アンガージュマン






 九月一日、金曜日、夜。

簡単に言えば、パソコンがぶっ壊れた。
 正しく言えば、OSのシステムファイルの一部が破損して、それが原因で正常に動作しなくなったと考えられる。ウイルスに感染したとも考えられる。症状としては、十秒に一回フリーズ、度重なるアプリケーションの強制終了、正常に終了が困難等。デフラグ、スキャンディスクで解決を試みるも、これも途中で強制終了。レグエディットを起動して関連付けを調べるも、異常の発見には至らず。果ては、エクスプローラー画面を開けなくなり、原因の究明は難しくなった。ならばせめてバックアップで過去に戻りたいところであるが、残念ながらバックアップは、パソコンを買ってから今まで一度も利用していなかった。ユーザーサポートに電話をかけるも、現在非常に混みあっております、と録音女性声が繰り返すばかりで一向につながらない。仕方なく街に出て、インターネットカフェにてトラブル専門のホームページの掲示板で質問を書き込み、返事を待つと、残念だったなアハハハハ、とどいつもこいつもまともな答えを返してよこさないのであきらめて帰宅した。
 簡単に言えば、お手上げになった。
「お手上げになった」
 と、相良エイジはつぶやいた。つぶやいた途端に、敗北感がおしよせてきた。パソコンが、「パソコン様」に見えてくる。このお方に屈しなければならないのか。たかが中学三年生では、「パソコン様」を征することは出来ないのか。
(なにがパソコン様だ)
 怒りも湧いてきた。ふと気がつけば、拳を硬く握っている。この拳を、キーボードに力いっぱい叩き下ろしたらどんなに気持ちがいいだろう。
 革命。
上流階級に組する「パソコン様」を権力の座から引きずり下ろすには、武力を行使する以外にはない。ガンジーやキング牧師のように平和論を盾に気長な構えをする必要はない。ただこの拳を振り上げて、そして筋肉と重力の二重の衝撃をお見舞いしてやれば、それでいいのだ。
「それでいいのだ」
 と、相良エイジは言葉に出している自分に気が付いた。はっと我に返った。もったいないじゃあないか、安いものではないのだ。来年の春の受験に必ず役に立つ、だから必要なのだと自分でも無理のあると思える理由をゴリ押して、やっと親に買ってもらったという努力を、無に帰すというのか。
 相良エイジは、今後すべきこととその弊害を、故意に口に出すことによって、冷静を維持するよう努めた。
「初期化を決行しよう。つまり、僕はOSのディスクは持っていないのだから、OSのみの復帰は出来ないわけだから、付属のアプリケーションディスクで初期化を決行し、フォーマットをかけよう。CドライブもDドライブも、すべて出荷時の状態に戻そう。出荷時の状態に戻すということは、今まで僕が半年間の間に行った様々な設定が、集めたデータが、すべてなくなってしまうということになる。メールやインターネットのアカウントもやり直さなくてはいけないことになる。特に、集めに集めたどこぞの誰かさんのメールアドレスやホームページアドレスの消失があまりにもつらいことだ。ダウンロードしたプログラムや画像の消失もこの上なくつらいことだ。つらいことだがしかたがない、しかたがない」
一人部屋だから声に出すことは恥ずかしくはないが、逆にもしもこの困難な状況が学校の授業中や、街中の雑踏の中で襲ってきたら、状況を口に出して整理できないわけで、それは恐ろしいことだと相良エイジは思った。口に出せば出せないことはないが、恥ずかしい。恥ずかしいから口に出さない、そして、敗北感が、怒りが、増幅して噴出してしまうだろう。高価なパソコンを叩き壊してしまうだろう。
「でも、パソコンは、僕のパソコンはデスクトップだから、ノート型ではないから、外に持ち歩くことができない。だから外では困難な状況に遭遇する可能性は極めて低い。パソコンがお手上げになる以上に困難な状況というのは、今のところ思い当たらない」
 そう言いながら、相良エイジはパソコンの電源を、プラグから引き抜くことで切断した。そしてスチール机の一番下の引き出し、パソコン雑誌やクシャクシャのルーズリーフや、テクノ系とクラシック系音楽CDや、ガチャガチャのカプセルやらお菓子のオマケやらの乱雑な洪水の中からアプリケーションディスクを探り当て、プラグを差しなおしてパソコンの電源を入れ、パソコンのCDテーブルに挿入した。黒い画面の中に無愛想な白い文字が浮き上がる。
「初期化を決行して、出荷時の状態に戻します。Yes/No」
「イエスだ!」
言いながら、相良エイジはYキーを押して、さらにリターンキーを押した。
途端にディスクが勢いよく回り始めた。ギュイーンと甲高い耳障りな音をたてて初期化が始まった。



