アットホーム




 目を覚ますと、妻と娘が私を覗き込んでいた。
「ウフフフ」
 娘の舞子が、私の右肩にもたれて笑っている。窓から差し込む五月の朝のやわらかな光が、舞子を包み込んでいる。照らされて白く、透明に輝くその姿はまるで……そう、天使、のようだ。フフフ、小学校六年生の娘を『天使』と形容するのは少々親バカが過ぎるかもしれない。でも心の中で個人的に思うくらいは許されるだろう。
 妻も、ベッドの左側から私の顔を見て微笑んでいる。私の左手のひらを、ふっくらとした彼女の両手でそっと包んでいる。私は左手を軽く握ってそれに答えた。妻は照れくさそうに目を逸らしながらも、さらに握り返す両手で私の愛情に答える。
 幸せだ。なにもかも、幸せだ。
 毛布から右手を出して、舞子の長い髪を撫でた。
「ウフフフ」
 舞子は無邪気に笑っている。

 もう、私にはわかっている。
 残念だが、仕方がない。
――私は目覚めていない。
 つまり、これは夢の中の朝なのだ。

妻と舞子が、私の目覚めをこんなに暖かく迎えてくれるはずがない。たとえ私が大病を患うなり不慮の大事故に見舞われるなりして瀕死の床で目を覚まそうとも、現実のこいつらが私を心配し、優しく見守ってくれるとは到底思えない。
舞子はまだ六年生だというのに、年頃を気取って私とは口をきかない。目も合わさない。私の後の風呂をかたくなに拒絶する。私とすれ違うとき、私の残り香を吸い込まないように息を止めている。
妻は、美智子と名前で呼ぶと振り向かない。いや、どういう呼び方であろうと決して反応しない。つまり、私の声は耳に入らない。用事があれば、テーブルの上にメモを残して私に読ませる。「本日帰りがけに牛乳を買ってくる」とか「靴下は玄関で脱げ、外の水道で足を洗ってから家に上がれ」などと、必要最低限の短い命令を乱雑な文章で私に与える。
私はそんな生活を望んではいない。
小さな頃はおぼろげに、恋をした頃はより明確に、胸の内で膨らませてきた、『理想の家庭像』。
親父は常に家族から尊敬され、一家の大黒柱たる威厳がある。妻は従順でよく気が利き、子供は明るく無邪気である。
それだけ。
望むことはたったそれだけなのに。
なんということだろう、願望とはあまりにも程遠い、いや、まったく逆の家庭が出来上がってしまった。
直視しがたい、私の現実。
現実は、むしろ悪夢。

