料理も美味しく、見晴らしの良いレストラン
  RAHバックスステージ入り口の張り紙
ウインドミルを曲がって坂道を下ると、別邸の門が見えてきます。
塀によじ登って撮りました。よいこはまねしないでくださいね。

クラプトンは、サリー州の株のブローカーたちが住む広々とした地帯に別邸ハートウッド・エッジと呼ばれるムーア人風デザインの築百年の大邸宅を当時約4万ポンドで購入した。

RAHのネイザン
RAHのエリック
RAHのディスプレイ
家斜め前のパブ
家の入り口

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2001年の日記
2001年2月1日、2日
ロンドン到着、いままで4回の”ロンドン詣出”では最小人数の、娘とのふたり旅。多少心細い。
でもロンドンに着けばいつもの顔になつかしい顔。
バージン機で出された、ヒレかつカレーがいけなかった。ついほとんど食べてしまって反省したころには、手遅れ。
結果今回の旅行中は、胃痛に悩まされ、コンサート&バックステージ、そしてクラプトンゆかりの地ドライブに連れて行ってもらった以外は、ほとんどシタジンケンジントンというアパートホテルのベッドで親子ともども死んでいた。
1日はクラプトンのおうちへ一応ご挨拶、、、と言っても家の中に入れるはずもなく、ガレージ木戸前で、記念撮影。
近くのパブの出窓から、前方20メートルくらいの木戸横のドアを眺めながら、携帯のテトリスで遊んでいると、ベージュのキャップをかぶったクラプトンと噂の彼女が、外出先から帰ってきた。
しばらくすると、リーがベンツでやってきて同じドアから出入りをはじめた。最後にアイマックを車に積んで、私たちに手を振って、何処かへと走り去っていった。
2日目、ロンドン郊外のハーフムーンというパブで行われたwhere’s ERIC!のパーティーに参加。
一、二日目の目的終了。ロンドンアイ観光など、もうどうでも良くなっていた。
 
2001年2月3日
ローヤル・アルバート・ホール初日。この日はクラプトン最後のワールドツアーの初日でもあった。
昼間ネイザンと連絡がとれて、バックステージもオッケ〜ィ。
夕方、ローヤル・アルバート・ホールまで徒歩で向かう。約10分、このあたり、サウスケンジントンは文教地区で、環境バツグン治安もよく、部屋の窓からは、となりの小学校の授業風景まで毎日見ることが出来た。
ローヤル・アルバート・ホール初日の前日、私たちは幸運にも、まだ聴いたことも見たこともないレプタイルのCD−Rを、友人からプレゼントされた。
おまけにアパートの部屋は、CDプレイヤーつき、なんとラッキー。
ローヤル・アルバート・ホール初日の席はストールでステージの向かって左側、思っていたよりカナリ近くでよく見えた。
クラプトンが現れた、ステージ中央に向かって歩いてきた。自分の座る椅子を間違えた彼は、リーに促されて、となりの椅子にちょっと照れくさそうに座りなおした。
途中でいインプレッションズ登場!!驚いた。びっくりした。
最後のオーバーザレインボウをはじめて聴いたときの感動は一生忘れない。。
 
2001年2月4日
ローヤル・アルバート・ホール二日目、今日はアリーナ席の真ん中くらい、、、。
ステージに駆け寄るタイミングをかんがえながら、ステージを楽しむ。
クラプトン、ネイザン、スティーヴ、アンディを変わりばんこに双眼鏡で確認、楽しい。。。
コンサートが終われば、今夜もバックステージがまっている。
 
2001年2月5日
親切な友人の方々に誘われて、オシャレなレンタカーに乗ってオシャレな会話(日本語)を楽しみながら、レプタイルがながれる車から眺めるロンドン郊外の風景は、もう最高!!
さあクラプトンゆかりの地めぐり、サリー州めざして、出発〜!
まさかこのとき私と娘にとってはローヤル・アルバート・ホール4日めはロンドンでの最終日、、、それが当日午後突然の公演中止になるなんて、ゆめゆめ思うはずもなかったのでした。
 
2001年2月6日
ローヤル・アルバート・ホール3日目、ストール席左前方、初日よりも良い席に喜んだのも一瞬。図体のデカイ一見アメリカ人ふう&招待客ふうの5人組が前の列に陣取って、ビールはあおるはおしゃべりのしっぱなし、しょっちゅうトイレにいくので、もう怒りを通り越して、悲しくなってきたけど、なにも文句の言えない自分にも腹が立って、複雑な気持ち。
バックステージで気をとりなおして、遊んでいたら、トニーが奥様を連れてやってきた。
奥様は場違いな雰囲気になれていない様子でちょっと気の毒。トニーがテーブルに付いて手を振って私たちを呼んでいる、、、が私たちはネイザンやステーィーヴのことが気になっている。彼らはだいたい通路でおしゃべりしていることが多く、パブのほうでドリンクを飲んだりはあんまりしないからだ。
最後にりーに「see you tomorrow!」と元気に言ってお別れしたのに、、、。
 