 九月四日、月曜日。

 太陽の光を正面から受けて、校舎がそびえ立つ。相良エイジは、校舎の威圧感の中に、やさしさを見つけ出すことは出来なかった。やさしさのない威圧感にあごをしゃくられるように、視線を上へ移していく。見上げれば、屋上から頭だけのぞかせる日に焼けた薄水色の丸い給水タンクのてっぺんで、真っ黒なカラスが二羽、こちらを見下ろしていた。大きなカラスだ、二匹とも大型犬ほどはある。そして見下ろしている、朝礼で整列をしている全校生徒八百人ではなく、カラスは自分を見下ろしていることに相良エイジは気がついた。二羽のカラスの視線を受け止めながら、相良エイジは思う。
(カラスは二羽。僕は一人。これではかなわない。二対一では、こちらに分がない)
 相良エイジは、カラスの機嫌を損ねぬよう、ゆっくりと慎重に、視線を下へそらせた。
「暑い日が続いておりますが、夏休みも終わったということを肝に銘じて、気持ちを切り替えて、ここはひとつ……」
 朝礼台の上で校長の話が続く。
相良エイジは校長の名前を覚えていない。
顔もわからない。
朝礼台の上で長々と話す校長という名の小柄な物体は、常に太陽を正面から全身に浴びていて、映像としてなんだかよくわからない。まるで蛍光灯に向けて目を見開き、直後目をつむったときの残像のように、それは、いつものことながら、イメージ以上の認識にはなり得なかった。威圧的な校舎を背に、残像の校長。毎週月曜日は、これがセットで目の前に現れる。
習慣、そしてすり込み。校舎まぶしい、校長黒い影、両者の高速フラッシュバックで脳味噌に直接刺激が突き刺さる。
「さて、暑い日が続いているわけですが、三年生諸君は受験を控えてのまさに正念場というわけで……」
 校長が、暑い日が続いている、と繰り返し言っていることに相良エイジは気が付いた。
言われるまではわからなかったが、確かに日差しは真夏のものだ。
熱気で景色が揺らいでいることも今更ながら悟った。
三年生は、一年生と二年生に両脇をはさまれて整列していて、さらに相良エイジのクラスは全七組中、四組だ。加えて、相良エイジのクラスはア行、カ行で始まる名字が多いため、アイウエオ順に並ぶ相良エイジの立ち位置は、縦軸においても真ん中だ。
(そうか、真ん中か)
相良エイジは、自分が全校生徒のちょうど中央に位置していることを今はじめて悟ったが、それはたいした感動を伴わなかった。何かが集まれば、中央に位置するものがひとつは出来上がるのは当たり前のことだ、その偶然の巡り合わせが自分であり、その偶然性は嬉しさ、驚きとは無縁のことだ少なくとも僕にとっては、と、相良エイジは意識の下で思った。
意識の上で恥じた。暑いという当たり前の事態に気がつかなかった自分を憎らしく思った。
人、人、人に囲まれている。
人は熱を放出する。
飯を食らう人間は、飯から得たエネルギーを、熱に変えて放出する。
夏の朝礼、皆がこぞって前後左右上下に熱を放出し、その集点が相良エイジである。
(サーモグラフィーで上空から熱感知をしたならばきっと、僕に向かって赤色が濃く濃くなっているにちがいない。そうあってしかるべきだ)
 相良エイジは納得した。そして、
「暑い」
 とつぶやいた。
 となりの女子が、ハンドタオルで額を拭いながら相良エイジの独り言に対して微かに反応し視線を向けたが、それはほんの一瞬のことでしかなかった。
 相良エイジは熱の中心である自分の役割を全うせんと欲した。
急速に意識を「暑さ」に集中させてゆく。同時に、格好もそれらしく装ってゆく。Yシャツの半そでを、肩までまくった。生白く細い腕の付け根、チョロリのびる脇毛を、立ち込める熱気に泳がせた。これでもまだ熱の中心としては役不足であるような気がした。膝を曲げずに腰だけを折って、ズボンの裾に手を伸ばした。右裾を折り返し折り返し、膝までまくった。次に左裾を上げてゆくと、腿までまくれた。膝と腿、左右不均一なのは気持ちが悪いので、もう一度右裾に戻り、さらにまくる。が、左足のそれほど高くはいかない。裾の長さは同じはずだ。
(ならば、自分の足の問題か)
 相良エイジは、自分の足の太さが左右不均一であることを知った。右が利き足なので、このような事態も不思議ではない。ただ、左右不均一であることは、自分の体とはいえ、少々いただけないなと感じた。美しきは左右対称。欲を言えば前後左右の完全なる対称。対称は、欠陥が発見しやすく、合理的だ。
 裾まくりの作業を終えると、汗をかいていた。
額から、胸から、腕から脛から、汗の流れる感触が走る。尋常ではない汗の量。耳の穴がカアッと熱くなり、背筋はゾクリと寒気を覚えた。
「ようやく熱の中心らしくなってきた」
 相良エイジは声に出してそう言った。
爪からも汗をかいている。
髪の毛も汗をかき始めた。
汗が頭の上からジョロリジョロリと流れ落ちてくるので、まともに目が開けなくなった。濃度の高い塩分を含んだ汗が、ひどく目にしみた。鼻の穴の中で汗が噴き出しているので、息が出来ずに口をあけた。口の中も、喉も、汗をかいている。口に溜まる汗を数秒おきにオエオエと吐き出しては、ヒィヒィと呼吸をした。バランスを崩して一歩踏み出すと、スニーカーがブジュリと鈍い音を立てた。靴の中に溜まった汗が、ポンプの原理で逆流して顔まで跳ねた。
「先生」
となりのハンドタオルの女子が、遠慮がちながらよく通る声をあげた。その声を、プールもしくは海の中にいる気分で相良エイジは聞いた。耳の穴に汗が詰まっているからだと納得した。
 先生と呼ばれたその人は、まさに先生であった。三年四組の担任、男、既婚、理科、名前は……。
「思い出せない」
 と、相良エイジは声に出した。
担任が、ハンドタオルの女子に近寄り、その後、腰を折って今にも倒れそうな相良エイジの肩にポンと手を置いた。
「どうした、相良、調子悪いか」
 なるほど、ハンドタオルの女子(名前は思い出せない)が、先生を呼んだ理由は、相良エイジつまりこの自分の、尋常ではない汗を案じてのことだったのか、と、相良エイジは気が付いた。
「余計なことを」
 と、相良エイジは言った。恥かしいではないか。こういうことを、悪目立ちと、世間では言うのだ。余計なことをハンドタオルはしてくれた。恥かしさは、回復に時間がかかる。
「なんだ、余計なことか、俺が来たのは」
 先生が、肩に置いた手を引いた。
「いえ、余計なのは自分です」
 ブブッと後ろの男子が噴き出す声が聞こえた。さらに、ああ本当に余計だよな、とささやく声も漏らさず聞き取った。
 先生には、その声は聞こえたのだろうか。
「しかし、調子悪そうだな。顔色が悪いぞ」
 先生は正しい。一言で見事、話題を戻した。
「顔色よりも、汗です」
「朝飯は食ったのか?」
 汗です、という事柄に、先生は反応しなかった。当然その汗に興味を持っているものだと思っていた相良エイジにとって、朝飯の話題は予想外だった。
「朝飯、ですか」
「食ってないだろう。保健室に行け。朝礼が終わったら見に行く」
「はい」
 なるほど、エスカレーター。
流されているのだな、と相良エイジは解った。
言い換えれば、レール。話題の展開に無駄がない先生は、特急。今の会話は運転手が先生なわけで、乗客の自分は、特急で進んでゆく。ならば、このあとも、保健室までは特急。言い換えれば高速エスカレーター。どんな乗り物でも流されるならば早いほうが合理的だ。
 相良エイジは勢いよく走り始めた。朝礼の邪魔にならぬようにまず列の後ろへ走り、一年生の後ろを通過して、昇降口はもうすぐ。目指す目的地は保健室、いややめた、教室でいい。朝礼の、全校生徒の中心人物としての役割が終わったのだからもう帰宅してもいいくらいだ。目的は、目的地にはなく、僕の存在の在り方。そしてそれが今終わった、今の在り方としては、次回以降は未定。
走る一歩ごとに、靴が汗でジュブジュブ音を立てている。
靴下を、取り替えたい。 