「ウフフフ」
 舞子が私の顔を覗き込んで笑っている。
 そうだ、これが私の望む幸せな家庭だ。
 でもこれは夢。夢だとわかっているけれど、しかし覚めてしまうにはあまりにも惜しい世界じゃないか。このすばらしい夢を見続けていられるなら、寝過ごして会社に遅刻したってかまわない。なんなら一生、眠り続けたっていい。
(迷うものは、何も無いな)
 私は、しばらくこの世界を楽しむことにした。そう決めた。
 妻が、口を開く。
「グッドモーニン、ダーリン」
 続いて、舞子も言う。
「モーニン、パパ」
 なんだよ、と思う。せっかく夢の中なのだから、英語はやめて欲しいものだ。それにしても、私の想像力もたいしたことがない。暖かい家庭像、一家団欒のあり方、すなわちアメリカンなアットホーム、だから英語というわけか。英語なんて糞食らえなのに……!
 いやいや、腹を立てては台無しだ。
 これくらいは、我慢しよう。
 私は体を起こし、少々大胆ながら、妻と舞子の背中に手を回して私の胸の中へと招き入れた。さすが夢の中、普段なら許されようもないこの暴挙に、二人は素直に従ってくれる。
 妻が、私の胸の中でうっとりと目を閉じてこう言った。
「幸せ。私、本当に幸せよ」
 これも英語だった。でも、いい。こんなに従順な妻なら、普段の仕打ちも忘れて愛してやろうと思えてくる。あらためて妻の顔を見れば、ああ、もはや学生時代のウブで可憐な面影は欠片も残っていない。でも、夢の中の妻なら、私の記憶の奥底に眠っていた若かりし日の彼女を、変わり果てた今に容易に重ね合わせることができようものだ。するとどうだろう、切なく熱く、青春という名の風が、胸の奥で微かにそよぐ。そう、長いこと忘れていたが、確かに私は、妻を、この女性を愛していた。
「パパ、気分はどう?」
 舞子が英語で話しかけてきた。舞子も昔は可愛いかったものだ。長い黒髪がとてもよく似合っていたね。父さんは内心、舞子のあの美しい黒髪を誇りに思っていたんだ。でも、今では金髪。もったいないことをしたものだ。そして、父さんは悲しい。金髪は、舞子には似合わないんだ。もう一度、黒い髪の毛に戻してみるつもりはないのかい?
 いや、これは夢だ。つまらない説教をして、現実世界のクソ生意気な舞子がこちらに転移してきてもよろしくない。
 私は胸の中で二人の頭の温かさをゆっくりと味わってから、交互に髪の毛を二回撫でた。なんともいい感触なので、しつこいようだがさらに同時にもう一回撫でた。それから二人の肩に手を下ろし、次に、最高の笑顔を作ってから、ちょっとばかりキザな台詞を口にする。
「おはよう、愛する家族たち。もう朝かい? いつも起こしに来てくれて、ありがとう」
 もちろん、いつも起こしになんて来ちゃあくれない。でも、夢の中だから、そういう設定で話を進めたって……。
 ナヌ!
 待てよ、ちょっと待て。
今、私は英語を話してなかったか?
 ためしにもう一度声に出す。
「モーニン」
 違う! 私は「おはよう」と言いたいんだ。
「モーニン」
 何度試してもダメである。これは最悪だ。
「どうしたの、あなた?」
 妻が心配そうに言った。英語で。
 もう、いい。夢はおしまいだ。こんなことなら、現実世界のほうがまだマシだ。
「まったく、なんて夢だよ。オレが英語を話しているだなんて、いまいましい!」
 今のも英語だった。
 それを見ていた娘が、キャッキャと英語ではしゃぐ。
「アハハハハ! パパが英語しゃべってる! アハハハ!」
「うるさい、夢の中まで嫌な娘だ」と、英語で私。
 妻が英語で怒る。
「ちょっとあなた、舞子に何てこと言うの? それに、夢がどうとかこうとか……、ちょっとおかしいわよ!」  すると、妻が頬に両手を当てた。ハッと青ざめた。
「まさか……格安プランで頼んだから、もしかして、副作用が?」
 妻の言わんとしている事を察するまでに、しばらくかかった。ややあって、今度は私が青ざめる番だった。こちらもハッとして頬に両手を当て、輪郭を撫で、形を確かめる。いや、そんなことしなくても、手の肌色が違うことに気がつく。
白い。白人の、白だ。
「オーマイガッ!」
 なんと、叫び声までも英語風だ!
 ドカンと二人を突きとばしてベッドから飛び起き、ドアを開き、階段を駆け下り、廊下をすべりリビングを抜けて、洗面所に転がり込んだ。
 洗面台の電気のスイッチをつけて、そして鏡を……。
 が、焦った反面、心の準備ができていなかった。
「アアアアアア!」
 映し出された自分の姿を見て、私は絶叫し、悶絶し、気が遠くなった。薄れゆく意識の中で、私は願う。
 どうか、これが夢であってくれ。悪い夢を見たと、起きてから笑わせてくれ……。