2001年2月7日
ローヤル・アルバート・ホール4日目。
昼すぎ、友人より、ネットで見たが今日の公演が中止らしいとの電話が入る。
さっそくローヤル・アルバート・ホールへ行ってみる、数人のダフ屋とドアには公演中止の張り紙が、、、。
ネイザンの部屋に携帯から連絡してみる、誰も出ない。今度はスティーヴにかけてみた、スティーヴは部屋にいた、クラプトンは喉の不調だということだった。
前代未聞のクラプトン公演中止は事実のものとなった。
コンサートの始まる時間には、何も知らない多くの人たちがローヤル・アルバート・ホールの前に集まっていた。
私はチケットの払い戻しはしないことにした。


















































































































































2001年6月6日
朝から、日本のテレビではクラプトン引退のニュースで大騒ぎ。その2年も前からクラプトンの言動にその事実をある程度知っていたにもかかわらず、あわてる自分。
特にクラプトンファンを自称する、小倉サンがさわいでいたので、ショック。このとき、夏の西海岸ツアーのラスベガスでのクラプトン公演を見に行くことを心に決めた。
 
2001年8月13日
ラスヴェガスの街はずれ、場所はマークス&スペンサーという会場にて、クラプトンの公演を見る。
一緒に旅行中の母は心配して、「スカートはやめなさい!」パンツルックで行くようにと言った。
いくつになっても、娘は娘、、、と思っている親心が不思議だな、と思った。
会場はローヤル・アルバート・ホール3日目の悪夢がよみがえる。みんなビールを飲んで大騒ぎ、口笛のぴーぴーという音で、演奏がじゃまされる。
みんなクラプトンの演奏を、あまり真剣に聴いていない、コンサートに来ていることをたのしんでいるみたいだった。
ビリー・プレストンを見るのはリンゴ・スターと一緒にやっていた武道館以来、久しぶりだった。
 
2001年9月11日
ニューヨークで同時多発テロ発生、世界中が驚きとショックにみまわれる。
クラプトンの来日公演に対して、不安な気持ちがよぎる。
この気持ちはだんだん薄れて行ったが、2001年11月12日月曜日午後、来日公演初日大阪公演の一週間もまえにクラプトン来日が確認されたとき、やっと一同みんなほっと胸をなでおろすことになる。
 
2001年11月12日月曜日
昼過ぎクラプトンの来日が確認された。
いそいで、コミュニケーションボードに”クラプトン来日ただいま確認!!”と書き込む。いつもは、天然ボケの管理人も、たまには管理人としての責任を少しは果たした気分になる。
日本は島国、何があろうと、いったんクラプトンが来日してしまえば、もうこっちのもんだ!!と不敵な笑いを浮かべる管理人がそこにいた。。
この日まで、毎週土曜日の夜は3週間続けて、私はとんかつを食べていた。
この良心的なとんかつ屋さんは女が3人で思いっきり食べて飲んで、お土産のカツどん2人前を足しても、一万円でおつりが来てしまう。
来日中のクラプトンは今回はチキンかつ専門に召し上がっていたと、、、後日教えていただきました。
 
 
つづく
 
1997年10月26日、クラプトンからサインをもらう!

クラプトンを待ちくたびれた私たちは、ホテルロビーのソファにへたりこんでいた。
 そこへ、ティールームから出てきたクラプトンご一行様が、私たちのソファーのすぐ後ろをゆっくりと通り過ぎて行った!!
どひゃー!慌ててソファーから立ち上がり、直立不動の体制の私達。
 歩きながら振り替えり私たちを見たクラプトンは、一瞬立ち止まった。そして・・・

クラプトン『Hello!』
と言いながら、エリックがこちらに向かってやって来た。
私達『、、、、』
緊張のあまり かたまってしまって何も言えない。
クラプトン『Hello???』
返事が出来ない私に、一瞬エリックの顔から笑顔が消えた(ま、まずい!)    
私達『ハロ〜、、、』
死にそうな声で言った。
 するとエリックから手を差し出して来た、そして握手。エリックから手を差し出してくれるなんて信じられない。

 急いでバッグの中のマーカーを探していると。
 クラプトン『Your daughter?』
 クラプトンに質問されるなんて、、、(夢じゃにゃあきゃ!)
 私達『Yes!』
 今度はすぐに返事ができた(セーフ!)