 夢かまぼろしか。
たぶん現実だろう。
夜、直らないパソコンに水をかけた。
頭を冷やせという表現を世間ではよく使うが、パソコンの冷やすべき頭に当たる部分は一体どこなのだろうと自分の頭を割った結果、ハードディスクであるという結論に辿り着いた。
頭の回転が速いという表現を世間ではよく使うが、ハードディスクは一秒間に百数十回転とすこぶる速いので、そこに共通点を見出した。記憶する媒体という点でも脳に酷似している。
だからハードディスクに水をかけることにした。
まさに頭を冷やしやがれだこのパソコン野郎。
ねじをはずしてカバーをあけ、ハードディスクを引っ張り出して回転盤を剥き出しにした。回転盤は、故障とはよほど縁遠いような高貴な黒い光を放っていた。氷と塩を混ぜて零度以下まで冷やしたバケツの水をザブリとかけた。濡れてなお、ハードディスクは高貴であった。
 その威厳はどこから来るのだ。売価をそのままプライドに反映しているのか。
 頭にきたので、噛んでいたガムを回転盤にベトリと貼り付けた。それでも高貴。
ガム付き回転盤は、無様な姿とは程遠いのである。



 九月十一日、月曜日。

気良好。
校舎まぶしい。
校長黒い影。
高速フラッシュバックが相良エイジの心を、むしろ安定化させる。今日はまさに月曜日だ。
 校舎と校長のコントラストをそれなりに満喫しているというのに、視界の中で、チラリチラリと動く影。直前の男子の頭である。この類の邪魔は、いつも、いかなるときも、入るものだと相良エイジは自分に言い聞かせた。
 思い出す、健康な体を当たり前とうぬぼれる時の、夕飯。
飯をほおばり、うっかり右頬の内側を噛み切ってしまう。血の混じった飯を喉に流し込む。痛みとともに夕飯終了。が、痛みは飯の後も続く。舌でなぞると、粘膜が、裂けている。痛みとともに、その夜は眠る。次の日の朝、睡眠を経て忘れていた粘膜の裂け目を、朝飯をほおばり思い出す。しみる。右頬に飯を蓄えられない。仕方なく、左頬に飯を移し変えて、噛む。そして思う。
(健康な体。口の中を除いて、あとは健康。ささやかな邪魔、それは粘膜の裂け目)
 思い出す、遊園地。
小学三年生の時の、家族旅行。乗り物が楽しい。特に、ジェットコースターの類がいい。声を出して「わー」とか「ぎゃあ」とか、周りの人間のような楽しみ方ではないが、風を切って、上下左右に体を揺さぶられる体験は、日常生活においてあまりない。もう一度乗りたい、と父に言う。父はニッコリと微笑んで、頷く。母と妹を待たせておいて、父と並んでコースターの席につく。コースターは動き出し、高速を引き出すための落下運動に移行する準備として位置エネルギーを蓄えんと、坂を登り始める。ゆっくりと登るその時間、父が口早に話す。 「エイジ、こういうのはな、坂を下るときは、両手を挙げて、大声を出すんだぞ、そうするとな、気持ちいいんだぞ」
 コースターは坂を登り詰め、落下運動にて急加速する。父が隣で両手を挙げる。
「ワー! ほらエイジ、おまえもやってみろ! ウオー!」
 そして思う。
(楽しいコースター。父を除いて、あとは楽しい。ささやかな邪魔、それは父の同席、興醒めさせる父の気遣い)
「ささやかな邪魔。それは、視界の中のうごめく男子の頭」
 相良エイジは声に出して、そう言った。
小さな声にしたので誰にも気付かれまいと思っていたが、隣で反応を示すものがいた。クスッと笑った。声の方向、左を見れば、ハンドタオルで額を拭う女子がいた。
目が合う寸前で、相良エイジは視線を校長方面へと戻した。
 視界の中で、男子の頭が前後左右に揺れている。小刻みに揺れている。
この動きにリズムを見出せれば、まだ安心感はある。こちらもそのリズムに血流のテンポを適応しやすい。
が、実に不規則なその動きは、相良エイジの心を不快感へと確実にいざなう。
 目をつぶった。そうすれば、不快な頭の動きを見ることはない。
 校長の声が、マイクから入ってコードを駆けスピーカーで拡散されて、聞こえる。相良エイジのぼんやりと暗い視界の中に、校長の声だけが響き渡る。
「ええ、暑い日が続いておりますが、ええ、夏休みも終わり、生徒諸君もそのことを深く肝に銘じつつ」
 デジャヴか、と思うほどに、いかにも校長らしい反復演説であることに気がついた。先週聞いたままのその演説は、つむった視界の中に、校舎まぶしい、校長黒い影の、その映像を連想させた。