 夢じゃなかった。
 気を失っていたのは数分だったらしい。
私はあまりの出来事に言葉を失っている。
呆然と朝御飯、もとい、パンとハムエッグのブレックファーストを口の中に押し込んでいる。
 舞子は、テーブルの向かい側からニヤニヤと私の顔を眺めつづけている。
「似合うよ〜、パパ〜」
 即興の自作英語歌まで口ずさむ始末。
 妻は、台所で片付け物をしながら背中越しに話す。さすがに私の落胆した顔は正視できないとみえる。
「あなた、ほんとに安かったのよ。いや、別にあなたの手術だから安くしようってわけじゃないのよ、これはホントよ。そう、安いって言っても、簡単にできる額じゃないんだからね。結構高いんだから。パパのために、あたしたちは欲しいもの我慢してあげてんだからね。ちょっとは感謝してよね。それにほら、意外と似合うと思わない? もう一度じっくりと自分の姿を鏡で見たら、少しは手術もよかったかなって見直すわよ。ちょっとあなた、何とか答えなさいよ。私だって、今、あなたが副作用とか起こさないかって不安なんだから。心配してあげてんのよ! ああ、でもこれでやっとご近所にも恥ずかしい思いをしなくて済むわ。ほら、舞子だって、学校で友達からパパのことで馬鹿にされたって、ねえ舞子、そう言ってたわよねえ?」
英語でまくし立てる妻の言い訳を、綺麗に聞き取れてしまう我が耳が情けない。今までも日常英会話、ビジネス英会話くらいなら理解できたが、今の感覚とはまるで違う。脳にマイクロチップでも埋めたか、人口脳細胞でも移植したか。実に、いまいましいほどに、すんなりと理解できる。英語を聞くにあたり、日本語文法の介入がまったくなくなってしまった。
 私は食事を途中で止めた。
「もう、行ってくる」
 私の口から、滑らかな英語が出てくる。
「あら、あなた、もう朝食はいいの? じゃあ、気をつけて行ってらっしゃいね」
 妻が振り返る。私と目が合うと、すぐにまた視線を流し台へと逸らせた。
「どれくらい、時間が過ぎたんだ、手術で」
 私は妻の背中に聞いた。
 妻が言いよどんでいると、舞子が代わりに答えた。英語で。
「三日だよ。三日」
「こら舞子、余計なこと言わなくていいの」 
 妻が諌めた。
「でもあなた、ちゃんと会社にも連絡とってあるわよ。ほら、課長さんも整形手術してる人でしょ? あなたも手術するって聞いたら、電話先で喜んでたわよ。どうぞどうぞって、有休とらせてくれたもの。これであなた、出世の近道になったんじゃないの? 出世したら、あたしのおかげだと思ってよね」
「舞子のおかげ、とも思ってよね」
 あああ! 
 こいつらを、訴えてやりたい!
 どういう罪状がつくだろうか? 名誉毀損、傷害、あ、公文書偽造なんてのもつくかな。本人の同意が皆無だもんな。
 でも、こいつらはお見通しなのだ。そんなことをしたら、恥をかくのはむしろ私の方だということを。そういう前例があることも、私だって知っている。
『亭主を眠らせて整形手術を施した妻の優しき心・亭主激怒で妻を起訴・妻の愛がバカ亭主には理解できず』  と、以前ワイドショーがもてはやしていた。
私からすれば、どう考えても悪いのは妻で、ガンバレ亭主としか思えないのだが。世間は、当然のように妻を応援した。なんと裁判所までも妻に軍配を上げて、哀れ亭主は妻に慰謝料を払う羽目になり、さらに離婚で一件落着。
 そういう、時代か。
 私はジャケットを羽織って、玄関に向かった。
 玄関の鏡に、自分の顔が映る。
(なんだ、この顔は……)
 髪は金髪。鼻が化け物じみて高い。ご丁寧にあごまで割れてやがる。
 そして青い目。この青い目が、私か。
(だれだ、お前は……)
 鏡の中で死にそうな面持ちの白人が力なく笑い、悲しげに眉をしかめて首を横に振った。
 足元を見れば、真新しいビックサイズの靴が。なるほど足までビックサイズに整形済み。他人の足のような感覚、慣れぬ動作でもたもたと靴をひっかけて、私は扉を出た。
「いってらっしゃい!」
 珍しく、妻と舞子が門まで出てきて、私を見送ってくれる。
 振り返って彼女たちを見れば、とうに整形手術の施された白人二人がそこにいた。美智子と舞子ではなく、ドロシーとメアリーって感じだ。
 とうとう私も、こいつらと同類というわけか……。



