2004.4.4の説教から
  「黄金律」         マタイ福音書 7:12

 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」。黄金律と呼ばれる言葉である。しかしこの言葉に、私たちはどれほど新鮮な驚きを感じたり、感銘を受けたりするだろうか。むしろ陳腐な印象を持つのではないか。
実際、この言葉はイエス以前のユダヤ教の教師たちによってもかなり類似した形で語られている。ラビ・ヒルレルは「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな。これが律法の全体であり、他の全てはその説明である」と語っている。ヒンズー教にも「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」という教えがあり、イスラム教にも「あなたがしてもらいたくないような方法で、あなたの兄弟たちを扱ってはならない」という言葉がある。論語の中にも「己の欲せざるところ、人に施す事なかれ」とある。ただしイエスは「人にしてもらいたいことを人にもしなさい」と言っているわけで、多くの宗教が 「自分のされたくないことを人にするな」と教えているのとは少し違っている。つまりそこには否定の形で言われているか肯定の形で言われているかの違いがある。この違いは案外大きいものではないだろうか。

 「人にされていやなことは人にもするな」とは、多くの家庭や学校でも教えられている言葉ではないかと思う。実際わたしの家庭でも、こういう言い方でしばしば子どもに教え諭してきた。それに対して「人にしてもらいたいことを人にもしなさい」はあまり実用的ではない。小さな子どもに「何をしてもらいたい?」と問えば、「抱っこして欲しい」とか「絵本を読んで欲しい」とか「公園に連れてって欲しい」くらいのことしか思いつかないだろう。そうすると「だれにでもそのようにしなさい」とはとても言えない。子どもだけでなく大人にとってもこれは難問である。人が誰かにして欲しいと思っていることは千差万別で、必ずしも同じことをしてもらって他の人が喜ぶかどうか、そのことが他の人にとって本当にいいことなのかと考えるとなかなかそうではないからである。ある人にはありがたいことがある人には迷惑な場合もあり、ある人の喜ぶことが ある人を傷つけたりすることも いくらでもある。そう考えると、「人にしてもらいたいことを 人にもしなさい」よりも、むしろ自分が欲していることを絶対化して他の人に押し売りするのではなく、「その人の立場に立って、その人が喜ぶことをしなさい」と言う方がよほどいいようにも思える。
 しかしイエスは そうは言わず 確かに「人にしてもらいたいことを人にもしなさい」と言われた。この教えは、自分は何を欲しているのかということを自問させる言葉だと言える。自分が欲していることが本当に全ての人にとって価値あることなのか、自分が求めているものが本当に人間にとって大切なものであるのか。「自分が人にして欲しいことを人にもしなさい」という教えの前で、私たちはまず立ち止まって、そのことを自らに問わなけばならないのではないか。

 バルティマイという名の盲人の物語(マルコ10章)を思い出す。イエスは道端に座って物乞いをするバルティマイの前に立ち止まって、「何をして欲しいのか」と言われた。道端で物乞いをする盲人に向かって、「何をして欲しいのか」はないだろう。目が見えるようにして欲しいに決まっている、あるいは金がほしいに決まっているではないか。ついそう思いがちだが、イエスはあえて問われる。  「何をして欲しいのか」。バルティマイは予想通りに答える。「見えるようになりたいのです」。そしてその願い通り 彼らは目を開かれる。しかし大切なのは、そのあとに記されている言葉である。「盲人は すぐ見えるようになり、なお 道を進まれるイエスに従った(新共同訳)」。 私訳では 「道の中へ 進み出てイエスに 従った」となる。「道の中へ」という ところが 大切で、多くの英語訳聖書では「オン・ザ・ロード」と訳されている。道端に置かれ、路上を行き交う人の群を指をくわえてやり過ごし、時々憐れみをかけてくれる人から恵んでもらうことで人生を過ごしてきた人が、イエスに 従って 道の中に進み出て、路上を 歩き出す。道の中へ、オンザロードに進み出ていく。そこにこそ 本当の救いが あることが ここに示されている。彼は、自分が本当に欲するべき望みは実はこのことだったのだと、本当に心から欲していたのはただ見えるようになるということではなくてこのことだったのだと、共にイエスと道を歩む中で感じ始めていたことだろう。そう理解してはじめて、イエスが彼らに「何をして欲しいのか」と問われた意味が明らかになる。

 イエスに従う旅とは、「自分は 本当は何を欲しているのか」 ということを 見定め、見出していく旅である。何が本当に自分の欲するべき望みであるのか、何が人間として本当に欲するべきことなのか、そのことを見出していく。それがイエスに従うことの意味なのだ。イエスは私たちにも問うている。「何をして欲しいのか」と。そして「わたしに従う旅の中で、あなたが人間として心の底から欲するべきことを見出していきなさい。見出すことができるだろう」と言っておられる。
 その上で、はじめて私たちは今日の御言葉を聞くべきである。「自分の欲することを人にもしなさい」。この言葉は、イエスと出会い、彼に連なる旅の中で、自分の本当に欲するべきもの、人間が心の底から欲するべきものを見いだした者、見いだそうとする者にとってのみ、本当に意味ある教えとなる。そうでなければ、私たちが独りよがりで自分勝手でわがままな願いを抱いたまま、この言葉を受け取り、実行するとしても、それは決して本当に他者を生かし、共に生きていく救いの道にはつながるまい。私たちは、この黄金律と呼ばれる言葉の前に、まず立ち止まり「何をして欲しいのか。あなたは何を心から欲し、人間として何を本当に欲するべきなのか」というイエスの問いを受け止めたい。そしてイエスに聞き従い、共に旅を続ける中で、本当に欲するべきものを見定めていきたい。