日本バプテスト連盟
千葉・若葉
キリスト教会


【主任牧師】内山 幸一 《創造者である神を思う》
 聖書の冒頭に「初めに、神が天と地を創造した。」 とあり、神が天や地や万物、それに人間も作られたと記されています。創造の真実を論議しながら聖書を読むのも一つの読み方ですが、きょうは、作品には作者自身の投影がある。という角度から考えてみたいと思います。
 人間が、人間そっくりの彫像やロボットを作ったとします。その作品が、人間と同じでないことは誰にもわかります。そのように、神が作られた太陽、神秘的な山々、可愛い動物、人間、天使等の作品から、作り主の特性の投影を感じることができても、それらは作品であって、神そのものではありません。それらの作品を神として礼拝する行為を聖書が偶像崇拝として禁じているのはそのためです。
 作られたものには、作った方の特性が投影されるものです。人間は道徳的な性質を持った存在です。人間の作り主である神は、清く、正義で、道徳の完成者であると想像することができます。また人間には生命がありますが有限な生命です。人間を作られた方には人間の生命とは違う、つきることがない生命、終わりのない生命をもっておられるからでしょう。物質にはエネルギーが豊かにあります。物質を作られた神は、おそらく想像を超えた偉大なエネルギーの持ち主です。高等動物を見ていると愛情のきざしを見ることができます。そのことから創造主の愛を連想することができます。また人間の隣人愛や犠牲愛から、作り主である神は、愛の神だと言わずにおれません。
 全ての被造物に作り主の特性が反映されていることに気づくと、もっと別の角度からも神を知りたくなります。神を極めつくすことは不可能ですが、神と正しく向かい合うことは不可能ではありません。神の創造のみ業を記した聖書を読んでみられることをお勧めします。
【牧師】石黒 義信 《聖書の中心メッセージ》
 聖書は、「旧約聖書」と「新約聖書」で構成されています。旧約・新約の「約」は、「契約」・「約束」を意味し、神と人間との間に結ばれる愛と信頼の関係を指します。
 旧約聖書は、「神による人間の救済の歴史」の書です。その歴史の中で神がイスラエルの民族(ユダヤ民族)を神の民として愛し、守ることを約束されたのです。しかし、その約束にもかかわらず、人々は神を裏切り、背くのですが、神はなおも人間を愛し続け、神の赦しによって生きるようにと呼びかけられました。これが旧約聖書の中心メッセージです。
 この約束が、イエス・キリストによって成就されます。神は自己中心という人間の罪(原罪)や悲しみを神ご自身の問題として受け止め、さらに人間の罪を赦し、解決されたことをイエス・キリストの十字架と復活によって明らかにされました。ここに新約聖書のメッセージがあります。
 人間は、互いに傷つけ合うことで自分の力を誇示してきたのに対し、イエス・キリストの姿は、神の愛を示し、人間と「共に生きる」生涯を貫いたと言えます。このイエス・キリストに示された揺らぐことのない神の愛、他者(隣人)を大切にし、共に生きることの大切さを教える書物、それが聖書です。
【副牧師】永田 泰三 《イエス・キリスト》
 初めに、「イエス・キリスト」という「名前」について、簡単に説明させていただきます。「イエス」とは、新約聖書の原語であるギリシア語では「イエスース」で、ヘブライ語の「ヨシュア」のギリシア語形であり、当時のユダヤ人の名前として一般的に用いられていたものです。ちなみに、英語では
(ジーザス)、ドイツ語では(イエスース)です。英語圏で育った人の中には、驚いた時に「ジーザス!!」と叫ぶ人がいますが、彼らは「イエス」の名を驚きのあまり思わず叫んでいるのでしょう。一方「キリスト」ですが、これは、姓ではなく、「油注がれた者」を意味するヘブライ語「メシア」のギリシア語訳です。元来は王や大祭司に対して用いられた称号だったのですが、次第に「救世主」という意味を持つようになってきました。ですから、「イエス・キリスト」とは、「タイゾウ ナガタ」というような、名前と姓ではなく、「イエスは救い主である」という事を意味する言葉なのです。
 このイエスは、今から約2000年ほど前に実際にこの世に生き、神の愛がすべての人間に注がれている事をその生涯をもって示して下さいました。彼は、当時、様々な理由で差別されていた者、病む者、疲れた者と共に生き、彼らが神に愛されている存在であること、つまり、人間一人一人が尊い存在であることを、身をもって証ししてくださいました。
 そして、今なお、差別される者、病む者、疲れた者一人一人に、神の愛を語りかけて下さっています。
 このイエスの「一人一人は、神に愛されている尊いものなのだ」という語りかけを受け入れ、神に愛され、生かされている存在として、積極的に生きて行こうとすること、そのことがイエスをキリスト(救い主)であると告白することだと私は考えています。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしの所へ来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私のくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(『マタイによる福音書』)