寒山拾得(下)

 寒山拾得のような生き方は、地位も名誉も家庭も捨て、世間のしがらみを断ち切った、いわば誇り高きホームレスのようであり、万人向けとはとても言い難いものがあります。しかし、執着を捨て去るという、仏法の根本の教えの精神を学ぶ上で、その詩集を読み味わうべきは多々あります。簡潔でなおかつ深淵な言葉をとおして、現代人の鈍った性根をたたき直し、なにがしかの力を奮起させ、明日への生きるエネルギーがいただけることは間違いありません。

 さて、寒山が文殊菩薩で拾得が普賢菩薩ということであれば、豊干は釈迦牟尼如来ということになります。その豊干の詩はどういうわけか、わずか二首のみであります。

◎二(豊干詩)

 本来無一物
 亦た塵の払う可き無し
 若し能く此れに了達すれば
 坐して兀兀たるを用いず

【解釈】本来何一つ存在しない、それで取り除く塵さえも無い。もしもこの道理をはっきりと悟得しておれば、ことこつと坐禅に精を出さなくてもよい。

《私評》空の教えを端的に言い得た「本来無一物」を体得することができれば、悩みなぞ吹っ飛び、随分気が楽になるもの。生まれる以前、影も形もなかった私たちは、本来無一物。縁を得て、我が肉体をはじめとして、今いただいているものに感謝こそすれ、執着すべきものは何もない。

◎二四(以下、拾得詩)

 若し老鼠を捉うることを解せば
 五百の猫に在らず
 若し能く理性を悟れば
 那んぞ錦繍の包に由らん
 真珠席袋に入り
 仏性蓬茅に止まる
 一群の取相の漢
 意を用うるも総て交わる無し

【解釈】もしも鼠を捕らえることがわかっておれば、別に五百の猫がおらなくてもよい。もしも不変の本性を悟ることができれば、錦の刺繍をした立派な物に包むことはいらない。真珠は粗末な藁づつみに入っていても真珠であるし、仏法はわらぶきの粗末な家にあっても仏性である。一群の形に執着する奴らには、心を配っても全く通じない。

《私評》高級ブランドに身を包んだからといって、その人が立派になるわけではない。飾るもので、騙したり、騙されてはいけない。少々古いですが、水前寺清子の『いっぽんどっこの唄』(作詞・星野哲郎)「ぼろは着てても、こころの錦」の心意気こそ大切。

◎三〇

 門を閉ざして私かに罪を造り
 災殃を免れんと準擬す
 他の悪部の童に
 抄し得て閻王に報ぜ被る
 縦いかく湯に入らざるも
 亦た須らく鉄床に臥すべし
 人を雇いて替るを許さず
 自から作して自身当る

【解釈】門をしめてひそかに罪を作り、災難をのがれようとしている。悪い者どもを見張っている者が、書き出して閻魔大王に報告している。たとえ釜ゆでの拷問を受けなくても、鉄床の責めは覚悟しなければならない。人を雇い入れて身代りさせることは許されない。自分でなしたことは自分で責任をとらなければいけない。

《私評》物事には原因があり、その結果がある。ひとつの原因には、相応な結果がともなう。つまり、因果応報。そして、自分の原因となる行為の結果を、自分が受けることを自業自得という。今の自分は、過去の自分の結果であり、今の自分の行いは、未来の自分を決定づける。あくまで自己責任、誰も責めることはできない。

◎三六

 出家は出離を求め
 苦しき衆生を哀念す
 仏を助けて化を揚ぐるを為し
 教えて路を選びて行か令む
 何ぞ曾て苦を救うを解せんや
 意を恣にして乱れて縦横
 一時に同じく溺を受け
 倶に大深坑に落ちん

【解釈】出家の人は俗世を離れ出ることを求めて、苦しみ悩んでいる衆生を気の毒に思っている。仏をお助けして大いに教化をなし、衆生が迷わず正道を選んで行くように教え諭すものだ。今の出家の者は、衆生の苦しみを救ってやることなんか知ってはいない。気まま勝手にやりほうだい。こういう奴は一度に皆水に溺れ、もろとも大きな深い坑に落ちるんだ。

《私評》寒山拾得は、俗を断ち切れないでいる似非出家者に対して、手厳しく批判している詩をいくつも残している。私自身、それらの詩を読むにつけ、仏門に身を置く者として、僧籍を汚していまいかと恥じ入るばかり。折も折、世も末と言うべきか、夜遊び、ギャンブルの果てに多額の借金を作り、こともあろうに保険金目当てに、自坊である由緒ある伽藍に放火したという、とんでもない住職の出現には、ただ唖然。

 聖と俗は宗教の重要なテーマ。寒山拾得の言は、まさに頂門の一針。

※注 詩に付した番号、及び、書き下しは、座右版『寒山拾得』久須本文雄著(講談社)によった。また、【解釈】も同著作からの引用である。

(2010/3/18)