スイトピー (仮)


「逃げて!」
のんびりと特別観覧席につこうとしていた男に女がいきなりささやいた。
「え?」
「いいから、逃げて!」
女の視線の先にはサングラスをかけた黒服の男がいた。
男には理解不可能だったが、女がそういうのだからその場を去った方がいいのかと体の向きを変えた。
その背中近くから女がまたささやく。
「いい?ここから出たら花屋へ行って」
「は?」
「いいの。行けばわかるわ。早く行って」
女は男からさりげなく離れ、自分は黒服の男の方に近づいていった。
まさかあの男に近づいていくとは。
女の言動に不信感を抱いたのだが、男は足早にその場を立ち去った。

女が言っていた花屋というのは、ここに来る誰もが通る道にある花屋のことだと、男はわかっていた。
自分としては用がないのに、花屋に行かなければならないと言うのは何か居心地が悪い。
店に入ってどうしようというのだろうか?
しかし、店の入り口に立っただけで奥の店員の顔色がさっと変わった。
「ご注文の花、ご用意できております」
「・・・ご注文の・・・花?」
「お待ちください」
もしかしたらただの店員ではなく、この店の店主かもしれない男性の店員は、
たくさんの花が並ぶ後ろに回ってひと束の花を持ってきた。
ピンク色の花だった。透明なセロファンでまとめられている。
「これをお持ちになってください。そして、3軒先の喫茶店にお立ち寄りください」
ここまできて、男は何か事件に巻き込まれていると感じた。

女は黒服の男に近づき、白い名刺状の紙を差し出した。
「いわれたとおりに手配したわ」
黒服の男は女を見ずにその紙を受け取る。
「次は最終レースで」
「・・・・・・・・・」
黒服の男はポケットから水色の紙を取り出し女に差し出す。
「ここに書いてあるとおりに。きみの任務はきみの出世だけでなく、あの中年作家の作家生命までかかってるんだ。
そのことを忘れないように」
「・・・はい・・・」
女は水色の紙をそのまま、持っていた白のトートバッグにすべりこませた。
そして黒服の男から離れた。
よくみればまわりにはぽつぽつと怪しげな男が配置されている。
見張られている、そのことを知り女は顔をこわばらせて伏せ目がちにその場を去った。

3軒先という喫茶店は男も数回立ち寄ったことがある店だった。
くしゃくしゃに丸めた車券をある日握り締めたまま、この店に入ったことがある。
当たったはずだった。当たっていたはずだった車券は、場内をかけめぐるアナウンスにより無効になった。
呆然として、握り締めたままこの店に入って、コーヒーと店員に告げようとして、
目の前の縦長の1枚の絵入りのポスターに書いてあった文字をそのまま読みあげた。
「ソーダ水」
ちょっと変だった。筆で書きなぐった「ソーダ水」という文字のバックには瓶に入ったソーダ水の絵が描かれていた。
瓶にはソーダ水の泡と共に人魚の絵が描かれ、その人魚の手にはソーダ水の瓶が握られて、
そのソーダ水の瓶にも同じように人魚が描かれていた。
その日はソーダ水を注文した。
人魚の絵が描かれた瓶が目の前に現れると思ったから注文したのだ。
しかし、運ばれてきたのは普通のメーカーの商標の入ったものだった。
瓶を見つめているのが店員にわかったらしく、店員は話しかけてきた。
「人魚の絵の瓶は1日に1本しかないんです」
はっとして店員の顔を見た。
人魚の微笑みに似た表情をした、20代と思われる女性だった。
「ソーダ水の注文があったら冷蔵庫からランダムにとりだすので、どなたにその瓶が行くかは決まってません」
男は、ああ、そうですか、と言おうかと思ったが口には出なかった。
「人魚の瓶が当たると、多分いいことがあると思います」
そう言って、店員は下がっていった。
だから男は何回かこの店に来たのだ。
店に入って、あのポスターを確認して「ソーダ水」とオーダーする。
でも1度もその瓶には当たらなかった。

