2005.5.15の説教から
  「岩」             マタイ福音書 16:13ー20

 イエスは「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白するペトロに対し「この岩(ペトラ)の上にわたしの教会を建てる」と言ったとされる。さらに「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」とも。これを根拠に、ペトロは後に生まれるキリスト教会の最高権威者、初代の教皇として位置づけられていくことになる。しかし、本当にイエスはそんなことを言ったのか。
 そもそもこの箇所はマルコとルカの平行記事には、ペトロに対するこのような発言は記されない。マルコとルカは、「あなたこそキリストです」と告白するペトロに「そのようなことを誰にも話さないように」と厳しく戒めるイエスの姿を書き記し、ペトロの信仰告白を評価するどころか、口先だけの軽々しい告白を戒めるかのようなイエスの言葉をもってこの場面を締めくくっている。どうもこちらの方が本当らしい。それと比べてマタイの方は、意図的・作為的な何かを感じざるをえない。マタイはペトロを筆頭とする教会の権威を正当化し、確固たるものとして位置づけることを目的に、あのような言葉をイエスに語らせたのだろう。しかしそうすると、なぜ、どういう意味でイエスはシモンに「ペトロ」というあだ名をつけたのだろうか。
 そこでイエスや弟子たちが生きたユダヤの宗教的な伝統、旧約聖書の中に「岩」のイメージを尋ねてみたい。旧約聖書の中に「岩」という言葉は、日本語訳では111回出てくる。一つ一つ調べてみると、岩という言葉の中には、様々な意味と含みがあることがわかる。
 最も多い使用例は、神を岩と呼び、「岩なる神」とか「救いの岩」などと表現する例。詩篇には、そういう言い回しがたくさん出てくる。「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない(62編)」。このように、神が揺らぐことのない岩に喩えられる例は非常に多い。この伝統の故に、たとえば「わたしの言葉を聞いて行う者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」というようなイエスの言葉を解釈するにあたって、「岩の上に家を建てる」とは「神を土台として家を建てる」と言う意味だというような説明がしばしばなされるようになる。しかしこの説明は必ずしも的を射ていない。以前にも説明したように、「家と土台の譬え」は、パレスティナのあちこちに見られる雨期にだけ流れる川(ワディ)を題材としている。乾期には干上がった砂地の河床を現し、雨期になれば水が押し寄せてくるような平らな砂地ではなく、多少ごつごつして障害物が多くても、岩場を選んで家を建てなさいという教訓話である。
 なぜそういう読み方になるのか、種明かしをしよう。実は旧約聖書には、岩という意味の言葉が二通りの言葉で表されている。一つは「神はわが岩、救いの岩」というときに使われるツルという言葉。これは「揺るがぬ大岩」を表す。一方同じ岩でも、ツルではなくセラという言葉で表される岩がある。こちらは「揺るがぬ岩」というよりも、「打ち砕かれるべき岩」を指すことが多い。モーセが荒野で岩を打ち砕き、その岩の裂け目から水が出てきたという時の岩もこのセラという言葉だった。あるいはイザヤ22:16「ここでお前は何をしているのか。…ここに自分の墓を掘るとは何事か。高い所に墓を掘り、岩をえぐって住みかを造ろうとする者よ。」ここで言う「岩=セラ」はそれをえぐって穴を開け、家を建てる土台とするような岩を指している。こういうところからイエスの「岩の上に家を建てる者の譬え」の「岩」がツル(揺るがぬ土台=神)ではなくセラ(砕くべき岩)であることがわかる。さらにエレミヤ23:25-29「…いつまで、彼らはこうなのか。偽りを預言し、自分の心が欺くままに預言する預言者たちは、互いに夢を解き明かして、わが民がわたしの名を忘れるように仕向ける。…このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる。」主の言葉は岩を打ち砕くハンマーのようだとエレミヤは言うが、この場合「岩」は打ち砕かれるべき偽りの預言者を指している。また「岩(セラ)」は、頑固で容易には悔い改めない石頭を指す言葉でもある。エレミヤ書5:3。「彼らを打たれても彼らは痛みを覚えず、彼らを打ちのめされても彼らは懲らしめを受け入れず、その顔を岩よりも固くして立ち帰ることを拒みました。」神の懲らしめを受け入れず、悔い改めることのない人の様子をエレミヤは「岩」にたとえた。つまりここで「岩」とは、「砕かれねばならない頑固者、石頭」を指している。ついでにもう一つ。オバデヤ1:3。「お前は自分の傲慢な心に欺かれている。岩の裂け目に住み、高い所に住みかを設け、『誰がわたしを地に引きずり降ろせるか』と心に思っている。」
 これらの旧約の記述を総合すると、ツルは「揺るがぬ大岩」を意味し、しばしば「神」を意味する言葉なのだが、他方セラは同じ「岩」でも「頑固で、傲慢で打ち砕かれなければならない存在」としてたびたび描かれる。実はこのセラという言葉、イスラエルの仇敵エドムの国の首都を指す地名でもある。神によって打ち砕かれるべき町の名をイスラエルの人々はセラと名付けたのだった。そしてその町の名は後にギリシャ語に訳され、ペトラという名前になった。要するに、「ペトラ=岩」とは「揺るがぬ土台としての大岩(ツル)」ではなく、「頑固で傲慢で打ち砕かれなければならない岩(セラ)」を意味する言葉だったのだ。
 イエスがシモンをペトロと名付けたのは、きっと彼が「頑固で傲慢で絶えず打ち砕かれなければならない岩」のような存在だったからに違いない。実際彼は何度もイエスを誤解し、裏切り、見限った。そしてその都度、反省し、悔い改め、打ち砕かれてまことの弟子とされていったのだった。今日はペンテコステ。教会は「絶えず打ち砕かれなければならなかった岩」たちによって始められた。「揺るがぬ大岩」の上に立っているかのようにおごり高ぶってはならないのだ。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神は侮られない(詩篇51:19)」。