みかちゃんのサンダル(蛇足版)




 ふん、汚い川!
何であたしがこんなドブ川を流れていなくちゃいけないのよ。ちょっと、そこのコイ、あたしのおしりを突っつかないでよ、このエッチ!
 ああ、ついてないなあ。
 もうかたっぽは、今ごろどうしてるかしら。
ホント、情けないったらありゃしない。
まだ新しいのよ、あたし。
パパさんが、みかちゃんのプレゼントにあたしを選んだのは、三日前の話。パパさんたら、お店に入ってくるなりあたしを見つけて、目をキラキラさせちゃって。
「これ、かわいいなあ。ねえ、店員さん、娘に誕生日プレゼントをあげようと思っているんですけどね、女の子はこういうの、喜んでくれるでしょうか」
 ここの店員は無愛想よ、ろくに店の掃除もしないで客の文句ばっかり言ってるんだから、とあたしが忠告してあげようと思ったけれど、取り越し苦労だったわ。パパさんがちょっとかっこいいものだからって、この店員、髪の毛なんか軽く直して、使い慣れない笑顔なんか浮かべちゃったりして。行き遅れの三十女はこれだからみっともないわね。娘がいるってことは、奥さんもいるってこと、想像しないのかしら。
「ええ、とてもいいセンスだと思いますわ。そのサンダルは、昨日入ったばかりですのよ。ほら、まんなかの赤いリボンがワンポイントとして……」
「そう、このリボンがね、僕もすぐに目に飛び込んできたんですよ!」
 パパさんは、もうあたしに夢中。そりゃそうよ、自分で言うのもなんだけど、こんなぱっとしない町の商店街の靴屋に、あたしみたいな美しいサンダルは不釣り合いってものよ。
 パパさんはあたしを買ってくれた。
 あたしは綺麗にラッピングされて、パパさんの車の助手席へ。うれしかったわ。実はちょっとだけ心配していたの。だれもあたしを買ってくれなかったらどうしようって。お店の中には、そんな靴たちがたくさんいたわ。あの靴屋には一晩しかいなかったけれど、でも二度とあんなのはごめんだわ。夜になると、古い靴たちがシクシクと泣き出したの。もうおしまいだ、みんなもうダメだって、口々につぶやくの。あたし、怖かったわ。
 だからあたしは、車の助手席で、幸せを噛み締めていたの。
 パパさんの気持ちに応えてみせる。そう、あたしを履いてくれる人に一生懸命尽くしていこうって、心に誓ったの。きっと、あたしの左側のかたっぽも同じ気持ちだろうなって思っていたわ。もうかたっぽは、あたしが話しかけても何にも答えないから、気味の悪い娘ね、とは思っていたけれど。

「誕生日おめでとう。みか、何歳になったの?」
「みかねえ、もう五さい」
「あはは、もう、だなんて面白いこと言うなあ、みかったら」
 パパさんとママさん、そしてあたしのご主人様の名前はみかちゃんというのね、三人はとても幸せそう。あたしはパパさんの後ろ、ラッピングの中で息をひそめて待っている。
「ハッピーバースデー、ディア、みーかー」
 歌が終わって、
「ふー!」
 これは、ろうそくを吹き消した音ね。
 さあ、あたしの出番。
「みか、プレゼントだよ」
 パパさんがあたしを持ち上げる。
 あたしは、シャンと胸を張って、袋が開くそのときを待ち構える。
 ガサ、ゴソ。
 いよいよね……!
「わあ!」
 みかちゃんは、目を輝かせた。まあ、みかちゃんはなんて可愛らしい子なのかしら。おかっぱ頭にまんまるの瞳。まるでお人形さんみたい。
「かわいいサンダル!」
 みかちゃんは飛び上がって喜んでいたわ。
「いいの? はいても、いいの?」
「ああ、いいとも」
 パパさんも、笑顔いっぱいのみかちゃんを見て、うれしそう。
「ちょっとあなた、家の中よ」
 そう言いながらも、ママさんもにっこり。あら、ママさんも綺麗な人ね。お似合いの夫婦に、お人形のような娘。あたしも、このすてきな家族の一員になれるのね。
「どう、似合う?」
 みかちゃんはあたしを履いて、スカートのすそをちょっとつまんで、おしゃまにポーズ。
「ああ、とってもよく似合うよ」
「かわいいわね。赤いリボンが、みかにぴったり」
 そりゃそうよ!
「そりゃそうよ!」
 あら、あたしとみかちゃん、気が合うみたいね。ハモッちゃったわ。なんだか、うまくやっていけそうな予感。あたし、ここに来る事ができて本当に幸せ。

