且坐喫茶

 今年は、秋の訪れが随分早いようです。秋の夜長、ゆったりとお茶をいただくのはいいものです。お茶をいただく機会というのは、我が家で、自分で用意していただく場合もあれば、外で、誰かに勧められていただく場合もあります。ただ、「さあ、お茶をどうぞ」と勧められたとき、主客の有り様によって、その意味合いは随分違っているものです。

 たとえば、それが労いの言葉であったり、お茶ではありませんが、京都で、「ぶぶ漬け(茶漬け)でもどうどす」は、「もうそろそろお帰り下さい」という意味なのだそうですが、同様、「お茶でもいかが」が、暗に帰宅を促す言葉であったりする場合もあるのです。

 茶席の床の間に「喫茶去」、あるいは「且坐喫茶」の墨跡が掲げられることがあります。ともに、「さあ、お茶を召し上がれ」という意味で、亭主が茶を点てて客に勧めるとき、貴賎貧富、老若男女等の区別無く、誰に対しても等しくお点前するのが亭主の作法であり、それが茶道の心得であると、心優しい気配りの言葉として使われているようです。

 ところが、それぞれの典故を尋ねると、どうも、そのような意味では使われていないようです。

 中国唐時代の有名な禅僧、趙州禅師のところに二人の修行僧が訪ねてきたときのエピソードです。

( 師 ) 前にもここに来たことがあるか?

(僧@)来たことがありません。

( 師 ) 喫茶去。

 もう一人の僧にも尋ねた。

( 師 ) 前にもここに来たことがあるか?

(僧A)来たことがあります。

( 師 ) 喫茶去。

 院主が趙州禅師に尋ねた。

(院主) 前に来たことがない者にも、前にも来たことがある者にも、「喫茶去」とおっしゃるのはなぜですか?

( 師 ) 院主さん!

(院主) はい。

( 師 ) 喫茶去。(『五燈会元』四)

 もう一つの典故は、『碧巌録』第九五則に、「慶云く、作麼生か是れ如来の語。保福云く、喫茶去。」とあります。つまり、長慶と保福という僧が論議をして、的外れな長慶の問いに対して、保福が「喫茶去」と一撃を食らわせたというものです。

 ここで、「喫茶去」の「去」の意味を文字どおり「去れ」と採るか、特に意味を持たない助辞と採るかによって、随分そのニュアンスは違ってきます。因みに、近年の解説書の多くは後者を採っています。しかし、『大漢和辞典』にも、「去」は助辞として、動作の継続や趨勢を示すという記載はありますが、この場合は、どうもしっくりこないような気がいたします。

 『岩波仏教辞典』には、はっきりと、「中国唐代の禅僧趙州従釛の語として有名。お茶を飲みに行け。お茶を飲んで目を覚まして来いの意で、相手の不明を叱責する語。ただし、後に『茶を召し上がれ』の意に解され、お茶を飲むという日常性の中に深い悟りのはたらきを見るという意にとられるようになった。」とあります。

 一方、「且坐喫茶」の典故は、『臨済録』行録一二に、「師云く、竜、金鳳子を生じ、碧瑠璃を衝破す。平云く、且坐喫茶。」とあります。つまり、 高僧黄檗禅師の弟子である臨済が、「自分は師を超えた器量だ」と、あまりに自信気な態度に、平和尚が呆れていった言葉が、「且坐喫茶(まあ、ここに坐って、お茶でも飲め)」だったのです。

 ですから、この「且坐喫茶」も、「喫茶去」ほど直接的ではないにしろ、相手に対して反省を促す言葉であることに違いはありません。ただ、本来「公案」というものは、優れた禅者の言行録を基に、禅を学ぶための課題としたもので、師が弟子を試み、また評価する手立てとされたものですから、その答えが、必ずしも一つであるとは限らないわけです。そうしてみると、「喫茶去」も「且坐喫茶」も、いろいろな見方があってもいいのかもしれません。

 しかし、禅というのは「きちっとした答えを出さなければ、棒で三十回ぶった叩くぞ(睦州道蹤)」というぐらい厳しい教えであるからして、「喫茶去」や「且坐喫茶」が、単に「ありがとう」と感謝して終わるような言葉であったとしたら、それは禅語とは言えないでありましょう。

 浄土の教えである念仏でも同様であります。「どんな罪業深いものでも、念仏すれば阿弥陀様が救ってくれる」からといって、毎日毎日、極楽トンボのような生き方をしていていいはずがありません。一見優しいと思える言葉には、実は深い深い奥があるものです。そこを探究するのが、人間の奥深さというものでありましょう。です。どんな逆境にあっても「直心是道場」の精神を忘れずに、自然体で「自分らしさ」を追求していくことが大切です。

(2009/9/18)