「いやあ、斎藤くん、よくぞ踏み切ったなあ。いやいや、なかなかよく似合っているよ。そうか、そうか、アハハハハ!」
 課長が私のデスクまでわざわざ足を運んで、満足そうに笑う。課長だけではなく、整形組が周りに集まって来て、私の顔を見ては褒め称えてくる。英語で。
「これで斎藤君との仕事もやりやすくなるなあ」
「その青い目がポイントですよね。あごも割ってもらったんだ、いいなあ」
「今ならオプションたくさんついて、値段も格安なんですよね。この時期まで待ったのは賢い選択でしたよ、斎藤さん」
 耳をふさぎたい。
 愛想笑いさえ浮かべることができない。
 ちらりと横目で、斜め後ろのデスクにいる木下さんを見た。
 木下さんは、首をねじって肩越しに、ギロリと私を睨み付けていた。
 そうだろう、そりゃそうだ。
 四日前の夜、私が日本人顔であった最後の日の会社帰り。五反田駅前のおでんの屋台で、木下さんと一杯やったのだ。
「この風潮は何とかならないものですかね、斎藤さん」
「まったく、腹立たしい限りですよ、木下さん。ほら、こんなしがない屋台の親父まで、白人顔ときたもんだ」
 少し悪酔いしていた私は、屋台の親父に悪態をついた。親父は緑色の目玉でギロリと私を見下ろしてくる。
「まあまあ斎藤さん。この親父さんも客商売だから、世間の流行には不本意でも合わせていかないと。ねえ、親父さん」
 木下さんの優しさに、親父は答えない。そのかわり、高くそびえ立つ鼻の頭をヒョッと親指ではじいて、小さな声で「シット」と言った。
 ムカーッ! と頭に血が昇らざるを得ない。
「なんだお前は! 白人顔になると客よりも偉くなるってのか!」
「まあ、まあ」
 拳を握って立ち上がる私を木下さんが静止した。
「まあ、いいじゃないですか。これも風潮ですよ」
「木下さん、さっきから聞いてれば、あんたまるで白人顔を弁護しているみたいな言い方じゃないですか。木下さん、まさか……」
 にこやかだった木下さんが真顔に戻り、大きく首を横にふった。
「とんでもない、とんでもないですよ! 私は、私の良心と、そして両親にかけて誓います。私は、整形なんてしません。両親からいただいたこの顔を、たかが風潮ごときで変えたりはいたしませんっ。たとえそれが原因で妻や息子たちが家を出て行こうとも、私は主義を曲げません。これが私の生き様です!」  木下さんが、低い鼻の大きな穴をさらに大きく広げて、きっぱりと言った。私はそんな木下さんを見て、男だ、と感動した。ジーンときた。
「……疑ったりしてすみませんでした。私だって同じ気持ちですとも。私たちは、世間の風潮がどう流れようとも、親からもらったこの日本人の顔、そして日本語を愛していきましょうね!」
「もちろんですとも! 日本人顔に乾杯!」
「日本語に、乾杯!」
 私たちは、杯を合わせて同士を誓った。
同士を誓った仲だったのに。
お互いが、心の支えであるはずだったのに。
その次の日から私は欠勤し、ぬけぬけと白人に変身してきたわけだ。家族にはめられた、などと、いまさら言い訳が通用するはずもない。そういう情けない亭主が世の中をダメにしているのだと、私たちは飲みながら常々話していたのだから。
木下さんの視線がつらい。
いきなり裏切られたとあっては、憎しみも激しいものだろう。
 ここ最近、整形組が急速に増え、今では部内の七割まで占めている。整形組は自分たちのことを自然人と称し、日本人顔のままの人を、侮蔑をこめて不自然人と呼ぶ。
「斎藤君、これでいよいよ、自然人の仲間入りだなあ」
 課長が英語でそう言いながらポンと私の背中を叩いた。
 ああ、苦しい。ああ辛い。もう、泣き出しそうだ。
 私は、精神の限界を悟った。
「気分が……、だから、早退を」
 口を開けば英語。ささやかな反抗心として、できるだけ少ない単語で告げた。
 課長が、今まで見せたこともないような優しさのこもった表情を浮かべた。
「うむ、うむ。手術で疲れているんだろう。今日はもう帰ってくれていいから。ご苦労だったね、家でゆっくり休んできなさい」
 私は即座にカバンを取って席を立った。逃げるように、いや、まさに逃げるために早足でその場から去ろうとする。
その時、背中越しに木下さんのつぶやく声を聞いた。
「この、裏切り者。ヤンキー、ゴーホーム」
 ズンと心臓が痛み、一瞬足が止まる。
 これ以上辛い言葉はない。
言い訳のできない自分が憎い。
ああ憎い。
 


 会社を飛び出したはいいが、行き先が思い当たらない。家には帰りたくない。かといって、こんな私を慰めてくれる友人もいない。
 呆然と街を歩くしかない。
(ハア……)
 一呼吸ごとに、ため息が重く、深く吐き出される。
(なんという時代だ。なんという世界だ)
 視界に入る通行人のほとんどが白人顔。たまに見かける日本人顔は、道の隅のほうを申し訳なさそうに歩く。
(私もそうだった。後ろめたいことなど何もないのに、白人顔の勝手な優越感に成す術がなかったから。時には、つばを吐きかけられたことも……)
 ショーウインドウに、自分の姿が映った。立ち止まってしげしげと眺める。背筋がピンと伸びていてスラッと背の高いハンサム白人、苦渋に満ちた顔だけが不自然。
(これが、私か。これに慣れろというのか)
 格好につりあう様な微笑みを試みた。
 次の瞬間、ブルリと悪寒が全身を走った。
(嫌だ、こんなのは自分じゃない、こんなものにならなきゃいけない理由が一つもない。表面を取り繕って、何が変わるというのだ。人種の誇りを捨てて欧米に迎合することが格好いいと本気で皆思っているのか。……そう考えるのはただの意地なのだろうか? むしろ私のほうが偏見の持ち主なのか? 時代に乗り遅れた者の偏屈でしかないのか? わからない、私にはわからない。……本当は人種の誇りなんてどうでもいいのかもしれない。でも、嫌なんだ。嫌な人が「嫌」を主張して何が悪いんだ。偏屈な人間が許されないなんて、あんまりじゃないか。そう、私は偏屈でよかったんだ。本来、父親は偏屈なものなんだ。偏屈こそ父親の威厳、愛すべき父親、そして私の理想の父親像、私の思い描く家庭像……)
 ドン、と通行人にぶつかって、よろめいた。
 あ、すいません、と反射的に言う。
「オウ、ソーリー」
 口から出てくるのは、滑らかな英語。
 ぶつかったのは金髪皮ジャン、まさにヤンキーの若い白人カップル。男がこちらを振り返り、私の顔をギロリと睨む。が、すぐに彼の顔に笑顔が浮かんだ。
「気にすんなよ。ダンディなおっさん!」
 親指を立てて、英語で言った。連れの女も、同様に親指を立てて「ヒュー」と口笛を吹いた。そして二人は去っていった。
 私は唖然としながら二人の背中を見送った。
(つまり、これは、私が白人だから許されたということなのか)
 情けない気分になった。そういう若者の価値観も情けなければ、オウソーリーととっさに口走る自分も情けない。
(もう、どうでもいい)
 私はトボトボと歩き出した。
 足が自然に、駅へと向かう。
(すべてがどうでもいい)
 定期を改札機に入れる。
 ホームに続く階段を上がる。
(消えてなくなりたい)
 昼前のホームは閑散としている。
 駅員もこちらを気にしてはいない。
(……死にたい)
 線路を見下ろす。
 普段は感じない、妙な吸引力がある。
(死んでしまおうか)
 不思議と気分が落ち着いている。
 電車がまいります、とアナウンスが鳴る。
 視界に、先頭車両が小さく映る。
 線路を見下ろす、吸引力が増している。
 すぐ見上げると、ぐっと巨大な電車。
(死のう)
 ドクンッ、突然鼓動が高鳴る。
(死ぬぞ、今、死ぬぞ)
 ドクンドクンドクン、自分の心音が外から聞こえるよう。
(死ぬぞ死ぬぞ死ぬぞ!)
 電車がホームに滑り込んでくる。
 あと十五メートル、十メートル、五メートル、三メートル……。