 ちょっと、そこのコイ!
 いいかげんにしないと、大声出すわよ
。  ああ、だいぶ流されたわね。どのくらいの時間がたったかしら。この川、けっこう流れが速いから、早く見つけてもらわないと困るわ。パパさん、ママさん、何をやっているのかしら。
 みかちゃんは、大丈夫かしら。
 きっと、大丈夫よね
。  あたし、がんばったんだから。
 でも、もう少し早くあたしが気付いていれば……。
 日曜日の今日、みかちゃんの家族はドライブに出かけたの。みかちゃんはあたしを履いてご機嫌だったわ。車は町を抜けて、芽吹いたばかりの緑に輝く林へと進んでいった。五月のすがすがしい風は、みんなの心を軽やかに躍らせる。自然と笑顔が浮かんできて、みんなで歌までうたっちゃったわ。
 途中、みかちゃんが声をあげたの。
「あっ、ちょっと停まって!」
走っている車からはほんの一瞬でしかわからない景色の切れ間に、みかちゃんはその川を見つけたの。
 木々の間を弓なりに曲がって流れる川は、穏やかな陽の光を浴びて黄金色に輝いて、まるで精霊達の、秘密の遊び場のようだった。パパさんもママさんもその不思議な空間に見とれて、はっ、と一瞬息を呑んだわ。
「あたし、あそこで川遊びがしたいな」
 みかちゃんが、頼むと、お父さんはうなずいて、車を道の脇に寄せた。あたしは、みかちゃんの心が手にとるようにわかったわ。新しいサンダルを履いて、この綺麗な川に足を入れてみたかったのね。サンダルっていったら、水場の履物ですからね。あたしとしては、赤いリボンが水に濡れるのはちょっと嫌だったけれど、でも気持ちよさそうだから大賛成。みかちゃんの足元で、はやくはやく、ってはしゃいじゃった。
 みかちゃんは、ママさんに手を引かれて砂利を歩いていって、キラキラ輝くせせらぎにそっと足を入れた。まずはあたしの右足からお先に失礼。
 つめたーい!
「つめたーい!」
 あたしとみかちゃんは思わず飛び上がったわ。でも、気持ちよかった! みかちゃんは何度も足を出したり引いたり、その度にキャーキャー言っていたわ。
「ここで、お昼にしましょうか」
 ママさんが、そう言いながら車に戻っていったの。パパさんは、車の中でお昼寝中。
 みかちゃんが、川に一人、残されたわ。
 ほんのいたずらのつもりだったんでしょうね。みかちゃんが、川の中に両足を入れたの。
 あたしは、危ないからやめよう、って言ったわ。でも、みかちゃんはどんどん進んで、ひざの深さまで入ってしまった。
 大丈夫、いざというときはあたしがみかちゃんを助けるわ。あたしは、そう心に決めた。
 その時だった。
 ウケケケケケ。
 へんな笑い声がしたの。
 驚いて周りを見たら、ぞっとしたわ。
 あたしとつがいのもうかたっぽが、笑っていたの。ウケケケケって、あんなに気味の悪い声をはじめて聞いたわ。
 ちょっとあんた、いきなりなんなのよ。
 あたしが話しかけても笑うばかり
。  ウケケケケ。
 ウケケケケ……殺してやる!
 あっと思ったその時には、もうかたっぽのサンダルがみるみるうちに形を変えて、濃い紫色の、人間の手になっていた。その手が、みかちゃんの足首を握り締めていた。
 殺してやる!
 その手は、川のまんなかへ、まんなかへとみかちゃんを引っ張っていってしまう。
 みかちゃん、戻って!
 あたしはみかちゃんに向かって叫びつづけた。みかちゃんも、何かがおかしいことに気がついた。
「ママ、ママ!」
 みかちゃんは声をあげる。
「パパ、助けてパパ!」
 でも、引っ張る手の力が強すぎる。もうみかちゃんは腰まで流れに浸かっている。
 あたしは、決断したの。
 えいっ、とみかちゃんの足を持ち上げて、岸に向かって突き飛ばした。みかちゃんの体はふわりと宙に浮いた。パパさんとママさんがこっちへ駆け寄ってくる姿が、あたしにも見えた。
 殺してやる!
 手が、みかちゃんの足首を離さない。みかちゃんはもう一度川の中へと引き戻されてしまう。
 その手を、離しなさい!
 あたしはみかちゃんの足をスルリと抜けて、そいつに向かって飛びついた。思いっきり蹴っ飛ばしてやったわ。そしたらね、そいつは力を緩めたの。もう一発、と目いっぱいひっぱたいてやったら、やっと手を離したわ。
 手を離したら、またもとのサンダルの姿に戻っていた。そして、反対側の岸辺へと、勢いよく飛んでいった。あたしはそれを見て、これでみかちゃんは助かったのね、と安心したわ。
 でも、そのかわりにあたしは川の中へ。そのまま流されてしまったってわけ。

