2004.8.29の説教から
  「ちむぐりさ」                 マタイによる福音書9:27−38

 沖縄の島言葉に「ちむぐりさ」という言葉がある。先の大戦で沖縄は戦火に包まれ、多くの民間人が命を奪われた。追いつめられた状況の中で集団自決を強いられ、あるいは暗いガマの中で、暑さとひもじさにむずかる自分の子どもを自分の手で殺さねばならなかった親たち。そういう状況の中から、家族の中で集落の中でたった一人生き残った人。人々は生き延びることができた喜びよりも、身の置きどころのない、やりきれない気持ちに襲われ自分を責めざるをえなかった。そんな気持ちを沖縄では「ちむぐりさ」という言葉で表す。ヤマト言葉に置き換えれば「肝苦しい」と漢字で書くことができる。内蔵がかき回され、引きちぎられるような痛み、胸が締め付けられて苦しくなるような思いと言えばいいだろうか。他者が苦しみ、痛み、死んでいく様を、平然と見過ごすことができない。自分のことのように痛みにおそわれ、自分に責めを感じ、いても立ってもいられない思いに駆られる。しかし自分の力ではどうすることもできないもどかしさ、申し訳なさ。そんな思いをひっくるめて、沖縄の人は「ちむぐりさ」と言う。沖縄の基地を飛び立った爆撃機が遠くの国の多くの命を奪っていることに耐えがたい痛みを感じる沖縄の人々の心もまた、この「ちむぐりさ」で満たされている。

 「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」この「深く憐れまれた」と訳されているのは、スプランクニゾマイというギリシャ語である。「内臓」を意味するスプランクノンから派生して、「内臓を引っかき回され、引きちぎられるような痛み、苦しみを覚える」ことを意味している。この言葉が「深く憐れまれた(新共同訳)」、「かわいそうに思った(新改訳)」などと訳されるわけだが、原典のニュアンスは訳し切れていない。「断腸の思い」などと訳す人もあるが、これも充分ではない。どうやらわたしたちの文化は、このギリシャ語を訳すにふさわしい言葉を紡ぎ出してこなかったらしい。ところが沖縄には、まさにこれと同じ表現があった。「ちむぐりさ」。イエスはこのときまさに「ちむぐりさ」を覚えておられたのではなかったか。

 イエスは 二人の盲人を癒し(27-31節)、続いて 口の利けない人癒す(32-34節)。そしてその後、「町や村を残らず回って…ありとあらゆる病気や煩いを癒された」。「癒された」はギリシャ語ではセラペウオー。それは「病気を治療する」というよりも、「病気の人に仕える、看病する」という意味の言葉である。イエスは町や村を巡り歩いて、人々の求めに応じて一生懸命病の人々に仕え、何とかその苦しみを和らげようと看病されたけれども、なおもイエスのもとには大勢の弱り果てた人たちが押し寄せてくる。そんな状況がそこにはあったのだろう。そして その状況のなかで スプランクニゾマイという言葉が語られている。病の人、病のゆえに打ち捨てられた人々の痛みや悲しみを自分の痛みとし悲しみとして仕え看病してきたが、とても一人の手に負えるものではない。その苦しみ痛みをどうにかしてやりたいがこれ以上どうすることもできない。そんな自分に責めを感じ、はらわたをかきむしられるような痛み、胸を締め付けられるような申し訳なさ、もどかしさを抱える。それがスプランクニゾマイという言葉の意味するところなのなのだろう。そしてそれはまさに「ちむぐりさ」という島言葉をもってしてそっくり置き換えうるものだと思う。

 ところが新共同訳聖書はこれを「深く憐れまれた」と翻訳した。新改訳は「かわいそうに思った」と訳した。何とも残念というほかない。「憐れむ」にしても「かわいそうに思う」にしても、そこには自分を責め、自らに痛みを引き受けるような響きはない。むしろ自分をどこか高いところにおいて苦しみ悩んでいる人を見くだしているようなニュアンスさえある。しかし、この「憐れむ」という見くだすような日本語を違和感なく当てはめてしまったのは、単に日本語訳聖書の翻訳をした人たちだけの責任でもなさそうだ。そもそも福音書記者マタイ自身が、どうやらそういう感覚をもっていたらしい。

 マタイはマルコの記事を書き写した後、最後に他のどの福音書記者も記さない独自の言葉を付け加える。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。まるで病気や障害に苦しみ、助けを求めている人々を、教会にとっての収穫物のように見なした発言である。そこには病気や悩みを抱えた人、藁にもすがりたい思いを抱えた人を、その弱みにつけ込んで 食い物にしてきた 悪しき宗教の現実が 重なる。マタイの中にはそういう発想が既に頭をもたげている。そしてその故に、「憐れみ」などという見くだした関係を思わせる日本語が、何とも違和感なくここに収まってしまうのではないか。
 見くだしたような憐れみや蔑みではなく、スプランクニゾマイ。他者の痛みを自分の痛みのように感じ、自分に責めを感じて、居ても立ってもいられなくなるような思い。イエスはそんな思いに駆られて苦しみ悩む人々に仕えられた。私たちもまた、そんな思い、「ちむぐりさ」を与えられたい、「ちむぐりさ」につき動かされていく者でありたい。