クリ子の恍惚
[kuriko no koukotsu]
原稿用紙換算6枚



 吸い込まれてゆく。
 フワァッと、こう、心地よい感じ。
 ああ、もうどうにでもしてくれ……。

 で、そこで我に返った。
「吉祥寺〜、きちじょうじ〜」
 電車が滑り込んできて、目の前で扉が開く。
 クリ子は、毎度同じような感覚に襲われる。それは、電車がホームに入ってくるときに感じる、吸い込まれるような気持ちである。ホームのへりから一段下がったレールの上を、すーっと近づいてくる電車。はじめ小さく見えた電車はやがて大きくなってくる。音も大きくなってくる。自分は、それを見ている。迫ってくる、迫ってくる。

 ああ、目の前に来る。

 ああ、ああ……。

 別に、クリ子は異常者ではないし、自殺願望があるわけでもない。ただ、孟スピードで進入してくるあの鉄の塊が、異常なまでの引力を発しているように思えるのである。断崖の上に一人立ってはるか下方で打ち付ける波を見ていたら目の前を突風が駆け抜けていく、そんな感じ。
「そういうことって、ない?」
 あるとき、こう友人に訪ねたことがある。
「あるけどさ。クリ子のその形容の仕方は、一種、マニア入ってるよね。」
 そういわれて、少しムッとしたが、同時に(なるほど、これがマニアってものか)と納得したりもした。

 クリ子は、いずれ自分は発作的に電車に身を投じて死んでしまうのではないか、とわが身を案ずる。でも、会社に通うからには電車には毎日に乗らなければいけない。足がわりになってくれるような素敵な彼氏も残念ながらいないし、それだけのために彼氏を作ろうという気力も容姿もない。
(きっと私は、仕事で疲れているんだわ)
 今までのところ、クリ子はそう解釈している。
 しかし、感じるのだ。この電車に吸い込まれたい、身を任せてみたい、そんな恍惚感が日に日に高まっていることを。同時に、これじゃいかんな、という常識も持ち合わせている。でも、こんなことを相談してもみんなから変態扱いされそうなので、口にしにくい。悪循環なのである。

 飛び込み衝動をこらえて、この日も普段通り車内に乗り込んだ。発車してすぐに、電車マニアであろうカメラを持った青年が、シャッターチャンスをうかがって構えているのが窓越しに見えた。
 昔のクリ子なら、この手の趣味を持った人種は生理的に嫌っていたはずである。なんか「マニア」だし、気持ち悪い。
 しかし今日のクリ子は閃きを感じた。彼女は瞬間、(これだ!)と思った。

 その日、会社を定時で飛び出したクリ子は秋葉原で途中下車した。今まで、こんなごみごみとした駅で降りる人の気が知れないと内心思っていた彼女ではあるが、やはり電気製品ならこの町で間違いはないだろうと深層心理の固定概念が彼女を奮起させる。改札を出ると、クリ子ははじめに目に飛び込んできたカメラ屋へと走った。店員をとっ捕まえて、財布の中身を見せて選ばせて、ものの五分でペンタックスのミニカメラを持ちレジに並んでいた。ちょっと奮発して、ズームつきのやつにした。カメラを買った後でフィルムのことを思い出し、さっきの店員を叫んで探してまた選ばせて、ついでにフィルムをセットしてもらった。

 ああ、血が騒ぐ! 歩く足が震える!
はじめは(今週の日曜日でも)と思っていたが、いざ手にしてみるといてもたってもいられない。すぐに実行したくてたまらない。
 目標を決めた。秋葉原駅の、総武線だ!
 彼女の目が血走っている。

 彼女は開き直った。
 彼女は、電車の入ってくる様を写真に納めて、この恍惚感を家に持ち帰ろうと思ったのである。
 結局この日は終電まで撮っていた。
 終電をも撮っていたので、帰る電車がなくなりタクシーで帰る羽目になった。

 それからクリ子は、毎日、朝・夕と写真を撮りまくった。
 しかし、なかなかあの独特の恍惚感を、写真の中で再現できない。クリ子はどうしてもそれが撮りたかった。納得のいくそれを撮って、定期入れの中に入れて持ち歩くことが彼女の夢であった。彼女はその夢を実現するべく、山手線、新幹線、東武東上線と被写体を変えてみたり、雨の日、風の日、嵐の日と環境を変えてみたりした。
 何人かの電車マニア達とも、自然と知り合いになった。話してみると、なかなか気さくな人たちばかりである。何よりも、クリ子の恍惚感を、手をたたいて同感してくれるのがうれしい。
 そういうマニアたちの助言もあって、クリ子はカメラを買い替えた。今度は、一眼レフである。連射のきく奴である。クリ子の月給の二カ月分もしたが、それでもクリ子は満足げである。

 苦労と投資の甲斐もあり、しばらく後にクリ子はやや満足のゆく一枚を撮った。

 それは北総公団線をモデルにしている。
 いかつい顔の銀色のボディーが夕焼けに輝きつつ、品川駅のカーブのきいた上りのホームに滑り込んでくるところだ。シャッタースピードを遅くしてあるので、流れるように残像を引いている。実はこれ、ホームから目一杯手を伸ばしてレール側から撮った写真なので、電車をより正面から捕えていて、迫力と重量感を演出している。撮った直後危うく体ごと落っこちそうになり、駅員にこっぴどく叱られたが、クリ子はもはやちっとも動じない。


 この写真を知り合いのマニアに見せたら、飛び上がって驚いた。
「すごいよ、クリ子さんすごいよ!」
 しかし、クリ子は満足していない。
(ちがうわ。まだなにかが違う。思わず写真の中のに吸い込まれてしまうような感覚が……)
 クリ子は、更なる努力を開始した。

 一方、クリ子の知らぬところで、この北総公団線の写真はすごい反響を呼んでいた。口込みで噂が広がり、インターネットで流され、電車雑誌、写真雑誌も取り上げた。
『謎の新人カメラマン・クリコ』と、名前と電車写真が独り歩きを始めている。



 そんなことはお構いなしに、スーツ姿でクリ子は今日も撮り続ける。
 時間なんて、「外まわりに行ってきます」とか「おつかいで〜す」と、魔法をひとつ唱えれば、いくらでも作れる。
今日の被写体は、八高線だ。
(ディーゼルエンジンの迫力を、私に見せてご覧!)などと、心の中で叫んでいる。
 そう、彼女の夢を満たすために。
『いい写真を撮って、定期入れに入れたい』という大きな大きな夢のために……。

 おしまい


CHUCOM表紙に戻る