在は考えにくい。他のロシアのオーケストラが軒並み現代配置になっても、Leningrad POは古典配置を維持し、現在も継続されている。奏法に関しても、Mravinskyの影響は今なお残っているという。当時の奏者(多くは政府に追い出された)はもう殆ど残っていないというのに、これだけの影響力である。リハーサル風景がビデオで出たが、何度となく演奏したであろうShostakovich5番を細部にわたって極めて綿密に練習する様は偏執狂的ですらあった。Melodiyaや放送録音ではその骨格がようやく理解できる程度であったが、最近発売された来日公演はそのこだわりの深さを十分に伝えている。ミスをした奏者がシベリア送りになったという噂が飛び交うことからもその鞭の使い方に容赦が無かったであろうことが伺える。

 

Simon Rattle

  次期Berlin POの音楽監督。弦楽器の配置の問題でVienna POと喧嘩したとか、鞭派な感じ。イギリスの田舎のオーケストラを世界に通用するレヴェルに引き上げたりとその手腕は間違いなく確かなものである。しかしながら、現音楽監督のAbbadoBerlin POと「完璧に」狂った演奏を成し遂げてしまった後に出されることになってしまったVienna POとのBeethoven全集がどれほどの出来になるかがもっとも気になるところである。もはやオーケストラの技術でははなから勝負にならない以上、どこで勝負をかけてくるのか。非常に楽しみなところである。

 

Fritz Reiner

  すぐ興奮する人である。ちょっと盛り上がる曲になるとあっという間にスパークし、じゃかじゃかと凄い勢いである。Beethovenの交響曲第5番の終楽章など、彼以外の誰もこんなことをしようとは思わないだろう。ティンパニ強調の効果もあってか、彼の演奏には何かに八つ当たりしているような印象を受けることがある。練習が厳しかった上、あまり冗談が通じなかったらしいことでも知られており、さらには本人が満足した演奏は録り直さないなど相当な頑固親父であったと伝えられている。Chicago SOの基礎を築き、一旦はMartinonに混ぜられたもののSoltiで盛り返したが、結局Barenboimがぐっちゃぐちゃにしてしまったため、Cleveland Oのようにその成果は維持されていないようである。こういう人がたまに飴を投げたりすると受け取った側は感動させられたりする、というのがドラマではよくあるが、実際のところはどうだったのやら。少なくとも鞭の方が多かったのであろうことは疑いの余地無し。

 

Esa Pekka Salonen

  本来であれば現在、最も将来の期待できる指揮者でなければならなかったはずである。しかし、かつてのStravinskyの演奏で聴かれたような鋭敏な感性はどこかへ行ってしまったように感じる。清潔感のある演奏は相変わらずであるが、現在の彼にそれ以上のものは感じられない。Los Angeles POという決して最高の技術を持っているとは言えないオーケストラと心中するくらいの心積もりであるという話を以前聞いたが、彼にはオーケストラのレヴェルを底上げするという能力があるわけではないようだ。Stravinskyは間違いなく鋭い鞭の入った演奏だった。しかし、今の彼の手にはすっかり磨り減った鞭しかないのではないだろうか。彼はもっとできる指揮者のはず。

 

Hermann Scherchen

  元祖狂ったBeethoven全集の生みの親である。さらに狂っている上にとんでもなく巧く、しかも新しい楽譜まで使った全集の登場により、その影は随分と薄くなってしまった。怒号すら飛び交う演奏会は彼が激しく鞭を使う指揮者であったことの最大の証明であろう。実はフォルムの崩れも計算の内であったとか言われることもある。鞭の精度が悪いらしく、時としてやる気ゼロな演奏にぶち当たることもあるが、当たるところによっては楽曲自体を粉砕し、大量のカットを施すこともある。リハーサルは相当ながみがみ親父であったというのも頷ける。

 

Georg Solti

  いかにも鞭派な顔である。実際に70年代までの演奏はオーケストラがChicago SOだろうがVienna POだろうが、かなり締め上げている。しかし、80年代に入った頃から少し状況が変わる。アンサンブルはそつなくまとめて、それよりもライヴのようなノリのよさに明らかに重心が移っている。この辺から、少なくともChicago SOに関しては飴の割合が増えていると思える。一方でVienna POに対しては、客演であるということもあってか、手綱を最後まで緩めなかった感がある。お陰で、90年代になっても弦ががちゃがちゃとみっともない音になる有り様。彼は自伝の中で作曲家とその作品の演奏のポイントを説明しているが、一言でまとめると「巧いオーケストラで演奏すべし」となってしまう。これはまさに彼の指揮者人生を物語っている。正規で出ているものは少ないが、Berlin POとの演奏にはVienna POのような破綻は無い。巧いオーケストラには案外甘かったのかもしれない。なお、最近、彼がVienna POBartokConcerto for Orchestra(通称「オケコン」)を演奏していたことが判明した。とんでもないチャレンジ精神に敬意を表したい。

 

Yevgeni Svetlanov

  ロシアの伝統とは金管ばりばり、低弦ごりごりの少々お下品な演奏であるという誤解を全世界的に普及させてしまった悪の総帥。Russia State SO (旧USSR SO)はその指導が見事に行き届いていると見え、先日発売されたKondrashinMahler 5番でもとんでもない演奏を繰り広げていた。団員の身体にしっかりとあざが残るほど強烈な鞭であったのだろう。しかしながら、近年の民主化の波はかの地にも届いているのか、今やRussia State SOとは決裂したとかしそうだとか。今後はThe Residentie O, The Hagueとの活躍に期待・・・と思ったらRussia National Oと来日の噂。せっかく巧いのに止めてくれ。決して単純馬鹿な指揮者だとは思わないが、彼の芸術は常にオーケストラの崩壊を伴うのである。多分、無神経なだけだと思う。