 ちょっと、今度はなに?
 うわ、カエル? 気持ち悪い!
 ……もう夕暮れね。さすがにこんなに流されちゃったら、見つけようがないわね。
 悲しいな。
みかちゃん、大丈夫かな。
 でも、平気。あたしよりも、もうかたっぽのほうがよっぽどかわいそう。だって、今考えれば、あの子なにか悪いものにとりつかれていたんだわ。ほら、もとから無口だったしさ。気の弱い子は、霊とかよくないものが憑依しやすいって言うじゃない? あたし、そういうことには詳しいの。
 あ、もしかしたらあたしと出会ったときにはもう何かにとりつかれていたのかも。それもありうるわね、工場の職人に、変な事でもされたのかしら。嫌な事でも言われたのかしら。かわいそうだわ、もうかたっぽは。
 うん、他人の不幸を考えたら元気が出てきた。それに、あたしは、みかちゃんの役に立てたんだもの。後悔なんてしないわ。よし、ここはひとつ気分を切り替えて、川下りを楽しむことにしますか、前向きに。
 でも、そこのカエル!
 たのむからあたしについてこないで!

 あれから三日。
 川の幅が広くなったわね。
 あたしも流されることにだいぶなれてきたわ。フワフワ、ユラユラ。悪くないものね。
 あら? 前のほうから何かがやってくる。
 あれは、船ね。
 タグボートだわ。うふ、よく知っているでしょ? だって、あたしは輸入ものだもの。船便経験ありよ。え、どこで作られたかって? メイドイン、どこってこと? それは聞かない約束よ。
 なんとなく好奇心で、あたしはタグボートに引っかかってみた。後ろに木材を並べた筏を引っ張っていて、そこでおじさんが二人、ラジオを聞きながら昼御飯を食べている。
「なあ、ヨシさん。この弁当、まずいなあ」
「うん、マサさん、マズイよマズイ」
「ここの弁当は、いつもまずいよなあ」
「うん、マズイよマズイ」
 なに、この人たち。つまらない会話しているわねえ。でも、そう言っているわりには、おいしそうに食べてんじゃないの。
 のどかねえ。
 こういうのも、悪くないわ。
 おじさんたちは、食事が終わると木材の上でゴロリと横になって昼寝をはじめてしまった。
あたしも、なんだか眠くなってくる。
 トットットッ、というエンジン音に、ラジオの声が相槌を打つ。
「……異常気象関連のニュースは、また後ほどお送りいたします。では、各地のニュースです」
 お日様をうけて、リボンがゆっくりと乾いてゆく。ああ眠い。
「……で、現在調査をすすめております。では次のニュースです。隅田川上流の毛呂川で行方がわからなくなった、町谷みかちゃんの捜索は、依然難航しております」
 え?
 あたしは、途端に目が覚めた。
「ああ、このニュースなあ、ヨシさん」
 おじさんが体を起こして話し始める。
「俺のマゴもなあ、同い年なんだよ、五歳でさ、かわいいのかわいくないのって。でもなあ、このニュースの子、かわいそうに、誘拐なんだってよお」
「うん、マサさん、ツライねツライ」
 誘拐って? どういうこと?
「なんでもよお、この、みかちゃんて子の両親が見たときにはよう、はじめは川におぼれているかと思ったんだってよう。そしたらさヨシさん、手が見えたっていうじゃねえか。両親が見ている前でよう、堂々と誘拐するなんざなあ、ヨシさん」
「うん、ツライねツライ」
 ちょっと、ちがうの!
 あれは、人の手じゃないの!
 しかも、あたしがやっつけたんだから。みかちゃんから離れていくところを、ちゃんと見てたんだから!
「最近そんなの多いな。気味悪いっつーか、わけわかんねえっつーか」
「うん、多いね多い」
 どうしよう、こうしちゃいられないわ。
 誰かに伝えないと。みかちゃんが、川におぼれているってこと、知らせないと。ああ、こうしている間でも、どこかの川べりでみかちゃんが泣いているかもしれない。震えているかもしれない。どこかの川の底で引っかかっているかも……。
 いや、そんなこと考えるもんじゃないわ。大丈夫、みかちゃんは大丈夫。だって、そうじゃないと、あたしががんばった意味がないじゃない。
 誰かにあたしを見つけてもらわないと。
 あたしは、きっと重要な手がかりになるはず。そう、あたしはみかちゃんのお気に入りのサンダルなのよ。  あたしは、ここを離れることにした。
 さよなら、おじさんたち。あなたたちじゃ、役不足。あたしはもっと勘のよさそうな人に拾ってもらって、そして警察に行くわ。パパさんとママさんにも会って、あたしが見たことを全部話してあげるの。
 誘拐だなんて、勘違いもいいとこだわ!
 あたしは、タグボートを蹴って、また下流のほうへと流れていった。

