泥中白蓮華
山本薩夫(一九一〇〜一九八三)という映画監督をご存じでしょうか。骨太な社会派作品を数多く世に出しておられ、『白い巨塔』『華麗なる一族』『金環蝕』『不毛地帯』『あゝ野麦峠』といった作品名を列挙すれば、お分かりいただける方も多いのではないかと思います。その監督が、今年生誕百年ということで、NHKのBS放送で先に挙げた四作品を連続で放映しましたので、見させてもらいました。
原作として同名の小説があり、それぞれが話題になりましたし、テレビドラマ化されてたものもあり、おおよその内容は分かっておりましたが、これほどまでに、人間のドロドロしたところを見せられると、正直なところ、辟易したというのがその感想です。
政界、財界、あるいは医療の世界、私どもの所属している宗教界におきましても、その内部は、欲と欲とがぶつかり合う、おぞましき血みどろな権力闘争が繰り広げられ、その裏で、金と女が複雑に絡み合っているのが現実なのかもしれません。タイトルにありました「金環蝕」というのは、日食の一種で、周囲は金色に光り輝いているが、中心部は真っ暗な状態のことをいい、人間世界には、華やかな部分と闇の部分があることを象徴的に表現したものでありましょう。
一連の作品の中には、悪い奴がいっぱい出てきます。そして、一方で、悪い奴らに抹殺されてしまったり、その世界から自ら身を引いてしまう、可哀相な人も出てきます。見終わった後には、どうしても、虚しさや脱力感が残ります。しかし、だからといって、厭世的になったり、人間嫌いになったのではつまりません。
釈尊の生の声に近いといわれる『法句経』の五八番に、
都大路に棄てられし
塵芥の堆の中にも
げに香たかくこころたのしき
白蓮は生ぜん (友松圓諦訳)
とあります。
多くの人が行き交う大通りの脇にある泥沼には、食べ残したものを棄てたり、さまざまな不用物が投げ込まれ、その汚泥は悪臭を放ち、触れることすら躊躇われるものであるが、白蓮は、気高く芳香を漂わせ、すっくと咲き誇っている、というのです。
蓮華は、仏教とひじょうに縁の深い植物です。姿形が清楚で美しいということの外に、理由は、二つあります。一つは、「不染」ということ、蓮の葉に落ちた水は、玉となってコロコロ転がります。つまり、泥の中にあっても、自身は水をはじき、煩悩という泥水に汚されない、染まらないということです。
もう一つは、泥中にこそ咲くということです。皆が忌み嫌うところの醜、濁、臭、悪、つまり、煩悩をその滋養分として花開くということです。
徳川時代のことです。浅間山噴火、天明の大飢饉、役人の賄賂の横行などにより政治が乱れ(今の時代に何となく似ている)、緊縮財政、風紀取締りによる寛政の改革が行われました。その頃の狂歌に、「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼恋しき」というのがあります。「白河」というのは、白河藩主であった老中松平定信、「田沼」というのは前任の田沼意次のことで、「水清ければ魚棲まず」を下敷きにして、言い得て妙であります。
仏教におきましては、清と濁、善と悪、悟りと煩悩というものを別々のものと考えてはいけないと教えています。水は清くなければならぬといいながら、濁りである滋養分がなければ、蓮も魚も生育できません。悟りも同じで、煩悩なくして悟りは生まれません。「煩悩即菩提」、煩悩は本来活力の源で、親鸞聖人は、「煩悩の氷溶け、すなわち菩提の水となる。(中略)氷多きに、水多し。障り多きに、徳多し」といっています。
私たちは、美味しいものをいただくとき、目と鼻と口で存分に楽しみ、称賛を惜しみませんが、それが排泄され、糞尿として出てきたならば顔を背けます。だからといって、汚い糞尿を出すのを止めたら、死んでしまいます。糞尿は出すべきもので、しかも、良い糞尿を出すためには、バランスの良い食品を選んで、嫌々食べるのではなく、喜んで食べねばなりません。健康のバロメーターは「快食快便」であるといいます。食事と排泄は、けして別個のものではないのです。
同様に、美と醜、苦と楽、善と悪、悟りと煩悩、さらには、自と他、生と死をも「不二」なもの、一体をなしているものと感じ取ることができれば、人生観は大きく変わるものであります。「嫌なものこそ我が滋養」と決め、心にゆとりをもってゆきたいものです。(2010/8/18)