佐世保教会 教会案内
                                        2005.4月改訂


 「佐世保教会」は、2007年で創立118周年を迎えました。
牧師はこの春で9年目、「教会の案内人」としても「歴史の語り部」としても不充分ですが、手元に与えられた資料をもとに、佐世保教会の歴史と現在をたどってみます。ダウンロードしてゆっくり読んで下さいね。 
佐世保教会前景
  JR佐世保駅前より望む。教会前景
現在は後方に広域公民館が建っています

会 堂
 JR佐世保駅から歩いて3分ほどのところにあり、ほぼ佐世保市の中央に位置している。ココは潮見町という町名が示すように海岸の近くで、山腹の傾斜が始まったばかりの小高い場所である。
 現在の会堂は、戦後現在地に建てられたものを、老朽化したので1969年(昭和44)に新しく建て替えたものである。敷地内には、牧師館の他にプレハブ立ての教会学校の教室が2部屋ある。
                            (佐世保教会創立百周年記念誌より抜粋) 

 さらに1998年秋、全面改装。外壁も真っ白に生まれ変わって美しくなりました。
難点は会堂入り口まで十数段の階段を昇らなければならないこと。ご存じのように佐世保は坂と階段の多い町です。この地形ばかりはいかんともしがたく、高齢者や身体的ハンディキャップをお持ちの方にはご苦労を強いています。一年前に教会の真後ろに広域公民館が建設され、教会庭に迫るところまで車が入ってこられるようになりました。これを機に、今年度より「バリアフリー委員会」を発足。教会へ車で来て、そのまま楽に入ることが出来るように整備する計画です・・・。

 2002年晩秋、教会の十字架を照らすライトアップを設置しました。クリスマスのデコレーションを控える代わりです。自動点灯・消灯です。

 2006年、教会まで車いすに乗ったまま登ってこられるように、スロープを設置。車いす用のトイレに合わせて新しく厨房も完成しました。 

オルガン
 1997年7月 マルク・ガルニエ工房:ポジティブ・オルガン導入
<仕様> コンティヌオ(通奏低音)用の箱形のパイプオルガンで、3種類のストップ(音栓)を備えている
       GEDACKT 8'   FLOTE 4'   WALDPFEIFE 2'
8フィートのストップにおける最初のオクターブには、最上質のドイツ・トウヒが用いられ、その他は全て打ち出し仕上げの錫と鉛の合金製のパイプからなる。オルガン・ケースは頑丈なムクのナラ材であり、透かし格子は菩提樹を使い、金箔を施してある。
ポジティフオルガン正面  ポジティフオルガン側面

歴 史
 教会創立1889年8月1日。創立118周年。
 1)佐世保教会の設立
 1886年5月佐世保村に第3海軍区鎮守府設立が決定した。同年11月から第一期工事に入る。この工事に集まった人々、関係した労働者によって伝道所(講義所)が開設された(1889年8月)。
「明治22年7月在長崎ダッチリホームド伝道局は、神学生白石矢一郎氏を当地に派遣し、布教の状況を視察せしめたり。・・・、翌8月当地大久保に講義所を設立し白石氏をして在任せしめ、専ら伝道の任にあたらしめたり。」(『恵みの百年・自由への歩み』の抜粋)
 「1889年7月1日には佐世保鎮守府が開庁になり、同年12月には海兵団に第1回の新兵81名が入隊した。」『海軍都市』佐世保市の年形成には記してある。
 『佐世保史』総説編再刊第3章佐世保の歴史を見ると次のことが記されてあり、当地の先輩が他宗教に先んじて宣教に向けた情熱を伺い知ることができる。
「明治22年(1889)帝国憲法の発布で、わが国における信教の自由は正式に認められた。この結果は、必然的に各宗教、各派の間に猛烈な宗教合戦が繰り広げられることになったが、人口日増しに増加する新興都市佐世保を、信徒獲得に血眼になった各宗各派がどうして見逃そう。明治22年(1889)鎮守府建設の一部が完成して開庁近しというあわただしい佐世保に他の全ての宗教に先立ってまず入ってきたのがキリスト教であった。日本基督教会が今の大久保町に講義所を開いたのがそれであった。それに少し遅れて明治25年(1892)法華宗の教会所が今の俵町付近に開設され、・・・越えて明治28年(1895)には・・・今日の聖心天主堂(三浦町)の前身であるカトリック教会が、名切の寓居にチャペルとして発足したのもこの年であった。」
 佐世保教会は軍国主義台頭期の佐世保鎮守府開庁に沸き立つ町で、国策としての軍港都市建設と共に生まれた。この教会と海軍(基地)との深い関係は以後、今日まで続いていく運命にある。軍事基地の町で、何を語り、何と闘い、何を作り出していくか?佐世保教会は開設以来問われ続けている。
佐世保教会会堂内
会堂内