「校舎まぶしい、校長黒い影」
 相良エイジがそうつぶやくと、つむった視界の中、うごめく男子の頭も復活してしまった。連想の中のうごめく頭は、これまた不快な不規則リズムを忠実に実行している。
(これは自分の連想なのだから、不規則な頭の動きは、自分が不快ではないように修正を加えるべきだ)
 相良エイジは、懸命に、不規則なリズムを規則的に矯正すべく努力した。が、うまくいかない。むしろ、より複雑怪奇な、より振幅の大きい、まったく不快な動きが出来上がってしまった。
「ああ」
 たまらず目を開いた。
 開いた視界の中で、男子の頭は、相良エイジが連想したままの、複雑怪奇な振幅の大きい動きになっていた。 小刻みな動きはもはやない。
上半身も参加して、くねるように動いている。
動くたびに、頭が膨れてゆく。
ムクムクと、空気を送り込まれているかのように膨れてゆく。
バスケットボールほどかと思えば、数秒後にはビーチボールほどになっている。
巨大化している。
(これは危険だ)
 相良エイジは察知した。
この膨れ方は危険極まりない。膨れてゆくうちに、やがて頭髪がズルリと後方へ落ちてしまうだろう。頭髪が取れてしまうと、膨張に抑制が効かなくなるから、爆発的に膨れてしまうことだろう。累乗が累乗を呼ぶことになり、その収束は果たして、地球規模で終わるのだろうか。
「終わるのだろうか」
 と、相良エイジが言った時、うごめく男子の頭髪が、ズルリと後方に落下した。と同時に、相良エイジは己の拳を硬く握って、膨れる頭めがけておもいきり叩き付けた。
 パアン、と音を立てて、男子の頭が割れた。割れた頭の中から、元の大きさの、しかも頭髪の戻った、普通の頭が現れた。それを確認して、相良エイジはホッとした。
 まわりの人間達がざわめいている。それはそうだ、皆も内心、心配していたに違いない。あのまま膨れていくと、地球の破滅を迎える前に、まず一番身近な我々が、被害を被ることになったのだから。
(しかし、慈善心で、頭を割ったわけではない。頭を割ることは、それは、直後に位置している僕がやるべきことであって、それが世間の常識であり暗黙のルールであって、例えば事故が目の前で起これば119番するのは事故現場に一番近く位置するものの役割であって、今自分は事故現場に最も近い状況なわけで、すなわち周りの人間もそう理解して僕に期待して手出しせずにいたに違いない)
 頭を割られた男子は、頭を抱えてしばらく呆然としていたが、やがて振り返って相良エイジを睨みつけた。
「てめえ、相良エイジ、このやろう、喧嘩売ってんのかよ、クソ」
 なるほど、と相良エイジは思った。この男子は、自分の頭が膨れていたことを理解できていなかったというのか。そういうこともありうる、いや、むしろその方が自然だ。自分で自分の頭が膨れていることを理解できていたのならば、自分で自分の頭を割ってしまえるではないか。
「あ」
 と、相良エイジは言った。驚くべきことに、頭を抱えて相良エイジを睨みつける男子は、なおも複雑怪奇な振幅の大きい不規則な動きを止めてはいない。そして、ムクムクと、頭が膨張をはじめている。
 相良エイジはもう一度、拳を握った。歩み寄って、殴りつけた。パァン、今度は膨れ方もたいしたものではなかったので、小さな音を立てて割れた。割れた頭の中から、また普通大の頭が出てきた。
 そこで、背後から羽交い絞めにされた。
「やめろ、相良やめろ!」
 声と、タバコの体臭で、担任の先生だとわかった。横で、ワッと泣き出したものがいる。見れば、ハンドタオルの女子がしゃがみこんで泣いている。
「いや、怖い、いやぁ!」
 ハンドタオルの女子は、そう言って泣いた。
(そりゃ怖かろう。僕だって、全く怖くないと言ったら嘘になる。いやむしろ、怖いといえば言えなくもない)  と、相良エイジは思った。
 周囲の視線が集まっている。
が、より強い視線に気が付いて、相良エイジは、視線を上へ移した。
見上げれば、屋上から頭だけのぞかせる日に焼けた薄水色の丸い給水タンクのてっぺんで、巨大な黒猫が二匹、相良エイジを見下ろしていた。
(あんなところまで、よく登ったな。それにつけても、黒猫は二匹、僕は一人。二対一では、こちらに分がない)
 相良エイジは、黒猫の機嫌を損ねぬよう、ゆっくりと慎重に、視線を下へそらせた。