 ウドーのTさん『どこにサインしますか?』
 私はマーカーとバッグをエリックに差し出した。
クラプトン『FENDI bag?』
と言いながらサインしているエリックには笑顔が戻っていた。
私 『And my daughter's... please』
 今度は娘のバッグを差し出した。
 クラプトン『Oh!Steve Gadd!!』
 そのバッグにすでに書かれてあるステイーヴのサインを見て微笑えんだクラプトン。
 最近写真うつりがあまり良くなかったエリックは、間近で見るほうが断然若々しい!

 半袖のブルーのシャツにワークパンツ、サインをしているその腕は、色白でほっそりとしていた。            
 私達『Thank you...』
福岡、大阪、広島、名古屋とステージをこなして東京に帰って来たエリックは、13日武道館初日の頃より少しやせたように見えた。


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  1994年8月お盆  コナーちゃんのお墓参り



夏休み、私たち家族5人でイギリス観光旅行に出かけた。私の密やかな第一の目的は、1991年の3月20日転落事故で亡くなった愛息コナーちゃんのお墓参りだった。

ロンドンからタクシーで初めて訪ねるリップリーの町を目指して約1時間。
エジンバラから入って、ネス湖、リバプール、湖水地方、チェスター他、
イギリス縦断の旅も最後の2日間をロンドンで過ごすだけ、みんな疲れきっていた。
家族の不機嫌そうな顔、顔、顔。リプリーの町に着いた時には午後3時を過ぎていた。

この町のメインストリートらしい通りで、人を見かけることは殆どなく、時折車が通りすぎて行くだけの静かな町。
リプリー・チャーチはその通りに沿ってひっそりとたたずんでいた。
レンガ作りの小さな教会のうらの墓地に、コナーちゃんは、しずかに眠っていた。

タクシーのドライバーに訳を話すと、いっしょにコナーちゃんのお墓を探してくれた。
その真新しい小さなお墓に花をそなえた。墓前にはすでにいくつもの花束がそっと置かれていた。
少し離れた所に花を入れて来たときのものと思われる空の花瓶が、いくつも寄せ集めてあった。
 そのころがっていた花瓶の中から、素焼きの水さしが目に止まった。手に取ってまわりに付いた泥をはらってそのなかを覗いてみると、なんと大きなのかたつむりが、へばりついていた。
『エリックは小さい頃、かたつむりを集めるのが好きな孤独な少年だった。』という一節を私は思い出していた。

そのかたつむりは、ぬらしたテイッシュにそっと包まれてプラスチックのちいさな空箱に入れられて、トランクに詰められ、飛行機に乗った。
家に帰って箱をのぞくと、かたつむりは、白いフンをいっぱいしながらも元気だった。
 かわいそうに食べるものもなく丸一日ぬれたテイッシュを食べていたらしい。
 家の庭の木陰に置いた飼育箱で2年間暮らしたかたつむりは、何度か飼育箱から脱走した。
 でもいつも何日かすると必ず飼育箱の近くに戻って来ては葉っぱやガラス窓にはりついていた。

 夏のとても暑かったある日かたつむりは、飼育箱の中で動かなくなっていた。
 せっかくテイッシュを食べてがんばって日本に来たのに、今思えば、もっと庭で自由に過ごさせてあげればよかった




’91 ジョージ・ハリスン&エリック・クラプトン来日


      『はじめての追っかけ』

1991年11月28日(雨) 成田空港ロビー
 その数日まえスポーツ紙でジョージとエリックの乗る便名を知った私は、一度だけ、テレビの梨本リポーターみたいに、追っかけをしてみようかな?と思ったのでした。



エリックがジャーニーマンをひっさげて来日公演をしたすぐその翌年のことでした。
 もちろんフツーの主婦がいい年をして、いくらファンだからといって、成田まで行くなんて、ばかみたいだと思い、成田エクスプレスの切符を買ったあとでも、何度もヤメようと思ったりしました。恥ずかしくて誰にも言えません。
 たった一人の理解者は小学校2年生で一緒にジャーニーマンを聴いていた、次女だけでした。
 そのころからエリックのイントロクイズでは、私に負けていない次女でした。
 「ばかみたい、、、じゃー追っかけをしなければ私は利口なの?」と自問自答の数日が過ぎて行きました。

 当日はすごい雨でした、そのころミッション系の超キビシイ小学校に通っていた次女に、早退届けをもたせて、午後1時、最寄り駅で待ち合わせの約束をしました。
 その2週間程前に花園神社の酉の市で買った小さめの熊手も持って行きました。
それに”幸運の熊手でコンサートが成功するように”、、、と英語でメッセージを添えて。

いよいよ到着ゲートが開いて、ウドーのVIPスタッフのタクさんを先頭に、ツアーマネージャーの女性あとにジョージ・ハリスンが出てきました。でも私の目的はジョージではありません。
その後ろを歩いてくるエリックです。歓声とともに目の前をジョージが通りすぎて行きます。
私の周りはほとんどジョージのファン。