 2)戦時下の佐世保教会

 教会の状況を当時の証言から再現してみよう。ただし固有名詞は極力ふせてある。

 「当時(1943)は、時局悪化の一路をたどり、連合艦隊司令長官山本五十六はソロモン島の上空で戦死、アッツ島の守備隊は全滅した。聖日礼拝は別に変わりなく守られたが、しばらくすると国民儀礼(宮城遙拝)を礼拝前に行うようになった。これは教団の通達によって、長老会にはかった後に実施するようになった。また、礼拝時に時々私服の特高刑事が来ていて、礼拝の様子や説教に注意していた。やがて学徒動員令が発布され、多くの海軍予備学生が相浦の方へ向かうのを松浦線の列車内で見かけるようになった。」

「この時代は、戦時下の宗教団体法により、キリスト教はプロテスタント諸教派を統合した日本基督教団とカトリック系教会を統合した天主公教団との二つのみが認可されていて、プロテスタント既存の諸教派は日本基督教団に入らなければ、礼拝、集会や伝道は許されなかった。(中略)その時代日本基督教団の九部に属していたホーリネス教会のN牧師は、教会の解散を命じられ、佐世保では礼拝、集会や伝道ができないので一端郷里へ帰ると話されたのには、ショックを受けた。」

「軍港の町の人の往来はあわただしくなり、招集や徴用によってこの地に来てしばらくの間、佐世保教会の礼拝に出席した牧師や神学生も少なくなかった。」

「45年6月末、空襲によって市街地と共に会堂が焼失。その後は福田町のK長老宅の二階座敷で礼拝を守ることとなった。(中略)戦争が終わった年のクリスマスは、戦災や疎開で散った教会員もまだ皆は帰らず、集まった人は多くはなかったが、礼拝の後、持ち寄った茶菓などで祝会を持ち、家族ごとに賛美歌を歌うなどして、つつましい中にも、喜びと希望があふれた。Hさんのお宅でRさんなどが近所の子どもたちを集めて日曜学校を再開したのはその少し後だったろうか。」

佐世保教会遠景
教会遠景
赤い屋根がCS室、その後の屋根が牧師館
後の緑地は現在、広域公民館が建つ


 
3)戦後の佐世保教会
 満州事変から数えて15年という長い戦争が敗戦によって終わり、その後新たな生活苦、食糧不足との闘いが始まったとはいえ、続いた戦争の重苦しい圧迫感から解放された喜びを隠すことはできなかった。
 『佐世保の歩み』には、「海軍の解体で佐世保を去る者、米軍の進駐におびえて佐世保から逃げ出す者が続出した。」、「1945年9月21日、市民が不安の目をもって見守る中をアメリカ海兵隊を主力とする連合軍およそ5万が進駐してきた。つい先頃まで、敵として戦った連合軍の将兵を迎えて、市民の心は複雑であった。進駐軍は海兵団をはじめ市内の数カ所の旧軍施設に駐屯し、市役所の二階には軍政府もおかれた。いよいよ占領軍の軍政下におかれたのである。」などと書かれている。

 戦争直後の佐世保においてもう一つ忘れてならないのは、引揚者のことである。中国、朝鮮、東南アジアの各地から300万人を越える引揚者が佐世保に降り立った。引揚者は佐世保湾内に浮かぶ針尾島に上陸すると、検疫所に入れられいろいろな検査をされた。そしてそこを出ると、島を横断して山を越え橋を渡って旧海兵団跡に立つカマボコ兵舎に入った。佐世保引揚援護局である。現在この援護局跡地にはハウステンボスなるテーマパークが建っている。この地でかつて悲惨な経験をなめた人々の中には、足がすくんでとても行く気になれないという人もある。それほど、この援護局には、言語を絶する悲しい歴史がある。援護局の最大の目的は、「性病水ぎわ防止」といわゆる「不法胎児の処分」であったと言われる。ここで、心身共に傷ついた女性たちのケアのために立ち上がったのが「婦人之友」友の会であった。羽仁もと子の指令によって佐世保引揚げ援護局医務課婦人相談所の働きが始まる。この活動に加わった人たちの中には佐世保教会員もあり、教会としても忘れてはならない戦後史の一断面である。

 戦後、佐世保は米海軍の駐留地として、また海上自衛隊基地の町として、さらに佐世保重工業(SSK)を主幹産業とする重工業の町として栄えていく。朝鮮戦争の際には、米艦船で港は埋まり、1969年には米空母エンタープライズの入港で、町も教会も揺れに揺れた。また70年代以降の全国的造船不況は、各方面に波紋を及ぼし、リストラなどによって多くの青年層は企業を、佐世保を、そして教会を去ることになる。