「あれま、なんてまあ!」
 ガラリと玄関が開いて母ちゃんが現れ、目を丸くした。久しぶり見た母ちゃんは、白髪と皺が増えていた。
 私は電車に飛び込むことが出来なかった。
 頭が空っぽになってしまい、体は自分のものではなくなった。目の前でごく普通に停車した電車に、勝手に動きだした足はごく普通に車内へと歩を進めた。まるで気を失ったような感覚、どこをどう進んだのか全く覚えがない。気が付いたら、栃木県、実家の駅に下車していたのだった。そこから二時間かかる道のりを徒歩でもたもたと進み、生まれ育った我が家の玄関前までやってきた。が、こんな白人顔で、どうやって息子であることを説明したらいいものか、こんな顔になったことをどう申し開きしたものかと、夕暮れの道端で途方にくれて立ちすくんでいたのである。
「なんか人の気配がすると思って出てきてみりゃあ、なんてまあ」
 母ちゃんはその大きな目をさらに見開いて、私の顔から爪先までを眺め回した。私は母ちゃんの視線が耐えられなくて、自分の肩へと視線を逸らせた。
 母ちゃんは、フウ、とため息をついた。
「ともかく、おかえり、尚道」
 そう言って、笑った。
 私は驚いた。ビックリした。ハッとした。
 母ちゃんはこの見慣れぬ白人を「息子の尚道」だとわかってくれたのだ!
 長年緩むことを忘れていた涙腺が、堰を切った。ザバーと涙が溢れ出た。
「ごめんなさい、母ちゃん、オレ、オレ……!」
 口から出てきた言葉が英語だったので、私は自分の頬を力の限りひっぱたいた。バシーン、と乾いた音が裏手の山に響き渡った。


