差別即平等

 先般、檀家の方から仏教の宗派についてのご質問をいただきました。そこで、それにお答えすべく、その概要と若干の私見を述べさせていただくことにしました。お付き合い下さいませ。

 日本の仏教の宗派は、古いものから見ていきますと、奈良時代には、中国から伝えられた宗派というよりは学派であった、いわゆる南都六宗の三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗があります。有名なところでは、東大寺(華厳)、興福寺・薬師寺(法相)、鑑真で知られる唐招提寺(律)があり、法隆寺も現在は聖徳宗ですが、以前は法相でありました。

 平安時代になりますと、遣唐使として帰朝した空海(弘法大師)による真言宗(高野山金剛峰寺)と最澄(伝教大師)の天台宗(比叡山延暦寺)が開宗されました。

 鎌倉時代には、日本独自の仏教が開花し、比叡山で学んだ法然が浄土宗を、その弟子であった親鸞が浄土真宗を、また、日蓮は日蓮宗を開宗しました。一方、中国で興った禅宗を伝えて、栄西が臨済宗を、道元が曹洞宗を開宗しました。江戸時代には、明の僧、隠元によって、やはり禅宗の黄檗宗が開宗されました。図式化すると次のようになります。

 一般には、教義的な観点から、十三宗五十六派に分けられることが多く、その場合の十三の宗派とは、法相宗・華厳宗・律宗・天台宗・真言宗・融通念仏宗・浄土宗・臨済宗・浄土真宗・曹洞宗・日蓮宗・時宗・黄檗宗(成立順)で、そして、各宗が各派に細分化されて五十六になるわけです。しかし、先の大戦後、信教の自由を定める宗教法人法が成立し、多数の教団が分派・独立し、現在では、多岐多様の新興宗教が乱立していることは、ご承知の通りです。

 さて、それぞれの宗派が教団として成り立つためには、教義・儀礼・組織において独自性を発揮することになります。その結果、他宗派との差別化が図られることになります。

 たとえば、教義的には同じはずの浄土真宗の東西両本願寺派においても、その仏壇は、ご本尊を始め仏具等の意匠が微妙に違っており、儀礼・組織の面では、オリジナリティーをしっかりと主張しております。

 また、浄土宗系では念仏「南無阿弥陀仏」、日蓮宗系では題目「南無妙法蓮華経」を唱えるというように、対照されることの多い宗派では、教義面での違いをはっきりと打ち出しております。

 しかし、すべての宗派、仏教の根本に立ち返ってみますと、その教えは、次の偈文に集約することができます。

  諸悪莫作 衆善奉行
  自浄其意 是諸仏教

 つまり、「諸々の悪しきことをせず、多くの善いことを実行しなさい。そして、自らその意を浄めていくこと、これが諸仏の教えである」ということです。

 さらに申せば、「上求菩提、下化衆生」、「上に向かっては、悟りを願求して仏道修行し、下に向かっては、利他の行として衆生を教化し救済していこうという、菩薩の心を持ちなさい」ということであります。その意味において、すべての仏教宗派は、教義・儀礼・組織に差別こそあれ平等なのであります。そこのところを、我々仏教徒は、しっかりと認識しておかなければなりません。

 ところが、宗教というものは、聖なるものといいつつ、卑近な喩えで語弊があるかもしれませんが、恋愛感情に似たところがありまして、「恋は盲目」「痘痕も靨」「贔屓の引き倒し」のような状況に陥ることもまれではありません。そこで、他宗派に対して攻撃的になったり、反社会的行動をとったりして、由々しき問題を引き起こすこともあったりします。仏教徒として、信仰心を持つことはとても大切なことですが、この点にも、心せねばなりません。

 仏典に由来する「群盲象を評す」あるいは「群盲象を撫ず」ともいう成句があります。多くの盲人に大象を示して、それぞれに鼻・耳・身体・足・背・尾などを触らせて、象とはどんなものかを批評させたら、自分が触って知ったことだけで判断して、象はこれこれであると主張して譲らなかったといいます。我々の仏教に対する認識も、似たようなものかもしれません。「差別即平等」、聖徳太子の言葉「世間虚仮、唯仏是真」を改めて肝に銘じておかねばなりますまい。

(2010/12/18)