掬水月在手

 今年の十五夜は、十月三日でありました。とても良い天気で、すばらしい名月を堪能させていただきました。十月三十日の十三夜はどうでありましょうか。

 澄んだ秋の空に皓々と冴え渡る名月を、法然上人は「月影のいたらぬ里はなけれども眺むる人の心にぞ澄む」と歌われ、仏の慈悲、あるいは、それに気づくことにより得られる安心、禅的にみれば悟りに譬えておられます。

 月は、太陽と比べて、その静かで澄み切った輝きを放つところから、「涅槃寂静」につながるとして、仏教ではたびたびその到達目標の悟りの譬えとして登場します。表題にあげました「掬水月在手(水を掬すれば月は手に在り)」も、そんな禅語として墨跡に認められることの多い句ですので、目にされた方も多いのではないでしょうか。旅館とか茶室などに「掬水亭」「掬水庵」とあったりするのは、この語に由来します。

 出典は『全唐詩』于良史「春山夜月」の一節で、「弄花香満衣(花を弄すれば香は衣に満つ)」と続き対句になっています。ですから、本来は春の詩であり、「月と自分、花と自分は、それぞれ別々のものでありながら、それが一体となったとき、主客不二・物我一如、三昧・無我の境地となる」と解釈できましょうか。

 しかしここは、元が仏典ではない訳ですし、別個に、「掬水月在手」は秋の句、「弄花香満衣」は春の句として味わったほうが、より禅味が出るように思います。

 前句は、「悟り(安心)は、決して手の届かないところにあるものではなく、獲得しようとする心(菩提心)こそが大切である」、もしくは「仏性は、誰にでも備わっているものである」とも、浄土教的に見れば、『観無量寿経』の「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」、前述の法然上人の「月影の」の歌と同義であると考えることが出来ます。このような解釈は、春の朧月夜からは、出てこないでしょう。

 一方後句は、「花の香りを良い教え、仏法と捉え、良い教え、高徳な人と触れ合うことにより、知らず知らずのうちにその影響を受け、香りを放つようになる」ということになりましょうか。

 ところで、禅画としてよく描かれるテーマの一つに「指月布袋図」があります。文字どおり、布袋様が月を指差している図であります。禅においては、真理(月)を悟るために、指(経文)で月を差しますが、月を見た後(真理を悟った後)には「指を切れ!」、つまり、月を差した指は無用と考え、言わば「指切られ役」として、観音様ではなく布袋様を登場させている図ではないかと私は思います。

出光美術館所蔵

 そんな中、斬新で奇抜な禅画を多数残しておられ、人気の高い仙腰a尚(一七五〇〜一八三七)の『指月布袋』は、とてもユニークです。まず、肝心の月が描いてありません。子供がいます。賛には「ヲ月様幾ツ十三七ツ」と書いてあります。何を意味しているのでしょうか。

 お月さまいくつ 十三七つ
 まだ年ゃ若いな あの子を産んで
 この子を産んで だれに抱かしょ
 お万に抱かしょ お万はどこいった
 油買い茶買いに 油屋の前で
 すべってころんで 油一升こぼした
 その油どうした 太郎どんの犬と
 次郎どんの犬が みんななめてしまった
 その犬どうした 太鼓にはって
 つづみにはって
 あっちへ行っちゃ ドンドコドン
 こっちへ行っちゃ ポンポコポン

  【参考】日本子守唄協会(南魚沼郡塩沢町)

 『お月様いくつ』は、古くからほぼ全国的に広く歌われてきた童歌とのことです。ただ、色々なバリエーションがあり、しかも、『かごめかごめ』と同様、意味があまり分かっておりません。

 子供(凡夫)は、色々な疑問を持ち、大人(布袋)に色々なことを聞いてきます。「お月様いくつ?」「十三七つ」。そんな馬鹿な話はありません。しかし、大人(布袋)だって月(真理)のことなんて分からない(月が描いてないのはそのため)訳で、子供(凡夫)が納得すればそれでよいのです。別に、騙す訳ではなく、子供(凡夫)をスヤスヤ寝かしつけること、安心させること、それが大人(布袋)の役目なのです。

 仏教における月について、私なりの意味づけをさせていただきました。どうぞ、ご自身は、ご自分で月を掬ってみて下さいませ。

(2009/10/18)