 私、いや、「僕」は、久しぶりの母ちゃんの手料理を食べた。涙を袖で拭い、鼻をズビズビすすりながらがむしゃらにほうばった。裏山で取れたぜんまいの煮しめが、ことのほかうまかった。本当は「うまい!」と大声をあげたいところだけれど、きっと口に出せば「デリシャス!」などと場にそぐわぬ言い回しに変換されてしまうだろうから、うんうんと何度もうなずくだけにした。その間、母ちゃんはただ微笑むだけで、なにも尋ねはしなかった。その優しさが、僕の心をさらにジンワリ熱くさせた。
 三杯目のおかわりをしようとしたとき、
「ん!」
 と一言、玄関から声が響いた。それは昔と変わらない、父ちゃんが帰ってきた合図である。僕は、幼少時代からの条件反射で、ビクリと体を硬くした。
「あら、父ちゃんが畑から戻ってきたねえ」
 母ちゃんがいそいそと立ち上がり、玄関へ向かう。父ちゃんの顔を見るのも久しぶりだ。僕は箸を置いて、母ちゃんの後に続いて小走りに玄関へと迎えに行った。
「おかえり、父ちゃん」
 つい口にしたら、やはり英語。僕はとっさに口をふさいだ。が、遅かった。
 バッシーン!
 父ちゃんの張り手が、僕の左頬を捉えていた。
「尚道、おまえ……」
 禿げ上がってしまった父ちゃんの頭に、血管が数本浮き上がった。以前と変わりないたくましい二の腕をプルプルと震わせ、しかめた顔を真っ赤に茹で上げた。
「この、親不孝もんが!」
 今度は強烈な蹴りが繰り出され、かわす間もなく左腿にドカンと炸裂。かなり痛い。ジーンと痛みが駆け上がってきて一秒後にギャンと声をあげるほどに痛い。でも、この痛みも懐かしい。なによりも、白人顔になっている僕を、母ちゃんだけでなく父ちゃんも、説明なしで見分けてくれたことがたまらなく嬉しかった。
「出てけ、そして二度とうちの敷居をまたぐな!」
 父ちゃんは玄関をガラリと開けて、僕の首根っこつかんで引きずり出そうとした。
「まあ、まあ、まあ」
 母ちゃんはがすばやい身のこなしで、間に割って入った。
「まあ、まあ、まあ」
 何事もなかったかのように、父ちゃんの服についた泥をパンパンと慣れた手つきで払い落とし、
「まあ、まあ、まあ」
 僕を肘で小突いて脇へ避けさせ、父ちゃんの背中を押して家の中へと招き入れ、
「まあ、まあ、まあ」
 父ちゃんと僕との視界を、母ちゃんの笑顔で見事にさえぎり通した。
そして、驚くべきことに、気がつけば三人して食卓に座っているのである。すごい、母ちゃんは昔からすごい。
が、ここからが問題。
父ちゃんは腕組みをして箸を取らず、こちらを見ようともしない。
 母ちゃんが僕を肘で小突いて、小声で言う。
「ほら、尚ちゃん。きちんと父ちゃんに説明しな」
 僕もそう思っていたところなのだが、何しろ話そうにも英語が口を突いて出てくるので厄介だ。紙と鉛筆で日本語を書いてもいいが、そんなまどろっこしいことは、父ちゃんの気を逆撫でるだけかも……。 
 が、先に口を開いたのは、父ちゃんのほうだった。
「尚道。おまえ、そんなツラひっさげてこの家に戻ってきたってことは、相当の覚悟があったんだろうな」
「……?」
 僕は表情で、え? と聞いた。
 しかし、父ちゃんは一人満足げにうなずきはじめた。
「ようし、明日から忙しくなるなあ!」
 そして、箸を取ると豪快に飯を喰らいはじめた。
 僕には何のことだかさっぱりわからない。
けれど、なぜか母ちゃんもホッと一安心した様子で、父ちゃんの凄まじい喰いっぷりに見とれている。
 何がなんだかわからないものの、僕はとりあえずこ父ちゃんの怒りが治まってくれたことで胸を撫で下ろした。説明を乞うゆとりは皆無だった。だから、恐る恐る自分の箸に手を伸ばして、父ちゃんの顔色をうかがいながらモソモソと飯をつついてみた。


 父ちゃんは何をはじめようとしているのか、その晩、僕はあらん限りの知恵を絞って想像を巡らせた。結論として、父ちゃんの大事な畑を切り売りして、日本人顔に戻す整形手術のための資金繰りでもしてくれるのだろうと踏んだ。
申し訳なさで、シクシク泣いて枕を湿らせた。
 でも、違った。考えが甘かった。
 次の日の早朝。
バッシーン!
 乾いた音と、ケツに激しい痛み。
 思わず叫ぶ、言葉は英語。
「アウチ!」
「なにがアウアウだ! 起きろ! 服を着ろ! 外へ出ろ!」
寝惚けまなこを擦り、見上げれば、仁王立ちで見下ろす父ちゃんの黒い影。肩にかかげるものは、一体どこにそんなものを隠し持っていたのか、竹刀である。
「グットモーニン……」
 言いかけたところで、脳天めがけて竹刀が降ってきた。