 夢かまぼろしか。
たぶん現実だろう。
夜、パソコンを二階の部屋の窓から放り投げた。
モニターもついでだからと投げてやった。
他にパソコン関連のものは無いかと部屋中を探し回り、次々と窓から捨てた。説明書や雑誌などの書籍類、ゲームやアプリケーションなどのCD類、プリンター、スキャナ、スピーカー、フロッピーディスク、コピー紙、全て投げたら部屋の中がすっきりした。
壊れた機械とその付属品に囲まれていたついさっきまでの生活を恥じた。
非合理的この上なかったと恥じた。
ともあれ、合理的すなわち人間的な環境に戻すことができて何よりだと痛感した。
大いに拍手をして新しい生活を歓迎した。



 九月十四日、木曜日。
 相良エイジは、眠っていたわけではないのだが、ふと気が付けばとうに授業は終わり、夕日のさす教室に一人座っていた。
「さて、帰ろう」
 カバンに教科書を詰めて席を立つ。
「相良エイジ君」
 背後から女子の声で呼び止められた。
振り返ると、一人かと思っていた教室には、もう一人いたらしい。
窓際に、立っている。
夕日が彼女の背後を照らし、姿を黒い影に変えてしまい、誰だかわからない。
手に、ハンドタオルを持っている。
彼女はハンドタオルを、口元に当てた。
「相良エイジ君」
「はい」
「話があるんだけど」
「ああ」
「あの、付き合ってる人とか、いる?」
「いや」
「なら、嫌だったら嫌って、言ってくれていいんだけど」
「はあ」
「私と、付き合ってくれない?」
「なぜ」
「相楽エイジ君さ、最近、かっこいいから。なんか、私、気がついたら、相楽君のことばかり考えてる」
「へえ」
「ねえ、私じゃ、だめ?」
「いや」
「じゃあ、付き合ってくれるの」
「まあ」
「ねえ、一緒に帰ろう」
「いや、そればっかりは勘弁を」
 相良エイジは、カバンを持って、彼女と、夕日に背を向けた。教室の扉を開け、廊下に出て、昇降口を目指し歩きながら思った。
 何かが、おかしい。
 おかしいぞ何かが。
 僕は、正常だ。
 だけど、世界が、異常だ。
 僕が告白されるなんてことはありえない。
 つまり、世界が異常だ。
 僕は? ウン正常だ。