 あ、あそこに人が。
 おーい、拾って! あたしを拾って!
 ……待った、今のなし!
 拾わないで、拾わないで、あああ!

 あたしは、拾われてしまった。
 よりによって、ホームレスなんかに。
 髪の毛はボサボサ、ボロボロでズタズタの服。歯はまっ黄色で、垢と皺でぐしゃぐしゃの顔。住んでいるところは川沿いの遊歩道の、ダンボール村。
 ちょっとあんた、あんたじゃあたしがみかちゃんの手がかりだなんて、逆立ちしたってわからないでしょうよ。さっさと、あたしを川へ戻しなさいよ!
 でも思い虚しく、あたしはホームレスと一緒に、ダンボール小屋の中へ。
 もう、こんなところで時間を潰している暇はないんだから!

 その夜のこと。
 ちょ、ちょっと、何すんのよ!
 そのホームレスは、あたしを胸に抱えると、シクシクと泣き始めてしまった。あんまりきつく握り締めるもんだから、自慢の赤いリボンが緩んでしまう。
「ユリ……ユリ……」
 この人は、そうつぶやきながら、一晩中泣きつづけていた。

 この人に拾われて、何ヶ月が過ぎたんだろう。あたしは、みかちゃんの真相を伝えなくてはいけないのに。  でも、この人はかわいそう。毎日、毎日、あたしを抱いて泣いているの。赤いリボンは、この人の涙で渇く暇もないくらい。
 この人は、本当にかわいそう。
 前に、泣きながらこんなことを言っていたわ。
「ユリ……、お父さんがいけなかったんだ。お父さんが、ドライブに行こうなんて言わなければ。あの時、あんなところを走ってなければ。よりによって、居眠り運転なんかしてしまって! ああ、何で俺が死ななかったんだ、なんでユリだけ、なんで、なんで……! 全部オレが悪いんだ、全部……」
 こうして、自分を責めつづけているの。あんまりかわいそうで、川に戻してくれって言いにくくなっちゃうじゃないの。
 あたしは、この人の慰めになっているのかしら。
 この人の悲しみに、終わりは来るのかしら。

 この人がつけっぱなしにしているボロラジオを一日中聞かされているおかげで、だいぶいろいろなことがわかってきたわ。最近のニュースは、もっぱらこれ。
「地軸の反転は、もはや決定的という報告が、世界地質委員会から出されました。なお、地軸の反転から起こる被害についてはさまざまな憶測を呼んでおりますが、世界地質委員会からの公式なコメントによりますと、現在調査段階につき、いたずらに騒ぎを大きくするのは大変危険かつ遺憾である、とのことです」
 難しいことはちょっとわからないけれど、なにか世の中は大騒ぎみたい。あと、こんなニュースも。
「日本各地で、奇妙な現象が目撃されております。カッパを見た、天狗に追われた、墓から魍魎が出てきた、などです。異常気象による混乱が一種の集団幻覚を生み出していると、全日本カウンセラー協会理事長の坂本氏が政府機関を通じて発言しております。そのような幻覚を体感した方は、最寄りのカウンセリング・メディシンに足を運ぶように、とのことです」
 人間って、バカね。これだけ一緒にいながら、まだわかってないのね。
 まあ、それはいいわ。不満なのは、みかちゃんのニュースがちっとも出てこないこと。もう、警察はなにをやってんのかしら。パパさんとママさんは、今ごろどうしているのかしら。みかちゃんは、どこにいるのかしら。