だんだんエリック・クラプトンが通路をこちらに向かって歩いてきます。
エリックは私の2〜3メートル手前で差し出された、豪華な花束に目もくれないのです。

 「Eric! Welcomeback to Tokyo!」と言いながら、私は熊手を差し出しました。
それはジョージが過ぎた一瞬でした。張られたロープ越しにエリックの手が、しかりと私の持っている熊手の柄をつかんだのでした。
 その光景はその日の6時のフジTVのニュースで流れましたが、何も知らない私たちはそのころ帰途の成田エクスプレスの中でぐっすり眠っていました。
 後日、偶然にもそのニュースをビデオ録画した方がいらしたのでした。


当時8歳だった娘が撮った、ただ一枚の写真

1993年10月某日『クラプトン来日』

 私達は成田の今度は新しい空港施設にいた。今回の来日は便名がわかるまで、ちょっと苦労しました。
 一昨年のジョージ&エリックではなく、エリック・クラプトン単独公演だったので、そこにいたのは、関係者、スタッフとほんのわずかのファンだけでした。
 レコード会社のひとは「写真はゼッタイやめてくださいね」と、すごくピリピリしていたけれど、ひとりだけ、上等なスーツを着た、紳士だけが「1枚くらいなら、いいですよ」小声で私に言った。

 そのひとは後になって、ウドー音楽事務所の社長さんとわかりましたが、そのときは知るよしもありません。
 メンバーがカートに荷物を沢山載せて、続々と出てきました。でもいくら待っても、エリックはでてきません。とうとう諦めて喫茶店に入り飲み物を注文していたら、トイレから戻ってきた友人が、「エリックが別のゲートから今出る」らしいと。
私たちは、おみせの人に謝って、目的の場所へ向かった。

 そこへ、すごい剣幕のエリックが空港関係者の女性と一緒にゲートからあらわれて、、。
 なにしろ怒っているのだ。私たちは、あわててブーケを持つ手をおろした。
 しばらくして、エリックが納得した少しだけ落ち着いた雰囲気になった。

 そのとき、突然笑顔になったエリックが、「ハ〜イ」と握手のポーズでブーケを受取に私達に向かって来てくれた!うそ〜、私はバッグから2年前のと同じ位の大きさの新しい熊手をさしだして、「Two years ago〜」と説明してみる。



と、エリックは「Oh〜Yhea〜」ととても優しい声でこたえてくれたのです。でもホントは覚えてなんかいなかったのかも。
 そこへ別便でニューヨークからやって来た、というブロンド、長身、モデル系、の女性が突然登場、私たちの目の前で、エリックと熱い抱擁&キスをしたのでした。

そして二人は、手をつなぎスキップ状態でトイレの方にむかって行ってしまったのでした、、、。その女性は、ツアーの途中で帰国、日本ツアー後半はまた別の若い女の子を連れていたエリックでした。

1998年10月14日〜20日 ロンドン、エリック・クラプトン、アールズコートツアー

日程:
14日 朝9:00集合。ヴァージンVS901便11:00発。LHR16:00着。
15日 午前中、ロンドン市内観光。アールズコート・コンサート1日目。
16日 午前フリー、午後ロンドン市内観光コンサート2日目、チケット32ポンド位。
17日 午前フリー、昼過ぎからWhere'Eric! Readers Party。夜コンサート3日目。
18日 終日クラプトン縁り地のバスツアー。夜打ち上げのお別れ食事会。
19日 ヴァージンVS900便13:00発。
20日 09:00成田着。


10月15日
『エリックの家探し』


今夜はアールズコートでの、エリック・クラプトン.コンサート第1日目。
 今はコンサートの5時間前。
 ここはロンドンでもピカいちの高級住宅地チェルシー。
たしかエリックの家はこの通りのはず、、、表札なんて、あるわけない。
 その通りを端から端まで歩くことにした。
人通りにの少ない道に沿って閑静な家並みが続く、大きな木戸の家の前で足を止めた。
 ん?足元にはセンサーが取り付けてあり、インターホンは暗唱番号式、そのすぐしたはモニターもつている。
 おまけに木戸のすき間から、ブルーのベンツがすぐそこに止まっているのが見える。

 もしかして、もしかして、ここが?!?
 その家の斜め前にパブがあったので、とりあえずパブにはいってみることにした。
 パブのお姉さんに尋ねると「そうよ、エリック・クラプトンの家よ、でもわたしは今までで1回しかエリックを見たことがないわ!」
という答えが返ってきた。
 これがエリックの家なのだ!!!
 願わくば「ベンツを運転してアールズコート向かうエリックが一目見られたら」の思いで、そのパブの窓からしばらくエリック家の木戸を眺めていた。
約1時間半がすぎた。私たちもホテルに戻る時間になっていた。
 