 目が覚めた
のかそうか僕は眠っていたのかそれにしても悪い夢を見ていたようだ。ひどい夢だった気分が悪い吐きそう、なんでまた
中学生時代
の夢など見てしまったのだあの頃は
 あの頃は
全く最悪だった
家族も最悪だった友達もいなかった友達もいなかった
 友達
は今でもいないじゃないか、今も友達はいないでもあの頃と今は違うあの頃は
そう
友達がいないことが辛かった皆が僕など眼中に無いことが辛かった僕が誰からもその他大勢と見られていることが辛かった誰の目から見ても僕はその他大勢に
 その他大勢の一人にしか
認識されていなかったでも今は違うそれで
いいと それでいいと
思っている心底思っている、ああいいじゃないか僕はその他大勢でも僕から見た皆はやはりその他大勢区別も無い世間一般ニュースの中の事件と同じ対岸の火事僕には関係が無い、僕のことも同様皆には関係が無いそれで
 おあいこ
それだけの話
タバコを吸おう二十歳を過ぎた僕はタバコを吸ってもいいし吸うべきだ僕はタバコを探すタバコを探さなければならないタバコが見当たらないなそもそも僕は
 なんのタバコを吸っていたっけ?
 タバコなんか吸ったことがあったかしら?
 くそ! クソ!
思い出せないならば酒だ酒を飲もう酒が無い探そうにもどこを探したらいいかわからないそもそも酒を買ったことがあったか、いや記憶に無い酒が飲みたい飲んだら気持ちがいいだろう気持ちが良かった気がするアレ?  酒を飲んだことがあったかな?
 ああイライラする!
なんだ何もないじゃないか僕の身の回りには何もないじゃないかやたらまわりは真っ暗で何も見えなくて苦しくて切なくて辛くてそして
 寒い。
 寒い。
 ここは寒い。
嫌な夢を見たからかもしれない。まったく寒い夢だった。どいつもこいつもばかにしやがっていた頃だ家族も僕のことを見下していた気味悪がっていたただ僕が平凡な毎日を過ごしているだけなのに平凡な毎日を送りたいと欲していただけなのに僕は敬遠されていた腫れ物のように扱われていたきっと親父はお袋は妹は爺さん婆さんは親戚は僕が
 殺人
でも起こしかねないと思っていたに違いない。それが辛かったそういう眼こそが僕を
 その他大勢
に貶めるのだ家族だろ血のつながりがあるんだろたかが中学生の少年の一挙手一投足くらいこれから行う行動発言くらい予測できるだろ予測しないで
 血のつながりがあると思うか?
そしてそれを
励ましたり
諌めたり
慰めたり
堪えたり
しないでどうするんだと思うんだ僕はそれなのにやつらは
 怯える
ばっかりなんだなんだそれは最悪じゃないかそれにしてもあの頃は最悪だった。
 ……寒い
 なんだこの寒さは
 オオ、震えがとまらない
 夜が明けてくれないかな……夜?
この暗さは周りの視界の無さは夜のものだとなぜわかるのだ電気をつければすぐさま明るくなるかもしれないじゃないか電気はどこだ蛍光灯のスイッチはどこだああ暗くてわからない何も見えない誰か教えてくれ僕は今どこにいるんだ今、どこにいるんですか。
 ハダカだ
 ハダカなのか?
 僕はハダカだ手触りでわかった。
 目が慣れてきた、辺りがうすらぼんやりと青黒く色づいてきた
 アレ?
 雪だ
なんだこれは辺り一面の雪そして腰まで埋まっている僕そりゃあ寒いはずだよウン震えが止まらなくて当たり前。ああだんだんと日が昇るやはり夜だったのかそうさいつでも僕の思考は正しいんだそして冷静なんだ頼りになるのは論理的な思考合理的な行動僕はこの性格を昔からこの性格だけを
 盾に
生きてきたこれからもそうだろうこの先の人生を二十代を三十代を中年期を老後を論理的合理的に生きていくだろうそう、今風に言えばクールって奴だその言葉自体は嫌いだなぜならこの言葉を好んで使うやつらが一向にクールとは思えないから。
 寒い
 震えが……
 体の感覚が……
 死んでしまう、このままでは
 たった一人で凍え死んでしまう
 動こう、誰かがいるところまで移動しよう
しかし動こうにも動けない一体僕はどのくらいここにこんな情けない状況で放置さされていたというのだもしくは自分から好んで素っ裸で雪の中に身を投げ出していたのかな、ともかくそのどちらでもかまわない今はここから抜け出すことだけ考えればよい寒いのは御免だ寒いのは嫌いだ。しかし動けないから困った腰まで雪に埋まっているのだし既に手足の感覚が麻痺していて痛いでもがんばろう。こういうときは自由な手を使って自分の周りをギュッギュッと固めていってホラネ少し腰が出てきた固めたぶんだけ雪が圧縮されて高さを失ったわけだそして一石二鳥、固めた部分に手をかけてエイッと体を上方へと引き抜いてやれば、エイッと、エイッと、ん! ホラネ体が少しずつ抜けてくるだろ、ホラネ、エイッと
 ヒィッ!
 チンポがモゲかけてる!
 紫でブヨブヨでパンパンだ!
 モゲちゃだめ、だめ、手で押さえとかないとモゲちゃう!
ヒィッはやくここから抜け出さないと病院にいかないと凍傷で腐れて死んでしまうそんなのはイヤだチンポや足がモゲて死ぬのは嫌だよ嫌です。
「だれか!」
叫んだって誰もいないのは解ってるよホラ辺りが明るくなって視界がもう完全に回復してもホラ辺り一面の雪、空は青、他に何も無い一本の木も無い丘も無い、となれば民家も無い人影も無い。
「だれか!」
 ヒィッ!
 叫んだら鼻が  モゲチャッタ!
 拾わないと拾ってくっつけとかないと、くっつければまた細胞ががんばってくれれば綺麗にプラモデルみたいにピッタリと収まって元通りになるかもしれないなるだろうなってくれないと困る。でもこんな真紫のブヨブヨの鼻でもちゃんとくっついてくれるのかしら。
「誰か、助けてください!」
 こんなにも誰もいないところは今まで見た事が無いむしろこんな静かな場所こそが僕にとってはお似合いの場所かもしれない安息の地、最高の楽園。わずらわしいバカ人間どもに気を使うことも無いその必要性の全く無い、ああ、一人とは、なんて素晴らしいんだ。
「助けて!」
アラ、耳が腐れて落ちたきっと今の僕はひどいことになってるのだろう鑑を見るのが恐いなアラ、手の中で完全にチンポがモゲているモゲきっちゃったよアララ
「お母さん! ねえお母さん助けて!」
いいんじゃないの、ここで死んでもさ、ホラいつもいつも死にたがっていたしさ僕は。毎日が楽しくないって将来もきっと楽しくないって大体の予想はついてそしてその予想が辛くてたまらなくてだからホラ、むしろ平凡であることを受け入れようと、
 異常なことも
 平凡であると考えれば
 その異常は平凡化させることが可能なのだと
 気が付いて
 そして悪あがきを
 止めた。
そして僕は中学高校大学と異常にも平凡に進んで大人という異常なる称号も平凡に受け入れてすっかり異常なる平凡に身を埋めて感動も無く流されるままに生きることに、慣れた。やっと、慣れた所。
「オカアチャン! ママ! パパァ!」
 体が腐れて行く。
 歯が抜け落ちていく。
 指がポロリポロリ抜けてしまう。
 そりゃそうだ、雪の中で一人、僕はハダカなんだから。
 うん、でも、頭は最後まで明晰。
 明晰な頭が僕の砦。
 あーよかった。
こういう死に様なら、僕は甘んじて受け入れようとも。
「パパァ! ママァ! 僕、怖いよ、助けてよ、こんな風に死ぬのは嫌だよ!」
    あーよかった
 あーよかった
 あーよかった