 あまりにも不可解な、父ちゃんの発想。
「ほれ、もっと速く走れ、ほれ!」
 自転車で父ちゃんが僕を追い立てる。ちょっとヘバると、容赦なく竹刀が降ってくる。三十六歳にもなって、なぜ僕は走らされているんだ? 六十二歳の父ちゃんが、なぜにこうも元気なのだ?
「悩むな! 走れ!」
 バッシーン!
 ひっぱたかれるケツの音が、五月晴れの栃木の空に、高く高く舞い上がる。
 ハードスケジュールが続いた。腹筋、背筋、スクワット、腕立て伏せ、指立て伏せ、顔立て伏せ。
 昼食をはさんで、顔面ブリッジ、おたけびの練習、畑仕事の手伝い、早口言葉の練習。
 一日目は、クタクタ。
 二日目は、ボロボロ。
 三日目で音を上げるも許されず、四日目で持ち直し、五日目にはみなぎる力となって効果を実感できた。
 十日を数えた夕方。
「ああ、尚ちゃん、会社は休んでいてもいいものなのかね」 
 母ちゃんに言われてびっくりした。なんだ、てっきり母ちゃんが話をつけてくれているかと思っていたのに! 「よし、尚道。ひとまずおしまいだ。だがな、気を抜くなよ。勝負はこれからだぞ!」
 父ちゃんが、バシンと僕の背中を叩き上げた。
 僕は父ちゃんに力強く頷いて答える。
 そう、勝負はこれからなのだ。
 僕は、いや、「私」は、背広をビシッと着込んで靴をガバッと履き、片手をバッ挙げてヒュッヒュッと左右に振り両親にしばしの別れを告げると、駅に向かって颯爽と歩き出した。
(待ってろよ東京、待ってろよ会社、そして妻に娘よ……待ってろよ〜!)
 クフフフフ、と、ひとりでに笑いが込み上げてくるのをどうにも抑えきれぬまま、私は東京行きの電車に乗り込んだ。



 早朝、東京に到着。
まず、家に帰った。
 妻が飛び出してきた。
「ちょっと、あなたどこに行ってたのよ! 会社にも行かな……」
 英語でまくしたてる妻は、途中であんぐりと口をあけた。
「ねえパパ、あたしさ……」
 二階から降りてきた娘の舞子も、私を見て一歩あとじさった。
 私は、こいつらを見て、にっこりと微笑んでやった。こいつらの驚く様を存分に楽しんだ後に、嫌味をたっぷり含んでこう言ってやった。
「た・だ・い・マ」

 次は、会社に向かった。
 わざと送れて出社した。
「………!」
 私が通ると、まわりがシンと静まる。
「やあ斎藤君、調子は戻った、ウ!」
 課長も顔をしかめる。
 私は、悠々と自分の机へ向かい、鞄をバンと机の上へと放り出して、ズンと椅子へ腰を落とした。
 振り返れば、そこに木下さんが。
 僕は木下さんに手を差し出す。
 木下さんは、はじめは恐る恐る、しかし、ニカッと笑顔を浮かべると、私の手をガッシと両手で受け取り、硬く握り締めた。
 私は、今出来うる限りの最高の笑顔を浮かべて、木下さんにこう言った。
「お・ハ・よ・う」

 噂が噂を呼び、数日後にはテレビや雑誌の取材が私を取り囲むようになっていた。たとえば、駅の売店に並ぶスポーツ新聞には、どれもこんな見出しが躍っている。
『白人、敗れたり!』
『S氏、妻子の陰謀に真っ向から立ち向かう』
『根性は、現代医学より強し!』
『全国の弱いお父さんたちに朗報!』    
 私は……。
 私は、勝った。勝ったのだ。
勝ったのだ! 
何度でも言ってやるぞ、勝ったのだ勝ったのだ勝ったのだ! 
家族に、会社に、そして世間にまで勝ってしまった! 
バンザイ!
 父ちゃんとともにがんばったあの「特訓」は、一つ一つが実に意味深いものだった。筋トレ、発声練習はすべてこのために。
――日本人顔と、日本語を取り戻すために。
 父ちゃんは考えた。整形手術で元の顔に戻したところで何の解決にもならない、と。再び寝込みを襲われてバカ妻やバカ娘に同じ事をされるのは目に見えているし、何度も高い金を払って得をするのはヤブ医者だけだ、と、そこまで見通していた。ちなみに父ちゃんは、私の顔を一目見ただけで、バカ妻・バカ娘の仕業だと見抜けたそうだ。この洞察力、この独断力、私も同じ父親ながら、父ちゃんには遠く及ばないし、今後及びそうもない。
父ちゃんは結論を出した。ならばいっそ、白人顔のままで何とかならないものか。たとえ白人顔でも、日本人特有の笑い方や悲しみ方など、表情で挽回できないだろうか。猫背を演出したらどうだろうか。話すほうも同様、外人に英語を教え込むように、あいうえお、からはじめてやろうじゃないか。
周囲の驚きで、私もやっと特訓の成果を実感できた。それほどに日本人的な淡い表情、日本人的な細やかな動作なのだ。十日間で成し遂げたことが、自分でも信じられない。
しかし特訓といえば、あの竹刀は、あのマラソンは、どういう意味があったのだろうか。