 「そろそろもうコンサート3時間前だもの、エリックが今ごろ家にいるわけ、、、ないよな〜」
と思いつつ、私と娘は、最後にもう一度その木戸にお別れをしに行った。
その時、近くに赤い車が静かに止まった。
 降りてきたスリムで小柄な女性はストレートヘアが美しかった。
 白いTシャツにベージュのパンツ姿、その女性が私たちの前を通りすぎた。
 そして、木戸のインターホンを押した。
 何か話してる。言い終わった彼女がこちらを振り返り微笑んだ。
 「ん?美しい〜!エリック好みの女性だ!」私も笑顔で応えた。
 すると、木戸の向こうに誰かが待っていたかのように突然、大きな木戸の右側に付いている小さいドアが、内側に開いた。
 私たちが息をのんだ瞬間、そのドアに写っているシルエットは間違いなくエリック・クラプトンだった。
 わかっていても私たちの体はかたまってしまって、動かない。
ドアの向こうで立ち話しをしている様子のエリックとその女性。

 「あっ、このままドアが閉まってしまう〜〜〜!」
とそのとき、開いたドアとのすき間から突然エリックの白い顔が、にゅうっと出て来た。
 私たちのほうが、もうビックリ。
気が付けば、ブルーのトレーナーにジーンズ姿のエリックが今!この目の前にいて、
 「ハロ〜、ハロ〜、」と言っている。うそ〜!なんでこうなるの???

 我にかえりエリックに自己紹介をする。
エリック・クラプトンは静かにうなずきながら、握手をしてくれた。
ほんの暫くの間、エリックはいつもの少しこまったような笑顔をしながらもまだそこを動かないでいてくれる。

 左手はポケットにつっこんでいた、、、ような気がする。
私は今夜のコンサートの話をした。
 エリックは私と娘にそれぞれ「See you tonight」と優しく声をかけてくれた。

 数秒後、言葉につまっている私の片手のカメラをチラっと見ながら、エリックは「I'm so busy 」と小さな声で言った。
でもエリックの言い方がとても暖かく優しかったので私たちは申し訳ないと思いつつも、ほっとしていた。
 そして再び握手。。。

 今思い出しても信じられないような、不思議な出来事だった。
 もしかして、あれはロンドンのホテルで見た夢だったのかもしれない、、、。


 
10月16日(金)  アールズコート 2日目

『ロンドンのレイラさん』&親子3代でクラプトンを観る



 今回のロンドンツアーでの最高の思い出・・・それはやっぱりエリックとの”生握手”かな!!!でももっとスゴイひとがいたのです。
 今日はJTBの半日観光「テムズ川クルーズ&ロンドン塔」に申し込んだ際、現地のガイドさんが、1日目の旅行にセットされていた、半日観光の時と偶然にも同じガイドさんでした。
 この方の本名がなんとレイラ(レイラはレイラでも麗羅と書く)さんだったのです。

 「いとしのレイラ」より先にうまれていて、歌より年上だったので、名前についてはエリックとは無関係でしたが、よくよく話しを聞いてみたら70年代のエリック
が来日していた際に、ウドー音楽事務所の仕事で通訳をしたことがあると言うのです!
 なんという偶然!?!スタッフとの打ち合わせに同席、エリックと”生お茶”もしたという猛者でございました。
 また、一緒に来日していたあのパテイ・ボイドのお買い物にも3時間ほど付き合ったことがあるのだそうで、名前が麗羅だったものだから、なにかとエリックが可愛がってくれたとか・・・
 私はもう感心して話しを聞くだけ。

 それにまだ当時未発表だったクリームの”....”(名前忘れた!)のデモテープもそのときに、いただいたそうです。上には上がいるものですね。
 彼女いわく、当時はデビッド・ボウイほかいろいろなミュージシャンの通訳をしたそうです。
 このレイラさん船上では、お仕事よりも昔話に夢中でしたが、いざロンドン塔に着くと俄然ガイドの仕事にメラメラと燃えはじめ、特に”処刑台に消えた王族たち”については、大変詳にしく、皆思わず説明に聞き入ってしまいました。

 よほど熱心に”処刑”について研究している様子で、実際の首切り台にご自分の首を乗せて処刑シーンを再現してくれるあたりは、もう圧巻でした。
 こんなガイドさんも珍しい。
 ロンドンのレイラ(麗羅)さん、今日もロンドンで元気いっぱい日本人観光客を相手に楽しいガイドをしていることでしょう。
10月17日(土)アールズコート3日目

エリックの3日間のアールズコート最終日


 彼のファンへのお礼のコメントでスタート。
 My Father〜のイントロは、さあ〜!これからエリックのステージがはじまるぞ!って感じで、オープニングのナンバーにふさわしい一曲。
 Old Loveが始まるころに眼鏡をはずしたエリック、この日のアンコールは Before You Accuse Me 一曲のみ、あっさりステージを下りてさっさとカーテンの中へ、かなりもの足りない感じでした。