 夢かまぼろしか
 たぶん夢だろう、だって僕は中学生なのだから。
 最悪の二十代、の夢を見た。
 まあいい。
 明日は月曜日、もう少し眠っていよう。
 夜明けには、まだ早い。 
 
   

 九月十八日、月曜日。

 八時半に学校に到着、朝礼に参加すべく、カバンを机に置いて昇降口へ向かう。
朝礼に参加すべく校庭に向かう人間達のエスカレーター式流れに身を任せていると、自動的に上履きから靴に履き替えている自分がいるので便利であり合理的だ。その時、一連のスムーズな流れを止められた。後ろから声をかけられた。
「おう、相良エイジ。今日はお前、朝礼に参加しなくてもいいから。保健室に行ってろ、な」
 振り返ると、担任の先生がそう言っていた。
天井の蛍光灯がやけにまぶしくて、先生の顔が影にしか見えない。
「はい、そうします」
 相良エイジは、一度履いた靴を上履きに履き替え、朝礼に参加する人間達が流れてくる廊下を逆に進んで、保健室を目指した。
 ノックを二回、保健室のドアを開ける。
「あら、相楽エイジ君ね」
 保険の先生を見るのはこれが初めてだ、と相良エイジは一瞬思ったが、そんなはずはないと考え直した。身体測定、歯科検診、インフルエンザの予防注射の際に、おそらくこの長髪を後ろに束ねた三十歳前後のファンデーションがやけに白くてまぶしくて顔が見えない女性もいたはずだ。だから、初対面という表現はおかしい。
「表現はおかしい」
 と、相良エイジは声に出していった。
 フフッと保険の先生は笑った。
「噂どおり、変わった子ね。あ、話はキミの先生から聞いてるから。朝礼サボれるなんて、よかったわね。校長の長い話を聞かないで済むなんて、ついてるじゃない」
「はあ」
 相良エイジは、入り口で立ち尽くしている。
「あら、入って入って。今から、お菓子食べるとこだから。キミにも、おこぼれあげるわよ。ほら、そこ、あたしの椅子、座ってて」
「はあ」
 言われるままに、相良エイジは先生のスチール机と同じ材質と思われるスチール椅子に腰掛けた。
先生は、保健室中央のテーブルにぐるりと置かれた丸椅子の一つに腰掛けている。そして、せんべいの袋を開けようとしている。
「このね、ンショ、おせんべいね、美味しいんだけどね、ンショ、なかなか袋があかないのよ。かといって、力込めすぎるとね、ンショ、中身がバーッて飛び散っちゃうし」
(これは、保険の先生の独り言とも受け取れるし、出来ればそのように受け取っておきたいから、返事はしなくてもいいだろう)
 相良エイジはそう判断し、黙っていた。ふと先生の机を見ると、ペン立てがあり、その中にカッターが入っていた。
先生を見れば、まだせんべいの袋と格闘している。
(カッターがあれば、袋をたやすく開くことが可能だろう)
 ペン立てに手を伸ばし、カッターを抜き取った。
もう一度先生を見る。まだやっている。
相良エイジは腰を上げた。先生に、カッターを渡してやろうと、一歩踏み出した。
 カッと太陽が照りつけた。
 熱気があたりを包み込んだ。
「ええ、こう暑い日が続きますと」
 校長が朝礼台の上で話している。校長黒い影、その後ろに校舎まぶしい。
 周りを見る。
整列する人間達。
左隣には、ハンドタオルの女子。
ハンドタオルの女子は、相良エイジの視線に気がつくと、軽くハンドタオルを胸の前で振った。
「世界が、異常だ」
 見上げれば、給水タンクの上に、幼稚園児ほどの子供が二人、黒い園児服に身をつつんでこちらを見下ろしている。二対一ではこちらに分がないと、相良エイジは視線を下にそらす。 手元には、先程、渡しかけた、カッター。
「僕は、正常だ」
 カッターの押し出しに親指をかけた。
 チキ、チキ、チキ。
 目いっぱい出して、自分の首筋の後ろにあてがった。
「世界が、異常だから」
 相良エイジは、カッターを前方に直線的に押し出した。
「キャーッ!」
 主に後方から、悲鳴が起こった。
 しかし、相良エイジには自信があった。
(世界が異常だから、いくら自分が正常でも、これはお手上げだ。パソコンで言うところの根本的なシステムエラーであり、それはつまり、フォーマットが必要だ。だけど、ほら、予想通りだ)
