平城遷都祭

 百済の仏にご参拝(538仏教伝来)。労を知る十七条憲法(604)。六つからよい土地もらえる大化の改新(645)。なんと立派な平城京(710)。鳴くようぐいす平安京(794)……といった具合に、歴史年号を、語呂合わせで覚えることありませんでしたか?

 そうです。今年は西暦二〇一〇年、平城遷都(710)からちょうど一三〇〇年になります。奈良ではイベントキャラクターにはせんとくん、そして、朱雀門、大極殿が朱も鮮やかに復元されて、大々的に全県あげて記念祭が催されています。

 たまたま、当方、地域の仏教組合の幹事をしておりまして、隔年毎の研修旅行を企画立案することになり、このゴールデンウィーク明けにその奈良へ行ってまいりました。メイン会場である朱雀門・大極殿のある平城京跡の見学はあいにくの雨で、はしょって回ってきましたが、大仏様の東大寺とすぐ前にある奈良国立博物館、そして、斑鳩にある聖徳太子ゆかりの法隆寺、宿泊地でもあった信貴山の朝護孫子寺は、仏教美術に詳しい会員の方の案内説明で、ゆったりと研修を深めてることができました。

 奈良時代の仏教は、聖武天皇の詔により、全国(尾張国の場合は稲沢)に、国分寺と国分尼寺を一つずつ建立し、国家の安寧を願うという壮大なものでした。そして、大和国の東大寺は総国分寺、法華寺は総国分尼寺と位置づけられました。つまり、奈良の大仏様は鎮護国家の象徴であったわけです。今日の我々でも、圧倒されるほどの奈良時代の仏教文化でありますが、その基を築ずいたのは、なんといっても聖徳太子であります。

 歴史的背景をおさらいしてみますと、当時の大和政権は、朝鮮外交の失敗、皇位継承問題と豪族の対立により危機的状況にありました。そんな中、物部氏を倒して実権を握ったのは蘇我馬子で、対立を深めた崇峻天皇をも暗殺し、女帝推古天皇を擁立しました。その摂政として国政を推進したのが聖徳太子でありました。

 太子は、内外の危機を打開するために、天皇中心の中央集権国家建設を目指しました。十七条憲法と冠位十二階とで、道徳と秩序を整えようとしたのです。十七条憲法は、儒教・仏教・法家(中国、戦国時代の諸子百家の一派。法を基準として信賞必罰の政治を行い、権力を君主に集中させようとするもの)などの影響が見られるといわれています。仏教に関係する条目は、次の二つです。

 二にいう。篤く三宝を信奉すべし。三つの宝とは仏(覚者)・法(仏になる教え)・僧(教えを実践する集団)である。それは生命ある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。いつの時代でも、どのような人でも、この教えを貴ばないことがあろうか。人は、極悪の者は少ない。よく教えれば従うものである。ただ、それには仏の教えに依らなければ、何によってまがった心をただせるだろうか。

 十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情に出さぬようにし、ほかの人が自分と違ったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分は必ず聖人で、相手が必ず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそも善悪の理屈は、誰がよく定めることができよう。お互い、だれも賢くもあり、愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手が憤っていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれよ。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動するがよい。

 どうです。十七条憲法については、学校教育の中で、単に形式的に扱うのではなく、内容にまで踏み込んでぜひとも取り上げてもらいたいものです。

 ところで、当時、日本に仏教を受け入れるか否かということは、権力闘争の重要な争点となっていて、実は、血生臭い戦いもありました。その戦いに勝利した蘇我馬子と聖徳太子は、その後本格的な寺院建設を行っていきます。

 聖徳太子は、四天王寺・法隆寺を建立したということはご存じかと思いますが、摂政以前、厩戸皇子として馬子側で参戦した折、四天王に願をかけ、その通りになったことから四天王寺を建立したといいます。馬子は法興寺(別名飛鳥寺、奈良に移ってからは元興寺)を建立しました。ここの飛鳥大仏が、またすばらしいです。

 皆さまも、どうぞ奈良へお出かけになってみて下さい。

(2010/5/18)