 2日目からは、ナイキの紺のTシャツにジーンズ姿、、、あれれ、いつものファッションにもどってる〜!
 この日はそして前日の盛り上がりとは、対照的すぐに会場が明るくなって、エリックがふたたびステージに戻って来ることは、ありませんでした。
 I Shot〜とChange〜のアレンジは私の好みではなかったけれど、My Father〜から、She's Goneまでのピルグリムからの6曲はアルバムよりもソウルフル&パワフルですばらしかった。
 エリックとネーザンのベースの掛け合のところは、息もぴったり。またアラン・ダービーのギターもかっこよく、エリックと似た音を出す魅力的なギター・プレイヤーで、そのせいかアンデイの存在感があんまりなかった。

 エリック・クラプトンのアールズコート3日間はこうして終わりました。
 やはり、BB・キングがアンコールに飛び入りした16日(金)が一番おいしいステージだったと思う。
 私達がロンドン入した晩は、ホテルのテレビで何度もロイヤル・アルバート・ホールが写しだされて、BB・キング他有名黒人ミュージシャンが大集合、というニュースをやっていました。

 それを見て、なんだか彼がエリックのコンサートに来る予感はしていましたが、まさか、中日とは思わなかったけど、、、これって本当に本場ならではの醍醐味ですね!
 お互いに顔を見合わせながら、バックのガッドやベースのネイザンと微笑みながら、目で打ち合わせしながらも、でもバッチリ気のあうセッションを即興でこなしていく様子をみているだけで”あーあ、来てよかった!”と思わせる体験でした。(たぶん30分弱やっていたと思います)
 来年の2月にはBB・キングの来日も決まっていますね。

 そして、エリックファンのみなさんへ、エリックは過去のひとでも未来のひとでもありません。
 幸運にも今現在!エリックは私たちと同じ時代を、生きているんです
 ですから、来日公演はもちろん!海外の公演にもチャンスがあればぜひ観に行ってみて下さい。

10月18日(日)ロンドン滞在 4日目

『エリックゆかりの地』  

エリックの生家(今は別の人が住んでいる)

 昨年の月刊『VAVI』12月特大号に掲載されていた山川健一郎さんの、『ブリテイッシュロックの旅・レインジ・ローバーでロックの聖地を走る=エリック・クラプトン』を読んでいた私は、まさか自分が一年後同じ地を訪れることになるとは、夢にも思わなっかた。
 この本のなかで山川さんが訪れた日は小雨が降っていたのですが、私の場合は好天にめぐまれて、毎日ほとんど傘いらず、でも、ロンドン入りの前日まではずーっと雨模様だったとのこと。

 私の想像よりも大きかったクラプトンの生家。それは前に広がる「リップリー・グリーン」の大きな広場の向こうに並んだ家々のなかにあった。
 そして、雑誌でも印象的だったあのベンチも、ひときわ目立つ大きな2本の木のすぐ下に同じようにあった。

 少年がその木に登ろうとしたりしていた、ときどき吹く風に少しだけ紅葉をはじめた葉と葉が揺れて、それはとても美しい光景だった。
 そして5年振りに訪れたリップリー・チャーチ。その外観を道の向こうからしばらく眺めてから、この村を後にした私たちは、まだ見ぬ郊外の邸宅、ハートウッド・エッジヘと向かった。

 エリックがクリームで成功した後、24歳のときに買ったという、広大な屋敷ハートウッド・エッジ。
 そのすぐ近くのときどきエリックが来ていたというパブで遅い昼食をとり、日が暮れる前にとパブの脇の急な坂をしばらく下って行くととそこには、まるで雑誌で見たとおり、ひっそりと屋敷の門があった。
 道はぬかっているし、轍(わだち)がみずたまりになって歩きにくいし、おまけに馬糞も落ちている、木がうっそうとしていて、これで雨が降っていたら、もっと悲しい気分になることだろうと私は思った。
 東京でいうと、日光か箱根あたりになるのでしょう、さっき見たミック・ジャガーの陽光ふりそそぐ、見晴らしのよい邸宅とは、対照的なこの家に最近エリックはいつ来たのだろう、、、。


1998年12月15日 『今年のクラプトン10大ニュース』

S Layla Sの、エリック1998年10大ニュース!!!
第1位=3月、待ちに待ったアルバム『ピルグリム』の発売。 
第2位=1月のある大雪の日、エリックお忍びで来日お買い物三昧、なんと西新宿
 B・Mにもあらわれる!
第3位=モンセラット島に治療センターを建設。
第4位=エリックの引退説、まことしやかに流れる。
第5位=4月 ニューヨークはマジソンスクエアガーデンのコンサートのコーラス
に愛娘ルースが飛び入り。
第6位=エリックの実の父親の消息があきらかに、、、後にエリックはスクープし
た記者にお礼を述べたとのこと。
第7位=昨年から続いている、エリックに九州F地区在住の日本人女性(推定30代
)の恋人の存在のウ・ワ・サ。
第8位=エリック、ギター150本をオークションで売りに出す。
第9位=アメリカ大統領夫妻のホストによる、'98ホワイトハウスのクリスマス・パ
ーティーへの出演
第10位=CNNのインタヴュー番組への出演。
1999年11月7日(日)『エリック・クラプトン本日来日』