きょうもまた、あのポスターを目にしてしまったから「ソーダ水」を注文した。
すると出てきたのは人魚の瓶だった。
それはポスターに描かれていたものよりもずっと華やかさがあった。
そして人魚の微笑みはやわらかく、吸い込まれそうだった。
ふと思い出したのは、以前の店員の言葉だ。「多分いいことがあると思います」
いいことがあるのだろうか?それとも・・・・・・
そこへさっき「逃げて」といった女が現れた。
「すぐに行くわよ」
「え?」
「花は持ってる?」
「ああ。でもすぐにってどこに」
「来ればわかるわ」
男はどうでもよかったが、目の前の人魚の瓶を置き去りにしたくなかった。
とっさに瓶を手に取り、ラッパ飲みした。炭酸がきつい。
女がうながすので、男はそのまま瓶を持ち、反対の手には花屋で受け取った花を持った。

さっきは「逃げて」などといったくせに、女はまた男を競輪場に連れてきた。
場内からはアナウンスが聞こえ、観客の声が渦巻いていた。
レースが始まるのに違いなかった。

女は花束を持つ男の手をぐいぐいと引っ張っていった。
そしてあるところまで来ると手を離した。
「ここにいて」
そして女は足早に駆け出して行った。
一体何なのだ。男はただ呆然と立ち尽くすだけだった。
と、そこへ若い男がぶつかってきた。
「あ」
男はバランスを崩しサイダー水を地面にぶちまけた。
ぶつかってきた若い男の手からは小銭がじゃらじゃらと零れ落ちる。
空気が一瞬うなった。
次の瞬間男の目の前が真っ暗になった。

どれくらい時間が経ったのだろう。
男は頭の痛みに気づいて起き上がり、同時に頬がひりひりするのを感じた。
若い男とぶつかったあと、誰かに殴られ地面に頭をぶつけたらしい。
?一方の手はサイダーの瓶を握り締めていたが、持っていたはずの花束は消えていた。
そして白いものに囲まれていた。
大量の車券が舞い降りていた。
頭をさすりながら立ち上がる男の視界に、女が入った。
50mくらい離れた場所からこっちを見ている。
帰る人並みに紛れそうになるけれど、女の姿はずっと男の視線から外れなかった。
女の方もじっと男を見つめていた。が、急に踵を返し歩き始めた。
わけもなく人並みをかきわけて男は女を追った。
「逃げて」と言われたあの特別観覧席に向かっている。

特別観覧席のわけありそうな黒服の男が座っていた席には、
男が持っていたのとそっくりな花束が置いてあった。
しかし、花は同じでも色が白だった。
つかつかと女はその席に近づき、その白い花束を手に取った。
「一体どういうことなんだ」と追ってきた男は尋ねた。
「終わったのよ。あなたはうまくやってくれたわ」
「終わったって?」
ちょっと唇をかみしめて女は何かを決めたように言う。
「長くなるかもしれないから、またあの店に行きましょう」

