「息子の部屋」


しあわせな家族が息子の死によって亀裂が入る過程とその後数ヶ月のことを描いた作品である。
全編に渡ってモレッティらしさが詰め込まれ凝縮され、繊細な彼の意図があちこちにうかがえる。
これまでよりもひとつのおおきなテーマが見える分、まとまりがよい。
しかし、ただ単にストーリー展開を追っていくだけの映画ではない。
モレッティが細かいところにまで気を配っているのがよくわかる。
仕事も家族との交流もすべてうまくいっていたはずなのに、ひとりの死によって壊れていく。
夫として親としてすべきことをしてきたのに、精神分析医として立派にやってきたのに、
そのすべてを放棄してしまいたくなるほどのまいにちが突然訪れるのだ。
息子を帰らぬ人にしてしまったことを悔い、時間をさかのぼる。
自分を責め、事故の責任を何かに求め、人を責め、すべてを指のすきまからこぼれる砂のようになくしていく。
映画は息子の死の1、2ヶ月あとまでで終わる。
この家族がかなしみを乗り越えていったかどうかは、観客にゆだねられている。
そして乗り越えるための鍵は明確にあかされない。
だが、その鍵はラストシーンの凪いだ海の青い色にあるのかもしれない。
開放されたような家族の笑顔なのかもしれない。
今までモレッティの映画を見てきて、以前までの映画とはトーンが違うと思う。
しかしジュリオの当惑に雰囲気は似ている。
冒頭の走りこむシーンは、ジュリオの延々と泳ぐシーンを思わせるし、
母の死によって絶望する主人公ジュリオの様相とは酷似している。
ジュリオの場合は、まわりがすべて病んでいた。
それを修復したいジュリオの思惑とはうらはらに人々は勝手に行動していくのだ。
今回も病んだ人々がでてくるのだが(精神分析医の患者)それが特別であると思わせるが、本当は特別でないとも思える。
人はいつでも病む可能性を持っているのだ。
救うはずの人間も病んでしまうことはあるのだ。
何気ない生活の中の動作にも人の心情を表しており、それをひとつひとつ思い出してしまうので、
見終わったあと湧き上がるように余韻が響いていくのである。
エンドロールで切られたあと、観客はジョバンニになり、取り戻すものを探し始めるに違いない。


(2001.12.25 kanami)