父母恩重経(下)

 ここに一つの資料があります。日本の自殺者の統計です。平成十年以降、連続して三万人を超えています。驚くことに、日本のどこかで毎日九十人近くが自殺している計算になります。さらに、自殺未遂者は、その数倍はいると思われ、たいへん悲しいことです。

 世界的に見ても、人口比から割り出す自殺率は悪い方でのトップクラスです。何とかせねばなりません。その原因を、政治や経済という視点から論ずることも大切ですが、それは外的要因であり、自殺という行為を実行するのは本人自身でありますから、逆境にあっても、そう決断させない人間造りの方が先決のように思います。

 確たる根拠があるわけではありませんが、親の愛情をいっぱい受けて育った子は、親に感謝の念を持ち、その親からもらった命を大切にしようという心が育つものと思われます。そして、その心情は、親から子へ孫へとリレーのように受け継がれていくのではないでしょうか。

 人間の子供は、カンガルーやコアラのような有袋類を除けば、他の動物に比べて、未熟な状態で生まれてきます。ですから、子育てには、母親はもちろんのこと、周りの大人の多くの手が必要となります。以上のようなことを押さえた上で、『父母恩重経』を読んでまいりましょう。

 月満ち日足りて、生産のときいたれば、業風吹きて、これを促し、骨節ことごとく痛み、膏汗ともに流れて、その苦しみたえがたし。父も心身おののきおそれて、母と子とを憂念し、諸親眷属みなことごとく苦悩す。すでに生まれて、草上に堕つれば、父母の喜び限りなきこと、なお貧女の如意珠をえたるがごとし。

 男親には、なかなか理解しにくいところですが、出産ということは、母親にとって大いなる覚悟が必要な一大事であります。あの天下の副将軍、黄門様として有名な水戸光圀は、「誕生日は、この世に生を受けたことを祝うべき日であるや知れぬ。しかし、自分が、亡き母を、最も苦しめた日でもあるのだ。それを思うと、珍味を取り揃えて祝うなど、どうしてもできない。せめてこの日だけでも、粗末な料理で、母のご恩に感謝したい」といって、誕生日は、粥と梅干しで済まされたといいます。われわれも、この精神は見習うべきでありましょう。

 『父母恩重経』には、以下の十種の恩徳が説かれています。

・懐胎守護の恩

 子を身ごもれば、十月の間に、血を分け肉を頒ち与えて、その身体は重い病を患ったように感じる。子の身体はこれによって形づくられる。

・臨産受苦の恩

 出産時の陣痛による苦しみは、体中が痛み、骨節がばらばらになるようで、心は乱れ、身を亡ぼすほどたえがたいものである。

・生子忘憂の恩

 無事出産の後は、死から蘇ったように、その喜びは限りない。子が声をあげて泣き出せば、自分までも生まれてきたような喜びに包まれる。

・乳哺養育の恩

 母の顔は、花のようであったのに、子に乳をやり養うこと数年もすれば、容貌は憔れ衰えてしまう。

・廻乾就湿の恩

 水のような霜の夜も、氷のような雪の暁にも、乾いた処に子を寝かせ、湿った処に自らは寝る。

・洗灌不浄の恩

 子がふところや衣服に糞尿をするも、自らの手にて洗いすすぎ、臭みや穢れをいとわない。

・嚥苦吐甘の恩

 自らは苦いものや不味いものを食べ、美味しいものは子に食べさせる。

・為造悪業の恩

 子のために、止むを得ないことがあれば、自ら悪業を行って、地獄に堕ちることをも甘んじる。

・遠行憶念の恩

 子が遠くへ行けば、帰ってきてその顔を見るまで、家を出たり入ったり、寝ても覚めても心配をする。

・究竟憐愍の恩

 自分が生きている間は、身代わりとなって、子の苦しみを一身に引き受けようとし、死後までをも、子の身を護りたいと願う。

 自分という存在が、今人間として生きているということを、何の感動もなく、まして、生まれてこなければ良かったなどと考えているとしたら、それほど不幸なことはありません。真理は、何気ないところにあります。ニュートンは、リンゴが地面に落ちるのを見て、万有引力の法則を発見しました。釈尊は、人が両親から生まれ、そして死に行く存在であることを、とことん見つめ、因縁の法則を発見されました。

 そう、過去に良い種が蒔かれ、そして良い縁をいただいているからこそ、今自分という花が咲いているのです。さまざまな縁に、報恩の心を忘れてはなりません。

(2010/7/18)