 相良エイジは、カッターを見た。
確かに首を切ったはず。
しかし、血の一滴も確認できなかった。 「予想通りだ。自分は正常だ。血が一滴もでていないことが、世界が異常で僕が正常である何よりの証拠だ」
「キャーッ、キャーッ!」
「う、うわああ!」
 悲鳴が、後方から、左右、そして前方へと広がってゆく。
「エイジ君、エイジ君!」
 ハンドタオルの女子が、相良エイジの体を支えるように、横から抱きかかえる。そして、「だれか、はやく、だれかぁ!」
 叫んでいる。
泣きながら、声を張り上げる。
 相良エイジは、彼女にだけ聞こえるように、やさしく、そっと話し掛ける。
「いや、大丈夫。ほら、血が一滴もでていないだろう。これでやっと、この異常な世界をフォーマットすることが出来るんだ。だからほら、心配要らないよ。ああ、そうか、ということは、君もいなくなってしまう可能性は高いんだね。それだけはつまり、残念なことだなあ」
 相良エイジは、だんだんと自分の力が抜けていく感覚を味わった。
ハンドタオルの女子に、体をゆだねるのは、とても心地いいことだった。
 見上げると、給水タンクの上で、二人の幼稚園児が笑っている。
笑いながら、給水タンクを飛び降りた。
(あの高さから飛び降りたら、まず助かるまい)
 そう思ったが、予想に反して、二人は地上付近で落下速度をゆるめ、フワリと着地した。そして、相良エイジのほうへと歩み寄り、数メートルのところで並んで立ち止まった。
近くに寄ってきたのでわかったが、この二人の子供の顔は、あまりにも鮮やかな真紫であった。
悪魔を目の前で見るのはこれが初めてだ、と相良エイジは感心した。
悪魔は、相良エイジの目をしっかりと見据えて、ケタケタと笑う。笑い続ける。
「あ」
 相良エイジは、声をあげた。
(いかん、忘れていた、フォーマット、つまり初期化をかけるまでは良かったが、これはつまり自分がOS本体な理論であるからして、自力で再起動は出来ないのだった。これは困った、だれか、他人の手で、プラグを入れてもらうなりスイッチを押してもらうなりして立ち上げてくれないと、これは非常にまずいことになるぞ)
 しかし、力は抜け、視界も霞んできた。霞む視界の中で、二人の悪魔を見た。
「お前らに頼るのは、嫌だな。プラグに触られるだけでも、嫌だ」
 さらに周りを見渡す。
ぐるりと半径五メートルほど距離をおいて、生徒の人垣が出来ている。
「お前らも、嫌だ」
 その人垣を分けて、担任の先生が、こちらへ向かってくる。いやに、ゆっくりとしたその動作は、もうすぐ訪れるこの異常な世界の終わりを暗示しているのだと、相良エイジは理解した。
「おまえも、いやだ」 
 そう言ったとき、
「エイジ君、エイジ君」
 耳元で、涙声がした。
「ああ、忘れていた、君がいた」  相良エイジは、すぐ目の前の、ハンドタオルの女子を見た。
彼女はしっかりと相良エイジの体を抱きかかえ、ぴったりと身を寄せている。せめてこのやさしい人の、いつも影になってはっきりと見ることの出来なかったその顔を、その表情を見ておきたいと、体の力をまぶたに集中させて、見開いた。
 しかし、太陽が、丁度彼女の後ろにいて、やはり彼女の顔は、影でしかなかった。
「でも、日食みたいで、綺麗だ」 「エイジ君、エイジ君」
 彼女の涙が、相良エイジの口の中に入った。味わうと、それは確実に塩辛く、そして生暖かかった。
「君に、任せる」
 相良エイジは、声にならぬ声でささやいた。
「え?」

 君なら、うまくやれる。

 僕は、君がうまくやることを、祈っている。

「え?」
 彼女が少し首を傾けると、太陽の一片が顔を出し、まるでダイヤモンドリングのように、ギラリと彼女の後頭部で光った。
 うん、いい傾向だ。
 もうすぐ、もうすぐ。

 僕は常に正常。

 世界も、やっと正常へ。

 そして、君の名前は?
 あとで、教えてくれないか?
 ハンドタオルの女子じゃ、あんまりだろう。

(了)
                       

      おしまい


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