直心是道場

 私事で申し訳ありません。今年六十一になりますが、四十代の頃より血圧が高く、月に一度、近くのクリニックに通院し、薬を処方してもらい、三ヶ月に一度血液検査をしてもらっています。その日も、血圧を測り、採血して、待合いで新聞を読んでいましたら、看護師さんが神妙な顔をして「あのね、貧血が見つかったの。男の人の貧血は、危険な場合があり、中で漏れているかもしれないので、潜血があるかどうか調べるから、これを便に何度か突き刺して、明日持って来て。血液検査の詳しいデータは一週間くらいで出るからまた来てね」といって、綿棒くらいの試薬を渡されました。

 そうはいわれても、別に体調が悪いわけでもなく、半信半疑で、一週間後、先生に診てもらったところ「潜血反応は異状なかったけれど、取りあえず、胃カメラを飲んで調べましょう」ということになり、予約して帰ってきました。ところが、次の日、朝からどうも具合が良くないのです。土曜日で、いくつか法務が入っていましたので、午前中、なんとか済ませたまでは良かったのですが、とうとう立っていられないほどにお腹が痛くなってきました。

 正午を回っていましたので、クリニックとも連絡が取れず、家内に中京病院の救急外来に連れて行ってもらいました。エコー・CT・胃カメラと続けざまに検査を受け、その診断は悪性腫瘍。点滴、鼻から胃まで管を通され、あれこれ考える間もなく、「明日、手術」と宣言されたのです。

 ただ、胃から転移したリンパのひとつが大きくなり化膿していたため、当初緊急を要する病状と判断されたようで、結果的には、精密検査の上での手術となり、胃も三分の一残り、ほぼ根治できたとのお墨付きを得ました。

 一ヶ月余の入院中、手術するまで、主治医より「胃全摘は免れない」、「五年間の生存率は五十%内外」なんて聞かされていたもので、身辺整理のことも随分考えました。しかし、術後三ヶ月を経た現在、死への準備という面での得難い体験をさせてもらえたと思っています。私より六つ先輩の組寺住職が、先日亡くなられました。私と同じ病気で、同じ病院で、後から入院されたのに、発見が遅く、肝臓にまで転移していたとのことです。今はただ、縁をいただき、生きていることの幸せをしみじみ味わわせていただいております。

 さて、表題に掲げましたところの「直心是道場」ですが、典故は『維摩経』にあります。光厳童子という修行者が、騒がしい城下を出て、閑静な修行場所を探していた時、維摩居士に出会い、「どちらから来られたか」と尋ねると、「道場から来た」というので、「その道場は何処にあるのか」と問い直すと、維摩居士は「道場は外に求むるに及ばない。直心是道場、虚仮なきが故に」と喝破されたといいます。

 「直心」とは、純一でまじりけがなく、真っ直ぐな心のことです。仏教では、それが悟りを求める菩提心でもあるとされ、その心を得ることができれば、そこが浄土であると考えるのです。つまりは、修行しようという素直な心があれば、その場その場が道場であり、どこでも修行はできるということであります。

 すなわち、病気で伏していても、患者にとっては、病院のベッドが道場であり、忙しく働き回るビジネスマンにとっては、仕事の場が道場であり、戦う兵士にとっては、戦場が道場なのです。また、時間を持て余し、何もすることがなくブラブラしている人でも、今そこにいる、その場所が心を磨く修行の道場なのです。

 ところが、現状の自分に我慢できなくて、「どこか他の場所に行けば何とかなるのではないか」、「だれかよその人が自分を変えてくれるのではないか」と、高額な○○セミナーを渡り歩いたり、怪しげな宗教に身を委ねたり、果ては、大麻や覚せい剤に手を出す輩まで出てきたりします。

 最近では、有名大学の学生が大麻を吸っていたり、芸能人の覚せい剤がらみの事件は日常茶飯事のようにニュース紙面を賑わせています。もっとも、あの清純派アイドルだった酒井法子の覚せい剤逃亡事件には驚かされました。「あれは夫が悪い」「○○が悪い」といったところで、要は、薬物に頼ろうとする本人が悪いのです。

 近年、末期ガンの患者に対しては、その痛みを麻薬によってコントロールする緩和ケアが主流になりつつあります。麻薬はうまく使えば魔法の妙薬ですが、乱用すれば悪魔の毒薬です。どんな逆境にあっても「直心是道場」の精神を忘れずに、自然体で「自分らしさ」を追求していくことが大切です。

(2009/8/18)