まどろっこしいことに、またあの喫茶店に行くことになった。
男は多少べたついたソーダ瓶をまた持ち帰ったことになる。
「その瓶の絵を描いたのはわたしなの」
女の告白に男はちょっとびっくりした。
「でもね、あっちのポスターの絵は、わたしの兄が描いた物なの」
どおりでタッチがちょっと違うと思った。
「兄は人魚がとっても好きで、子供のころ聞いた人魚の昔話をそのまま信じてて、
大人になってからも『きっと人魚はいるんだ』っていってるような人でね。
いつも石とか瓶に人魚の絵を描いていて、道端で売るの。ぜんぜん売れないんだけどね」
そういって懐かしそうに女は笑った。
「それが、去年道端でいつもどおり瓶やら石やらを広げていたらやくざ者に場所代を払えとか言いがかりをつけられて。
兄はずっとそこで売ってたから自分の場所だと思ってたらしいんだけど、
やくざにいわせれば元々何とか組の場所なんだから今までの場所代を払えと言われ、
払えなかった兄はやくざ一味の諜報団に入ってしまったの。それが真相」
それが真相、といわれてもなんにも自分につながってこない。男には理解できなかった。
「それがなぜきょうのようなことになるのか、さっぱりわからないよ」
「そうよね。まだ続くわ。
諜報団っていっても兄のような何の役にも立ちそうもない人間がそうそうすごいことができるわけもなくて、
結局はスリの片棒かつがされるってかんじで、
人にわざとぶつかって財布を抜き取る手助けをするとか、そんなせこいことをさせられていたの。
わたしがそれを知ったのは1週間前。
わたしはその諜報団のボスだとか言う人物を新聞社の情報通のひとから聞き出して会いに行ったわ。
そしたら、
『競輪場に男を連れて来い。今新聞に連載しているあの作家だ。自分の新聞社なんだからできるだろう』
そういわれたの。
作家を連れてくることで彼らがどんな利益を得るのかさっぱりわからなかった。
でもこういうことなの。
先月の連載の文中に競輪場のシーンがあったでしょ。
足の悪い男が車券を拾い損なってそれが当たりだったにもかかわらずはずれ車券にまぎれてなくしてしまうって話。
あれがね、気に入らなかったらしいのよ。
そのボスっていうのが足が悪くて、足が悪いせいで当たり車券をなくしたという書き方が気に入らないって。
一度あの作家に会ってぶん殴ってやる、っていうのが最近の口癖だったらしいわ。
それであなたを連れ出したわけ」
「そんなことだったのか・・・?」
「だけどねサイダー瓶が誤算だったって言ってたわ。あなたがあれを持っていて中身をこぼしたでしょ?」
「こぼしたっていうか、こぼされたんだけど・・・・・・」
「彼はねサイダーが嫌いなのよ。気持ち悪いって言ってたわ。でもそれだからこそ思いっきり殴れたって言ってた。
痛かったでしょ?」
殴られて痛くないはずはない。

「でもそれだけじゃない。彼らはあなたにちゃんと仕事をさせたわ」
「仕事?」
「あのスイトピーの花束よ」
「あれが・・・」
「花屋との連係プレイによってきょうの本命のコードネームが交換されたの」
「コードネーム?」
「そう。もうすでに地下では大きなお金が動いてるはず」
「ってことは・・・・・・僕は悪事の手助けをさせられたってわけか?」
「そうなるわね」
「なんだかいいかんじがしないな」
「いいのよ。知っていて手伝ったのではないのだし。でも兄は助かったわ。この白いスイトピーがそのしるしなの」
「ひとつ聞きたいんだけど、きみはこの件に関して他にもなにかしたのだろうか?」
女はちょっと視線をずらした。
「わたしの任務は新聞社に連載中の作家を守るだけだった。それだけよ」
「僕を?いや違う。きみは自分の兄を守るだけだったんだ」
「ふふっ。そうだったわね」女は笑って済ませた。

男は人魚のサイダー瓶と白いスイトピーを持たされてその店を去った。
家に戻り、サイダー瓶にスイトピーを生けてみた。
スイトピーを束ねて切り口に巻かれていた紙をほどいたとき、その中から何か零れ落ちた。
ころころと床を転がって行く。
拾ってみるとそれはピンク色の玉だった。よくみれば白っぽい筋がところどころついている。
「ローズクオーツか?」
これももしかしたら何かのしるしなのかもしれない。
そしてこのあと、電話がかかったり、ドアホンが鳴ったりするのかもしれない。
自分はもしかしたら、まだ何かの事件に巻き込まれたままなのだろうか。
得体のしれない不安がよぎる。
いやしかし・・・・・・。
「人魚の涙ということにしておこう」男はひとり呟き、ピンク色の玉をソーダ瓶に投げ込んだ。




☆このページはフィクションです。
  もし同タイトルのエッセイ集などあったとしても特に内容・作者には関係ありません。

(kanami/2002.10.12)









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