第4回 「私の罪は赦されますか?」

カトリック教会ではよく、罪の赦(ゆる)しという言葉を口にします。罪とはどんなことで、それが赦されるというのはどういうことなのかを簡単にお話しします。

教会でいう罪とは神に対して責任を問われるものです

どんなことが罪なのでしょうか。
キリスト教では、「罪人(つみびと)」という言葉をよく使いますし、人間は「罪人」であるとよく言います。教会外の一般の人々は「罪」や「罪人」などという言葉を聞くと、ぞっとする、いやな気分になるとよく言われます。それは、自分は罪人というほどのこともないのではないか・・という考えからだと思います。私たちはお巡りさんに厄介になるわけでもないし、「罪人」とされるほど悪いことをしていない、と普通は考えます。

キリスト教でいう「罪人」というのは、法律でいう「犯罪人」とは全く別の意味合いを含んでいます。犯罪というのが法律違反の行為で、社会に対して責任を問われるのに対して、キリスト教でいう罪とは、もっと内面的な行為、あるいは状態を意味していて、いわば神に対して責任を問われる行為であると言えましょう。もちろん、場合によっては社会に対しても責任を問われることでしょう。

たとえを持って考えてみましょう。泥棒はいつから泥棒でしょうか。他人の物を盗ったときからですか。あるいは盗ろうと決心したときからですか。明らかに盗ろうと決めたときからです。実行する前の計画や場所の下見などの段階では法律上では泥棒ではありませんが、しかし、良心の前ではあるいは神の御前では泥棒です。人の物を盗る行為をしていないので、法律上は「犯罪人」ではありませんが、心の内ではもう罪を犯した「罪人」なのです。

では、一体罪とは何でしょうか。罪とは、悪いことあるいは悪いと思っていることを意識的に自由にすることなのです。悪いことをすることによって神に背き、神に背を向けることです。神様は聖書の中にある十戒(殺すなかれ、盗むなかれ、姦淫するなかれ、など)といろいろな教えと戒めを持って、何がいいか、何が悪いかを教えて下さっただけでなく、人間の歩むべき正しい道、本当の幸せへの道、真の平和への道をも教えて下さいました。この教えは神の御心、神の御胸を表すものですし、人間の歩むべき人生の道しるべのようなものです。 人間は悪いことをするとき、神の御胸に背き神に背を向けることになります。これはキリスト教でいう「罪」です。

神様は聖書の他にもう一つの方法を持って、各人が歩むべき道を示し、照らして下さいます。それは「良心」のことです。良心という「内面の声」は「神の声」です。つまりどんな人間でも何かをしようとした時、「これはいいことですよ、やりなさい。」「これはよくないよ、やめなさい。」という小さな声を聞くでしょう。それはその人に対しての神の導く声です。(と、キリスト教では考えられています。)人はこの声に背き背を向けると、神に背き罪を犯すことになります。これもキリスト教で言う罪です。

罪は外面的に犯すばかりではなく、心の中でも犯すことがあります。罪とは「思い、言葉、行い、怠りによって」犯されるものです。先ほどの泥棒の例を思い出して下さい。キリストの教えの中で一番大事にされていることは、「愛」です。マルコの福音書12章28節より31節の間によると、神と隣人と自分を愛することは、一番大事な掟です。ですから、罪とは、神と隣人と自分に対する愛に、意識的・自由に背き、背を向けることなのです。これも、キリスト教で言う罪です。

カトリック教会には赦しの秘跡があります

どうしたら罪が赦されるでしょうか
イエス・キリスト「福音」というよい知らせの中で、神の愛と赦しは核心だと思います。キリストの言葉の中に「神は罪を赦して下さる」というすばらしいメッセージがあります。神の子である、主イエス・キリストの十字架上の死によって、人間の罪の赦しは、全人類に与えられました。

「御子イエスの血によって、あらゆる罪が清められます。」 (ヨハネの手紙1.1-7)

神の赦しは、様々な形で私たちに与えられます。たとえば、聖書のヨハネの手紙1.1-9によると、

「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めて下さいます。」(ヨハネの手紙1.1-9)

この形でも罪は赦されます。洗礼、という形でも罪の赦しは与えられます。 聖書に基づいているカトリック教会の伝統的な形でも、罪の赦しは与えられます。

カトリック教会の中に、赦しの秘蹟があります。教会の教えでは「秘蹟」というものはイエス・キリストによって定められ、目に見えない神の恵みを与える、目に見えるしるし、儀式、祭儀です。

「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」(ヨハネ 20.21〜23)

イエスは弟子達を派遣して、御自分の技を継続させます。そして、弟子達に罪の赦しの権限も与えます。弟子達はキリストの手足となってその技を継続します。こうして、直接イエス・キリストに出会うことの出来ない後の時代の人々も、同じようにイエスをとおして赦されるのです。キリスト教の歴史を調べますと、イエスより弟子達に与えられたこの権限は、司祭達に授けられるようになりました。

カトリック教徒(聖職者、司祭、司教、ローマ法王を含めて)は、罪の赦しを求めたいときに、司祭に告白して罪の赦しをいただくことができます。もちろん、その罪の赦しをいただくために、犯した罪を心から悔やみ神にお詫びし、二度と犯さないよう努力し、その罪によって損害を受けた人々にできる限りの償いをする心構えが、前提となります。

司祭の言葉を通して神の赦しを聞くことができる、ただ心情だけでなくしっかり手に取れる形で、神の赦しが保証されている。それが、カトリック教会の大切にしている秘蹟の特長です。

どんな罪を犯しても赦されるでしょうか
先にもあったように、聖書の言葉により、どんな罪も赦されます。ただ、罪を赦してもらうためには先ほどの心構えを忘れてはならないでしょう。

罪の赦しは回心への呼びかけです

罪が赦されるとは、どういうことでしょう。
人間同士の関係からも理解できることですが、罪というのは例えば、友達を裏切ってしまったというような体験があったとします。大切な約束を守らなかったりとか、本当に困っているのを見てもほうっておいたとか、そんな経験です。あとになってそれを悔やみ、自分が情けない気持ちになって、何とか謝りたいと思っているときに、向こうの方から前とかわらない親しさを持って、近寄ってきてくれたら本当にほっとします。この友人に対して、心から謝ることができるのは、実はその時なのでしょう。

私の罪、弱さ、足りなさにもかかわらず、そのために相手が痛み、苦しみを堪え忍んだにもかかわらず、その友人は私に言い続ける。「気にするな、あなたは私にとって大切な友人なんだ。」と。私のありのままの姿が受け入れられ、私は本当にその友人のことがわかるようになる。友情が深まっていくというのは、そう言う瞬間なのです。

罪の赦しは、こういうことに似ているような気がします。罪の赦しは神の心にふれ、神の大きな愛に出会う体験です。罪の赦しは、罪によって傷ついた神と人、人と人とのつながりの回復ですし、人に希望と喜びを与え、ふたたび立ち上がるチャンスと力を与えるものです。

罪の赦しは清めの体験です。けれども罪の赦しは洗濯機のようなものではありません。単に汚れている心を徐々に洗濯し、元のように白く立派にしてくれるとことではありません。それでは罪が赦されますから、安心して罪を犯しなさい、ということになりかねないでしょう。罪の赦しは回心への呼びかけです。すなわち、神と人の方へもう一度目を向け、神と人をもう一度大事にし、神の御心にかなう生き方をする呼びかけなのです。

罪の赦しとは、何とすばらしい神のお恵みでしょう。 

参考書
「ゆるしの力」 幸田 和生 女子パウロ会

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