2004.418の説教から
  「狭き門」              マタイ福音書 7:13-14

 村山富市元首相は、米英によるイラク占領政策とそれに追随する日本政府の方針を批判して「入り口を間違えてしまった。もういっぺん引き返して議論すべきだ」と言った。軍事力をもってフセイン政権を排除し、占領軍による暫定統治を行い、反抗する武装勢力や旧政権の残存勢力を一掃する。そしてしかるべき後にイラク人に主権委譲する。米英が思い描き日本が追随した「平和」への道筋は、最初から入り口を間違っていたのだ。あるいはイラク復興支援事業と称して、今や各国の商社やゼネコンがイラク入りを狙っている。イラク復興は戦勝国にとっての一大ビジネスチャンスであって、イラク民衆のための復興ではない。このような復興支援事業は必ずやイラク民衆の怒りを買い、さらなる憎悪と報復へと連鎖していくに違いない。そしてこの復興への道筋も、「入り口を間違っている」と言わざるを得ない。さらに現在のイラクは、世界のキリスト教にとっても海外宣教の一大ターゲットになっている。悪い指導者と悪い宗教に蝕まれてきたイラクに、良い宗教であるキリスト教を植え付けていく。そう思い描いて、多くのキリスト教宣教団体が占領軍のジープに便乗してイラク入りを窺っている。それこそ本当のイラク復興につながるのだと。しかしこれもまた、「入り口を間違えている」としかわたしには思えない。各国の軍隊が、あるいは企業が、そしてまたキリスト教伝道者が大手を振って、善人面して大挙してイラクに押しかける様子に、あのイエスの言葉が思い出されてならない。「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」。軍隊によるイラク復興も、ビジネスによるイラク復興も、キリスト教宣教によるイラク復興も新たな憎悪を引き起こす滅びに通じる門でしかないだろう。

 しかしそれに比べて、いたたまれぬ思いでイラクにもぐり込み、苦しむ人たちに寄り添って自分のできることを精一杯しようとした人たちの行為は、「軽率だ」「無謀だ」となじられようとも、わたしには命に通ずる行為であるように思える。その門は狭く、その道は細いが、その向こうには確かに命がある。

 「狭き門から入れ」という イエスの言葉は、どういう背景で 語られたのだろうか。マタイは何の脈絡もなく唐突にこの言葉を記すが、ルカはこの言葉が語られた背景を記している。この言葉の直前には「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」とあり、その直後にはエルサレムを嘆くイエスの言葉が記されている。この文脈から、この言葉を語ったイエスのまなざしはエルサレムに向けられていたことが分かる。つまりエルサレムの都を指さしながら「狭き門より入れ」と言われたのだと。
 エルサレムは周囲を堅固な城壁で囲まれた要塞都市である。中に入るには城壁の所々に設けられた門を通らなければならない。現在、エルサレム旧市街を囲む城壁には8つ門があり、そのうちいくつかは旧・新約聖書の記述の中にもその名を確認できる。最も荘厳な門は「黄金門」と呼ばれ、イエスがロバに乗って民衆の歓呼に囲まれて入場したのはこの門ではないかとも言われる。しかし「狭き門より入れ」と言われたイエスが、最も広く荘厳な門を選んで入ったとは思えない。
 エルサレムの城壁に設けられた数ある門の中で、一番狭い門であったと目されるのは「糞門」あるいは「汚物門」と呼ばれる門であった。現在のエルサレムにもそれは再現されており、エルサレムの南側、一番標高の低い場所に位置している。今でこそ観光バスもくぐれるほどの大きさになっているが、イエスの時代にはこの糞門、汚物門は人やロバがやっと通れるほどの小さな門であったという。この門、なぜこんなけったいな名前なのか。それはエルサレム城内で排泄・排出された糞尿や生ゴミ、動物の死体などをこの門から運び出したことに由来する。糞門はエルサレムの都で最も低い地点にあり、その門の外には左手にキデロンの谷、右手にはヒンノムの谷というどちらも深い谷が拡がっていた。ヒンノムの谷は、ゲヘナ(地獄)という言葉の語源にもなった地名で、まさに汚物門の外に拡がる谷は地獄の様相を呈していたのだった。そこにはありとあらゆる汚物が投げ捨てられ、そしてその谷の周辺には重い皮膚病や心の病を止む人たちが追いやられて生活していた。またエルサレムの城内でも汚物門のまわりの地域は、羊飼い、食肉業者、皮なめし職人など、汚れた職業と見なされた業種の人々の居住地域として定められ、これらの人たちが専ら出入りする門としても糞門は用いられていただろう。イエスが「狭き門から入れ」と言われたのはこの門だった。とわたしはほとんど確信している。
 自らの汚れなさや正しさを誇る者たちは、黄金門やヘロデ門を用いただろう。ローマの軍隊は宿営のすぐそばにあったダマスコ門を用いただろう。彼らは大手を振って、それらの広い門をくぐったにちがいない。しかしそうしてくぐった先には争いと差別の都エルサレムがあるばかりである。
 一方、汚物門。貧しい者、汚れの烙印を押された者たちが、腰をかがめ、小さくなってくぐるその門。その門を指して、「狭い門から入りなさい。門は何と狭く、その道の細いことか。しかしその門は命に通じるのだ」とイエスは言われた。その門をあなたたちはくぐりなさい。腰をかがめて、謙虚に。そして差別され、尊厳を脅かされる人たちと肩を並べて、彼らと手をつないで、一緒にその門をくぐりなさい。その門は狭く、その道は細い。けれどもそれは 命に通じる門なのだ、と。
 軍隊や企業が、そして伝道者までもが大手を振り威張り腐って、滅びに至る大きな門からイラクに押し入っている。そして一方にはいたたまれない思いに突き動かされて、イラクの苦しんでいる子どもたちや切り捨てられた民衆と手をつなごうとする人たちが、小さな門をかいくぐってイラクに入っていく。イエスが言われた言葉を思い起こしながら、その一見無謀な行為に限りない尊さをわたしは感じている。