 最近、外はずっと雨みたい。
 風も強くなるばかり。風雨に乗って、いろいろな叫び声が聞こえる。悲しい鳴き声も聞こえる。怖いわ、あたし、とても。

 いつにも増して、雨が強い晩。
 おじさん、とうとうおかしくなっちゃったの。
「アハハハ、そうだ、みんな死んでしまえ! 世界の終わりだ、アハハハ、アーッハッハッハ! 神よ、怒れる神々よ! 愚かな人間に罰を与えたまえ! 人間どもを滅ぼしてしまえ! アハハハ! そして神よ、どうか、一番先に、俺を殺してくれ! 誰よりも愚かな、この俺を! ガハハハハ!」
 しばらく暴れていたかと思うと、ふと真顔に戻って、あたしを見つめた。
「ユリ、もうすぐお父さんもそっちに行くからね」
 そして、嵐の中へと走り去っていった。
 ちょっと、あたしをおいてかないでよ!
 でも、それきりおじさんは戻ってくることはなかった。

 ラジオの音が小さくなってきた。
 きっと電池が切れかかっているのね。
「みなさん、世界地質委員会は、この嵐は地軸の反転とは無関係だとの公式発表をしております。各地で暴動、パニックが起こっておりますが、理性を保ち、冷静な判断を……」

 強い風が吹いた。
 強い、強い風だったわ。
 ダンボール小屋なんて、あっという間に吹き飛ばされちゃった。ラジオも何もかも一緒に。もちろん、あたしも。
 運が良かったの。
あたしは川の中に落っこちたわ。
 これで、また別の場所に行けるのね。
 今からでも、きっと遅くないわ。みかちゃんのために、あたしは誰かに拾われるのよ。伝えなくちゃならないこと、沢山あるんだから。もう、なんべんも頭の中で繰り返しているの。みかちゃんは誘拐じゃないのよ、みかちゃんはどこかで助けを待っているのよ。だからお願い、川のまわりを、川の中を捜してって。
言わなくちゃいけないの、あたしが。
 誰か、あたしを拾って。


 誰か、あたしに気がついて……。

 雪が降っているのね、今日も。
 もう、あたし、疲れちゃった。
 誰一人通らない。
 誰の姿も、見ないの。
 あの強い風の日以来、一人も見ていないわ。
 みんな死んじゃったのかしら。
 あのホームレスのおじさんの言っていたとおり、世界の終わりが来てしまったのかしら。
 あたしは、この凍った川の橋の下で、雪を避けてじっとしているのが精一杯。もう、流されることも出来ないわ。
 ごめんね、みかちゃん。
 あたし、どうすることもできないわ。