「そこで、わたしは父に電話して聞いてみたんです。そしたら父ちゃん、なんて言ったと思います? 『そりゃお前、昔からの憧れだよ。竹刀片手に子供をしばきあげるのは、世の親父の憧れだからな。でも尚道、子供の頃のおまえときたら、パソコン部やら吹奏楽部やらで、そりゃあ俺はガッカリしたもんだよ。でもやっと今になって夢が叶った』ですって」
「はい、OKです!」
 ガラスの向こうで、ディレクターが頭の上でマルを作った。
「はい、斎藤さん、お疲れ様でした」
 今日はラジオ番組の収録だ。
 今や、私はすっかり売れっ子である。
 世の親父たちの、トレンドリーダーに祭り上げられてしまった。
私がマスコミに登場した反響は、それはすごいものらしい。
「どうやったらあの表情、あの日本語を取り戻せるんですか?」
「方法を教えてください!」
「がんばってください、応援してます!」
 などなど。中にはこんなのも。
「斎藤教祖が我々悩める中年男性を救いたもうた!」
 とにかく皆は、口には出していなかったものの、私のような存在を待ちわびていたというわけだ。ならばなぜはじめから「ノー!」と言えなかったのか。言わなかったのか。でも、私も同じ穴のムジナだったのだから、何も言えまい。
今になって思えること大事なこと。それは、大きな津波を避けるためのシェルターではなく、津波を打ち砕く新しい発明だということだ。
「おつかれさまでーす」
 ディレクターがもう一度深々と頭を下げる。
若い彼も、今や流行となりつつある日本語を巧みに操る。「日本的微笑」なんて名前の付けられた笑みを浮かべる。
私は会社を辞めてはいない。会社も、辞めろとは言ってこない。どうせ私も時の人だ。この秘伝が普及してしまえば、あとは私に出来る芸はない。でも、それはそれでいいじゃないかと思っている。私は、白人顔ブームがなくなってくれればそれでいいのだから。本来ならば無償の奉仕でもいいところなのに、多すぎる小遣いまでもらって申し訳ないくらいだ。
「じゃ、斎藤さん。次はテレビ局のほうへ」
 マネージャーなんてのもついている。美人で若くて、頭が切れる。胸の開いたスーツをいつも着ているので、谷間を見ないようにするのが大変だ。
 そういえば。
 もう、ずいぶん家に帰っていない。
 妻や舞子にも会っていない。
 あんなやつら、と思うけれど。
 憎くて憎くて仕方がなかったけれど。
 でも……。
(今ごろどうしているのだろうか)
 ふと気まぐれにそう思った瞬間。
「あの!」
 不意に後ろから呼び止められた。
 振り返ると、ラジオ局の廊下の隅で、申し訳無さそうにたたずむ二人の姿が。
それは、白人顔の、妻と舞子だった。
「あ、あの」
 妻が、相変わらずの英語で話す。が、近ごろとんとご無沙汰だった、かしこまった口調である。舞子は、うつむいたり、こちらをチラッと見たり、落ち着きがない。
 なぜだろう?
 今日は、ひどくこいつらが小さく見える。
「あの、そろそろ」
 美人マネージャーが私をせかす。
 私は、家族に背を向けた。
(なんだ、いまさら)
 私が有名人になったからか?
 私が小金もちになったからか?
(なんだよ、いまさら)
 数歩進んで。
 しかし、私は立ち止まった。
「ちょっと、先に車に行っててくれるかな」
「え? ええ、はあ……」
 不服そうな顔をしながらも、マネージャーは階段を一人で降りていった。
 私は、もう一度振り返り、妻と舞子を見た。
 さっきいた場所に二人寄り添って、上目遣いにこちらを見ている。
やはり、小さく見えて仕方がない。
 ふふ、フフフフ。
 私は、なんだかおかしくなってきた。
 私は、両手を広げて、こう言った。
「カモン、マイファミリー!」
 言って、自分でふき出してしまった。我ながら、なんて下手クソな発音だ。アハハハハ。
 私が笑って、次に舞子が笑った。やや遅れて妻もぎこちなく笑った。二人はこちらに向かって歩き出し、やがて小走りに、最後には勢いよく、私の腕の中へと飛び込んできた。
「ごめんなさい、私、わたし」
 英語で妻が途切れ途切れに言う。
「いいんだよ、もういいんだ」
 私は下手な英語で答える。
「あのね、お父さんね、舞子のクラスですごい人気なんだよ!」
 舞子は、子供はさすがだ、流行の日本語をもう使いこなしている。
「ははは、わかったわかった」
 私は笑った。
 金が目当てでもいいじゃないか。
 人気につられて、なんてのも結構。
 全部ひっくるめて、親父の甲斐性ってもんだろう!
「さて、家に帰るか」
「うん、帰ろう!」
「あたし、今日の夕食は、うんと腕を振るうわ」
 まるで、夢のようだ。
 これが私の思い描いていた家庭像。
 うん、悪くない、わるくない。
 悪くないよ、うんうん。

(了)


      おしまい


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