寒山拾得

 一度見たら生涯忘れることのできないほど印象深いものってありませんでしょうか。おそらく、次に掲げる図などはその代表格にあげられるものと思われます。

 異様な風体とその笑みを含んだ眼差しは、何かしら見るものにメッセージを送ってきているようで、気になって眠れないほどではないにしろ、折に触れ、「いったいこの二人は何者?」という疑問が頭をもたげてきます。

 だからでしょうか、あの森鴎外、芥川龍之介、井伏鱒二といった文豪も、『寒山拾得』という短編を残しています。ただ、これらの作品で、この二人の人物像が分かるかというと、やはり、そこはそう単純にはまいりません。順当な手段として、『寒山詩集』を紐解く必要がありそうです。

 この詩集は異本が多く、概ね、寒山詩(三百余首)、拾得詩(五拾余首)、豊干詩(二首)と、この詩集を撰した閭丘胤の序文からなっています。そして、この序文に、詩集を撰するに至った経緯が記されています。史実云々の問題は別として、概要は次の通りです。

 天台の丹丘(現在の浙江省)の官吏として赴任することになった閭丘胤、途中で突然、頭痛に悩まされることになる。易者や医者に治療させたが重くなるばかり。そこへ、たまたま豊干という禅師が天台の清国寺から訪ねてきて、治療を頼むと、浄水を頭に吹きかけ、たちどころに治してしまった。

 閭丘が、これから赴任する天台に、師と仰ぐに足りる賢者がいるかと尋ねると、「見ようと思えば分からなくなり、分からなくなったと思うと見えるようになる。ものを見ようと思えば、まずその姿かたちを見てはならない。心の目で見るのだ。寒山は文殊菩薩で、国清寺に隠れ、拾得は普賢菩薩、その二人の姿は乞食のようであり、また風狂のようでもある。寺へ出入りしているが、国清寺の庫裡の厨房では使い走りをしたり、竈たきをしたりしている」と言い終わると豊干は立ち去った。

 閭丘は任地に着き、早速に役人に命じて、寒山と拾得の所在を調べさせたところ、「県境より西七十里の所に巌があり、その巌に貧士が住み、たびたび国清寺に行っては庫裡で止宿しているのを古老が見た。また庫裡には、拾得という名の行者がいた」との報告であった。

 それで国清寺に行き、豊干禅師、そして拾得と寒山の現況を尋ねると、僧の道翹が、「豊干禅師の院は経蔵の後にあるが、今は誰も住んでいない。時折一頭の虎が現れて吼えるだけだ。寒山と拾得の二人は現在厨房にいる」と言う。閭丘は、案内された豊干禅師の院に行って、部屋を開けて見たが、そこには虎の足跡が残るだけであった。豊干がここに居た頃は、米をついて大衆に供養し、夜には歌をうたって独り楽しんでいたという。次に厨房へ行くと、竈の前で二人の者が火にあたって大笑していた。閭丘が進み出て礼拝すると、二人は続けざまに閭丘を大声で怒鳴りつけ、また互いに手を取り合って呵呵大笑し、「豊干のおしゃべり。阿弥陀にさえわからぬに、われらを礼拝して何になる」とわめき立てた。僧たちは、驚いて駆け集まり、このような乞食どもに、何故礼拝などするのかと大いに不審がった。その隙に、寒山と拾得は手を取り合って、寺から出て行ってしまった。

 閭丘は、あれ以来二人が寺に帰ってこぬというので、使者を立て巌へ供物を持って行かせたところ、ようやく寒山に会えた。閭丘らを見ると寒山は大声で「賊だ賊だ」と怒鳴りつけ、巌の穴にもぐり込み、「汝ら皆に言う。各々努力せよ」という声とともに姿が見えなくなった。拾得の所在もようとして知れない。

 その後、道翹に寒山の行状を調べさせたところ、竹・木・石・壁などに詩を書きつけ、また村の人家の壁の上にも書き散らした文句など三百余首、加えて、拾得が土地堂の壁の上に書いた偈文などもあったので、取り集めて一巻とした。

 以上、「自分は仏の教えに心を寄せていたので、幸いにも達道の人と巡り会うことができた」との感想で序を結んでいます。確かに、我々の身近に文殊や普賢がいたとしても、気づいていないだけかもしれません。鴎外の作品で、寺から出て行った二人を呆然と見送り、「道翹は真蒼な顏をして立ちすくんでいた」という最後の件は、道翹自身、迂闊だったことへの反省と事の重大さを知ったが故の表現でありましょう。

(2010/1/18)