 

George Szell

  飴だけではあれだけのオーケストラを作り上げる前に、全員が糖尿病になってしまうことだろう。間違いなく鞭派。ReinerToscaniniのような癇癪のはけ口に近い使い方ではないのがポイント。決して鞭ばかりではなかったとも言われるが、最も効果的な鞭の使い方を知っていた指揮者であろう。およそ人間の集団が奏しているとは信じ難い脅威のアンサンブルと立体感をアメリカの地方オケから生み出した。その力は手兵のみならず、他のオーケストラとの共演でもいかんなく発揮され、HorowitzとのTchaikovskyNYP)やSalzburgでの"Jupiter"Concertgebouw)など、通常のこれらのオーケストラではまずありえない締め上げ方である。人間が完璧になれると本気で信じて、実践し、成功させてしまった凄い指揮者である。

 

Yuri Temirkanov

  偉大過ぎる前任者の影に悩まされ続けた指揮者。かつてはMravinskyとの違いを出そうとする意思が空回りしてばかりおり、また、Mravinskyの手法をことあるごとに否定するような発言をするなど、その影を必死になって振りほどこうとする様が痛々しくすらあった。最近はそのような発言も減り、むしろ肯定的に捉えるようなときすらある。最近のSt. Petersburg PO(正式名称St. Petersburg State Philharmonic Academy Symphony Orchestra named after Dmitri Shostakovich)との来日公演ではオーケストラを自在にコントロールする、厳しいながらも生き生きとした表情が窺えた。そこにあったのはMravinskyの後継者という重圧を、飛翔するための強固な土台へと変えつつある彼の姿だった。地理的にも音楽的にもやや特殊な位置にあると言えるが、今後が大いに楽しみな指揮者だと思われる。前任者に比較すると、飴の量は随分と増えたことであろうが、基本となるであろうその手の鞭は今や前任者のものに劣らぬ強度としなやかさを持っている。

 

Arturo Toscanini

  元祖ばりばりの鞭派。というよりは、鞭しか使えなかったと言った方が正しいのではなかろうか。何をやっても直球一本勝負。それも、ど真ん中のみ。当時大流行であったShostakovich7番をおそらくは嫌々振ったのであろう結果は今となっては笑いの種である。Furtwaenglerに対する対抗心からかどうかは知ったことではないが、音楽の柔軟性をこれほどに失った演奏は他に無い。彼のスタイルに影響を受けた者は多数いるにもかかわらず、FurtwaenglerにおけるBarenboimのような悪質コピーがあまり出回らないのが面白い。古典配置を採用していたことが写真から分かり、ステレオ期まで生きていればちょっとは評価が変わったかもしれないと最近は思う。もし生まれるのが50年遅くてもやっぱり自分の演奏の録音を聴いて怒り狂ったりしたのだろうかが、確かめようがないだけに個人的には一番気になる。

 

Bruno Walter

  温厚派の代表のように言われるが、若い頃(モノラル期)は結構派手なこともしていた。引退後に引っ張り出されてしょうがなく(?)やったごく一部の仕事で全ての評価が決まってしまった、ある意味で気の毒な指揮者。案外毒舌だったという話もあるが、「練習するほど下手になっていった」というリハーサルでも知られている。そういった意味では間違いなく飴派。BernsteinとともにSonyがリマスター技術を開発するたびに引っ張り出されるので、そろそろマスター・テープの限界か?

 

Guenter Wand

  今一番人気者の指揮者であろう。来日するしないで話が紛糾していたが、結局来日した模様。あまりに急激すぎる評価の高まりに私なんぞは訝しく思わずにいられないのだが、もう少し落ち着けば正当な評価もされることになろう。すばらしく堅実な音作りは見事であるとは思うが、それ故にこの歳になるまで評価が上がらなかったのであろう。何故なら、こういう音作りはそれなりに優秀なオーケストラがやらないと根底から不安定になるから。駆け出し指揮者が地方のオーケストラとやってもこうは行くまい。地道に積み重ねられたキャリアの賜物である。方々で聞く評判からはどうも鞭派であるように思える。賛辞の多くがかつてBoehmに対して使われていたもののリサイクルに聞こえるのは気のせいか?

 

  私に書けるのはこの程度でしょうか。洩れてしまった指揮者も多いことと思うが…。死んだ人が多いのは、現在の指揮者界の事情を踏まえれば致し方のないところか。現在は明らかな指揮者不足である。CDが飛ぶように売れる指揮者が何人いるだろうか?高齢化社会にあって、上がつかえて下から出て来られないというのもあるだろう。しかし、こうやって「飴か鞭か」で見ていくと、どうも最近の指揮者はそのバランスの取れた人が多い気がする。寧ろ一昔前の大巨匠と言われているような人ほどバランスがおかしいように思える。時代が違うとはいえ、指揮者のやるべき仕事が時代の流れと同じスピードで変わっていったとは、私には思えない。時代に取り残された指揮者という仕事が現代で存続しようとしたときに生じる歪み…それが不自然なほどの(飴と鞭の)バランスの良さなのではないだろうか。良いバランスが悪いわけではない。でも、全ての指揮者が良いバランスを必要としていたはずじゃなかったのだ。「飴と鞭の適度なバランス」という籠の中、振り上げた指揮棒は籠にぶつかったり、引っ掛かったりとさぞ振りにくいことだろう。