  エリック・クラプトンは、11月7日(日)無事に日本に到着いたしました。
今ごろは東京での第一夜を静かにすごしていることと思います。

  金縁つや消しの小ぶりで目立たない、ほとんど顔と一体化しように見える眼鏡のクラプトンの顔に、
髭はありませんでした。
   髪の毛は気持ち長めで、ほっそりとした体に前ファスナーのクリームとカーキのコンビのラフな上着、
そしてジーンズ姿のクラプトンは、色白の顔に静かに優しく微笑みを浮かべていました。

   テッサはしっかりダイエットに成功したようで、もとの体型にもどっていました。
今は素顔なのであしたなら写真もOKよ、、、と笑顔で答えてくれました。

    スティーヴ・ガッドとアンディ・フェアウェザー・ロウはスティーヴの大親友の運転でさっそく大型スーパーM正の
S宿店に出かけて行って、大きなスーパーの袋を両手に下げて帰ってきました。
   それから、レストランに誘われて、スティーヴとアンディとお友達が4人に私と娘、総勢6人で食事をすることに
なりました。
    腹ペコだったはずの私たちは、胸がいっぱいになってしまい、チョコレートパフェとタピオカミルクを注文
しましたが、スティーヴはじめ他のみなさんは、しっかり夕食をとっていました。

    アンディは日焼けして、髪の毛が増えたようで若々しく見えました。
    スティーヴの存在感はすごいものがあります。明日も走るそうです。元気ですね。
    来日したばかりでしたが、髭のないクラプトンはもの静かで穏やかでとても素敵でした。
S Layla Sの日記’99年11月20日(土)『クラプトンお楽しみ袋の全貌』

  今日は日本のクラプトン関連のホームページ、Shun & Lisa Eric Clapton Fan Page、Crossroads HP、
Slowhand Gardenの3ホームページによる合同企画パーティーにSLayla Sも参加しました。
   場所は高田馬場にあるEnglish Pub "Fiddler"で70人近い参加者に、お店はもう満杯状態。こういうのは、
初めての試みではないでしょうか。

    「エリック・クラプトンの来日公演中にクラプトンファンのパーティーを開きましょう!」
というお話を頂いて、各ホームページでプレゼントを用意する段階で私には、みなさんにプレゼントできるような
ものが、なにもないことに気付いたのでした。

 結局これは自分で作るっきゃない!ということになり”クラプトンおたのしみ袋”を作ることにしました。
とは言ったものの、来日公演は迫って来るは、パーティーの日も迫って来るはで、最後の袋詰めは当日の
明け方になってしまいました。

(1)G-SHOCKのポスターで紙袋を作ってみよう!クラプトンの顔が正面にくるようにして、 展開図を つくり
      ポスタ ー   1枚で小型紙バッグがひとつでき上り〜。
(2)今度は中味がない!どーしよう?ちょうど酉の市の時期だったので、以前クラプ
       ト ン来日の折、2度ほど手渡したことのある、縁起ものの小型の熊手を袋の中に
       入れることに。花園神社で自宅用の中型熊手をふたつ買ったどさくさにまぎれて、
   パーティープレゼント用小型熊手を”半額”に値切って無事3つゲット!

(3)Clapton's Door特製のポストカードを2枚ずつ。これは印刷がぎりぎりでパーティー
   の前日にやっと出来上がってきたものでした。

(4)友人からのご厚意で、エリック・クラプトン’73年の第1回来日公演の初日のレアな
   写真も提供していただき袋に入れることになりました。ラッキー!!

(5)クラプトンマスコット人形に挑戦。身長約25センチ、Tシャツにジーンズ姿、
   ネブワースのピンクのスーツ姿、そして黒のスーツ姿の3体のクラプトン人形が
   出来上がりました。同じフェルトで作ったギターを持たせて、ひげをつけたら
   クラプトン人形の出来上がり。ひとつ一つに愛着が生まれ、お別れするのが
   つらかったです。

S Layla S’99年12月1日(水)『成田にて』

エリック・クラプトンはじめ、来日公演メンバーは12/1(水)それぞれの安息の地、、、彼等の本来の居場所
に帰っていきました。
今回の来日公演最終日に、エリックがステージで感謝の気持ちを述べていたように、ウドーのツアーマネージャー、TAKUさんとAKIさんのお二人はエリックから、絶大な信頼を受けていました。このお二人に逆らうことはイコール、
エリックに逆らうことになってしまう、、、というわけです。