 夢を、見たの。
 夢の中であたしは、自分で歩く事が出来たわ。
 不思議ね、あたしは、そのことを「すてき」とか「最高」とか、ちっとも考えなかったわ。歩けることに気付いたその途端に、あたしは、みかちゃんを探しに川の上流を目指していた。
嵐は止んでいたわ。けれど、空は鉛色。そしてなにより、雪道は歩くのが大変。もともとサンダルは、雪を歩くようには出来ていないって事が身にしみてわかったわ。ツルツルすべって、もう嫌になっちゃう。
 途中、雪に埋もれたダンボール小屋を見つけたの。そしたら、中から、あのホームレスのおじさんが出てきたわ。相変わらずの汚い身なりだったけれど、いっぱいに笑顔を浮かべていた。そういえば、おじさんの笑顔を見るのは、これが初めて。
おじさんは、あたしに気がついて、深々と頭を下げるの。あたしもおじさんに、靴を鳴らせて挨拶を返した。そしたらね、おじさんの、ボロボロのコートの襟元から、小さな子供がひょっこりと顔を出したの。頭も顔も、ぐるぐるの包帯巻きで、鼻と口から管が出ていて。その子は、やっぱり包帯を巻かれた細い腕を出して、あたしを指差した。そして、こう言うの。
「あのサンダル、欲しい」
 ふと気がつくと、おじさんは、スーツ姿で、ヒゲもきちんと剃って、きれいな格好になっていたわ。おじさんは、抱いていた子供を胸から下ろすと、ゆっくりとその子の包帯をほどき始めた。
「だめだよ、ユリ。あのサンダルさんはね、大事な用があるんだ」
 包帯をほどいていくと、中から女の子が出てきたわ。小麦色の肌をした、元気いっぱいの女の子。女の子は、短い髪を左右に振って、駄々をこねるの。
「いや。あたし、あのサンダルじゃなきゃ、いや」
 おじさんは、女の子の頭を優しく撫でて、にっこり笑った。
「ユリ。あのサンダルさんは、とっても急いでいるんだ。だからユリ、そんなことを言って困らせてはいけないよ」
「でも……」
 女の子はふくれっつら。するとおじさんは、女の子の背の高さまで腰をかがめて、不満げな目をのぞきこみながら、ふくれた頬を大きな手でそっと押した。女の子の口から、溜めていた息がぷしゅうと音をたてて漏れた。女の子は、思わず笑ってしまった。 
「じゃあユリ、新しいサンダルを買いに行こう」
「ほんとに?」
「ああ、本当さ」
「車に乗っていく?」
「いいや、歩いていこう。時間は、たくさんあるからね」
「お母さんも一緒?」
「ああ、一緒さ」
 いつのまにか、おじさんの横に、女の子によく似た顔の、女の人が立っていた。
「じゃあ、行こうか」
「うん!」
 女の子は、おじさんと女の人と両手をつないだ。三人とも、とても幸せそう。そして三人は、川の下流へと歩き始めた。
 しばらくして、おじさんが振り返った。遠くて声は聞き取れなかったけれど、ありがとう、って言っていたんだと思う。女の人も、ゆっくりとお上品にお辞儀をしてくれた。女の子は、大きく手を振ってくれたわ。
 あの三人が小さくなるまで見送ってから、あたしはまた上流を目指しはじめた。
 上流に行くにしたがって、だんだんと、雪が解け始めてきたわ。氷が溶けて、川には流れが生まれ始める。
もっと進むと、青い空が見えてきて、小鳥たちがさえずりながら空を飛び、魚たちもせせらぎに顔を見せたりした。
 サァーッと、すがすがしい風が吹き抜けた。この風、あたしにはピンときたわ。そう、みかちゃんと水遊びをした日の、あの風。もうすぐあの場所にたどりつくんだって、あたしはわかったわ。
 でも、ないの。川が、プッツリと、なくなっちゃったの。急に森になってるのよ、そんなことがあるわけないじゃない? もうちょっとでみかちゃんを探し出せるところまで来ているっていうのに、こんなのあんまりでしょ?
 あたしは、悲しいっていうよりも、腹が立ってきたの。なんでこんなことするの、って。誰だか知らないけれど、いい加減にしないと本当に怒るわよって、空に向かって叫んでやったわ。
 その時気がついたの。頭の上の、木の枝に、あたしのもうかたっぽ、左側のサンダルがひっかかっているのを。
 もうかたっぽは、あたしに話しかけてきたわ。
「あなた、なんでそんなに人間にこだわるの? あの家族だって、たった数日しかいっしょにいなかったじゃない。なんでそんなに、みかちゃんにこだわるの?」
 何を勝手なことを言うのって、怒鳴ってやったわ。あんたがみかちゃんを川に引きずり込もうなんてしなければ、こんな面倒なことにはならなかったでしょうに。全部あんたのせいよ、ああ、ちょっとでもあんたのことをかわいそうだなんて思って、損した!
 すると、もうかたっぽは、フンと鼻で笑った。
「あなたはなにもわかってないのね。人間は、こだわるほどのものじゃないわ」
 ちょっとあんた、何言ってんのよバカじゃないの? あたしはサンダル、あんたもサンダル、ひとに作られて、ひとに履かれるものじゃないの。こだわるとかこだわんないとか、考えるほうがおかしいわ!
「じゃああなたは、所詮履物として生まれた自分を呪いもせずに、その酷い扱いを疑いもせずに、ただ人間に尽くしていくことが出来るっていうの?」
 とことんバカね。そういう理屈を考えること自体がナンセンスだわ。気持ち悪くなっちゃうくらい、卑屈だわ。どこで吹き込まれたの、そんなこと。そんなこと教える奴、ろくなもんじゃないわ。はやいとこ別れちゃいなさい。
あたしはサンダルに生まれて、楽しいわ。それでいいじゃない。サンダルなりに、あたしなりに、楽しくやっていければ、それでいいじゃない。それを何よ、人間人間って。あんた、人間にでもなりたいっていうの? あたしはまっぴらごめんだけどね。だってあたし、サンダルって気に入ってるし。
「……いつか、人間に捨てられる日が来るとしても?」
 その時はその時よ。今から考えていたって、しようがないでしょう。そういうの、暗いわ。
「……うふふ。うふふふ」
 ちょっとあんた、何笑ってんのよ。バカにしてんの?
「ふふふ。あなた、変わっているわね」
 何よ、あんたのほうがよっぽど変わっているわよ。悪い意味で!
そんなことどうでもいいから、はやくみかちゃんに会わせなさいよ。みかちゃん、きっと待ってる。心細い思いしてる。だから、はやく! あんた、みかちゃんの居場所、知ってるんでしょ? 心当たりくらいは、あるんでしょ?
「ふふふ。うふふふふ……」
 ちょっと、こたえなさいよ!
 あたしがいくら呼びかけても、そのあとは笑うばかり。あたりに雲が立ち込めて、木々の葉が枯れて、落ちる。そして、雪が降り始めた。
 寒い。寒いわ。
 みかちゃん、近くにいるんでしょ? ねえ、みかちゃん。
 お願い、返事をして、みかちゃん。
 ねえ! みかちゃーん!
 そこで、目が覚めた。
 長い、長い夢だったわ。
 ああ、ひどい雪ね。そして、とても寒い。体中、凍ってしまったわ。もう、ダメね。みんなみんな、おしまいね、……あたしも……。
 みかちゃん、ごめんね。あたし、夢の中でさえも、みかちゃんを探し出してあげられなった。
ごめんね、みかちゃん。
 あたし、もう疲れたわ。