彼等にとって常にエリックをファンから守るというのも大事な仕事のひとつです。
その熟練ツアーマネージャーさんの鋭い視線というバリアを前にして、私達がどこまでエリック・クラプトンに
接近出来るか、、、それが問題でした。

しかしファンのひとりとしては、ナマのエリック・クラプトン様を遠くからでいいから拝みたい。
→ちょっとだけ近づいてみたい→できれば一言でいいから会話してみたい→プレゼントがわたせたらな〜。
→出来ればサインも、、、などと妄想はだんだんエスカレートしていくのです。まったくこまったもんです。
ツアーマネージャーの方々にとっては、”頭痛の種”意外の何者でもありません。
全てが終わって丸1日、頭も心もからっぽになってしまったS Layla Sでした。


★いつでもどこでも半ズボン姿のアンディ・フェアウェザー・ロウ。空港とステージ意外は常に半ズボン(たぶん)
ですごしているようでしたが、、、たいへん気さくで礼儀正しいナイスガイでした。

★スティーヴ・ガッドの帰りの便の同じファーストクラスには、有名人が、、、。
空港ロビーに悲鳴が聞こえ、何かと思えば、スティーヴ・ガッドと同じ便の同じファーストクラスで
真っ赤なロングコートの鈴木その子さんも偶然一緒だということがわかりました。

★アンディ・フェアウェザー・ロウのGin Houseでの熱演は日を増すごとに楽しみのひとつになりましたが、
このときとばかりに、一部ではトイレタイムになっていたようです。
26日はGin Houseの出だし、思いっきりマイクに口をぶつけていた一生懸命のアンディさん、、、大好きに
なりました。

★エリック・クラプトンは例のとんかつ屋さんに、少なくとも3回は食事に来ていたそうです。
いつも上ヒレカツ定食をお箸を上手に使って召し上がっていたそうです。
1回目は4人で、次は3人で、その次はおふたりで来ていたそうです。
ん?ヒレカツですか、、、おいしかったです。

★ネイザンが来年パパに!!今年5月のブルーノート東京 FOUR PLAYのライブで仲良くお揃いで来日して
いたネイザンご夫妻。奥様は現在おめでただそうです。来年はなんと双子のパパになるんです!
ネイザンさん、おめでとうございます。

★クラプトンに何か渡す、、、そのタイミングが難しい。でも受け取ってもらえたときのあの一瞬は一生忘れる
ことはないでしょう。エリックは小さな渡航安全のお守りの両端を両手の親指と人さし指で持ち、「サンキュー」
とやさしく応えてくれました。

★この日のロビーには、見送りのファンがいっぱい。それはトヨタカップの選手待ちの人たちでした。
もちろんベッカムさんもいたようです。こちらは厳しい警備もなく、バスから降りてくる選手や旗を持った
スタッフ達は、気楽にサインに応えていました。

★エリックの乗った飛行機が目の前を通りすぎた時の少し遅れて聞こえてきたあの爆音、金属の塊が
地上を離れる瞬間、雲に向かってだんだん小さくなってゆくBA8便、今も頭から離れません。


S Layla Sの日記’99年12月20日

愛すべき”殿”クラプトンの日本滞在24日間は嵐のように去って行きました。

クラプトンは今回の来日で、思いっきり買い物が出来たせいでしょうか、終始ご機嫌が良かったみたいでした。
本当に飽きもせずエリックが毎日通った通称、ウラ原宿。
成田で見送った彼の後ろ姿は完全に原宿の若者でした。

お猿のマークとは、V6の三宅クンの大好きなお店。だから、ジャニーズジュニアの連中も先輩のマネをする、、、
というわけで、かなりの若向きのファッションで。堂本剛クンや長瀬君、岡田君なども好んで着ている
”Bathing Ape”ベーシング・エイプというお店で、Tシャツ1枚が、うん万円もするそうです。
また”Stussy”ステューシーはやはりV6の森田君がよく買う店とかで、Tシャツ1枚が4万円前後もするそうです。
値段はフツーです。

ソース味大好き、完全なるウラ原宿人のクラプトンは、まるでお殿様が庶民の生活に触れたくて、城下町に
遊びに行っては楽しんでいるような毎日でした。靴18足ですからね、スゴい!そんな楽しそうで、無邪気な
お殿様はノンアルコールの甘党、志村けん扮するお殿様にも何処かちょっとだけ似ていたりして、、、。
殆ど肉食で、お魚は食べていないようですが、ソース味が大好きなクラプトン、きっと又食べたくなって来年
早々にでもお忍びで来日?クラプトン、ロンドンでとんかつレストランを開店?、、、なんていうニュースが
飛び込んで来るかもしれません。