 だれ?
 あたしを起こすのは、だれ?
「あったあ」
 半分、雪に埋まっていたあたしは、誰かに掘り返された。
 目がかすんで、よく見えないわ。
 あなたは、誰?
 長い黒髪で、透き通るように色が白くて、すごく痩せていて、けれども目がクリクリとお人形さんみたいで。
こんなに寒いのに、服がボロボロじゃないの。手や足が、こごえて真っ赤になっているわ。
 あなたは、誰なの?
「あったあ。あたしのサンダル。あたしのだいじなだいじなサンダル、やっと見つけたあ。ずっと探してたんだからね。でも、こんなところに、あったあ」
 その人は、あたしを胸の中に抱きかかえた。
「パパもね、ママもね、いないの。だから、サンダルさんを探せば、パパとママが見つかると思ったの。ねえ、だから、サンダルさん、教えて。みかのパパとママはどこにいるの?」
 ああ、あなたは、あなたは!
 みかちゃんなのね?
 みかちゃんなのね!
 こんなに大きくなって。
こんなに長い時間を、一人でがんばってきたの?
 ずっとずっと、一人で、生きてきたの?
 つらかったね、つらかったね。
「ねえ、サンダルさん。パパとママは、どこにいるの?」
 ごめんねみかちゃん。
 もっとはやく、あたしが役に立っていれば、パパとママとも離れ離れにならないで済んだのに。ごめんね、みかちゃん。
「ねえサンダルさん。サンダルさんったら」
 ごめんね、みかちゃん。
 あたし、もう、くたびれちゃったの。
 でも、会えてうれしかった。
 探してくれて、ありがとう。
「ねえ、サンダルさんったら」
 あたしは、みかちゃんの手の中で崩れ落ちていった。さらさらと粉になって、風と、雪と一緒に、みかちゃんのまわりを舞った。

「わあ、きれい」

 みかちゃんの手のひらには、あたしの赤いリボンがしっかりと握り締められていた。あたしは、いつまでもいつまでも、みかちゃんのまわりを舞いつづけていた。大人になったみかちゃんを、少しでも長く、見ていたかったから。            
【了】


      おしまい


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